第8章山陽、山陰
養殖同業者に会う為に、高知から広島竹原まで急ぎ足で来たが、途中で食中毒になったので、約束より1日経過していた。
竹原港に着いたのが、朝5時だった。
珈琲ミルを取り出し、豆を入れ、港の船の出入りを見ながら、ゆっくり回した。
香ばしい珈琲の香りがしてくると、自然と落ち着く。
ドリッパーに濾過紙を折りたたんで載せ、珈琲の粉を入れる。お湯を少し入れ、粉を蒸かす。この時の香りが一番好きだ。
booが何か貰えるのかと、のそっと起きてきた。
「boo残念だね!こんな美味しい物飲めなくて!」「珈琲は、エチオピヤのお坊さんが、ヤギが珈琲の実を食べて元気になったのを見て、飲んだらしいよ!」
と言いながら、booを相手にして珈琲を飲んだ。
7時になったので、携帯で大崎島の同業者に連絡した。「すみません!遅くなって!」郵便配達があるので,11時になるとの事、時間潰しにbooと散歩に出た。
少し歩くと、老人が釣りをしていた。
竹原に大きなサウナ「バンブー」という単純な名前だ。名前の後ろか前に何かついていたかもしれない。
ここで2日間ほど滞在した。
このサウナには、韓国式アカスリがあった。
今は何処でも韓国式アカスリはあるが、この当時珍しかった。
その当時から、背中に手がとどかない僕は、韓国式アカスリが好きで、それだけが目的で韓国に行ったこともあるくらいだ。
あまりするとよくないだろうと思いながら、2日間とも韓国式アカスリをした。
この施設は、家族連れが多く少しやかましいが、地元のオバちゃんとの話は楽しかった。
竹原を後にして、山陰、益田市目指した。
国道488号線想像した以上に、道は悪かった。しかし車の通りは非常に少なく、キヤンピンカーを止める所も苦労しなかった。
山並みが綺麗に見えるところで、キャンピングカーを止めて、テントを広げ、テーブルを出し、夜焼肉でしようと思い,七厘を準備しながら、折りたたみの椅子でビールを飲んでいると、赤のドカティー福岡ナンバーが4台来た。
キャンピングカーの横にバイクを止めてヘルメットを外そうとしている「何が釣れますか?」と話しかけると、小さな声で聞き取れなかった。
近づいてみると、バケツは空っぽだった。しばらく見ていると「何処からきた!」「金沢です。」「・・・・・・・・・・」
沈黙が長く続いたが、老人はボソッと「海が汚くなった!」と寂しそうな顔で言った。
竹原での何気ない出来事だけど、あの時の珈琲ミルの音と、老人のあの声が耳に残っている
ヘルメットをサイドミラにかけて、こちらに来たのは、30代くらいの二組のカップルだった。
一人の男が「こんにちは!」「キャンピングカーの中見てもいいですか!」
僕は「いいよ!」と答えた。
僕は前にも言ったように、第一印象はけして良い方ではない。
広島の戦国さんには及ばないと思うが、その時の僕の姿は、ヒゲは伸び放題、頭は坊主頭だった。
この連中勇気あるなーと心の中で思っていた。
4人は交代で、ドアから車内を覗き「こんなになっているんだ」と興味ふかそうに言っていた。
「石川から来たんですか?」「君たちは福岡か?」「そうです。」それからキャンピングカーの事を色々聞かれた。
「ビール飲む?」と聞くと「いいんですか?」と一人が言うと、一人の女性が「酔ったらバイクどうするの?」「キャンピングカーの中狭いけど、我慢して、ごろ寝だったら寝れるよ!」4人で相談し始めた。
「では僕たち食料を仕入れてきますのでお願いできますか?」という話になった。
女性二人を残して、薄暗くなってきた道を、彼らは買出しに行った。
その間に、女性二人に名前、関係などを聞いた。
男同士は、高校の同級生で38歳、一組は夫婦、一組は恋人同士らしい。
ショートカットの目の大きい女性が、ヒロちゃん、チョツト太っている、スミちゃん
ヒロちゃんの旦那は顎ヒゲをはやした、アツシ、スミちゃんの恋人は西郷輝彦風の、トシ。
1時間くらいで彼らが戻って来た時には、女性二人とはもう仲良しになっていた。
そして山の中での、6人の宴会が始まった。
6月も終わり頃だが(10年前)夜になると、山の中のせいか少し肌寒い、七厘の炭が赤く火照っているのを見ると心が安らいだ。
乾杯の後、自己紹介で宴が始まった。
「訳あって、人生を2年間、休みを頂き、キャンピンカーで彼女とbooとで放浪しております、○○です。よろしく!」
6人が自己紹介を終わると、
「2,3回呼び合うとなれるから、下の名前をちゃん付けで呼び合おうね!2人なら名前どうでもいいけど、6人もいると不便だからね」「ヒロちゃん、スミちゃん、アキちゃん、アツシちゃん、男性は呼び捨てだな!アツシでいいよね!」
はじめはバイクの話で盛り上がる、アキだけが話が分らない。
ヒロちゃん、スミちゃんは、昨年僕と同じく自動車学校で大型免許が取れるようになったで、学校で取得したそうだ。
「バイクは、風になれるからいいよね!」とアツシが言った。
アキ以外全員がうなずいた。
2時間くらい永遠とバイクの話だ。
その内女性陣は、キャンピングカーの中に入り、お菓子を食べながら、別の話で盛り上がっているようだ。
僕ら男性陣は、飲み物はウイスキーに変わったが、変わらずバイクの話を続けた。
真っ暗な山の中に、人工的な光は、僕らのランタンでけだった。
昨晩遅かった事もあり、全員起きたのが昼近くだった。
益田市まで、ドカティー軍団に先導されて走る。キャンピングカーは遅いので、コンビニの缶コーヒーで別れの乾杯をして別れた。
気持ちのいい連中だった。別れた後なとんなく清々しい気持ちになった。
益田市を抜けて、国道191号線に入ると、ひさしぶりの日本海が見えました。
日本海を右に見ながら、吉田松陰、高杉晋作の萩市に向かいました。
田万川温泉 憩いの湯で一泊。
田万川町の隣の須佐町には地質学的にも大変貴重なものだそうですが、ホルンフェルスと呼ばれる断層がありました。
黒と白のしま模様をなす雄大な断層は、自然の偉大な力を感じさせるものでした。
マイナスイオンがすごく出ているそうです。そう聞くとなんとなく気持ちがいいような気が・・・・・・・・。
ホルンフェルスのどのようにしてできたのか?
1砂岩や頁岩層からなる須佐層群が堆積(約2500万年前〜1500万年前)
2その須佐層群を突き破って高温の火成岩体(高山はんれい岩体)が噴き出して現在の高山が誕生(約1400万年前)
3そのときのすごい力と熱のために周囲の岩の性質が変わり、この熱変成作用を受けた岩石がホルンフェルスと呼ばれるようになった。
金沢に帰ってきた錯覚に陥るほど、萩は金沢に似ていた。
松本川と橋本川に挟まれたところが中心地だが、金沢も犀川と浅野川に挟まれている。
毛利36万石の城下町として栄えた、歴史と文化とが調和した町萩は、歴史の流れを変えた吉田松陰をはじめ高杉晋作、伊藤博文、木戸孝允など多くの維新の志士を育んだ町だ。(吉田松陰の話は、齊藤 正明に任せます。)
(写真は武家屋敷の土塀)
毛利輝元が築いた萩城が現在では城跡となり石垣、壕などが残っていた。
本丸跡は指月公園となり、園内には志都岐山神社、花江茶亭などの遺跡があった。
武家屋敷、土塀、石垣などが当時の面影を残し、土塀の中から夏みかんの香りがほのかに漂い、まるで金沢の武家屋敷を歩いているような気持ちになった。
吉田松陰が子弟を教育した松下村塾があった。
ここは明治維新の原動力となった多くの優れた指導者達が生まれた所だ。
松下村塾は、思っていたよりかなり狭かったが、何か熱い物を感じた。
萩市を散策していると、金沢が恋しくなり国道9号線を北上して金沢に向かうことにした。
昨年の11月に金沢を出て、8ヶ月になろうとしていた。
9号線を走っていると、ほとんど左手に日本海が見えた。日本海を見ていると余計、金沢が恋しくなってきて、少しでも金沢に近づこうとキャンピングカーを、何時もより長く走らせた。
浜田港で休憩をとろうと、港内に入っていったのは午前3時くらいだった。
港は一番活発に動いている時間帯で、キャンピングカーの中から魚を上げる様子を見ていたが、眠る事ができず、又走った。
石見海浜公園の駐車場で眠りに就いた。
昼ごろ起きると、公園はかなり広く、海岸、砂丘、丘陵地など自然の地形を生かし、海水浴場、テニスコート、キャンプ場、ケビンなどを備えた。
散歩しながら国の天然記念物に指定されている、石見畳ケ浦に行った。(左、写真)
明治の浜田地震によって隆起し現在の形になった。波によって侵食された海食崖や、千畳敷と呼ばれる海床が広がっていた。
一面に見える腰掛け状の岩の突起は、貝の化石などを核としてできたもので、ノジュールとよばれている物だ。
僕は大きな馬糞に見えた。自然はお茶目だ!
大田市久手町の旧国道沿いから見える「掛戸松島」、何気なく一泊したところを散歩して見つけました。
岩の中央に大きな松が立っている、別名「掛戸の一本松」ともいいます。
記事にしようと思い、場所の確認をネットでしていたら、一本松が台風で倒れたらしいのです。
10年前漠然と見ていたのに、今知ったこと多くあります。
僕らが見た松は2代目だったこと、波根湖の水害を防止するために、鎌倉時代、地元の郷土有馬次郎左衛門一政と、二代目の次郎左衛門尉宗茂が千数百人の夫役を指揮して7カ年余の歳月を費やして開掘した所で、「掛戸松島」は人工と自然の合作であることなどが10年目にして分りました。
下記の新聞記事を見ると、「掛戸松島」は地元の人のシンボル的存在なんでしょう。
読売新聞2004年9月9日
台風18号 県内死傷者23人大田市名勝「掛戸松島」の松倒れる
日本海から突き出たように立つ岩の上に生える勇壮な松の姿で知られる大田市久手町の市の名勝「掛戸松島」の松が、台風18号の強風で倒れているのを八日朝、近くの人が見つけた。
読売新聞2004年10月9日
大田市名勝の奇岩「掛戸松島」松復活へ500円募金
大田市の日本海にそびえる奇岩と松で知られる市の名勝「掛戸松島」の松が九月の台風18号で倒れ、心を痛めた地元住民らが「500円募金」で松を復活させる計画を進めている。七百年近い歴史のある自慢の景勝を、何とか後世に残したいとの意気込みだ。
読売新聞2005年4月21日
700年の歴史 掛戸松島の一本松
昨年9月の台風で倒れた大田市久手町の名勝「掛戸松島」の一本松が23日、7ヶ月半ぶりによみがえる。約700年の歴史を途絶えさせまいと、地元の約1400世帯が資金を出し合い、復活にこぎ着けた。奔走した自治会役員らは「うまく根付いてほしい」と期待している。
山陰中央新報2005年4月24日
大田の名勝・松島掛戸の一本松 復活
昨年9月の台風18号で倒れた大田市久手町の掛戸の一本松が住民の協力でよみがえり、二十三日、松島に新たな松が植えられた。一本松は同市の名勝に指定され、石東地域の名所として有名。住民は再び松を冠した古里の景観を見つめながら、笑顔で喜び合った。
読売新聞2005年6月6日
大田「掛戸松島」一本松枯らすな
大田市久手町の名勝「掛戸松島」にある一本松が、最近の日照り続きで枯れる恐れが出てきたため、同市消防団久手分団が5日、一本松に向けて放水した。昨年9月の台風で先代が倒れ、4月に募金で『復活』させただけに、地元住民らは「梅雨入りまで何とか踏ん張って」と願っている。
海を美しい見せる為に、引かれた様な国道9号線を走って行くと、神の国出雲市と入って行った。
国道が海岸からすこし離れて行くと、「いちじく温泉」があった。
露天からは山陰本線見え、のどかな風景は時間の感覚を忘れさせてしまいそうだ。
神の国と言うだけあって、神の付いた名前が多い、神西湖の湖畔で一泊、湖の夕日は神の仕業としか思えなかった。
翌朝湖畔を出発して、9号線を外れ、有名な出雲大社に向かった。
出雲大社はキャンピングカーが止められなくて、車中から手を合わせて9号線にもどった。
福の神なのに、現在あまり福が来ないのは、この時のバチが当ったのかもしれない。
出雲空港の後ろにシジミで有名な宍道湖が見えてきた。
宍道湖は思ったより大きかった。ナビも画面の半分湖だ。
神西湖の夕日も綺麗だったが、この辺の夕日は実に綺麗だ。
松江市内に入り、久しぶりにホテルに泊まろうと思い探すが、気に入るホテルが無く結局素泊まりのヒジネスホテルになってしまった。
ホテルの受付で、「美味い店を紹介してください。」「夫婦でやっているような」「近くがいいです。」といろいろ注文をつけて、聞いたがこれも結局、隣の食堂になってしまった。
「女将さん、この辺で安心して飲める所紹介してください。」「友達がやっているのですか」「送ってくれるのですか、ありがとう」その食堂から30mくらいの離れた所の高そうな店に案内された。
その店は2階にあり、階段を上がり店内に入ると、豪華なカウンター中に女の人が5人、ボックスに3席あった。
「ママ!先程電話で・・そうそう・・じゃお願い!」食堂の女将は、僕が「有難う!」と言うのと同時に振り向き帰って行った。
カウンターに座ると、ママが前に立ち「飲み物は?」「生ビール!」「内生ビール置いてないの!ビンでいい?」「いいです。」「キリン,アサヒ、エビスもありますけど」
「ではエビスを!」・・・・・・・・・・・・・・・・。
「どうぞ!」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
ママは前に立っているだけで、何も話さない。
客は男同士で年配の一組が、カウンターの隅でひそひそ話しをしていた。
4人のホステスも黙って立っている。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「ママ何かツマミありますか?」「チーズとか裂きイカ、ピーナツ。」「ではチーズください。」「どうぞ!」・・・・・・・・・・・・・。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
何か変な店である。沈黙が多すぎる。お客が話さなくても、話題を提供するのがこんな店ではないのか。
女性同伴などで気を効かせている訳でもない。
ドリフターズのこんなお店があったらシリーズの「やる気が無い店」って感じだ。
何かとても可笑しくなって笑ってしまった。
1時間くらいで店を出た。料金は普通だった。
ホテルに帰ってbooの散歩をして寝たが、久しぶりの揺れないベットなのに、なかなか眠る事ができなかった。
これが松江の出来事でした。
翌朝は何故か早く目が覚めて、出発も早く7時にホテルを出た。
松江港から中海の真ん中にある大根島へとキャンピングカーを進めた。(写真は松江と大根島を結ぶ堤防の上の生活道路)
大根島は、中海に浮かぶ孤島だったが、20年前、干拓事業のため堤防道路で松江市と境港市に陸続きとなった。
現在干拓は中止になったらしい、諫早の例もあるし、中止になってよかったよね!
大根島の中で、広さ一万坪を誇る牡丹園の「由志園」がある。ここでは大輪の牡丹の花に魅せられてしまった。
日本庭園も、理解できる知識はないが、肌で凄いと思った。
大根島を後にして、キャンピングカーは江島を通り境港市に入って行った。
境港は、町全体が水木ワールドだ。
何処に行ってもゲゲゲの鬼太郎の妖怪たちに会える。あまり好きでもないので、気持ちが悪かった。
早々に、境港市を出て米子に向かった。
境港から弓ヶ浜沿いに走る国道431号線からは、美保湾が大山をバックにした油絵が額に入っているようだ。
米子はまだまだ古い街並みがならび、初めて来たのに懐かしい感じがした。
米子駅前から、新加茂川沿いの彫刻ロードをたどって湊山公園へ、そして旧加茂川沿いの白壁の土蔵を見ながら、米子城址を抜けるようにして散歩した。
米子は遺跡も多くその中の一つ、伯耆古代の丘公園を見た。
日本海を一望できる高さ15メートルの高床建物や、弥生時代の一般的な住居を復元した竪穴住居、104体の復元埴輪の並ぶ「ほたて貝式古墳」などがあった。
古代人々が、大陸から潮に乗って此の辺は流れ着きやすい場所だったのだろうか。
米子は、しっとりした古代ロマン溢れる街だった。
米子が大山町へと国道9号線を走ると、左に日本海、右には大山が迫って見えて、快適なドライブだった。
琴浦町に入り、夕日に照らされた、彫刻家、流政之先生作の三体の石像、白御影石製「昔の旅姿」を象徴した「波しぐれ三度笠」は、幻想的だった。
夕日で赤い大山も見ていると、不思議な気持ちになり、金沢に早く帰ろうとする気持ちに勝ってしまい、翌朝、国道9号線から、県道30号線にキャンピンクカーを右折して、自然と大山に向かってしまった。
まるで屏風のような山並みで、頂上は広く平坦になった、「船上山」を見てから、大山を左回りに回ることにした。
「船上山」から県道30号を西へ進み「甲川」「一息坂峠」から「香取高原」を抜け「大山スキー場」を通って「大山寺」へ、大山寺は天台宗の古刹で本堂は朱塗りの社殿が鮮やかだった。
大山寺から望む荒々しく勇壮な「大山北壁」には圧倒された。
大山寺から県道158号を南に進み「桝水高原」、大山頂上へと一気に続く大迫力の斜面を観光リフトに乗った。
下界を見下ろせば、日本海、弓ヶ浜半島、島根半島のパノラマが一望できた。「最高!」の一言だ。
桝水高原から県道45号を東へ進み一路「鍵掛峠」へ一の沢、二の沢、三の沢と大山の沢を横切る道路沿いに西日本屈指といわれるブナの原生林が張り出していた。
新緑の自然のトンネルの中をキャンピンクカーは走った。
鍵掛峠の駐車場でクルマを停めると、大山南壁が迫って見えた。
さらに県道45号を進み「エバーランド奥大山」へ、レストラン内には奥大山の源流水で作られたという、地ビールは美味かった。
「御机」を通り「鏡ヶ成」へ、県道45号を北上して行くと「東大山大橋」があった。
駐車場にクルマを停めて橋の上から足元を望むと、あまりの高さに目も眩んだ。
「野井倉・一向平」を通り、大山に別れを告げ国道9号線に戻った。
3日間で、大山を回ったが、後悔の無い行動だった。
稲葉の白兎の神話の所だと思いながら、白兎海岸を通った。
小さい時、絵本で読んだ事があるが、考えると不思議な話だ。近くに白兎神社もあり、白兎が身体を洗ったという池もあった。
日本で始めて治療したという、ことなのかもしれない。
鳥取空港を過ぎて、国道9号線を左折すると、らっきょう畑の中を走った。
既に観光化された、鳥取砂丘の入り口はお土産屋が多く立ち並んでいた。
キャンピングカーを止めて砂丘の方に歩いて行くと、思ったより狭いと感じた。僕は砂漠のイメージを持っていた。
ラクダが何頭かいて、おばさんが「餌代に乗っていって!」と呼びかけている。
「おばさんこのラクダいくらで買ったの!」質問すると、どうも他にオーナーがいるようだった。
何処からラクダを連れてきたのか、そんなに利益も出ないと思うのに、ラクダが可愛そうになって、「乗らないけどこれ餌代!」と言って、お金だけ置いてきた。