54 過去からの悪意
大丈夫。悪意に曝されたのは初めてじゃない。そう自分に言い聞かせても耳の後ろで心臓が鼓動しているかのように、心臓がバクバクと早鐘を打つ。
心配そうにこちらを見ていたヒースは、問題無いと頷くアルに促されて店員を呼ぼうと手を挙げた。ところが、店員はこちらに来る直前に後ろの客に引き止められた。
「おい、おっさん! この店、獣クセェんだけど、野犬でもいるのか? 獣の毛が入った珈琲なんて飲めるかよ!」
わざわざこちらに聞こえるように怒鳴り散らす声はまだ若く、私たちと同い年ぐらいだろう。
――そう。たしか、あの子は同い年だった。
「ああー! クッセェー! 吐きそうだ!」
「こんな店でよく食えるなぁ! 鼻が詰まってんじゃねーの? なぁ、アンタ何ともないのか?」
彼は馴れ馴れしくアルの肩に腕を置いて絡み出す。アルの肩に置かれたその腕を見て、私は『ああ、やっぱり』と身体の芯が冷めていく心地がした。
「申し訳ございません。窓を開けて換気を……」
「ちげぇーよ! その狼女を追い出せって言ってんだよ!」
後頭部に店員の男性の視線が刺さる。
これ以上、お店に迷惑をかけるわけにはいかない。店を出ようとソファから立とうとする私を座らせて、アルは楽しそうに私の顔を覗き込む。
「へぇ〜。君、狼女だったの?」
「えっ……」
何を言っているの?
顔を上げた私の目の前で、アルの穏やかな緑の瞳に金色の光が混じっていく。
「あんたら、その女に関わると酷い目に遭うぞ。ほら見ろよこれ。この女に噛まれたせいで、俺は狼男だって疑いをかけられて酷い目に遭わされたんだぜ?」
アルが興味を示したと思ったのか、男は袖を捲りアルの前に腕を差し出した。皮膚が引き攣れ、噛み痕が生々しく残った腕に、エリーが小さく息を呑んだ。
――ああ、やっぱりあの時噛んだ男の子か。
「うわぁ酷い傷だね。……その話、詳しく聞かせてよ」
アルは席から立ち上がり、上着の内側のポケットから、見せびらかすように分厚い財布を見せる。カウンターに紙幣を置いて店の外を指して出て行く。
大金をチラつかされて目の色を変えた彼らは、下卑た笑みを浮かべてアルを追いかけてバタバタと店を出て行った。慌てて後を追おうとする私に、ヒースののんびりとした声がかかる。
「大丈夫だよ。座ってな。アルが負けるわけないでしょ?」
「それは、そう、だけど……」
私もアルが負けるだなんて思っていない。強いのは知っている。けれど……。
「セラ、噛んだら牙が抜けてしまうのでしょう? 本当にあの人を噛んだの?」
私の手を握って尋ねるエリーに、私は首肯する。
「押さえつけられて、尻尾を切られそうになって……死に物狂いで暴れた時に、思わず……」
「なんて、酷いことを!!」
エリーは優しい。
水色の瞳に涙を滲ませ、私の代わりに怒り、悲しんでくれる。
人間にあんな大怪我をさせるなんてと、詰られても仕方ないのに。
「ねぇ、それまさかアルも知ってるの? つまり……さっきのアイツが君を傷つけようとして、君に噛まれた奴だって」
噛むことになった経緯は話した。目の前に噛み傷にある腕を出されて、肝心の私はこの状態だ。私が何も言わなくても、彼だと理解しただろう。
「話したよ」
「うわぁ……それは、かなりマズイな……」
「どういうこと?」
表情を曇らせ頭を抱えるヒースに、ハンカチを鼻に押し当てたエリーが問う。その時、店全体がぐらりと揺れ、ズズズと不気味な地鳴りが響いた。天井から吊り下がる星のランプが暖色の光を散らしてゆらゆらと揺れる。
何故だろう? すごく嫌な予感がする。
そう思ったら、居ても立っても居られなかった。
「私、アルを追いかけるよ!」
ヒースの返答を聞く前に、私は走り出していた。
***
最高の一日になるはずだった。やっと僕からのプレゼントを受け取ってくれて、あんなに幸せそうに笑ってくれていたのに。幸福な時間は一瞬にして砕け散った。
――いつもそうだ。僕の幸福をルシオンは許さない。
尾行されている時に先手を打っておくべきだった。彼女の見えないところで処理しておくべきだった。
まだ甘い。もっと冷徹にならなければ。もう二度と失敗できないのだから。
「なぁ、もうこの辺でいいだろ?」
ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる男に、いちいち返答するのも億劫で、答える代わりに足を止めた。
下町の路地裏の高い壁に囲まれた行き止まりで、いつの間にか増えている男たちを振り返った。
「さぁ何を聞きたいんだ? 情報料は高くつくぜ? へへへ……」
「……尻尾を切ろうとしたのも君かい?」
短く問えば、腕の噛み傷をチラつかせながら、隣の柄の悪そうな男を指す。
「いいや、それはコイツ。あの獣のせいで頭に大怪我をしてな……って、アンタ知ってたのかよ」
なるほど。覚えたくはないが顔を覚えた。お前ら二人は念入りに殺す。
「情報料は高くつくって言ったろ? なぁ、恵まれた貴族の坊ちゃんにはわからないだろうが、俺たちは危険な害獣を駆除するという尊い仕事をしているんだ。害獣の被害から救ってやったんだから、それなりの礼ってもんがあるだろう?」
胸ぐらを掴まれて凄まれたが、その程度でビビる筈もなく。僕は相手の出方を窺う。僕の上着の内側のポケットから財布を抜き取ろうとするので、その手を掴むと反対側の拳で頬を殴られた。
わざわざ見える場所を殴るなんて、救いようの無い馬鹿だな。
抵抗せずに殴られてやったことにも気付かず、暴力で支配したと勝ち誇ったような顔をされたが、撫でられるのと大して変わらない威力の打撃で、何を誇らしそうにしているんだろう?
僕に不愉快な思いをさせたいだけなら、その目論見は成功と言えるが。
「これはアンタを狼女の毒牙から救ってやった礼金として預かっておく。返して欲しければ、その綺麗なツラであの女をおびき出せ」
「……はぁ、顔で釣れれば苦労はしないんだけどね」
呆れて思わずぽろりと愚痴をこぼす。
「あ? もしかしてアンタも獣人女の牙と血を狙ってんのか? あの女は、俺たちが先に目をつけたんだ。横取りはさせねえ!」
更にもう一発、今度は反対側を殴られそうになったので、その腕を思いっきり掴んだ。
今、なんと言った? 獣人女性の失踪事件と関わりがあるのか……?
冷静でいられたなら、それを追求するべきだったのだろうが、聞き捨てならない言葉に怒りで目の前が真っ赤になった。ミシミシと指が腕に食い込む程の力に、男は苦悶の表情を浮かべる。
「目をつけたのは僕の方が先だよ。先祖の代から狙ってたんだ。横取りはお前らの方だ」
ねえ、セラ。君が知ったら、きっと僕を軽蔑するだろう。
でもそれは、エリオット・リーネという男がレグルス・セシルの前に現れた時よりも、ずっとずっと前から始まっていたんだ。
月女神の一族には何代かに一度、必ず狼女が生まれる。リーネ家の人間に関わり続ければ、いつか必ず狼女に行き着くと僕らは知っていた。
――君の運命に纏わりつくのは、そういうバケモノだよ。セラ。
「は、手を離せ!」
お望み通り腕を掴んだまま片手で軽く捻り、ポイと投げ捨てると、男は路地裏に積み上げられていた木箱に背中から突っ込んだ。盛大な音を立ててガラガラと木箱が崩れる。埋もれた男は手近にあった角材を掴んだ。
「お前ッ……生きて帰れると思うなよ!? お前の死体をぶら下げてあの女を誘き出してやる!」
角材を手に殴りかかってきたので、昏い笑いがこみ上げる。
木が僕を傷つけるわけないだろう?
僕の頭に当たる前にへし折れた角材を見て、信じられないという顔で固まる彼に問いかけた。
「害獣と言ったが、どうして狼が恐れられているのだと思う?」
「しっ知るかよ! 人を襲うからだろう!?」
「不正解」
先程のお返しに打撃とはこういうものだと男の右頬に拳を叩きこむと、加減を間違えたか壁まで吹っ飛んで気を失ってしまった。
続いて、ナイフを手に突っ込んで来た男を、躱しざまに腹に膝を叩き込む。その場に崩れ落ちて無様に胃の内容物を吐き出した男の髪を掴んで、地面に叩きつけた。
雄叫びを上げて背後から鉄のバールを振りかざして殴り掛かってきた別の男を蹴り倒して、顔を掴んで壁に投げつける。その隙を狙って死角から放たれた風の刃を同等以上の魔力で弾き返せば、術者に跳ね返り鮮血が舞った。
これで四人。漂う血の臭いに興奮して笑いが止まらない。
「や、やめろ! 来るな!」
仲間の惨状を目にして恐怖を覚えたのか、残りの連中が路地を引き返そうと数歩走って止まる。袋小路に入ってきた筈の道は無く、道幅いっぱいに黒い大木が生えていた。
退路を断たれた袋の鼠は、絶望の表情でこちらを振り返る。
「狼の群れの結束は固い……家族や群れの仲間を虐げた奴を、地の果てまでも追いかけて八つ裂きにするからだよ」




