side:朔夜
ここ最近、当たり前となった卒業間近の彩香と数学室で過ごす時間が終わったあと。彼女と別れ、帰り支度を済まして帰ろうと玄関に向かう途中。偶然校長と出くわした。
「藤峯くん」
「あ、校長先生」
廊下を歩いていると、偶々校長と居合わせた。校長は最初こそ笑顔だったが、次第に顔色が曇りそっと小声で例の件を問いかけた。
「本当にいいのかい? あんな良縁、中々ないぞ?」
「あはは、確かにそうですよね」
藤峯は苦笑しながら、そう言う。そんな藤峯の様子から考え直す気がないと理解した校長は、目尻を更に下げ残念そうに続ける。
「本当に考え直す気はないか? 今ならまだ間に合うぞ?」
「いいえ。大丈夫です。あのお見合いは、お相手の方には悪いですがお断りさせて下さい」
「そうか……残念だな」
校長がここまで残念がる縁談相手。それは校長とは竹馬の友である、某有名私立高等学校の理事長の娘だった。顔は十人並みに整い、頭も天才的とまではいかずとも良く、器量も良し、年齢も藤峯の二歳下。彼女自身にも非の打ちどころは条件だけをみればなく、親も金持ちで逆玉の輿にのれる相手だ。
――それでも、藤峯は縁談を受けなかった。
その理由は単純なもの。突拍子もない、ある女生徒から提案された「恋人ごっこ」から始まった関係。彼女が望んでいるのは、あくまで恋人のフリをしてくれる、恋人気分に浸らせてくれる“期間限定”の恋人。そうわかっているから、自分で決めた一線を超えずに今の関係を保っている。いつの間にか、「ごっこ」が「本気」になっている想いに気づいても。それを伝えようとは思わなかった。今の関係を望んでいる彼女に、この想いを伝えるのはルール違反だと考えたから。今の関係でも十分に幸せだし、何よりあくまで俺は彼女にとって人生の中の小さな思い出。忘れられることが前提の存在。だから、特別な関係を今以上の関係を求めないほうがいい。
――そうやって、必死に自分の想いにブレーキをかけて。
苦しくなる時もあるけれど、確かに幸せがそこにはあるから護りたいと思うから。
「すみません。お気遣いいただいたのに、無下にしてしまって」
「いや、いいんだよ。君がそれでいいのなら。だが、君ほど良い人柄の人物もいないだろうに。まあでも、慕う人がいるのならそれも仕方がないか……」
全く良さそうにないが、それでも無理押しをしないところは校長の良いところだろう。
「私もそんなに言って頂けるほどできた人間ではないですよ。現にこうして今、自分の我儘で折角の縁談をお断りしているわけですし」
「そうは言うがな……」
「まあ、でも。確かに校長先生が悔やむぐらいには、あの人は素敵な女性でしたね」
「そうだろう? そうだろう。どうだ? もう一度、考え直す気は……」
そして二人は互いに目的地である玄関口まで他愛のない話をしながら向かう。
そんな二人の会話を聞いていた、聞いてしまった生徒が一人。彼女は必至で二人が通り過ぎるまで息を押し殺し、過ぎ去ったことを確認してからその場に座り込んだ。
「……朔夜」
ずっと、私の我儘をきいてくれた。優しいから断れなくて、今までずっと私に付き合ってくれた。
「私のせいで、お見合い、断ったの……?」
彼女の呟きは、殆ど誰もいなくなった校舎に吸い込まれるようにして消えた。