第二十五話 旅路災難
正一の視界の中を、大きな家屋が がたがた揺れながら歩いていた。
とても生き物には見えないが、あれも恐らくは魔物なのだろう。一軒家に足を生やした奇妙な姿に純粋な驚きの感情を隠せずに、しかし非現実極まる幻想譚そのものの光景を目にした正一は己の境遇も忘れて目を輝かせた。
奇妙な魔物の傾いた家という名を知らず、己とソレの歪な関係性など想像も出来ずに、やがて遠く歩き去っていく家屋の背中を見送った。
まるで異世界観光旅行だ。
この世界に召喚されて以来、正一は初めて伸び伸びと過ごす事が出来ている。
今この瞬間も国や国民は魔物の脅威に脅えているのかもしれない。しかし、それが何だと言うのだろう。
自分には もはや関係無い。
正一は最初の試練で落第した期待外れの勇者失格。果ては人殺しの魔物、吸血鬼だ。
この世界の人達も、己のような化け物に気を遣われたくは無いだろう。そう考えて気楽に構える。
魔王を目指して歩いているが、正一自身は魔王に対する敵意も隔意も持っていない。
元を辿れば魔王さえ居なければ吸血鬼である現状も無かった筈のものなのだが、恨み言を言う気にはなれなかった。言っても無駄だろうと諦めている側面はあるが、大部分が自業自得の結果なのだ、他者に責任を押し付けたところで何になる。ストレスの溜まりそうな思考は捨てて、もっと気楽に生きるべきだろう。
「相変わらず不味いなあ」
小さな人型の首を齧りつつ、何時も通りの感想を口にする。
吸い殺した魔物の死骸を放り投げると、眷属達が挙って群がり食い付いた。
計十匹の眷族に対し、餌となる獲物が ただ一匹。付き従う動く死骸の数に比して明らかに量が足りていないため、もっと多くの獲物を捕らえる必要がある。面倒な事だが、眷属の有用性は吸血鬼となって以来ずっと骨身に沁みている。血の欠乏によって死なせるわけにもいかなかった。
正一にとっては不味いだけのゲテモノだが、味覚の働いていない眷属達は構わず食べている。それが少し羨ましい。
小鬼と呼ばれる、常に笑顔を浮かべた醜い魔物。これが非常に不味かった。
というよりも、吸血鬼の味覚で測れば人間の血液以外は不味いものなのだろう。それが魔物なら尚更だ。
今の正一は固形物も食べられない。そういう体質になっている。
無理に飲み込めば吐き気が込み上げ、肉も野菜類も彼の身体は異物としか捉えない。
喉が渇いたからと小川の水を飲んでみたが、気分が悪くなって吐いてしまった。本当に、血液以外は受け付けないのだ。吸血鬼の不便さと言うべきか、人間的な食事が二度と出来ないというのは彼にとって地味に衝撃的な事実だった。
人の生き血が飲みたい。魔物のものは不味くて嫌だ。
飢えるよりはマシな現状で更に選り好みするのは我が儘とも言えるが、食の楽しさが欠けては人間生きていけないのだ。もはや人間ではないが、美味しいものを食べたいというのは本能的な欲求である。
「近くに街でも無いかなあ……」
最近は独り言が増えた気がする。正一には自覚があった。
誰とも話していないのだ。眷属達に話しかけても、脳味噌が働いているかすら怪しい死骸連中だ、答えが返ってくるわけもない。一人暮らしの未婚者がペットに話しかけるより尚悪い。何故なら正一が話し掛ける相手は既に死んでいるのだから、冷静に考えると恐ろしい絵面だった。
ちなみに人を食料と見なす事に対する忌避感は既に無い。
散々殺してきておいて、今更「人を殺すなんていけない事だ!」などと言えるようなら、そちらの方が頭がおかしい。
此処に至って正一は本当に開き直っていた。
次に人間を見掛けたら殺して食べよう。これは決定事項である。
――とはいえ、気持ち一つで万事上手く行くようなら、こうして死骸を引き連れ旅する破目に陥ってなどいないのだが。
この国の名はシェオルと言い、同大陸上の凡そ八割を支配していた。していた、という過去形である。
歩いて辿り着ける場所は ほぼ全て、国王バプテスマを頂点とした国の領有だ。
残りの二割に それより遥かに小さな国や特定国家に属さぬ者達の集落群が存在したが、今ではシェオル王国を含めて魔物の版図と複雑に入り混じり、各々の領土を正確に判別する事は叶わない。
国内でさえ完全に把握出来ているとは言えない情勢下、他国の事などシェオルの上層部ですら知り得ない情報だ。
そして今現在、正一は知らぬ間にシェオル王国の元国境線を越えていた。
苔の塊にも見える、毛むくじゃらの巨体が視界を遮る。
目測にして約二十メートル。背の高い樹木ほどの身長だ。
全身に無数の植物類を生い茂らせた人型の魔物、音も無く満月の下を闊歩する巨人の群れ。
それは大鬼精と呼ばれる種族であった。
「大きい……」
遠い物陰から大鬼精を見上げる正一が呆然と呟いた。その声音には ある種の賞賛さえ篭められていたかもしれない。
あれには勝てない。一目で それが理解出来た。
単純にサイズが違い過ぎる。眷族全てを嗾けたとて踏み潰されるだけ、戦いにさえならないだろう。見た目が苔の集合体にしか見えず、本当に生き物なのかさえ分からない。実行するつもりは無かったが、アレは吸血鬼として血を吸える類の手合いなのか甚だ疑問である。
軽く俯いたような前傾姿勢で、縦に並んで大鬼精が歩く。
数は五体。
吸血鬼の視覚が夜闇を透かし、彼等の進行方向にて走る誰かの姿を認めた。
頭部の上半分、鼻先までを覆い隠す金属兜に、それ以外の全身を複数枚の毛皮で覆い隠した人影が一つ、馬のような生き物に跨って走っていた。
誰かが魔物の群れに追われている。
しかし正一から見れば、それは不自然な光景だった。
あれほど大きな魔物が、まさか人間大の生き物一匹と馬一頭を目当てに集団で追い回すものだろうか。食料として見れば量が少な過ぎるし、かといって縄張り争いなどの真っ当な殺し合いに発展するほど彼我のサイズ差は小さくない。
何かがある。大鬼精が後を追うような特別な理由が、あの人影には存在するのだ。
「とはいえ、どうでも良いけどなあ」
しかし関わるつもりは全く無い。
あんなに大きな魔物に近付き、うっかり踏み潰されれば きっと正一は死んでしまう。
如何にも不自然な逃走劇。そこには何かしらの事情が見え隠れするが、抱いた興味も雀の涙。自分が放置した結果として追われている誰かが死んでしまっても、正一には関係無い。赤の他人が相手なら、生きようが死のうが どうでも良いのだ。
そうして遠目に見学するに留めていた正一だが、そうそう事が上手く運ぶわけも無かった。
「……あれ、近付いて来てないか?」
傍らの眷族達に話し掛けたが、当然ながら返答は無い。
ぽつりと呟く正一の視界で、謎の人影が進路を こちらに変更していた。
もしかして逃走者の目的地が こちらにあるのか。そう考えた正一が眷属を引き連れて移動すれば、僅かな間を置いて馬に乗った人影も進路を変える。それに付き合い、大鬼精の群れも また正一達の居る方向へと のっそり歩いて近付いた。
その様子を目にして、僅かに背筋が冷えた気がする。
何かがおかしい。
満月に照らされた夜の大地。赤く輝く瞳で人影の顔を観察する。
兜以外は毛皮らしき布地を何枚も巻いて覆い尽くされ、年齢性別どころか種族さえもが確認出来ない。だが、何となく、吸血鬼の研ぎ澄まされた五感によって、兜に隠れた その視線が自身の存在を真っ直ぐに見つめているように感じられた。
「えー、っと」
まさか、ではあるが。
大鬼精に追い駆けられている状況に、自分を巻き込むつもりなのではないか。
「……勘弁してくれよお」
仮初の答えに行き着いて、思わず げんなりとした呟きが漏れる。
溜息を付きながらであるが、正一は迷い無く眷族達に指示を出した。
――馬に乗った奴を殺せ。
大鬼精を撃退するのは不可能だ。
ならば現状で最も手早く、最も簡単な獲物を落とせば それで済む。
魔物の群れが人影の進路変更に付き合っている様子を鑑みれば、彼等が偶然 同道しているとは思えない。人影が特定の目的地を目指して真っ直ぐ走っているわけではないという事実から見ても、その背を狙って追い続ける魔物の群れは人影にとっての味方では無い。
二、三度 移動を繰り返したが、人影は その都度 進路を こちらへと変更する。
こうなれば恐らく間違い無い。あの人影は、面倒事を正一に押し付けるつもりだ。
ならば正一が気兼ねする必要も無い。
四つ足の眷属達が馬を目掛けて走り出した。
犬のようなもの、猫のようなもの、翼が退化し代わりとして脚部が発達した鳥のような魔物。計三頭が真っ直ぐに駆け出す。
吸血鬼たる正一の眷属は皆、地を這う動物型に限られている。
可能ならば飛行可能な眷属が欲しかったのだが、空を飛ぶ生き物は魔物だろうと純粋な鳥類だろうと、容易く捕まえられる相手ではなかった。正一は吸血鬼ゆえの優れた身体能力を持っているが、断じて生粋の狩人ではないのだ。
狩猟下手な吸血鬼は、細々と交換し続けた眷族の累計が五十を超えた今でも鳥型の眷属を持っていない。
せっかくのファンタジー世界なのだからドラゴンを眷族にしてみたいと妄想している思春期真っ只中の少年吸血鬼。
その目の前で獲物に飛び掛かった眷属が、あっさりと人影によって蹴散らされた。
「またかよ畜生おっ!!!」
引き篭っていた森から外に出たばかりの時にも、似たような事が起こった気がする。
あの時の黒騎士とは違い、相手は まともな武装もしていないだろう年齢不詳の不審人物だ。大鬼精が こちらへ向かって来る主原因、謎の人影さえ排除すれば、あの巨大な魔物の群れに関わる事無く悠々と逃げ出す事が叶うだろう。――そう考えて始末を命じたというのに、結果は惨敗。
何枚も重ね着された毛皮の奥から一瞬だけ光が発せられたかと思えば、動く死骸が車に撥ねられたかのように宙を吹き飛んで、その活動を停止する。
魔法か、或いは特殊な武器か。考えてみたが答えが出ない。
眷属が三匹始末される様子を目にして、正一は早々に人影の排除を諦めた。
此処は意地を張るべき状況ではない。あの時同様 相手に負けても、今回は自分を助けてくれるイスカリオテが居ないのだ。
ゆえに逃げる。
人影と その背中を追う大鬼精を前にして、正一は背を向けて全力で走り出した。
背後から怒鳴り声が聞こえたが、内容を聞き取る暇が無い。そもそも怒鳴り付けたいのは正一の方なのである。どうして自分が巻き込まれなければならないのだ。ひっそり こっそり死者の群れを率いて旅をしている平凡な吸血鬼に何の恨みがあると言うのか。
必死に走り続ける吸血鬼と、その周囲に付いて回る動く死骸が計七体。
更に後ろには馬らしき生き物に跨る毛皮装束の謎の人物と、大鬼精の群れが五体ほど。
日が昇るまでには安全地帯に逃げなければならない。
今回ばかりは彼本人にとって無関係な、しかし割りと何時も通りの不幸な展開。
都合の良い救いの兆しなど何処にも見えず。心中にて汚い罵倒を繰り返し、佐藤正一は走っていた。
何処に辿り着くかなど、彼自身にも見えないままに。
分厚い石碑の表面に視線を当てると、そこに刻まれた文字列が光り出す。
『ようこそ』
『第五号』
『異界の』
『淀み』
『捌け口たる』
『黄泉の地へ』
『敬虔なる掃除婦よ』
『我らは貴女の齎す成果を期待します』
ぱちりと何かの弾ける音が鳴り、微弱な静電気に触れた程度の痒みを全身に感じた。
「うーん?」
首を傾げる第五号勇者 高橋恵三は声の聞こえなくなった石碑を前に、一頻り眺めて飽きが来たのか、踵を返して薄暗い洞窟の中を引き返し始めた。
勇者の試練。ただの お使い。国に伝わる伝統行事らしい洞窟行き。
これが彼女の初陣である。
「あれって結局 何の意味があったの?」
「勇者が必ず行うようにと定められた、代々の儀式であるとしか……」
帰還した恵三はゼロテに対し、一連の行為に対する疑問を提示した。
王家の敷地内に存在する試練の洞窟。
勇者の試練と呼ばれてはいるが、内部には最下級の魔物が生息するのみ。最奥部にも古びた石碑が一つ建てられ、勇者のみが聞き取り可能な神々の言葉が授けられる、というのはゼロテも当然知っていた。
そう、上っ面の事情ならば十二分に知っていたが、具体的に何の意味があるかと問われれば、分からないとしか言いようが無い。
「神様ちゃんからの 有り難い御言葉?」
「はい。それ以外の事は、私も姉妹も教わっておりません」
申し訳なさそうに俯いた灰色の髪を気にするなとばかりに ぐいぐい撫でて、恵三の視線が部屋の窓へと向けられた。特に何かがあるわけでも無い。考え事をする際に視線が泳いだだけである。
石碑が告げた内容は意味不明。少なくとも、恵三は神の言葉とされる老若男女入り混じった無数の囁き声の重要な中身を、僅か数分で一つ残らず忘れ去っていた。
ただ一つ確かな事として、あの声の主達は伝説の勇者様とやらに大した価値を認めていないのだろうな、と試練を終えたばかりの恵三は考える。
彼等の言葉には重みが無い。敬いの心が足りていない。バイト先のコンビニ店員が、雇い主たる店長に対して あからさまな社交辞令を口にするような調子だった。
恵三の存在は神様とやらにとって恐らく必要なものではあるが、替えの利かない唯一無二では無いのだろう。雇ってやっているのだ、とばかりの偉そうな態度だった。少なくとも、恵三にとっては声音だけでも十分な証拠である。
だからと言って、何が変わるわけでもないが。
「きな臭ーい……」
頭を撫でられているゼロテに聞こえないような小さな声で、第五号勇者が呟いた。
真剣さ に欠けた緩やかな声音だったが、言葉に篭めた真意だけは間違っていない。
僅かな疑念を胸にしたまま、こうして彼女は勇者としての第一歩を踏み出した。
彼女が城を出立する、ほんの数日ほど前の事だった。




