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月落ちる森  作者: 小湊世月
Ⅲ 孤独な星の狼

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57 嗤う天狼

 雨に濡れた土の匂い。

 それは、幼い頃の記憶を呼び起こす。

 幸福で孤独。万能で無力だったあの頃の自分を。


 雷雲を不安げに見つめていた彼女も、あの大雨の夜を思い出していたのだろうか?

 僕は打ち捨てられた路地裏の、窮屈な空を見上げる。


 饐えたドブの臭い。

 学院から最も近く、比較的治安の良い街だが、一歩裏通りに入れば暗く入り組んだ道が続く。日が差すことの無い暗がりにはどんな悪意が潜んでいるのか、街の住人でさえひとりでは入らない。


 街を行き交う人々の様々な生活の臭い。

 年齢、性別、調子が良い時は出身地までだいたいわかる。知ろうと思えばそれ以上もわかる。

 例えば、数時間前に妻以外の女と楽しんでいた男とか、父親以外の男と臭いが似ている子供とか、火薬と血と油の臭いがする商人とか。幻覚作用のある葉の臭いがする娼婦だとか。

 人の臭いから知らなくていい秘密を知ってしまう。――だから獣人は忌み嫌われる。


 そして、呻きすすり泣く血の匂い。

 さっきまで威勢よく吠えていた負け犬共。


 ぼんやりと空を見上げていた僕は、片手で首を掴んで持ち上げていた男から手を離した。じたばたと暴れていた男は突然支えを失って無様に地に這い蹲る。ゴホゴホと咳をしながら蹲るその脇腹を蹴り上げて退かすと、僕は木箱の上に腰掛けた。


 改めて辺りを見回せば、立っている者はもう居ない。

 地面に伏した傷痕の男から財布を返してもらったついでに、一本だけ残った煙草を頂戴した。火打ち石のライターで火を点けると安物の粗悪な香りが鼻に抜ける。


 血の匂いで敏感になった鼻が元に戻るまではセラに会えない。湿気が多いと匂いがこもりやすい。普通にしていても彼女の首筋にふらふらと誘われることがあるのに、今近寄ったら箍が外れてしまいそうで怖い。

 こんなものでも無いよりはマシだけど……それにしても酷い臭いだ。


「……クソ不味いな」


 思わず独り言ちて、紫煙が小さく揺らぐ。

 同種族の獣人も人によって五感の鋭さは違うらしい。利きすぎる嗅覚を誤魔化すために多くの獣人が頼る煙草の煙だが、セラは苦手なようだ。


 僕も煙草に依存していたルシオンを思い出してあまり好きじゃない。どうしても辛いときに週に一本吸うか吸わないかぐらいの頻度ではあるけれど、タイミングが悪いとセラに見つかって嫌そうな顔をされてしまう。キスやハグを拒まれるのは地味に堪える。


『まーた煙草のにおいがするー! あんまり吸い過ぎると鼻がバカになるぞー!』


 そう言って僕の鼻を摘まんで、いたずらっぽく笑うセラが恋しい。……とても恋しい。

 あっという間に短くなった煙草を捨てて、僕は家屋の壁をよじ登って逃げようとする三人の男達の足を掴んでを引きずり下ろした。

 仲間を置いて逃げるなんて、群れを大事にする狼を名乗るのに相応しくないだろう?


「あまり手間をかけさせるなよ。――潰すぞ」


 影の中で魔狼が唸る。胸の中で天狼が嗤う。まだ足りないと啼く。


『飼いならせるかどうかは君次第だよ』


 誰かの声が脳裏に虚しく響いた。





 ***





 真っ青な顔で席を立ち、何かに追い立てられるようにセリアルカは勢い良く店を飛び出して行く。


「待て! 君は行っちゃダメだ! ……ああ! もう」


 遠ざかる背中に投げたヒースの声は虚しく空を切った。

 今、セリアルカをひとりにするべきではないが、命を狙われたばかりのエルミーナを、ここに置いて追いかけることはできない。

 それ程大きな街ではないし、アルファルドはそんなに遠くには行っていないだろう。すぐに合流できる筈。となれば、非戦闘員のエルミーナの避難を優先すべきだ。


 方針が決まれば行動は早かった。ヒースはテーブル下のセリアルカの荷物を手に取ると、隣で固まっているエルミーナの顔の前でヒラヒラと手を振る。


「エリー、疲れてると思うけど今すぐ駐屯地に行こう。あの馬鹿は暴れだすとヴェガ兄じゃないと止められないんだ。……途中でディーンたちと合流できれば良いんだけど」


 行き違いになる可能性もあったが、一刻を争う事態だ。手加減を知らないアルファルドが、あの無頼漢(ならずもの)たちを血祭りに上げる前に止めなくてはならない。

 それに……と言葉を重ねようとしたヒースの視界が陰る。


「なぁ、アンタらもあの女の仲間か?」


 先程の無頼漢のひとりが店に残っていたらしい。

 相手を刺激しないようにヒースはゆっくりと席を立ち、ごく自然にエルミーナを背中に庇う。後ろ手にセリアルカの紙袋を差し出すと、エルミーナはヒースの意図を理解して紙袋を受け取った。


 中身はドレス二着と靴二足なので、スプーンより重いものを持ったことがなさそうなご令嬢の腕にも、それほど重くはないだろう。


「仲間っていうか、友達だよ。それが何か?」


 ヒースは男から見えない位置でベルトに提げた短剣の柄を握りながら、相手を観察し間合いを測った。

 上背が高いため手足が長い。だらしなく着こなしたシャツから覗く筋肉の鎧に体格の違いは歴然としていたが、普段からディーンやヴェイグと手合わせをしていれば、気後れすることはなかった。


「友達ねぇ。まさか、そっちの美人も狼女か?」


 ジロジロと不躾な視線に曝されて、エルミーナは顔を顰め不快感を露わに後退る。


「まぁ、確かめてみればわかることだ。一緒に来てもらおうか!」


 エルミーナの方に踏み出した男に足を引っ掛け、男がよろめいた隙にエルミーナを店の出入口の方に押しやった。


「エリー! その場を動かないで!」


 カクカクと頷くエルミーナを安心させるように微笑むと、ヒースは転けてテーブルに突っ伏した男を見下ろした。テーブルから滑り落ちたグラスが床を叩き砕け散る。


「こッの! 優男が! やっぱりテメェらも獣人か!?」


 男は顔を真っ赤にして、素早く立ち上がるとズボンのポケットからナイフを取り出した。しかし、大きな声で凄むわりにナイフを握った手は小さく震えていて、ヒースが一歩踏み出すとじりっと後退る。


 剣筋を見ないうちに侮るのは危険だが、長々と相手にしている暇は無い。ヒースは後ろ手に半分くらい抜いていた短剣を鞘に納めると、敵意が無いことを示そうと両の掌を見せた。


「待ってよ。店の中でそういうの振り回すのは良くないよ」


「うるせえッ! 動くんじゃねぇ!」


 男がナイフを振り回したその瞬間、ヒースは身を屈めて床を蹴る。振り下ろしを掻い潜り距離を詰めると、ナイフを握った腕に自分の腕を絡めるようにして男の肩に手を添え、体重を乗せて捻り上げた。

 あらぬ方向に腕を固定され、苦悶し逃れようと暴れる男の首の後ろに肘を叩き込むと、手からナイフが溢れ落ち、同時に意識も落ちた。


 ヒースは落ちたナイフを拾い、伸びた男を床に寝かせると、店のカウンターの上にあったナプキンに、さらさらと何事かを書き付ける。

 カウンター裏に隠れていた店主が恐る恐る顔を出したので、ヒースは誰もが見惚れる美貌を駆使して愛想笑いを浮かべた。


「おじさん、店を荒らしてごめんね! 請求書はローズデイルの大公宛に送っておいて! 一筆書いたから、これと一緒にね! 今、騎士団を呼んで来るから、逃げられないようにコイツを縛っておいて」


「えっ、大公殿下? あ、ああ……」


 渡されたナプキンを見て店主はゆるゆると頷いた。


『親愛なるとっても優しいお兄様へ


 兄さんごめん!

 理由は後で説明するから払っておいて。


 貴方のとびきりかわいい弟

 クリスティアル・ヒース・クレンネル』


 癖の強い字が縦横に踊り、名前の横に下手くそな花の絵が書かれている。これが彼のサインらしい。


「お疲れ様。驚いた……。貴方本当に強かったのね」


 エルミーナの忌憚の無い感想に、ヒースは片眉を上げて首を傾げる。


「んんん〜? それ、誉めてる〜? まぁいいや。荷物は僕が持つよ。行こう!」


「ええ!」


 駆け出して行く二人を、店主は呆然と見送った。手にはまだ、ヒースに無理矢理渡されたナプキンを握りしめたまま。

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