事件
帰宅後少し昼寝をした兎衣は、オンライン授業を受けた後、いつも通り夜から出勤した。
ガールズバーの更衣室に入ろうとしたところで、ふと店長に呼び止められる。こんな早い時間帯から店長が出てくるのは珍しいことだった。
「ばにぃちゃん、今日、ちょっと長めに入ってもらえないかな? 急で悪いんだけど」
兎衣は即座に「はいっ! やります!」と食いついた。ちょうど、シフトをもっと増やしたいと思っていたところだったからだ。
しかし、何故このタイミングなのだろう。訝しく思って聞き返す。
「……もしかして、誰か飛んだんですか?」
キャストが連絡なしにいなくなることは珍しくない。仕事が嫌になって突然音信不通になる子も、兎衣の知る限り何人もいた。今回もそのようなトラブルだろうかと思った。
が、近くで化粧を直していた他のキャストたちが深刻な表情でふと手を止めたのを見て、ただ事ではない雰囲気を感じ取る。鏡越しに視線が交錯する。誰もすぐに口を開かない。その沈黙に、兎衣の胸がわずかにざわついた。
「……何かあったんですか?」
戸惑いながら問いかけると、そのうちの一人が口を開いた。
「……飛んだんじゃなくて、ハナちゃん、出勤前に襲われて、レイプ被害に遭ったらしいの。……今、警察と病院行ってるって」
小さな声だったが、その言葉は兎衣に衝撃を与えた。
「……え……うそ……」
脳がすぐに理解するのを拒んだ。ハナというのは兎衣もよく知る、可愛がっていた年下のキャストだ。店内の音が一気に遠ざかっていく。普段通りだったはずの夜が、急に足元から崩れたような気がした。
「詳細はまだ分かんない。でも、無事ではあるみたい。ひとまず保護されてるって」
更衣室の空気は重かった。キャストの一人が、紙パックのジュースにストローを差しながらぽつりと漏らす。
「レイプ事件、最近この辺で増えてるらしいよ。最悪。早く捕まって死ねばいいのに」
それを皮切りに、他のキャストたちも苛立たしげに犯人への悪意を剥き出しにする。
「捕まったって強姦犯は死刑にならないんでしょ。ほんとやだ」
「あたしがハナと一緒に出勤してればこんなことには……」
「ハナ、今日誰かと食事行くって言ってなかったっけ? 人と一緒にはいたはずなのに、何で……」
「ヤりたいなら金払って風俗行けって話だよね。わざわざ女の子の心壊して楽しいわけ?」
「嫌がるのがいいんじゃないの。気持ち悪い」
兎衣は言葉を失っていた。心に冷たい重りが沈んでいく。事件があったのは同じ街で、被害者は自分たちとそう変わらない年の、同じような格好をして、同じ場所で仕事へ向かっていた、知り合いだ。かなり嫌な気分になって、胸がざわざわした。
:
常連客・細川とのアフターの場所は、馴染みの夜パフェの店だった。
「いやぁ、最近もさ、大手から仕事の打診きちゃってさ。こっちはもうスケジュールいっぱいだったんだけど、頼まれたら断れないじゃん?」
「うんうん。細川さんいつも大変そう!」
以前と同じような話を繰り広げる細川に相槌をうちながら、兎衣は未だに返信のないハナのことを考えていた。店長の方にも、事情と今日は休むという連絡が来たきり、何もないらしい。
おそらくあの子はもう来ないだろう――と店長は言っていた。
兎衣も客を見送る時に無理やり胸を触られそうになったことがある。その時の、ぞっと全身の血の気が引くような感覚や恐ろしさは今でも忘れられない。それが、最後まで無理やりされたとなれば、しばらくは怖くて男の相手などできないだろう。
「てか、今日元気ない? いつものばにぃちゃんじゃない気がすんだけど」
カウンターに並んで座った兎衣を覗き込むようにして、細川が不思議そうに聞いてきた。
「えっ全然そんなことないよ~? ごめん、最近ちょっと寝不足で……」
笑顔を作ってそう答えたが、内心では事件のことが頭の奥にずっと残っていた。
「そう? まぁ、ばにぃちゃん昼間は学校もあるんだもんな。ちゃんと寝てる? 無理すんなよ。ほら、期間限定のパフェ頼んだら? 今日はいくらでも頼んでいいから」
客がメニューを指さし、兎衣も曖昧に笑って頷く。
「そんなにパフェ食べたら太っちゃうよぉ。でも、ありがとっ」
情けない。何を客に気を遣わせているのか。楽しませることが商売なのに、こっちが心配されてどうする、と自責する。
細川は長年兎衣ばかりを指名してくれている客である。金をかけてもらっている分、相応の価値を提供しなければならない。
いい加減スイッチを切り替えなければと焦って甘えた声を出していたその時――。
「いらっしゃいませー」
扉の鈴が鳴る音と、店員の明るい声が狭い店内に響いた。それに続いて入ってきた人物を見て、兎衣の顔面の筋肉が固まる。
白いコートに黒いタートルの、眼鏡をかけた男。
この前嘔吐した兎衣を家まで送ってくれた人物――誠だった。




