第十四話 騎士蹂躙
衣服を突き破る鏃の重みを感じながら、正一は必死に思考を回す。
どうして自分達の存在を知っているのか。
どうして森から出る位置に待ち構えていられたのか。
どうして眷族達は彼等の存在に気付かなかったのか。
どうして――こんなにも うまく行かないのか。
一番目は魔物に関する詳しい知識を持った人間が居たか、或いは魔法で察知したとも考えられる。
二番目は森の外周部に複数の部隊を配していれば、何れかの位置にて必ず発見する事が可能だろう。
三番目は策敵を無効化する類の魔法を使ったか、眷属達が想像以上にポンコツだったのかもしれない。
四番目は、もはや運が悪いとしか言いようが無かった。
森で見掛けた狩人達には正一という吸血鬼の存在はバレて居なかった筈だ。それでも察知されたという事は、正一の知識量では予測も出来ない未知の情報源が彼等の元にはあったのだろう。が、それにしても議論と準備と実行待機、討伐に至る為に必要な工程に掛けた時間が短過ぎる。
可能性だけを論ずるのなら、彼等が待ち構えていた魔物というのが正一達ではない別の存在という事も有り得るのだが、既に襲われている現状では何の足しにもなりはしない。
とにかく逃げ果せなければならない。
こんな所で死ぬわけにはいかないのだ。何よりも、今の正一は腕の中の少女を死なせるわけには いかないのだから。
「くそ、くそっ、くそ――!」
女を護るべき立場の男として非常に情けない事なのだが、腹の底から湧き出してくる罵倒が止まらない。
走る彼等の背後からは、馬に乗った複数の人間達が追い駆けて来ている。
準備のよろしい事だ、と歯噛みする。吸血鬼の脚力ならば、背に人を乗せた馬が相手でも良い勝負は出来ただろう。むしろ勝つ事だって可能な筈だ。
それとて人間一人分の重量物を抱えて居なければ、という話だが。
「正一様、私を下ろしてください!」
「駄目だ」
イスカリオテ個人の重さよりも、人型の荷物を両腕で抱えているという状態が良くない。
走るのには向かない姿勢だった。邪魔だ、と一言で切って捨てても否定出来ない。しかしそれでも、彼女を下ろして二人で並んで走る事は出来なかった。
吸血鬼となって以来、基本的に洞穴の中で座り込む以外の運動を一切していないイスカリオテ。
果たして彼女は正一と同じ速度で走れるだろうか。
そもそも王城で物静かに暮らしていた御姫様は、真っ当な走り方というものを知っているのか?
正一よりも格段に劣る速さで走っていれば、背後に迫る者達にとっては良い獲物だ。人間の頃よりも圧倒的に優る吸血鬼の身体能力に順応出来ていなければ、この状況で うっかり転んで嬲り殺しにされても おかしくはない。
次に蝙蝠に変じて逃走する事を考えた。しかしこれもまたイスカリオテに可能なのか否かが分かっていない。
興奮状態で気付けば出来るようになっていた正一とは状況が違う。頭で考えて行うのではなく、行動に移せば既に出来ている、という非常に感覚的な能力なのだ。加えて蝙蝠の形態がどれほどの時間継続出来るのか、一度も計測を行っていなかった。羽根を使って高空に至った所で変身が解ければ真っ直ぐに落下して死ぬだろう。この状況で試すには不安要素が多過ぎる。
矢を受けた際、森に引き返す選択肢もあった。
しかし相手が組織的行動によって自分達二人を狙っているのなら、森に引き篭った所を諸共 焼き討ちされれば正一達には逃げ場が無い。火をつける事による森林資源の損失を嫌ったとしても、朝まで粘れば日が差して、吸血鬼相手に絶対的な優位を得られるのだ。周辺地域を囲む形で待ち構えていたと仮定すると、森に入れば袋の鼠。敵側が焼き討ちと持久戦のどちらを選択しても こちらの敗北は半ば以上確定している。
選択肢を一つ提示しては否定して、生き延びるための手段を模索し続ける。
失敗すれば恐らく死亡が確定する。やってみたけど出来ませんでした、となると即座にゲームオーバーのコンティニュー不可。控え目に言っても最悪の状況だった。
単独での行動ならば どうにか出来るかもしれないが、独りになる事を恐れる今の正一にはイスカリオテを見捨てる選択肢が存在しない。しかし逃走手段の選択に失敗しても共倒れで終わるだけ。
一秒でも早く現状を打破しなければ、状況が悪化する事こそあれ、好転する要素は見当たらない。
相手が複数の集団として配置された計画的な討伐部隊であるのなら、首尾よく逃げ続けても遠からず別集団に発見されて挟み撃ちの形になる。そうなれば結局は殺されるだけだ。運を天に任せるには手元の賭け金が大き過ぎる。だから今すぐ背後の騎乗兵に対処する必要があった。
「――行け、一号。馬を狙え」
遭遇時の一斉射撃によって眷属の数も若干減っている。残りは五匹、余り多いとは言えなかった。
背後の人間達は走行中の馬上にも関わらず定期的に矢を射ってきており、そうそう当たる事は無いが絶対に当たらないとも断言出来ない。少なくとも、このまま放置するのは不味かった。
適当に番号を振っておいた山犬の眷属を背後へと放ち、一人でも数を減らすために他の生き残った眷属達にも次々と命じて彼等の足となる馬を襲わせる。
――が。
山犬の動く死骸一号が あっさり殺された光景を見て、正一は思わず唾を吐いた。
「ふざけるなよ、畜生、なんでっ、ああ、くそ――!」
意味が分からない。持て余した感情を押し殺す事無く、支離滅裂な罵倒を繰り返す。
馬上からの一太刀で動く死骸が一匹死んだ。まさに瞬殺。予想外だ。
続く三匹の眷属達も、このままでは殺されるかもしれない。相手は強かった。断じて、森に面した村に住む ちょっと腕の立つ有志の一団などでは無い。あれは、明らかに一定以上の訓練を乗り越えた人間だ。
王城襲撃に際して城内警備の任に就く騎士達を殺せた動く死骸が、何処にでも居る村人Aの一撃で殺されて良い筈が無い。
正一には いよいよもって状況が分からなくなってきた。
城からの追っ手が ようやく自分の元に辿り着いたのかと遅まきながらに考えたが、正解かどうかも判断出来ない。間近に迫り来る死に対して脳味噌が沸騰しそうなほどの焦燥感が沸き立っており、彼の中の冷静さを薄皮のように一枚一枚剥ぎ取っていく。
「騎士団の――?」
小さく呟いたイスカリオテに対して聞き返すだけの余裕も無い。
このままでは自分は死ぬ。腕の中の少女も死ぬ。ならば どうすれば良いかなど分かりきった事だった。
「上等だっ!」
強がりを口にして恐怖を誤魔化す。
走り続けていた足を止め、敵が迫り来る背後に向けて振り返った。
「イスカ、森に向かって走れ。追手は此処で対処する」
地に下ろしたイスカリオテに指示を出す。森に逃げても無事で居られる保証は無いが、平野部で複数頭の馬と追いかけっこを続けるよりは分の良い賭けだと自分自身に言い聞かせた。
相手は手練れ。その総数も分からない。正直に言えば、戦ったところで敗北が目に見えた状況だ。
敵はとてつもなく強かったが、白兵戦ならば人を超えた吸血鬼に分があると思いたい。
王城で引き起こした混乱を仔細に至るまで観察していたわけでは無い正一は、吸血鬼などの不死者に属する魔物がどこまでの負傷を許容出来るのか知らなかった。必要だからと言って自分の身体を切り刻むなど御免被りたい話だが、己にとっての可能不可能を知らぬまま戦うなど準備不足にも程がある。
溜息が出そうになったが どうにか飲み込む。準備不足とは言え、そもそも戦う予定が無かったのだから当然だ。オレに構わず先に行け、という漫画のような状況で、イスカリオテに自身の弱みを見せるつもりは欠片も無かった。
「……正一様、私も多少は魔法の心得が」
「必要無い」
異議を申し立てたイスカリオテの言葉を半ばで切って捨てる。
この状況から二人揃って無事に離脱出来る気が全くしない。共倒れなど御免だった。他者を理由にした自己犠牲など趣味では無いが、ここで見捨てられるようなら元から彼女に こだわりはしない。
事ここに至っても正一の本心は死にたくないと叫んでいる。
しかし何もせぬまま また失くしてしまうのは絶対に嫌だ。頑張ったところで報われるものではない、と経験則から分かってはいたが、これ以上の喪失は正一の心が耐えられない。
逃走が不可能ならば戦うしか無いのだ。どんなに小さな可能性でも、目の前に迫る敵を排除して安全を確保する以上の手段が思いつかない。ならば戦って、勝たなければ。失いたくないと泣くのなら、血を流してでも掴み取る。
正一が覚悟を決めたのと同様に、背後に座り込んだイスカリオテもまた退く気が無かった。
馬に乗った人間、――黒塗りの鎧を身に纏った騎乗兵が計四人。
闇に紛れる黒の金属光、夜間の作戦行動を念頭に置いた装備品だ。鎧装束一式を満足に揃えた平民などまず居ない。ならば彼等は正規の兵士か私兵か騎士か、いずれにしても軍属の人間。
城からの追手だろう、と今更ながらにイスカリオテは己の身分を再認する。
しかし彼等は国王の命令によって出向いた騎士ではない筈だ。王命ならば、常に傍近く仕えて王の意を汲む近衛が動く。見栄えを気にしなければならない近衛騎士という花形職が、国から賜った鎧を黒く塗り潰すなど有り得ない。と、いう事はどういう事か――。
「姉妹以外の、元王族」
山犬を斬った技は騎士団由来の正統剣術だった。
教本に載る程度には有名なものゆえ、王女だったイスカリオテにも見憶えがある。国家や王侯貴族に仕える者なら、必ず修める技術なのだ。逆に言えば それ以外の立場で容易に習えるものではないのだから、追手の所属に関しては国に属する誰かの部下である事は確定した。正統剣術を用いる全身鎧の騎乗兵が複数人、これを見て一般人だと主張しても悪い冗談にしか聞こえないからだ。
彼等が王宮内の権勢を求める元王族の私兵であれば、狙いは間違いなく吸血鬼となったイスカリオテだ。
どうやって居所を知ったのか、なんて事はどうでも良い。
「……邪魔」
尖った爪を地面に突き刺し、手早く一つ、召喚を補佐する魔法陣を仕込んだ。
続いて空いた両手を用いて追加の魔法陣を描き出し、こちらに背を向ける正一に気付かれぬように息を潜めた。
森に逃げろと言われたが、聞き届けるつもりは全く無い。
目の前に邪魔者が居る。ならば排除するのは至極当然。
今のイスカリオテには たった一人しか縋れる相手が居ないのだ。それを見捨てる選択肢など何処にも無い。戦いに際して足手纏いだと判断されたのだろうが、此処で役に立つ事を示せば きっと己に対する評価も上向く。
そうすれば、もっと自分に縋ってくれる筈だ。
今以上にイスカリオテの存在を必要とする筈なのだ。
――正一は彼女の身の安全を思って苦し紛れの指示を出したが、当の本人は それを戦力外通告であると勘違いしていた。
イスカリオテの中には、正一が自分を心配しているという発想が無い。相手からの気遣いを信じるだけの余裕が無いのだ。だから指示を無視して正一を守ろうと手を尽くす。
指示に反したとして後々叱責される可能性など考えない。失くしてしまう事への恐怖が勝り、正一の意見を完全に無視して己のための行動に注力する。
これで共倒れになろうと知った事ではない。死は彼女にとって恐れるべきものでは無いのだから。
「――四号、五号、左右から行けっ!」
正一が短く指示を叫んで、先行する眷属に続く形で追手に近付く。
既に三体の眷属が斬り殺されていた。
先頭を走る黒騎士と、彼の背後に横一列の弓兵が三人。前衛と後衛が明確に分かれた人員構成だ。
四人共が馬に乗っており、最初から逃げる吸血鬼の背を追い立てるための準備をしていたのだろうと推測される。
馬上から振るわれる長剣の一太刀が、動く死骸一体の死に相当する。
馬鹿みたいに強い人間だった。
月明かりの下で影絵のように浮かび上がる黒塗りの鎧と相俟って、目の前の黒騎士が本当に人間なのかと疑ってしまいそうな程の威圧感。
馬が迫り、眷族が近付く。続いて走り寄る正一の目の前で、騎士の長剣が鋭く輝いた。
「――ふ」
「くそっ!」
僅かに耳朶を打つ黒騎士の呼吸音。
夜闇の中で翻る刃の銀光が眷属を一体斬り捨て、続くように正一に向けられた。
死ぬ。死ぬ。死ぬ。頭の中で単調な警報が鳴り響き、恐怖を押し殺して更に前へと一歩を踏み出す。
捨て身の一撃。
吸血鬼のしぶとさを当てにした正一の攻撃を一顧だにせず、黒騎士の剣が振りかぶられた魔物の拳を腕ごと斬り裂いた。
「がああああ゛あ゛――っ!?」
激痛が奔る。
ただ腕を斬られただけで、脳髄を素手で掻き回されたかのような激しい痛みを感じた。
わけも分からず叫びを上げて、視界の端で騎士に飛び掛った最後の眷属が一息に斬り捨てられる様子を見ても悔しさを抱く暇が無く、それよりも全身を包み込む驚愕の方が強かった。
再度、長剣が突き付けられる。
月光を跳ね返す刃は露に濡れたかのように輝いて、刀身には十字架型の淡い輝きが踊って見えた。
「じゅっ、じゅうじ、か……っ?」
目にした紋様が脳内にて多様に乱舞し、続いて彼の混乱を一斉に鎮める納得の感情が湧き出した。
吸血鬼は、十字架が弱点。
なるほど、実に分かり易い話だ。此処が異世界でなければ、正一ももう少しだけ そういった代物に対して警戒心を持っただろう。
「く、そ」
詳細は不明だが、黒騎士の剣には対吸血鬼用の特殊な処置が施されていたのではないだろうか。正答か否かを判断する知識に欠けているが故に仮定で終わるが、そうであるとするならば今の正一が感じている痛みにも納得出来る。
「召喚」
迫り来る刃と十字架の煌きを前にして何も出来ぬままに震えていると、突如 己を包み込んだ銀色の輝きが正一を背後、イスカリオテの手元へと転移させた。
そっと触れるような熱が少年を包み、耳元を少女の声が撫でた。
「正一様、準備が出来ましたので この場から撤退しましょう」
「え? ……いきてる?」
「はい、不死者を滅ぼす墓標は当たらなければ効果を発揮しません。それよりも、撤退を」
「てったい、――ぐぅっ」
斬られた腕を握り締めて、喘ぐようにイスカリオテの言葉を繰り返す。
正一には自分が彼女の召喚魔法で助けられた事さえ分からなかった。ただただ痛みに囚われ、異世界に存在する未知に驚愕し、護ろうと考えた相手に護られた現状を正しく理解できないまま。
銀色の飛沫が地面に描かれた魔法陣より吐き出され、全身を飲み込まれると同時に吸血鬼二人は姿を消した。
数秒の間、静寂が場を支配する。
残されたのは黒騎士と三人の弓兵。追うべき相手の姿は見えない。
長剣を鞘に納めた騎士は馬首を背後に巡らせて、軽く手を振りながら残る三人に声を掛ける。
「状況は終了した。――撤収する」
「「「了解」」」
そのまま彼等は姿を消した。
一糸乱れぬ その動きには躊躇いも不満も見て取れず、襲撃相手に逃げられた事など まるで無かったかのようだ。
黒塗りの兜に隠された騎士達の表情は外から窺えるものではなく、その思惑など彼等以外の誰にも分からない。
斬り捨てられた動く死骸を照らす月明かりだけが、この場において唯一確かなものだった。




