④
朔夜との放課後に数学室で過ごしたあと、一旦別れた彩香は荷物をまとめて一度靴箱までいき靴を履きかえ学校から少し離れた待ち合わせ場所に向かおうとしたとき。ふと、自分が忘れ物をしたことに気がつき学校へと踵を返した。忘れ物はすぐにみつかったが、急いで靴箱まで向かっていた時に偶然朔夜と校長先生が話しながら歩いているところに出くわした。咄嗟に身を隠した彩香は、二人が通り過ぎるまでじっと息を潜めた。そして聞こえてきたのは、衝撃の事実。その言葉を耳にした瞬間、彩香は息をすることも難しく、ただ茫然と立ち尽くしていた。
彩香の呪縛が解けたのは、時間にすればたった5分ほどだったが。彼女には1時間にも、半日にも感じられていた。まだ意識はぐるぐると色んな想いが巡っていたが、彩香は彼との待ち合わせ場所へと向かった。
待ち合わせ場所には既に、彼の姿があった。
「朔夜……」
彩香の姿に気がついた朔夜は、小走りに駆け寄って来た。その表情は晴れない。
「どうしたんだ? てっきりいつも通り君の方が先に来ていると思っていたんだが……何かあったのか?」
心配そうに問いかける朔夜の声は、そのまま真っ直ぐに彩香の心に優しく響く。朔夜の表情が晴れなかったのも、来ているはずの彩香の姿がなかった為だったのだ。
そんな朔夜の優しさが心を包み込んんでくれるが、今は同時に彩香の心を苦しく締め付ける。
「ちょっと、友達と…話してて。ごめんなさい」
「いや、いいんだ。何もなかったのなら。――よかった」
他愛もない話をしながら、いつもの道を二人で歩く。
――朔夜。
ずっと、私の我儘をきいてくれた。優しいから断れなくて、今までずっと私に付き合ってくれた。
「私のせいで、お見合い、断ったの……?」
そう、喉元まで言葉はせりあがっているのに声にすることは叶わない。
優しい貴方を、これ以上自分の我儘で縛っちゃいけないことはわかっているのに。
(――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ)
好きだから、貴方の事が誰よりも好きだから。だから、貴方の幸せを考えないといけないよね。
それでも、この想いが本当で強いほど。別れを切り出す言葉は言い出せない。
別れのきっかけになりそうな言葉も、怖くて紡げない。
(ごめんなさい)
ただ、そう心の中で悲鳴のようにあげるしかできない。
そんな子どもっぽい自分が嫌いになる。
きっと、大人の女性なら本当に好きな相手の幸せを一番に願えるはずなのに。
その日の些細な、いつもならとても楽しい幸せな一時も。一切覚えていない。何を話しかけてくれたのか、自分が何を答えたのか。何も、何一つ、覚えていない間にいつの間にか家について部屋のベッドの上にいた。
ぼろぼろと泪が溢れて止まらない。
「――ごめんなさいっ」
泣いてもなにも変わらないことなんて、わかってる。それでも涙が止まらない。言わなければいけない言葉はでてこない。
最初から最後まで我が儘な自分。そんな私に縛られていた大切な人。
でも、もう解放してあげないといけない、よね。
その夜は、今まで楽しかった思い出。幸せだった記憶。そんな色んなことを思いだして笑おうとしては泣いて、泣いて……。今までにないぐらい泣いて、一人涙を流して、全然眠れなくて。気がついたら朝がきていた。
学校に行く前にメールした。
『件名:おはよう。
本文:朝からメールして、ごめんなさい。
今日、放課後会いたい。いつもの場所で、待ってるから。』
送信完了の文字を確認して、思わず口から安堵と緊張の吐息が零れる。
放課後。生徒立ち入り厳禁の屋上で待っていると、私の姿を見つけ駆け寄ってくれる愛しい人の姿が。
「お待たせ。待った?」
「ううん。大丈夫」
「そうか」
今まで私がしてきたのは、ただの「遊び」。
本当の「恋」なんかじゃなかった。そのことに朔夜と付き合って、初めて知った。
「……何か、あったのか?」
「……何にもないよ、大丈夫」
涙など流れていないのに、朔夜はまるで瞳からこぼれ落ちる涙が見えるかのようにそっと、まだ少し赤く腫れた目元を拭った。
「……君は、そうやって我慢ばかりするんだな」
呟いた言葉は小さすぎて、彩香の耳には届いていなかった。
「あのね、直接伝えたいことがあって」
小さく深呼吸を繰り返し、意を決して拳を強く握りしめ自分に今できる、最高の笑顔で言った。
「別れよう」