第二話 洞窟脱出
ごりごりと腹に響くような音が鳴ると、噛み砕いた箇所から散った血飛沫が正一の頬に赤い線を引いた。
「まっずい……」
捕まえた魔物の腹部を齧りながら、辛気臭い声音で呟く。
彼が口にしているものは、片手で掴める大きさの鼠型の魔物である。名前は知らないし、あるのかも不明。加えて味も悪いとくれば、正一が辟易とした顔をするのも仕方が無い。
意気揚々と訪れた洞窟内にて吸血鬼の魔物と化し、泣きながら洞窟内を走り回ってから暫らくの後。空腹に耐えかねて洞窟内に生息する魔物の一匹を捕まえたのだが、果たして食事はこれで大丈夫なのかと不安になる。
人の生き血が欲しい。
自分に必要なものが何かを本能的に理解した正一だが、今は代用品として魔物の血を啜っている最中だ。
人を襲うわけにはいかないし、そもそも洞窟内には人が居ない。
ゆえに彼は魔物を襲って殺しているのだが、不衛生な野生動物の血液を摂取する事で己の体調を狂わせないだろうかと心配になった。
野生の鼠を生で齧って お腹を壊した吸血鬼など笑い話だ。
それでも血を飲まなければならない。何故なら正一は死にたくないのだ。それが一番大事な事だった。
これから先に展望など何も無い。
ずっと洞窟に篭って生きていけるとも思えない。
ならばどうすれば良いのか、と考えても答えは出なかった。
異世界に召喚されたばかりの彼には、先の予定を汲み上げるための情報が不足し過ぎている。この世界に関して何も知らないまま、御姫様から剣と鎧を与えられて、この洞窟に赴いたのだ。
何よりも先に、勇者の試練を受けて欲しいと乞われたから。
「……つまり落第か、俺は」
正一の顔に乾いた笑みが小さく浮かぶ。
勇者の試練に赴いて、あっさりと殺された。おまけに吸血鬼になってしまった。勇者が滅ぼすべき、魔物の一員になったのだ。
畜生、と悪態を吐く。
こんな勇者が居てたまるか。情けない。恥ずかしい。しかし何よりも、自分の同胞であった人間達に殺されるかも知れない事が恐ろしかった。
正一は死にたくないのだ。吸血鬼に、魔物になったからと言って、それを理由に殺されるなど御免被る。ファンタジーな現実を前にして調子に乗っていた自分が悪いのかもしれないが、だから死ね、と言われても受け入れられるわけが無い。
どうにかして、今ある現状を変えなければならない。
「逃げよう」
答えはすぐに出た。
誰にも見つかる事なく、姿を隠して洞窟の外へ行かなければ。
今の正一は吸血鬼なのだ。人に姿を見られれば殺されるかもしれない。
仮に襲われたとして、人間相手に反撃が出来るかも分からなかった。反撃すれば、危険な存在だと判断されてしまえば、数に任せて討伐される恐れがある。勝てるか勝てないかの問題でさえない。
すっかり体液の抜け切った鼠の死骸を放り捨て、正一は出口を求めて歩き出す。
そして己の目論見の甘さを知った。
「くそっ!」
洞窟の出口には、複数の兵士達が待ち構えていた。
勇者の試練として用意された洞窟行き。無事試練を終えた我らの勇者を出迎えるために、彼等兵士はずっと出口周辺に待機していたのだろう。
ありがたい事だ。素晴らしい事だ。この国の人々は、召喚されたばかりの正一を一人で危険地帯に放り込んで後の一切は知らぬ存ぜぬと高笑いするような、そんな外道の集まりではなかったのだ。
それは今の正一にとって、なんと迷惑な話だろうか。
「クソッ! 邪魔だっ、邪魔なんだよ、お前等……っ!」
彼等の事情を察する事も無く、黒髪の吸血鬼が憎々しげに歯噛みする。
洞窟内の暗がりから、遠く視界に映る兵士達。
己が職務に忠実であり、自分達の国を救ってくれるだろう勇者という名の希望を出迎えるために無駄口も叩かず待ち続ける人間達。一秒でも早く洞窟から外に出て、この国を離れて身を隠したいと切に願う正一にとって、彼等の存在は障害以外の何者でも無い。
それから暫らく観察していたが、待てど暮らせど彼等が持ち場を離れる様子は無かった。
やっと身動きをしたと思えば、交代制での待機時間だったのだろう、別の人員と入れ替わって再び立ち続ける兵士の姿が幾つも見える。
待つことに焦れた正一は、己にとっての邪魔者である彼等を怒鳴り付けてやりたくなった。
無論、そんな事は出来ない。姿を見せれば、きっと吸血鬼であると知られてしまう。
真っ赤に輝く両目と、青白い肌、口元から覗く鋭い牙。
正一自身の視界で見ても、変わってしまった肌の色や伸びた爪牙はすぐに分かる。試練へと送り出した勇者が吸血鬼となって戻って来たとして、あの兵士達は笑顔で歓待してくれるだろうか?
「ほかのっ、他の手段を……っ」
洞窟の壁に身体を張り付け、兵士に見つからぬように暗がりの中へと踵を返す。
正一は無性に泣きたくなった。これでは正に、人間達から必死に身を隠す化け物だ。
召喚直後は勇者として歓迎されていたというのに。
宝石のように輝く、一生の内で一度も目にした事の無い美しい姫君が正一に対して頭を下げ、どうかお願いしますと頼んで来たのだ。彼とて年頃の少年だ、美少女に敬われれば当然の如く舞い上がる。任せておけと胸を張った。
――だというのに今は、このざまだ。
思い描いていた輝かしい未来図と現状には、決して重なりようの無い大きな落差があった。
酷く惨めだった。正一の中で急速に膨れ上がった理不尽に対する腹立たしさを、どうやって晴らせば良いのだろうか。
今の正一は吸血鬼。
化け物呼ばわりされて、挙句の果てには殺されるかもしれない。
そうならない可能性は、とても小さなものだ。一か八かの賭けに出る勇気が彼には無い。賭けるものは己の命、ならば正一には絶対に不可能な事だった。
出口側には己にとっての狩人足り得る兵士が多数。ゆえに正一はその反対側、暗い洞窟の奥へと向かって逃げた。
脳裏に渦巻くのは悪態ばかり。
どれだけ吐き出しても まるで足りない。苛立ちを押し殺す為に己の指を咥えて齧り付き、敵意をぶつける相手も居ないまま奥へ奥へと進み続けた。
誰を恨んだところで、事の下手人は既に死んでいる。
吸血鬼となった正一が勇者の剣を振るっても、魔物を滅ぼし無に還す事が出来ずに死骸が残った。それは彼にとって悪い事では無い。お陰で憎い相手の遺体を踏み躙って僅かながらに憂さを晴らせたのだ、完全に気が晴れる事は無かったが、決して無駄では無かった。
視界を横切る大きな鼠、目に付いた魔物を片手で捕まえては齧り付く。
不味い。本当に不味いが、それでも空腹よりはマシだった。喉の渇きは それほどまでに堪え難い。
勇者の剣を振るった際に焦げた掌は、既に元通り綺麗なものだ。
血を啜るだけで傷が治る。正一は本当に自分が吸血鬼になったのだと再確認して、非常識且つファンタジーな魔物の生態に溜息を吐いた。非常に便利な体質ではあるが、それでも人間のままで居たかった。鬱々とした顔でそう思う。
「……もう帰れないのかな」
勇者の召喚を実行した御姫様は、魔王を倒せば元の世界に帰れると言ったのだ。
吸血鬼となった正一が魔王を倒したとして、その場合でも無事 元の世界に帰して貰えるのだろうか。期待は出来ない。そもそも勇者でもない只の吸血鬼が魔王を倒せるとは思えなかった。
帰ったとして、実在する吸血鬼が現代日本で生きていけるのだろうか。
「くそ、くそ、くそっ!」
悪態ばかりが口を衝く。
異世界への召喚自体に拒否権は無く、気が付けば神殿らしき場所に居た。これは異世界人達による日本人の拉致誘拐だ、と今更ながらに御姫様を罵倒したが、悪口を言ったところで何が変わるわけでもない。
自分が入ってきた入り口以外に、洞窟の外に出られる経路を探さなければ。
気を抜けば現状の責任を他者に押し付けようとする己の思考を前向きな方角へと切り替えて、前へ前へと歩き続けた正一だが、ようやく行き着いた先は行き止まりだった。
「ゲームじゃ無えんだからさあ……っ!」
行き止まりには分厚い石碑が建てられていた。
此処が勇者の試練における目的地なのだろう、これより先には道が無い。
行き止まりに出会った事による落胆と精神的な疲労から口調も荒れて、正一は地面を強く蹴り飛ばした。
石碑には何らかの文章が刻まれている。恐らくは この世界、この国の言語。一繋ぎの曲線が所々で捩れ曲がって、英語の筆記体にも似た文字がつらつらと書かれていた。
読めるわけが無い。本来ならば。
そう思いながらも石碑に顔を近付ければ、僅かに視界が歪んで揺れる。
不愉快が過ぎず吐き気も込み上げない程度の、軽い酩酊感が正一を襲う。
まるで夢でも見ているかのような白く霞んだ視界の中で、石碑の文字が弱々しく輝きながら音を発した。
『勇者』
『ようこそ』
『召喚』
『第三号』
『魔王』
『――ERROR』
弾かれるように正一の全身が跳ねた。
「あああああああ――ッ!!!!」
石碑を覗き込んでいた顔が熱い。
不可視の蛇が のたうつように顔の右半分を乱暴に焼かれ、肉の焦げる音と匂いが五感を刺激し、己を襲った酷い痛みと不快感から堪らず地面を転がった。
「あ、ううぅ、……うええっ」
痛みが治まっても、先の不快感が僅かに残った。
我慢せず地面に向けて口を開いたが、吐き気が込み上げているにも関わらず喉奥からは何も流れて出てこない。自身を苛むものを体外へ追い出す事も叶わずに、荒れた呼吸で数分間、正一は気分が落ち着くまで蹲っていた。
焼かれたように痛かった。触れれば痛いのかもしれない。
訪れるだろう顔の痛みを想像して気が引けたが、鏡の無い この場で外傷を確認するには手で確かめるのが確実だ。恐る恐る手を伸ばし、なぞり上げた顔の右側皮膚には蚯蚓腫れのような跡がある。触れても痛みが無いのは幸いだが、正一は これでますます他人に顔を見せられなくなったと落ち込んだ。
しかし気落ちしたのも僅かな間。
この程度の傷、どうせ血を飲めば直るのだ。楽観的になれる材料が吸血鬼としての特性である事に歯痒いものを感じたが、落ち込んだ所でしょうがない。
ようやく気を落ち着けた正一は、もう一度石碑を見下ろして眉根を寄せた。
単語の羅列ばかりが無差別に聞こえてきたが、最後の最後に言われた言葉だけは憶えている。
ERROR。――間違い、という意味の英単語だった筈だ。
何故英語なのかと笑ったが、異世界で言葉が通じている事からして異常なのだ。きっと勇者を召喚する魔法には翻訳機能でも付随していたのだろう。
「間違い、か。……好き勝手言いやがって」
お前は勇者ではない、と言われたように感じた。
今の正一は吸血鬼だ。魔物なのだ。なるほど、それは勇者ではないだろう。むしろ悪役こそが適任だ。
だとしても腹立たしい。彼は己を否定されて喜ぶような被虐嗜好ではないのだから。
誰も見ていないのを良い事に、正一は石碑を蹴り飛ばして唾を吐く。頑丈な石材だったのか、吸血鬼の全力で蹴っても壊れない。僅かに罅は入ったがそれだけだ。ああ腹立たしい、とわざとらしく溜息を吐き出す。
もはや此処には用が無い。そもそも他の出口を求めて歩いてきたのに、行き着いた先が石碑一つ在るだけの袋小路とは、本格的にまずい状況になった。恐らくは勇者の試練の最要点だったのだろう謎の声も、間違い呼ばわりされては記憶に残す事さえ厭わしい。
洞窟内は ほぼ一本道。今の正一は袋の中の吸血鬼だ。何時まで経っても戻って来ない勇者の身を案じた御節介さん達が洞窟内部に踏み込めば、魔物と化した彼を発見して報告して ついでにそのまま討伐してしまうかもしれない。
考え込めば気ばかり焦る。
落ち着かない気持ちを宥めようと深呼吸をしてみたが、何の効果も得られなかった。顔に刻まれた新しい傷痕を指で擦って、手持ち無沙汰を紛らわす。
――城の方角で何らかの変事が起こって見張りの兵士達が居なくなってくれないか。
有り得ない想像をしてみても、そんな都合の良い奇跡が起こるわけが無い。
「起こるわけ、……無いよな?」
起こるわけが無い。起こるわけが、無かった。
しかし目の前の現実は決して変わらない。
洞窟の出入口周辺に屯す兵士達が、一人残らず姿を消していた。
「なんでだ?」
我が目を疑う正一だが、それでも彼の胸は期待に躍っている。
空は既に薄暗い。夕日の赤も随分と遠く、月明かりだけが視界を照らしていた。
兵士が居ない。
何が起こっているかは分からない。
だが、此処で戸惑い時間を浪費し、脱出の好機を逃せば今度こそ死んでしまうかもしれないのだ。
正一の決断は早かった。
城の方角だけを確かめて、別方向へと一目散に走り出す。
吸血鬼の肉体は風を切るほどに速度を増して、日本に居た頃、父親の運転する車の窓から高速道路を眺めていた記憶が蘇る。それほどまでに今の正一は早く走れた。
逃げて、逃げて、逃げ続けて。必死になって足を動かし。現状に対する理解も放り捨て、数時間前まで勇者だった吸血鬼が姿を消した。
王女殿下の手によって魔王を討伐する勇者が召喚された、と国中に知れ渡る、僅か二日前の事だった。




