第十八話 邂逅直前
そっと差し出された白い首筋に牙を立て、溢れ出す血の味を味わい喉を潤す。
「はぁ――、う」
艶かしい吐息が零れた。発生源は牙を突き立てられた少女の口元。
銀色の髪の少女が、赤く輝く瞳を目蓋の奥に隠したままで、同族たる少年に己の血を捧げて悦んでいる。
対して血を啜る少年は、酷く つまらなさげな顔だった。
舌を濡らして喉を通り過ぎる温い血の味は良きものだ。しかし心に滾るものが無い。毎夜の食卓に並ぶ有り触れた家庭料理のメニューのように、もはや彼女の行為は彼にとって喜ぶに値しないものなのだ。
「……もういい」
力無く少女の肩を押し、少年は小さく言葉で切った。
拗ねたような、疲れたような拒絶の声。
それを受け取った少女は傷付いたような表情さえ見せたが、少年にとって意識を割くほどの価値は存在しない。ゆえに軽く手を振って彼女の退室を促す。
部屋の扉が閉じられる音を聞きながら、吸血鬼の少年、佐藤正一は両手で顔を覆って か細く呻いた。
「ああ――」
そこら中から新鮮な血の匂いが香ってくる。
殺した人間は一人残らず動く死骸へと作り変え、生きている人間は皆 食料として揃って一箇所に閉じ込めてある。
平和ボケした平和な街だ、正一の為す事全てが上手くいった。最下級の動く死骸とはいえ、不死者の群れを相手に戦えるような人間は一人も居ない。
抵抗と呼べるだけのものも無く、襲撃にまつわる何もかもが思い通り。拍手喝采して祝っても構わないくらいには見事な成功ぶりだった。
しかし正一の中に喜びの感情など湧いてこない。
今まで散々負け通して来たくせに、圧倒的弱者に対してのみ成功する、己の器を知らされた気分だった。
彼は人を超えた吸血鬼なのだ。平穏に耽溺し、戦いなど知らぬままに生を謳歌してきた只の人間を相手にして、一体どうすれば負ける事が出来るというのか。
此度の勝利は至極当然。夜闇に紛れて街の人間一人一人の血をコソ泥のように吸って回りながら眷属を増やしていけば、日が昇るまでには事が済む。
知性ある吸血鬼であれば当たり前に出来る事だ。出来ると考えたからこそ実行し、その結果が此処にある。
窓から見下ろす街中には人っ子一人居なかった。
生きている人間は監禁され、動く死骸となった者達は特に何を命じるわけでもなく監禁した生者の見張りを任せて、残りは適当に放置している。きっと監禁部屋の中は悪夢的な光景と化しているだろう。見知った街人がゾンビとなって、自分達 生きた人間を逃がさない為に監視するのだ。心の弱い者なら その状況だけで参ってしまう。
「……ちくしょう」
己の所業を思い返して悪態を吐く。
楽しくない。嬉しくない。心が躍る事は無い。むしろ不愉快極まりなかった。
どれだけ殺しても、何人食べたとしても変わらない。身体を傷付け心を嬲り、だけど どれだけ手を汚しても全く重みを感じない。
――こんな事をした所で、何になると言うのだ?
「ちくしょう、くそ、くそ、くそうっ」
冷静になってはいけない。心が冷めれば苦しいだけだ。それが分かっているのに、また無駄な事を考えている。
正一の心は相も変わらず追い詰められていた。
街一つ分の人間を殺しても、暗く沈んだ心が未だに晴れない。苦しいばかりなのは もう嫌だ。八つ当たりでも何でも良いから気分良く笑える事をしたかった。
湧き上がる苛立ちに耐えられず己の指を咥えて齧り付き、視線を四方八方に巡らせる。街外れの家からは移動して、それなりに裕福そうな街の一軒家を使っているが、此処には彼の気に入るような特別な物など存在しない。適当に当り散らしては家具を壊して砕いたが、視界に映る何もかも、正一の抱く鬱憤を晴らす役には立たなかった。
胸中で燃え滾る激情を叩き付ける相手が欲しい。
腹の底に渦巻く不快感を欠片も余さず吐き出したい。
ずっと溜め込んで今尚持て余す想いの全てを、綺麗さっぱり消してしまいたい。
今の彼には行いに対する反省も後悔も無かった。
だから己の行動に一切の制限を設けなかった。心の赴くままに好き放題に動いた結果、街一つが死者に呑まれて静まり返っている。生き残りに関しても大切に保管するつもりは無く、腹が減ったら適当に食べて、その食い残しを眷属化するだけだ。
「街の人間は閉じ込めた、当面は食料も問題無い。これで全部、だよな……?」
先々に関しては努めて考えないようにしながら、わざわざ考え事を口から吐き出して思索に耽る。
佐藤正一の精神は暗がりの中で行き詰っていた。
我が身を襲った数々の不幸に心を囚われ、ずっと独りきりで溜め込み続けた負の感情が とぐろを巻いて全身を縛り付ける。それを吐き出す先など今の今まで何処にも無かった。
自分よりも余程 優れた能力を持っているらしいイスカリオテには頼れない。
正一には、今の彼女が何を考えているのかさえ分からないのだ。
いっそ面と向かって罵ってくれれば理解も容易かったのだが、彼女の傷を治す為に街人の血を飲ませて以降、人を殺した正一を責めるわけでも無く、むしろ進んで世話を焼こうとしてくる始末。自意識過剰とは言い切れないくらいに分かり易い好意を示され、先程まで彼女の血を吸っていたのも そうするように求められたからだ。
意味が分からない。気味が悪いとさえ言える。
一国の姫君が、愛すべき国民を殺して生き血を飲ませた吸血鬼に好感を抱くものだろうか。
彼女の振る舞いの全てが彼を欺くためのもので、内心では正一相手の企み事が ぐるぐると仄暗く渦巻いているのだろうか?
或いは遂に狂ったか。
狂ったような振りをしながら、真実狂ってしまう事で現実からの逃避を望む正一には、全く以って羨ましい話だ。
「ああああああ!!!!!」
彼なりに精一杯考えていたが、何一つとして気分の上向く材料が無い。
がりがりと顔の火傷を掻き毟り、爪で引き裂かれた皮膚からは少量の血が滴るが、その傷もすぐさま塞がった。摂取したばかりの生き血に満たされた吸血鬼の肉体は、些細な自傷行為程度 秒単位で治してしまう。
壊したい。殺したい。暴れ回りたい!!
当たり散らすための敵が欲しい。いくらでも殴れるサンドバッグが必要だ。考えれば考えるほど不愉快な気分になるのだから、何も考えずに暴れていられれば それが一番楽だろう。
それこそ今の己の有り様に沿って、知性を持たない魔物の如く振舞えば良い。
「ううううううう」
一人で呻いて蹲る。何も考えたくないと思っても、身体を動かしていなければ思考が巡る。
未だ絶望に浸って孤独のまま苦しみ続ける少年は、現状から逃げ出したくて堪らなかった。
好き放題に罪を犯して、それでも我が身が可愛かった。
痛いのも苦しいのも悲しいのも寂しいのも全部、自分を傷付ける全てを消し飛ばしてしまいたい。或いは、誰かに消し飛ばして欲しい。
叶うわけの無い酷く虫の良い望みを抱いて、己の本心にさえ真っ直ぐに目を向けられず、正一は獣のように、しかし誰にも聞こえぬほど小さな声で叫んでいた。
その声は誰にも届かぬまま、救いが訪れるかなど誰にも分からず、ただただ惨めに声を上げた。
一方、懊悩する吸血鬼の居座る階下にて、同じく吸血鬼である少女は監禁した街人の一人を掴み上げて血を啜っていた。
「あ、あ、あああ――っ」
白目を向きながら力なく震える人間には興味が無い。体内の血液を啜り終えたイスカリオテは罪の無い平民を床に放り出し、死骸となったソレを放置したまま天井を仰ぐ。
視線を向ける先には、恐らくは正一が居る筈だ。彼の吐き出す小さな声は聞き取れず、恐らく居るだろうと思われる位置だけを見つめていた。
先程まで少年に齧られていた首元を指先で撫でて、イスカリオテの頬が緩む。
「ふふっ。これで、また吸って貰える」
イスカリオテは血を吸われるという行為に若干の中毒性を見い出していた。
イスカリオテが人間の血を吸って、新鮮な生き血で満たされた彼女自身が媒介となって主の空いた腹を満たす。血を吸わなければ生きていけない正一に、十二王女筆頭たる優秀な魔力を溶け込ませた人間の血を献上するのだ。
それは、まるで自分の存在が彼を生かしているかのよう。
当の正一が彼女の献身的行為を気味悪く感じている事など露知らず、歪んだ価値観で生きている自分本位な元王女は今の状況に大変満足していた。
必要とされてさえ居れば良い。自分には価値があるのだと認識出来れば満たされる。非常に近視眼的で自己の欲求に対して正直過ぎる少女吸血鬼、イスカリオテは目が覚めた時に街一つが滅んでいた事にも不満を覚えず、ただただ自分の事しか見えていない。
今もまた、血を捧げる事を拒絶された理由にのみ頭を悩ませ、どんな人間の血を飲んでいれば美味しく飲んで貰えるのかと考えている。
人間的な価値観で生きていれば決して得られない発想、正一とは比べ物にならない怪物的思考。
己の体内で人間の生き血によるブレンド配合を行っている気違い女は、酷く上機嫌な様子で傍らに立つ動く死骸に声を掛けた。
「トマス、次の血袋を持ってきなさい」
曖昧な呻き声でイスカリオテからの要求に肯定の意を返すと、少女の命令を遂行するために生者達の居る監禁部屋へと向かうトマス。
机の上に置かれた小さなメモ用紙に今しがた飲み干した血の持ち主の情報を書き込んで、帰宅する夫のための食卓事情に気を遣う、若妻のような顔を見せるイスカリオテは酷く満足気に含み笑う。
彼女の両目はどろどろと恐ろしい色に輝き濡れて、少女の機嫌の良し悪しとは裏腹に、人を贄とする魔女のようだ。
そしてその様子を遠目に窺う男が居た。
「トマスめ、馬鹿だ馬鹿だと思っちゃ居たが、あっさり やられてんなよテメエ……」
街に住まう唯一の聖職者、トマスの知り合いである老神父。
死者に対して口汚く罵る彼は、口調とは裏腹に心底から悔やむような声音で言った。
「男の方の吸血鬼だけならいけるがっ」
老神父アグラファ。
彼は、かつては王城に勤めていた人間だ。国王にさえ近しい位置に立っていた男だ。
立場相応に戦う術も知っては居るが、戦闘の本職には及ばない。職業柄、不死者の類に特別効き目のある魔法を使用出来ても、街一つ分の動く死骸の群れを蹴散らせるような英雄ではなかった。
見張っている家の上階に居る少年吸血鬼ならば、恐らく一対一という条件化に限るが滅ぼせる。しかし下階で笑う少女型の魔物は無理だ。
あれは尋常ではない。目算で計った魔力だけでも老神父の百倍はある。そこに吸血鬼の身体能力が加われば、視界に入った途端に腕の一振りで殺されるだろう。
「……すまんな、皆」
所詮は隠居中の老人一人。予想だにしなかった魔物の出現、音も無き襲撃に際しては身一つで逃げ出す事が精一杯だった。
そして彼が逃げている内に、街の人間は一人また一人と抵抗する間も無く血を吸われて魔物となった。
老神父の胸の内は助けられなかった後悔と街人への申し訳なさで一杯だ。
捕らえられている者達の救出にしても、彼単独では到底不可能。魔物達に見つからぬ内に外へと逃れ、誰でも良いから街を魔物に占領されたという事実を報告せねばならない。
臓腑を抉るような深い懊悩を飲み込んで、釘付けとなっていた視線を少女の吸血鬼から離すと、老神父は音も無く街の外へと向かう。
その向かった先で、眩い銀色の光が迸った。
其処に立っていたのは一人の少年。
光に煽られ穏やかに揺れる茶色の頭髪、幼さの目立つ掘りの浅い顔立ち、光を吐き出す美しい刀剣と身を包む軽鎧。
吸血鬼に襲われて未だ三日と経っていない街中に現われるには どうにも場違いな表情で、しかし同時に現状を打破する可能性を夢見てしまう、どこか非現実的な空気を纏った少年だった。
老神父の脳裏に、街人から聞き知った噂が過ぎる。
国の王女が命を捨ててまで召喚した、魔王を倒す勇者の召喚。
神父の知る神聖魔法の輝きを より強く高めた銀色の光線は、まさに魔物を滅ぼす神秘の力。
「……勇者、か?」
口にしてみた その言葉は、なんと陳腐な響きだろう。御伽噺に語られる、子供が夢見るような名前。
訝しげに、しかしどこか確信をもって呼び掛けられた名を耳にして、茶髪の少年は得意気に笑った。
「ああ、俺が勇者だ。だから、――もう大丈夫だぞ、村人さん!」
僅かに荒い息を必死に押し殺しながら、第四号勇者、鈴木雄二が胸を張って手を伸ばした。
その姿は伝説に謳われる人々を救う希望のようで。老いた神父は彼の訪れによって事態が全て好転するのでは無いか、とそんな錯覚さえ抱いていた。
――抱いて、居た。




