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光りの音

作者: 星渡晶
掲載日:2026/04/02

人生に疲れたサラリーマンと、盲目だけど前向きな女性の出会いと別れの物語。全六話完結。※執筆にAI補助を使用しています。


この物語は、音と光りと、ふたりの小さな時間の話です。

最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

           星渡晶

第一話「夜の音」

十一月の風は、言い訳みたいに冷たかった。

田中晃太は公園のベンチに座ったまま、スマートフォンの画面を見つめていた。終電は十分前に行ってしまった。タクシーを呼ぼうとして、アプリを開いて、そのまま閉じた。帰る気力が、どこかに落ちてきていた。

三十二歳。営業成績は悪くない。上司には評価されている。それなのに、なぜこんなに、息をするのが重いのだろう。

ベンチの木が、冷えて固くなっていた。それでも晃太は立ち上がれなかった。

コツ、コツ、コツ。

規則正しい音が近づいてきた。石畳を叩く、白い杖の音だった。

女性だった。晃太より少し年下に見える。マフラーを首に巻いて、迷いのない足取りで歩いてきた。そして晃太のベンチのそばで、ぴたりと止まった。

「そこ、座ってもいいですか」

声は、思ったより明るかった。

晃太は少しずれて、場所を作った。言葉は出なかった。

女性はありがとうございます、と言って、隣に腰を下ろした。白杖をまとめて膝の上に置く仕草が、慣れていた。

しばらく、沈黙が続いた。

晃太は彼女をちらりと見た。目を閉じているのか、開いているのか、暗くてよくわからなかった。ただ、表情が穏やかだった。こんな深夜の、冷えた公園で、なぜそんな顔ができるのか。

「……一人で、大丈夫ですか」

気づいたら、口が動いていた。

女性は少し首を傾けた。

「私がですか?」

「あ、いや、」晃太は言葉に詰まった。「暗いので」

女性は、ふっと笑った。

「私にはあまり関係ないので」

晃太は黙った。しまった、と思った。でも女性は気分を害した様子もなく、公園の暗がりのほうを向いた。向いた、というより、そちらに耳を澄ませているようだった。

「夜の公園って、音がきれいですよね」

晃太は、聞き返せなかった。

風が木の葉を揺らす音。遠くを走る車の音。どこかで水が流れている音。ずっとそこにあったはずなのに、今の今まで何も聞こえていなかった。

「……そうですね」

それだけ言うのが、精いっぱいだった。

女性は満足そうに小さく頷いて、白い息を吐いた。

晃太はその横顔を、ぼんやりと見ていた。ただ、さっきまで膝の上に置いていたスマートフォンを、そっとポケットにしまった。

夜の音が、少しだけ近くなった気がした。


第二話「いつもの席」

昼休みの十二時半、晃太は会社の近くのカフェに入った。

特に理由はなかった。いつもはコンビニで済ませるのに、今日はなぜか足が別の方向に向いた。疲れていたのかもしれない。あるいは、あの公園の夜からずっと、何かが少しだけ変わっていたのかもしれない。

ドアを開けると、コーヒーの香りが広がった。

席を探して店内を見渡したとき、晃太は思わず足を止めた。

窓際の一番奥の席。白い杖が、テーブルの脇に立てかけてあった。

あの夜の女性だった。

マフラーの代わりに薄手のカーディガンを羽織って、両手でカップを包むようにして持っていた。店員の女性と何か話していて、声を立てて笑っていた。あの夜と同じ、迷いのない笑い方だった。

晃太は注文を済ませてから、少し迷って、彼女のテーブルに近づいた。

「……すみません」

女性がぴたりと動きを止めた。それから、ゆっくりと顔をこちらに向けた。

「あ」

一秒の間があって、女性は笑った。

「夜の公園の人だ」

晃太は少し拍子抜けした。「よくわかりましたね」

「声、覚えてます」女性はカップを置いた。「あと、足音も少し」

「足音まで」

「座りますか?」

晃太は向かいの椅子を引いた。

「そういえば」女性は少し笑った。「名前、聞いてなかったですね」

「田中晃太です」

「田中明希です」明希はおかしそうに首を傾けた。「同じ田中ですね」

「他人じゃない気がする」

明希はふふ、と笑った。

「ここ、よく来るんですか」と晃太が聞くと、明希は「ほぼ毎日」と答えた。「この席、端っこで落ち着くので。店員さんも親切だし」

「一人で来るんですか」

「はい。一人の方が気楽で」明希は少し首を傾けた。「変ですか?」

「いや」晃太は首を振った。それから、彼女には見えないことに気づいて、「変じゃないです」と声に出した。

「晃太さんは? 今日はどうしてここに?」

「なんとなく」

明希はふふ、と笑った。「なんとなく、いいですね」

窓の外を、薄い雲が流れていった。晃太はそれを見ながら、なんとなくという言葉が、久しぶりに嘘じゃなかったような気がした。

コーヒーが運ばれてきた。湯気が細く立ち上って、消えた。

「また来ますか? ここ」明希が聞いた。

晃太は少し考えた。

「来ると思います」

明希は満足そうに頷いて、またカップを両手で包んだ。

窓から入る光が、彼女の横顔を柔らかく照らしていた。


第三話「希望と恐怖」

それから、晃太は週に三回はそのカフェに行くようになった。

示し合わせたわけじゃない。ただ気づくと足が向いていて、明希はたいていそこにいた。同じ席、同じカップ、同じ笑い方で。

話すことは他愛もないことばかりだった。天気のこと、仕事のこと、明希が好きだというラジオのこと。晃太はいつの間にか、昼休みが来るのを待つようになっていた。

その日も、晃太はいつもの席に座った。

明希はコーヒーを半分ほど飲んだところで、少し黙った。珍しかった。明希が会話の途中で黙ることは、ほとんどなかった。

「どうしたんですか」

明希はカップをゆっくりソーサーに戻した。

「実は」と、いつもより少し低い声で言った。「手術の話が出てて」

晃太は黙って続きを待った。

「目の、手術です。うまくいけば、見えるようになるかもしれないって」

窓の外で、風が木の枝を揺らした。

「それは」晃太は言葉を選んだ。「良かったじゃないですか」

「そうですよね」明希は笑った。でもいつもの笑い方じゃなかった。「みんなそう言います」

「でも?」

明希は少し迷うように唇を動かした。

「怖いんです」

晃太は何も言わなかった。

「見えない世界に、慣れすぎてて。音とか、風とか、匂いとか、そういうもので全部わかるようになってて。それが急に変わったら、私どうなるんだろうって」

カフェの中は静かだった。食器の触れ合う音だけが、遠くで聞こえた。

「見えることが、怖いんですか」

「変ですよね」

「変じゃないです」

明希が少し顔を上げた。晃太の方を向いた。目は合わないけれど、確かにこちらを向いていた。

「俺も怖いものがあります」晃太は言った。「変わることが。今のまま、ずっとこうしてた方が楽だって思うことが、ある」

明希はしばらく黙っていた。

「晃太さんも、そういうことあるんですね」

「あります」

「なんか」明希はゆっくり息を吐いた。「少し、楽になりました」

窓から光が差し込んで、テーブルの上で白く広がった。明希はその光の中に手を置いたまま、静かにしていた。

晃太は初めて、この人のために何かしたいと思った。何ができるかはわからなかった。それでも、そう思った。


第四話「そばにいます」

明希が手術を受けると決めたのは、それから二週間後のことだった。

いつものカフェで、いつものように向かい合って、明希は「やってみようと思います」と言った。声は落ち着いていた。でも指先が、カップの持ち手を何度も撫でていた。

「決めたんですね」

「はい」明希は小さく頷いた。「怖いのは変わらないけど、怖いまま決めてみようと思って」

晃太はその言葉を、しばらく胸の中で転がした。怖いまま、決める。自分にはできないことだと思った。いつも怖くなると、何もしないまま時間が過ぎていった。

「手術の日」晃太は気づいたら口を開いていた。「そばにいます」

明希の指が止まった。

「……なんでですか」

なんで、と聞かれて、晃太は答えに詰まった。理由を考えようとしたけれど、何も出てこなかった。ただそうしたかった。それだけだった。

「なんででしょう」

明希はしばらく黙っていた。晃太は少し恥ずかしくなって、余計なことを言ったかと思い始めた。

でも明希は笑った。

今度は、いつもの笑い方だった。

「変な人ですね、晃太さんって」

「すみません」

「謝らなくていいです」明希はテーブルの上に手を置いた。「嬉しいので」

晃太はその手を見た。細くて、でも白い杖を毎日握ってきた、強い手だと思った。

そっと、自分の手を重ねた。

明希は驚いたように少し身じろぎした。でも手を引かなかった。

窓の外では、冬の終わりの風が通り過ぎていった。もうすぐ春が来る。晃太にはそれが、今年初めて、悪くないことのように思えた。

「怖かったら」晃太は言った。「手、握っていいですよ」

明希はしばらく何も言わなかった。


第五話「光りの中で」

手術当日の朝は、よく晴れていた。

晃太は病院の待合室の椅子に座って、膝の上に置いた手を見ていた。何もできることはなかった。ただ待つだけだった。それでも、ここにいなければならない気がした。

手術は三時間かかると言われていた。

晃太は自販機でコーヒーを買って、また椅子に戻った。飲まないまま、缶が冷めていった。

会社には有給を使った。上司には理由を言わなかった。友人の付き添い、とだけ言った。友人、という言葉が自分でも少し可笑しかった。明希は友人なのか。それとも、もっと別の何かなのか。晃太にはまだうまく言葉にできなかった。

二時間半が過ぎたころ、看護師が来た。

「田中明希さんのご関係の方ですか」

「はい」と晃太は立ち上がった。

「手術、うまくいきました」

晃太は息を吐いた。自分がどれだけ緊張していたか、その瞬間初めてわかった。

明希の病室に通されたのは、それからしばらく後だった。

目にはまだガーゼが当てられていた。明希はベッドの上で半身を起こして、晃太の足音を聞いて顔を向けた。

「来てくれてたんですね」

「ずっといました」

明希は小さく笑った。「知ってます。足音でわかりました」

晃太は椅子を引いてベッドの横に座った。

「痛くないですか」

「少し。でも大丈夫です」明希はガーゼの当たった目に、そっと手を当てた。「先生が、見えるようになるって言ってました」

「良かった」

「怖かったけど」明希は静かに言った。「晃太さんがいてくれたから、できた気がします」

晃太は何も言えなかった。窓から午後の光が差し込んで、明希の横顔を柔らかく包んでいた。

ガーゼが取れるのは、一週間後だった。

その日、晃太は朝一番に病院に来た。医師がゆっくりとガーゼを外していく間、晃太は部屋の隅で息を止めていた。

明希がゆっくりと目を開けた。

最初は眩しそうに細めて、それから少しずつ、世界を確かめるように瞳を動かした。白い天井、白い壁、窓から見える空。

それから、晃太の方を見た。

初めて、目が合った。

明希の瞳は、光を映して揺れていた。

「晃太さん」と明希は言った。声が少し震えていた。「そんな顔してたんですね」

晃太は笑った。泣きそうになるのを、笑ってごまかした。

「どんな顔ですか」

「優しい顔」明希は目を細めた。「思ってた通りでした」

窓の外で、春の風が木の枝を揺らした。光りが、部屋中に満ちていた。


最終話「光りの日」

退院して一週間が経った日曜日、明希から連絡が来た。

「どこか、連れて行ってもらえませんか。目で見たい場所があって」

晃太はすぐに返信した。「どこでもいきます」

明希が選んだのは、海だった。

電車で一時間ほどの、小さな海辺の町。混んでいない、静かなところがいいと明希は言った。晃太は前日に調べて、人が少ない浜辺を見つけた。

当日の朝、駅の改札で待っていると、明希が来た。

白い杖は持っていなかった。それだけで、全然違う人みたいに見えた。でも歩き方は同じで、声も同じで、笑い方も同じだった。

「晃太さん」明希は晃太の顔をまっすぐ見た。まだ少し、眩しそうにしていた。「今日はよろしくお願いします」

「こちらこそ」

電車の中で、明希はずっと窓の外を見ていた。流れていく景色を、飽きることなく目で追っていた。晃太はその横顔を、時々盗み見た。

「全部、初めて見るものばかりです」明希は窓を見たまま言った。「電柱も、空も、雲の形も」

「きれいですか」

「きれいです」明希は晃太の方を向いた。「晃太さんも」

晃太は何も言えなかった。

浜辺に着くと、風が強かった。冬の終わりの、冷たくて透明な風だった。砂浜には他に人がほとんどいなくて、波の音だけが続いていた。

明希は砂浜に出た瞬間、足を止めた。

海を見ていた。

どこまでも続く、青い海を。

「こんなだったんですね」明希は小さく言った。「ずっと音だけ聞いてた」

波が来て、返っていった。

「晃太さん」明希が言った。「出会ってくれてありがとうございます」

「俺の方こそ」晃太は言った。「あの夜、公園にいてくれて良かった」

明希は笑った。それからそっと、晃太の手を握った。

晃太も握り返した。

2人は並んで、しばらく海を見ていた。波の音と、風の音と、どこかで鳴く鳥の声。明希がずっと愛してきた、世界の音。

帰り道、駅に向かう細い道を2人で歩いていた。

明希が空を見上げながら言った。「春の光りって、こんな色なんですね」

晃太も空を見た。薄くて、やわらかい、金色の光りだった。

その瞬間だった。

音が、した。

晃太が最後に感じたのは、握った手の温かさだった。

明希が最後に見たのは、春の光りだった


病院の廊下に、夕方の光が差し込んでいた。2人のことを知る人は少なかった。でも、あのカフェの窓際の席には、しばらくの間、2つのカップが並んで置かれていた。

店員が、そっとそのままにしておいた。


晃太と明希の物語を最後まで見届けてくださった方へ、心から感謝します。

2人はきっと、しあわせでした。

この話が、あなたの日常に少しでも光りを届けられていたら嬉しいです。

               星渡晶

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