第十三話 森林脱出
三人の狩人が森の中を静かに歩いていた。
「暗いな……」
「木々が多過ぎる。が、この量を伐採するのは手間に見合わんな」
「文句を言うな。脱線するな。目的は別だろう」
彼等は森に面した村から派遣された狩人である。
最近になって、森に住まう獣達の動きが活発化していた。突然 数が増えたかと思えば、元から住んで居た獣と縄張り争いを繰り広げ、森の騒がしさに影響されて僅かながらに魔物までもが現われる始末。
このままでは森の植生にも影響が予想され、生活の大半を森の恵みに依存している村の者達は、先々において困った状況に陥るかもしれない。
ゆえに調査を。
森を歩く事に慣れた者、獣の対処に心得のある者。村の人間の内でも危険性のある仕事を安心して任せられるだろう人材として、彼等三人が此処に来たのだ。
人数が多過ぎれば ただでさえ騒がしい森の住人達を刺激する。本音を言うなら もう少し人を増やして欲しかったが、村の働き手を余り危険な場所に引っ張っていくわけにもいかない。内心では現状に対する愚痴と森の騒がしさへの不安が入り混じり、それでも彼等は前に進む。
時刻は朝と昼の間にあった。
ただでさえ暗い森の中を、わざわざ日の全く差さぬ時間帯に嗅ぎ回る理由は無い。
森の浅い入り口付近ならばともかく、深く生い茂る木々の陰に足を踏み入れて以降は彼等も無駄口を叩く事無く、周辺の景観を観察しながら用心深く足を動かしている。
着込んだ装束に獣の嫌う臭いを沁み込ませ、時折視界に映る緑の奥で動く影に対しては複数人で固まって行動する事で獲物としての危険性を知らしめて距離を取る。襲われた場合の備えをしてあるとはいえ、今回の目的は森の異変に関する調査だ。万が一を考えれば、争いを避けるに越した事は無い。
「本当に多いな……」
「糞も多いぞ。そこらの樹皮にも傷痕が増えて、縄張り争いの激しさが窺える」
「数が多いのは分かる。獣の気が立っているだろう事も分かる。問題はその原因だ」
三人で密やかに言葉を交わして森で目にした情報を整理する。
どうにも獣の数が多い。声を潜めたところで自分達の気配を押し殺すのは無理だろう。若干開き直って会話をしたが、仮に周囲の全てが襲い掛かってきたらと考えれば背筋が寒い。
例年よりも多少 数が増えている、などという程度の低い状況ではない。どう考えても増え過ぎだ。
一歩踏み出すたびに獣が身構える気配を感じた。視線を巡らせれば必ずと言って良いほど木陰に息衝く何かが見える。
「大鬼でも出たかな……」
「他から逃げてきたのか。大鬼でなく大鬼精かも知れんぞ」
「やめろ。やめろ。出るわけ無いだろうが そんなもの」
前者二人が口にしたのは、どちらも人間以上の体躯を誇る雑食性の魔物の名前だ。
確かにそんな大物が森の中に現われれば獣達もこぞって住処を移すだろう。しかし大物過ぎる。仮に現われれば森の中を逃げ回るのではなく塒を捨てて森の外へと逃げるだろうし、先に挙げた魔物はどちらも このような王都に程近い森になど出張ってこない。
魔王の存在くらい、彼等とて知っている。
未だ魔物の版図からは遠く離れた村の傍、単体にして集落一つを平らげると言われる大鬼精辺りが姿を見せる筈も無い。
ようするに先程のは冗談だ。それが分かってはいても嫌な想像、魔物と出くわせば狩人如きが太刀打ち出来る筈も無い。叱責するリーダー格を目にして、残り二人は肩を竦めた。
「ノリが悪いな……」
「全くだ。だから女にも振られる」
「五月蝿い。五月蝿い! あれは少し間違えただけだ!」
緊張感の無い遣り取り。しかし周囲の獣達は大声にも反応せず、三人組に襲い掛かろうとはしなかった。
獣とは臆病な生き物だ。
一歩間違えれば容易く死んでしまう大自然。人も魔物も、獣同士でさえ敵と為り得る。ならば生き延びるためには臆病なくらいで丁度良い。不慮の事態に備えていても、簡単に死んでしまうのが野生の世界。
こぞって住処を移し、人の住まう村に近しい位置にまで逃げてきたのも、獣特有の臆病さと本能による危機回避のための判断ゆえ。
――人間が居る場所なら、アレも襲っては来ないかもしれない。
言語による論理的な思考ではないが、おおむね そのような考えのもとに集まったのだ。
集まり過ぎて縄張り争いも起きたが、両者を相手にした場合の生存率を比較すれば獣同士の方が断然 楽だ。森の一角に集った動物達は好き放題に殺し合い、己が安息を奪い合う。
そして積み重なった死骸から香る血の匂いは、当然のように事の元凶を呼び寄せた。
「にんげん。――が、三人か」
周囲の獣達が一斉に悲鳴を上げた。
波打つような音が鳴り、其処彼処から姿を現した森の獣が四方へ散って走り出す。
明らかな異常事態だった。
草むらから、木陰から、視界に映る森の全てが、全身全霊で逃走を開始した獣達の動きによって深緑色の波濤を生み出す。
まずい。何かは分からないが、獣達が一様に逃走を選択するだけの危機が迫っているのだ。
「逃げよう……」
「賛成だ。おかしいだろう、これは」
「ああ。ああ。――退くぞ、走れ」
自分達如き狩人の手に負える事態ではない。
森に住まう獣達が一斉に動き出すような何かが起こっている。元より彼等は戦闘者ではないのだ、森の調査に関しても異常事態が起きているという事実一つを知れただけで成果としては上々、無事に逃げ帰って報告を行い、後の事は専門職に任せてしまえば それで良い。
手荷物を下ろせるだけ全て その場に放り出し、三人は一目散に走り出した。
その背を見送る赤い両眼は暗がりの中から一歩も動かず、じっと彼等の向かう方角だけを観察していた。
やがて生きるもの達は姿を消して、残されたのは瞳を赤色に揺らす一人だけ。
枝葉の隙間を縫って差し込む日光を避けながら、更なる暗闇の奥へと潜り、森を騒がせた何者かは己の住処へと帰って行った。
「お帰りなさいませ、正一様」
「……うん」
笑顔で出迎えた少女吸血鬼イスカリオテに短く返し、無事に帰還した正一は己の顔を抑えて座り込む。
指先で なぞり上げた顔の右半分には、相も変わらず石碑によって刻まれた火傷の跡が残っていた。
だからといって、それに関して思う所は何も無い。
見てくれがどうだろうと、人前に顔を出せない現状に変わりは無いのだ。赤く光る目の色だけでも、真っ当な人間で無い事は一目瞭然。顔に変な模様があっても、今更何の不都合があると言うのか。
そんな事よりも、正一が考えるべき問題は別にあった。
食料として当てにしていた動物達の数が日に日に減っていた。以前は意識する程のものでは無かったが、最近は特に顕著だった。そして決定打は先程の一騒動。あれほど露骨に逃げ出す姿を目にすれば、正一とて理解出来る。
「そっかあ……。俺、怖がられてたのかあ……」
別段、動物が好きというわけでは無い。しかし嫌われて喜ぶ趣味も無かった。
夜な夜な森に現われては同族を攫っていく謎の吸血鬼。己の行いを振り返ってみれば恐れられて当然なのだが、周囲一帯から姿を消した野生動物の真相を知った正一は傷付いた。自業自得だが傷付いた。
そうして落ち込んでいると、細い少女の手指が そっと彼の手を握る。
視線を上げれば優しげに微笑むイスカリオテの姿が。気恥ずかしくなった正一は顔を俯かせながらも、僅かに気分が上向いた事を自覚する。
「森を出よう」
獲物の少なさに後押しされて、遠く出向いた先で人間の姿を発見した。
一斉に逃げ出す動物の群れと、明らかな異常を目にして即座に転身、森の外へと全速力で逃げ出す狩人達。この森の中で何かが起こっている事を、彼等はきっと理解した。複数人で連れ立って足を踏み入れていたという事は、森の近くに人間の住まう共同体が在るのだろう。単なる推測ではあるが、捨て置くわけにもいかなかった。
森の動物達が揃って逃げ出す異常な事態、その原因が正一という吸血鬼の存在に有るという事は知られていないだろうが、仮に知られれば魔物を排除するための狩りが行われるかもしれない。
敵対するのならば人間を殺す事に迷いは無い。
だがそれは正一の考えであって、イスカリオテのものではない。
傍らの少女に視線を向ける。
微笑みながら互いの視線を絡ませる、優しげな彼女の内心が正一には分からない。
優しくしてもらえる事がとても嬉しい。傍に居て言葉を交わせるだけで孤独は癒される。しかしそうなる理由が不明だった。ずっと一人で膝を抱えていた彼女の突然の変貌は、一体何が原因なのか。正一には全く理解が出来なかった。
だけど直接的な指摘も出来ない。どれほど気になったところで彼女に問い質すなど無理な事。もしもそれで彼女の不況を買って、もう一度かつての孤独に落とされる事が嫌だった。
泣きじゃくる正一を抱き締めてくれた、柔らかな熱を憶えている。吸血鬼特有の低体温、しかし同程度の熱量ならば温かさを確かに感じられる。
これを失いたくはない。もう、一人ぼっちは嫌なのだ。
ただただイスカリオテから与えられるものに甘えていた。彼女に如何なる理由があろうと、身を蝕むような孤独と理不尽に苛まれる状況とは比べ物にならないほど幸福だから。
内心を勘繰るような真似はしない。拒絶されたく無いからだ。
人間を積極的に害する事もしない。嫌われたくなど無いからだ。
だから逃げる。
深く生い茂る森の中、きっとすぐさま数を率いて攻めてくる事は無いだろう。今夜中に何処か遠くへ離れてしまえば、正体不明の異常事態という結論で納得せざるを得ない筈。無駄に後を追い掛けて犠牲者を出すなど、相手が一般人ならば絶対にしないと正一の頭脳が予測する。
「――ええ、正一様。イスカは御傍に付いて行きますわ」
笑顔で追従するイスカリオテにも、異論は無い。
現在地が彼女の知る地図の中で何処に位置するのかは分かっていない。だが大まかな場所さえ知れれば次の隠遁先にも検討を付けられるだろう。
王家の生まれだろうと、彼女個人に国民への庇護意識など欠片も無い。正一が人間達の住まう共同体を滅ぼす事を望めば、間違いなく笑って支持した。
言われなければ何も言わず、何か言われれば賛意を示す。主体性の無い行動方針。
その内心もまた、正一と然して変わらない。
抱き締めても拒絶されなかった。態度が豹変しても忌避されない。手を握ったが受け入れられた。
号泣する小さな背中を見た時は大丈夫だと判断したが、彼の気が落ち着けばどうなるものか分からない。果たして どこまでならば許容されるのか、彼女は一つ一つ確認するように試しているのだ。
イスカリオテには正一しか居ない。だから彼に拒絶される事は絶対に避けなければいけない。
彼等の関係も、表面上は うまく行っていた。しかしその内心では どちらも相手に怯えている。
本当なら、目の前の相手に望めば全て残らず受け入れられる。捨てられる心配など何処にも無い。それに気付いていないのは互いが互いに対し真っ直ぐ向き合っていないからだ。目の前の存在を別の何かの代用品として、自分のためだけに利用しているから、一個人として真っ当に信頼する事が叶わない。
二人は危うい関係だった。しかし失う事に怯えているために気付かない。目を向けない。
互いの手を柔らかく握り合い、傍目には親しげな男女の姿に見える。
その実態は、直接手を触れるだけでも拒絶されはしないかと怯えて竦み、傍らに座り込んだ相手に捨てないで欲しいと声無き言葉で懇願していた。
両者の想いは通じ合わない。どちらも自分以外の心を慮る余裕など持ち合わせていないのだから。
日が落ちて、夜が来る。
洞穴の中から這い出した二人は、持つべき荷物も無く着の身着のままで森を歩いていた。
周囲には正一が眷属にした動物達。
動く死骸は血流が止まっているために新陳代謝が停止しており、古くなった細胞も やがては腐敗し崩れるに任せ、その寿命は確かな生命を持つ魔物に比べれば酷く短い。
しかし動く死骸には意思など有って無きものだ、主に対する従属性に関してだけは抜群だった。
眷属達を周囲に配置し、道中の安全を図りながら歩を進める。
暗く深い森の中は異世界に召喚されて以来 最も長く滞在した場所だが、愛着と呼べるだけのものは無い。
正一は、数日の間だが世話をしてやった名も知らぬ少女の事を想う。
勇者となって以降、彼の胸には後悔ばかりが積み重なっている。そういう意味では、ルカの事も数ある中の一つに過ぎない。しかし森を出る事をすぐさま決断出来た理由は、彼女に対する罪の意識から逃げ出したいと思ったからだ。
森を離れた所で過去が消えるわけではない。
それでも逃げ出したかった。この世界にある何もかもから、決して追い付かれないように何処までも。
「イスカ」
「はい。何でしょうか、正一様」
呼び掛ければ微笑みと共に言葉が返ってくる。
彼女の考えなど全く分からないのに、内心では相変わらず無価値な存在と見なされているかもしれないのに、それでも正一はイスカリオテの存在が有り難かった。
未来に対する展望など欠片も無いが、独りでは無いというだけで全ての不満が掻き消える。
「――行こうか」
何処に、とは言わない。
森を出るための途上に過ぎない暗闇の中で、わざわざ声に出したのは彼にとっては ちょっとした勇気が必要な事だった。
捨てないで欲しい。傍に居てほしい。
言葉にならない感情を篭めて、掛けた言葉は震えていた。
「――ええ、共に行きましょう」
正一と同じような感情を秘めたまま、イスカリオテは媚を売るように殊更 綺麗に微笑みを作った。
似たもの同士でありながら、その内心は一切噛み合う事も無く。
一組の吸血鬼が、森を抜けて星空の下に踏み出した。
「――居たぞっ、魔物だあッッ!!!」
そこに振りかかる大量の矢衾。
予想外の展開、一瞬の忘我。
視界には森と平野の境界線に居並ぶ、十を超える数の人間達。
上空から弓なりに迫ってくる鏃の硬質な輝きを瞳に捉え、正一は わけも分からぬままに傍らのイスカリオテを抱きかかえる。
元勇者の前途多難な旅路の一歩目は、こうして始まった。
行き着く先は誰も知らない。




