宝石の記憶《整備場》
幼い日の思い出、凛は桜の自宅の庭で水浴びに興じ、そこで思わぬ怪我をする。だが、彼女の記憶は暖かく刻み込まれていて決して不快なものではない。男女の意識がない時代の甘くて懐かしい記憶がよみがえる。
整備場駅迄の距離は更に短く感じられて乗降客が居なかったのはほぼ羽田空港職員専用と言っても良いのではないだろうか。大小の航空機が並んでいるのがちらりと見えた後、モノレールは駅のホームに到着し、慌ただしく発車した。凛はその視線を外に向けると広い敷地の中に点在する航空機が一瞬見えた後、車体は地下に潜り込み車内は一瞬闇に包まれた。
その中で巻き戻された記憶……かなり幼くひょっとしたら凛が認識している一番古い記憶かも知れなかった。それは紗久良との思い出……真夏の太陽が振り注ぐ昼下がり、紗久良自宅の庭に準備されたまん丸ビニールプール。紗久良の母が子供達の暑さ凌ぎの為に準備したもので、凛と紗久良が生まてからママ友になって依頼家族ぐるみでのお付き合いとなって以来の恒例行事。芝生の緑が眩しくて太陽の輝きに負けない主張をする中で、紗久良と凛は楽しそうに水と戯れる。
塀に囲まれた庭だから通りからほとんど中を覗き見ることは出来ない環境と言う事もあるが、ただ単にめんどくさいから等々、理由は様々あるのだが紗久良と凛は裸で何も着ていない。しかし二人はそれを全く意識していない。この年頃に性別と言う羞恥心は存在しないのだ。いや、逆に裸でいる事が嬉しかったりもする。服を着ている時よりもその動きは活発で、解放された状態を楽しんでいる様にも見えた。そして二人の母は二人を追いかけるのに四苦八苦する。子供の動きは大人が想像するよりも遥かに素早くて予想外の動きをするから水に触れているときには普段よりも慎重さを尖らせなければならないのだがそこは自宅の敷地内、勝手知ったると言う思いの方が上回ってしまうから油断が先走る。何も起こらない確率の方がはるかに高いから、のんびりとした時間を過ごせばそれで良いのかも知れなかった。
……しかしその時、凛がやらかした。
尋常ではない激しい泣き声が庭中に響き渡る。のんびりと談笑していた二人の母はそのあまりの異常で悲鳴にも似た泣き声に一瞬何が起こったのか理解する事が出来ず、それがどこから発生しているのさ察知出来ず、同時に周りを見渡した。その異常を最初に捉えたのは紗久良の母だった。その視界に映り込んだのは左の米神の少し上から赤い物を滴らせ、芝生の上に両脚を投げ出し大泣きしている凛の姿とそれを呆然と見下ろす紗久良の姿だった。
真っ赤な流れは米神から頬を伝い顎の先から芝生に滴り陽の光に照らされて邪悪に輝いてみせる。紗久良の母は脊髄反射で凛に飛び付くと左の米神見てからその視線を泣きじゃくりだらりと下げた左手のあたりを見詰めた。そこに落ちていたのは透明なガラスの破片。窓ガラスに使われていたものだろうか、厚さはそれ程でもない小さな破片は、ぱっと見た目ではその存在に気付く事が難しい物だった。ただ、紗久良の家でここ最近、窓やコップ等を含めてガラスを破損した記憶はない。だとしたら外から持ち込まれた物だろうか。
原因は色々と考えられるが紗久良の母はそれに気付けなかった事実に激しい責任を感じ、背中をざわざわとした感覚が駆け抜けると同時に気が動転し、その後の行動が出てこない、しかし凛の母は座っていた椅子からゆっくりと立ち上がると優しい笑みを浮かべながら傍にあったティッシュの箱からペーパーを多めに取り出すとそれを手に凛の傍に歩み寄りそれを当てながら彼を静かに抱き上げた。
「男の子は傷のひとつふたつは気にしないの」
抱き上げられて母の心臓の鼓動を感じたからだろうか凛は程なくして泣き止み、暫くその腕のなかで過ごした。その時の温かさが凛の心に刻み込まれて彼女の一番古い記憶となってのだ。
左の米神の辺りを穴が開くほどよく見ると、その時の傷が今でも残っているのが分かる。凛は思わずそこに左手の中指を当てほんの少し盛り上がった傷跡を確認した。そして思った……。
「傷があって良いのは……男の子だよね…」
母の言葉に思わず茶々を入れながらあの時の温かさを思い出す。女の子になった凛、しかし母の柔らかさは今の彼女にとって無くてはならない、不安を魔法の様に吹き飛ばしてくれる力になってくれる。紗久良との距離が途方も無い物になってしまった今、最後に頼れるのは母の様な気がした。その思いからはいつか卒業しなければならないと思いつつも暫くはそれに甘えようと思った、そしてそれは決して恥ずかしいことではない、人は何かに支えられないとまっすぐに歩けないのだ。
学校のカリキュラムで習う性に関する授業は妊娠・避妊・性感染症・同意・こころの健康に関しては男女合同が基本ではあるが、思春期の身体の悩みを話しやすくする為に男女分かれての授業もある。凛の通っていた中学もこのパターンだったから『男子だった』凛が女子の身体のことなど微塵も知らないのは当然のことだった。男子にとってそれはある意味ブラック・ボックス的な知識なのだ。しかし凛の場合、そんな事を言っている場合ではない、下手をすると生活に支障をきたして立ち行かなくなってしまう可能性があるのだ。だから母は自分の持てる知識と経験全てを余すところなく全て凛に伝えた。
自分の経験を話す母に翳りや躊躇いは微塵も無く堂々と、そして女性としての誇りを纏っていた。男女の差別は絶対にいけない、有ってはならない事ではあるが『区別』はそれと同じ位必要であることも同時に語った。凛の女子としての思考の骨格は母の言葉が大きく影響しているのだ。
それは女の子としての生活をスタートした頃の思い出だった。男の子として一番古い記憶は怪我の思い出、女の子としての一番古い記憶は母が語る柔らかだけど率直な母の経験を話す表情。
二つの思い出は、凛が一生大切にしまっておける大切で、堂々と話せる記憶だった。ただ母が語る時、それが遠い記憶を辿る様な表情を見せたのが凛には少し淋しく感じたのは母の時間を自分のために削らせてしまったのではないかと言う罪悪感だった。しかし母の未来は凛そのものなのだから後悔など有る筈もなく、いや、そんな事を思い理由すら思い付く事は出来なかった。
社内は地上に出ると光を取り戻しモノレールは首都高速湾岸線と暫く並走し、それから別れると特徴的なデザインの昭和島駅に滑り込んで行った。




