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振り返るには《天空橋駅》

歴史の授業で凛は教師の昭和の思い出を聞いたことを思い出す。その延長線上に紗久良の姿が思い浮かぶ。彼女は留学先で何を纏い、どんな変貌を見せるのだろうか……

 第三ターミナルから天空橋駅迄の距離は比較的短く感じられたのは地下に潜ってすぐの場所にあるからだろうか。車体は停車したが乗降客はほとんどいない。空港関連の職員やビジネスワーカーがユーザーの大半を占めるからか時間帯によって混み具合にかなりばらつきが有る駅だった。そして、駅を出発したモノレールはすぐに地上に出た。


 少し大きめに揺れたモノレールの車窓から、ちらりと凛の視線に入ったのは『大井競馬場』の外観だった。


 勿論、未成年だし父親には競馬の趣味がなかったから連れて来られた記憶も無いし中に入った事もない。しかし、視界に入ったスタンドや照明設備の雰囲気は大人が引き込まれそうな雰囲気を醸し出して、正直上品とは言い難い外観では有るが、好奇心を擽るには十分な雰囲気が感じられた。そして今、紗久良が向かっているのはその競馬の発祥の地イギリスである事に凛は奇妙な偶然性を感じた。


 彼女は向こうで暮らす間にそれを体験するのだろうか、だとしたら何を学ぶのだろう。華やかな雰囲気に憧れるのだろうか、それとも動物に対する親密感を抱くのだろうか……それとも何も起こらないのか。ノーブル・ドレス姿で微笑みながら、そして気品を振り撒きながら緑溢れる競馬場を闊歩かっぼする紗久良の姿を思い浮かべてしまったが、その様子が妙に不自然に感じたのは、彼女の内面を理解できていなかったからかも知れない。


「……そう言えば」


 凛はそこまで呟いてから口を噤む。彼女が思い付いた事はそれ程大したことではない、最近、犬と猫と鳥以外の動物を生で見ていない、そう思っただけだった。まして、本物の馬など十年単位で見ていないし触れてもいない。それは現代人なら当たり前の事ではないか。そもそも、家の近所に大型の動物、哺乳類にせよ爬虫類にせよ両生類にせよ、そんなのが徘徊していたらテレビ番組の格好のネタになり、取材陣が押し寄せて大騒ぎになるだろう。学校の歴史の授業で先生が雑談交じりに話したエピソードが思い起こされる。


 昭和の時代、先生が子供の頃の話だそうで当時は町中に馬の姿が意外と頻繁に見られてそうだ。そして先生曰く「馬は法的には軽車両である。従って飲酒状態での騎乗は飲酒運転となり、夜間の運行には灯火が必要なのである」


 と、話したところで教室にさざめきが走り、一人の生徒が手を上げ質問する。


「先生、夜、馬に乗る時は馬にヘッドライトつけないといけないんですか?」


 その質問に教師は苦笑いでこう答えた。


「ん、まぁ、理屈ではそういう事になるのだが、馬は自力で発電する事など不可能だろう、その辺は柔軟に考えても良いのでないのかな。みんなが自転車に乗る時のことを考えて見て欲しいのだが」


 その言葉に一瞬の沈黙の後質問した生徒が応える。


「あ、なるほど、自転車のライトって前を照らすよりも自分の居場所を知らせる役目的なとこのほうが大きいですもんね」

「ふむ、そのとおりだね」


 遠い昔話になってしまったエピソードだが、この先生が子供だった時代には道に馬がいることに違和感はなかった。いや、むしろそれが当たり前でトラックとほぼ同列扱いで頻繁に見られた風景だった。しかしそれと同じような光景を見られる国は世界を見渡せは数えきれないほど現代でも存在する。事実、紗久良が向かったイギリスの警察組織には「騎馬隊(Mounted Branch)」があり、ロンドン警視庁(Met Police)に正式に所属している。日本だって皇宮警察に皇室関連の儀礼で馬を扱う部門があり、儀仗としての役割を果たしているからそういう意味では街の風景から馬が消えてしまった訳ではないがそれは極めて珍しい風景でよほど運がよくなければそれを目にすることは出来ないのが現実だった。


 ……だからどうしたという訳ではない、それはノスタルジックな風景でしかなく過ぎ去った時間に溶け流れ去った風景で一部の大人の心の奥底にしまわれた懐かしさだった。そう思った時、凛の胸の中を不思議な感覚が締め付ける。


「……思い出」


 言ってしまうとの言葉は凛の歳には似合わなかった。思い出年月を重ねて振り返ることが出来る厚みが必要な訳で、彼女がその言葉を口にするには少し詰み重ねたページが少し……いや圧倒的に足りなかった。彼女にとって今はリアルで血の通う現実であり、思い出を語るための経験を積み重ねるための貴重な時間。それを振り返るにはまだ早くて前しか見えない筈なのだが、自分の横が寂しくなってしまった今、ちょっとだけ紗久良が埋めていた空間を懐かしんでも良いのではないかと思った。


 朝のまだ早い時間で出勤時間からは少し外れた中途半端な朝、車内は比較的空いていて乗客の密度はそれ程高くはない。もしも早朝のラッシュ時間帯だったらこんなことは思わなかったかも知れない、胸を締め付けられるよりも体が締め付けられて切ない思いに浸るなど出来なかっただろう。ただ、どちらが時運に訪れたとしてもそれは『試練』と言う感じ二文字で表せる、どちらが自分に降りかかったとしても辛いことには変わりがなかった。

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