前野作戦
触らぬ神に祟りなしとは言うが、虎穴に入らずんば虎子を得ずとも言う。
何もしなければとばっちりを受けることはないが、何もしなかったのだから得られるものもない。一見、矛盾を生み出すようなことわざだが、その実とてもシンプルなことを言っているだけである。世の中、何のリスクもなく手に入れられるものはなく、たとえばおにぎりひとつでも、200円弱という代価を支払う必要がある。
とどのつまり、世の中大事なのはリスク管理と覚悟、そして見極める能力ということだ。
「……ぬぬぬぬぬ」
指を組み、唸る顔つきはどこか怖い。
「どうした光輝。うんこでも我慢してんのか」
顔面蒼白一歩手前の友人、前野光輝に声をかける。自分の席に腰を降ろし、がちがちに固まっている前野は瞳だけ上げた。
「いや、今日は快便だった」
「じゃあ、何があったんだ」
「正確には、これから何かがあるんだ。過去のことなら俺は、もう終わったことだと吹っ切れている」
「俺にはわかるぞ、光輝の気持ち」
言いながら、今し方登校したとカバンを手に持ち、三浦の肩に手を置くのは、友人の岡部大志だった。岡部も前野に負けず劣らず、かなり苦しそうな顔をしている。
「どんだけデカいのが出たんだ」
「そっちの気持ちじゃねぇよ」
岡部は誰も座っていない前野の前にある席の椅子を引き、背もたれを前にして座る。
「彰くんは頭が良いからわからないかもしれないけど、ふつう、中間テストってのは、一般生徒にとって地獄の一週間なんですよ」
憎まれ口を叩かれた。
新生活が始まり、高校生となって早一ヶ月。4月はあっと言う間に過ぎ去っていた。知らない校舎、知らない教師、知らないクラスメイト。人間関係やクラス内での自分の立ち位置、部活に授業と慣れることだけで精一杯だった4月を乗り切ったと思えば、5月になってすぐ、中間テストの通告。そして今日から一週間が、中間テストだった。
月曜日は憂鬱と言うけど、今日に限ってはその憂鬱が何倍にもなっていることだろう。
「べつに、早く帰れるからよくないか? 部活もないし、午前で終わるだろ?」
「はぁー。これだから頭がよくて勉強ができて、サッカーもできて顔もよくてモテるやつはダメなんだよ」
「あれ、なんだか気持ちがいいぞ?」
ダメだしと呆れた口調と反する内容を耳にした気がする。三浦は痛くも痒くもなかった。いや、むず痒かさはあったかもしれないが。
「俺たちみたいに勉強が嫌いでできないやつは、テストの三文字で頭痛がするんだ。開始の言葉で破裂するんだ。解きなさいの命令形に歯を食いしばり拳を握りしめるんだよ」
「テストって言ってもなあ……授業を真面目に聞いて、家帰ってから復習すれば問題ないだろ? 授業を抑えてれば、八十点ぐらいは取れる」
たまに意地の悪い教師だと、授業で習っていない、教科書に載っていない問題が出てきたりもするが、そのときは不運だったと思うしかない。大半は授業で教師が答えをしゃべっているのだ。
三浦は定期テストに、特別忌避感を抱いた覚えはない。
「お前のふつうは世の中のふつうじゃないんだ! 家に帰ってから復習だと? できるはずがないだろ! 授業を真面目に聞く? できるはずがないだろ!」
「まあ、たしかに。それはそうか……」
と、一瞬納得しかけたが。
「いや、授業は真面目に聞けよ。寝てるのが悪いだろ」
クラスメイトなのだから、普段前野も岡部もどういう態度で授業を受けているのか見えている。何なら付き合いは中学からだ。その頃から、居眠りは頻繁にしていた。
家に帰ってから復習するのは三浦にとってはふつうではあるが、誰しもがそうでないことぐらいはわかる。ただ、学校にいる間、授業ぐらいはまともに聞くのがふつうである。それは岡部もわかっているだろう。泣きついてきた。
「うわぁん彰くん! 何か一発逆転のチャンスないですかぁ!?」
「あるはずないだろ」
「ここから入れる保険はないんですかぁ!?」
「ない。どっちも積み立てが大事」
「暗記パンでいいから出してよ~」
「妥協のラインが高すぎるな」
すると、バンと机を叩いて、前野は立ち上がった。便意を感じたのだろうか。トイレにでも行くのだろうか。それともすでに時遅しで、保健室だろうか。
「お前ら……今日が何の日か、忘れてないだろうな!?」
背景には轟々と燃える炎が見える。村を焼かれた鬼のような顔をした男に、忘れたと言えるはずがない。
「今日は、俺メインの作戦日だろ!?」
ああ、そんなことも、日曜日の部活帰りに話したな、と三浦は思った。同時に、今日だったか? とも。
「なら、光輝のあの顔はべつにうんこを我慢しているのでも、テストに身構えていたわけでもないんだな?」
「ああ、安心しろ、彰。どっちも捨てた」
「いや捨てないで? うんこ捨てたってどういうこと? ちゃんと袋に包んで持って帰ったんだよな?」
「俺はペットじゃない!」
「うんこ捨てるようなやつは人間でもないと思うぞ!?」
岡部が三浦の肩を優しく叩いた。落ち着けと言わんばかりに首を横に振っている。それをする相手は間違いなく前野だろう。
「ここまでの覚悟を見せたんだ。友達として、一肌脱いでやろうと思わないのか? 俺もたったいま、光輝の決意に本気にさせられた。テストなんかやってる場合じゃねぇ。ぜんぶ捨ててやる!」
「一肌脱ぐのはいい。でも人間としての恥は捨てるなよ? ここに爆弾を捨てるなよ? トイレでしろよな、頼むから」
「なにをビビってんだ彰!」
「お前らとは縁を切る!」
ぎゃいぎゃい騒いでいると、
「朝から元気だね~」
あははっ、と笑いながら女子が声をかけてきた。早瀬と佐々木だ。
三浦たち男子三人の目が自然と横へ動き、視界には教室の扉も入る。後ろ側の扉から、新たな女子が入ってきた。前野の顔色が変わる。わかりやすく照れた顔をする。三浦は背中を押された。
「頼むぞ三浦!」
「なんで俺なんだよ、自分で行けよ」
「先陣を切るのはお前だ。顔はいいから、顔だけはいいから、女子からも好印象だ。断るやつはいねぇ」
「俺のいいところは顔だけなのかよっ」
「おう!」
元気よく返事される。言い返す気力もなかった。
軽く嘆息して、三浦は襟元を正す。自分の席につき、カバンを横に引っ掛け、参考書を開く女子に近づいた。
三浦彰は自他共に認めるほど、顔がいい。爽やかイケメンと巷では言われている。男女共に友人はいるし、誰相手でも気まずくなく過ごせる自信があるし、勉強にも部活にも手は抜かない。クラスカースト的には、三浦彰含むグループが頂上にいるだろう。発言力があり、三浦が言えば賛同する者も多い。
その三浦のグループというのが、三浦の他にさっきまで大声でしゃべっていた前野と岡部。ふたりとは中学から一緒で、高校でも三人でサッカー部に所属している。そして早瀬と佐々木とも、よく連んでいる。あと、もうひとり。
「倉賀野さん、ちょっといい?」
「……うん、なに? 三浦くん」
参考書から顔を上げた倉賀野は、気弱な笑顔を浮かべた。
「今日、テストが終わったらみんなでお昼行かない?」
「あ、うーん……でも。明日もテストあるから、私は」
「テスト勉強もしようってことになってるんだ」
「あぁ、それなら……えっと」
困ったように笑う。倉賀野と目が合わないことはいつものことだが、見ている先が不自然。首を後ろに巡らすと、そこには前野と岡部の顔があった。ほとんど、三浦の肩に顎を乗せる距離だった。
倉賀野が困るのも頷ける。思わず身を仰け反らせた。三浦は早まる脈打つ心臓を抑えつつ、倉賀野に聞こえないよう静かに叫ぶという器用なことをした。
「何してんだよ!」
「いやほら気になるだろ?」
「さすがにふたりきりは許せん」
「じゃあ自分で行けよ。背中押したのお前だろ」
「それは無理。俺じゃあ、心臓が口から出ちゃう」
はあ、とため息をつく。
そうこうしていると、予鈴が鳴った。同時に、担任が入ってくる。席につけ~と言いながら。
「じゃあ、倉賀野さん。放課後。また」
とりあえず、伝えはした。
三浦も自分の席につく。担任は中間テストについて、何度も言ってるが、と前置きをしてから注意事項を述べた。本当に、何度も言っていることだった。
机の中は空にしておくこと、必要な物だけを机の上には置くこと、その際は筆箱も仕舞うこと、スマホは電源を切ってカバンに入れ、廊下のロッカーに仕舞い、鍵をかけること、今日一日が終わるまでロッカーは空けないこと。カンニングは見つけ次第、全教科0点とする、また、もしもスマホが鳴った場合も、同様の処置を執る、とのこと。
以上、と担任は話を終える。ホームルームの終わりでもあった。生徒たちは各々立ち上がり、徐々に静けさは破れていく。担任がチョークで黒板に、本日の日程を書いていった。
三浦はそれを横目にしながら、スマホの電源を切ってカバンに仕舞い、廊下に出てロッカーに仕舞った。今日必要な教材だけを手にして鍵をかけ、三桁の数字はわからないよう適当に回しておく。
一時間目のテスト。さっそく、化学だ。
頭が痛くなるが、じゃあ何の科目なら喜ぶのかと問われると、答えに詰まる。べつにテストに不安もないし、それなりの自信もあるが、やらないに越したことはない。テストのいいところは、早く帰れること、部活がないことぐらいで、テスト自体に魅力があるわけではないのだ。
廊下のロッカーとはべつに、教室の後ろには収納棚がある。前の黒板と比べると横にも縦にも小さく、三浦の胸より上にしかない黒板がある。白い文字というより、貼り出された紙のほうが多い。収納棚はその下、三浦の腰から下にあった。縦に三段の棚。ここも生徒ひとりひとりに用意されている。鍵もなければ蓋もなく、貴重品を入れるには危ないが、同時に開放的でもあるので、心理的に盗みはしにくいだろう。
三浦は自分のスペースに、化学以外の教科書類を入れておいた。壁を背にして、化学の教科書をぱらぱらとめくる。
「お~い。……お~い」
目だけ上げる。
「ダメだ。こいつ。本当にテスト、捨ててやがるぜ彰」
岡部の言葉に、三浦は呆れて首を振った。
「あのな、光輝。お前が倉賀野さんをじっと見ていても、倉賀野さんがお前のことを好きになってくれるとは限らない。だがもしもここで、化学の教科書に目を通していれば、それがテストに出てきて一点二点を得られるかもしれないんだぞ?」
「ああ……わかってる。そうするよ」
顎がすこしこちらを向いているのに、まるで縫い付けられたかのように視線だけは倉賀野に釘付け。倉賀野もまた、すでに片付けは済ませたのだろう。自分の席で化学の最終確認をしている。
「ダメだな、こりゃ」
岡部も肩をすくめた。前野の目は曇っているようだ。一旦、そのメガネのレンズを拭いたほうがいいかもしれない。いっそ、新調してみるのでも。




