プロローグ
冷たい風が、微かな頬の熱をかすめてく。
「……寒」
自分の吐いた息で、両手をこすって温める。街はイルミネーションも少なくなり、裸の街路樹が街灯に照らされている。ほんの、二、三か月前まではクリスマスや新年のお祝いムードに包まれて、皆どこか浮き足立っていた。街路樹に散らばった数多の星粒が、燦然と輝いて夜を照らしていたのに。
厚い灰色の雲が広がる空には、時折吹く風に乗って流れて行く桜の花弁。さわさわと何処までも遠くに流れては舞い落ち、小さく淡い足跡を残してゆく。
「もう、桜が咲く季節なんだ……」
ふと見上げた視界に舞い込んできた、まるで迷子の様な小さな花びら。そっと手を伸ばして止めていれば、風に乗ってふわりと重さを感じさせずに小さな花片が乗ってきた。
三月中旬。ここ最近暖かかったため、桜の蕾はほころび一房、二房と開花をみせていた。でも、今日は急激に冷え込み曇天からは白い雪が降り出した。一陣の強い風が吹き、桜の花びらと雪が解けあう様に舞う。
何故だか、ふいに涙が込み上げて来た。
「――あ、れ……? どうしたんだろう……」
手の甲で拭えば、後から生まれた一粒の雫が瞳から頬を伝いおりた。
「これだけのことで泣くなんて……」
そして小さな花片が再び風に攫われ手の中から離れて行った時。ふと、足元から「にゃあ、」っと。小さな鳴き声がした。
「……どうしたの、迷子?」
小さなアッシュダーク色の毛並みをした仔猫が人に慣れているのか、はたまた無知なのか、甘えるように私の足にすり寄っていた。しゃがみこんで優しくゆっくりと背を撫でながら問いかければ、仔猫はペロペロと小さな舌で私の指をなめる。ざらついた感触が、少し、くすぐったい。
「……おいで」
私はその小さな仔猫を抱き上げると、軽い体にふわっと頬をくすぐるさらさらの毛並み。温かい体温が腕から伝わってくる。
っと、また。風が、吹いた――。
まだ数えるほどしか開花していない桜たちが風に乗り、またひとひらと、ひらひらと、散っては風に乗ってゆく。花が風に揺れて擦れあう音が、耳を打つ。
「桜、綺麗だね」
優しく仔猫を抱きながら、視界を埋める曇天と白い雪、散りゆく淡い薄紅を見つめる。
――貴方と初めて出逢ったのは、こんな穏やかで優しい季節じゃなかったね。
もっと寒くて、それでも木の枝の隙間から降り注ぐ陽光は暖かくて。時折吹く風。蒼い空がただただ綺麗だった。
――貴方は今、どうしていますか?
思わず手を伸ばした、バックの中。そこには綺麗に包装された包み。開けて見れば、初めて作った灰色の手編みのマフラー。決して綺麗な出来栄えじゃないけれど……。
――どうしたら、渡せたんだろう。
弱虫で、臆病で、未来に進むことが怖かった。いつか迎える別れに怯えて、後戻りできなくなる前に。そう思っていた。
(……でも、本当にそれで良かったの?)
繋いでいた手の温もりが、切なく恋しい。