でも好きな人だから!
「ただいま~」
後ろで扉がバタンと閉まる。一段落ついたしろあは、大きく息を吐き出した。
脱いだ靴は玄関で散らばり、歩きながら脱いだソックスはしろあの足跡のようになる。リビングへ出たしろあは、部屋の空気を肺に目一杯吸い込んだ。
「カレーだ!」
キッチンから漂ういい香りはカレー。きらんと輝く幼子のような目は、瞬時にげんなりとした。
「えぇ……」
カレーだった。キッチンからのぼる湯気、鍋の中の色。カレーだった。
「なんで佐白ちゃんがいるのぉ」
問題は、キッチンに立つ人だった。彼女はエプロンを身に着け、メガネを曇らせつつもきりっとした出で立ちで、お玉を構えていた。
「おかえりなさい。もうできますよ」
「ぶう」
唇を尖らせながら、しろあは冷蔵庫からコーラを取り出す。足で棚を引っ掛けてポテチを掴み、リビングのソファーにダイブ。制服をぽぽいと脱ぎ捨て、ワイシャツ一枚でゲームに興じた。
天知しろあは美少女だ。細やかな白い髪は肩で切り揃えられ、瞳は汚れを知らない澄んだ青空のような色をしている。小柄で物腰柔らかく、丁寧な所作は一挙手一投足まで、洗練されている。誰に対しても常に敬語で常に上目遣いで、皆の心を奪い記憶に深く刻み込む。どこかのご令嬢で、いいところのお嬢様で、家は豪邸。庭付き噴水付き。メイドや執事を何人も雇っている。
どれもこれもすべて的外れだ。まあ、美少女という点だけは間違っていないのかもしれない。そこはしろあも否定しない。けれども、常に上目遣いなのは身長的にそうなってしまうだけで、常に敬語なのは距離感を表し壁を作っているだけで、洗練された所作は邪な思いを抱く人をはね除けるため。家も豪邸なんかではなく普通のマンションの一部屋を借りているだけ。執事やメイドなんかいない。……いやまあ、お世話係のような者は、いまキッチンに立っているけれど。
「終わったんですか」
ふいに、佐白ちゃんが声をかけてきた。
「とりあえずは」
ここのところ、しろあの頭を悩ませてきた問題は、今日やっと、決着がついた。
「疲れました」
こういう時は、優しく抱かれて甘い言葉を囁いてもらう必要がありそうだ。
「ですがなんでまた、あんなことを」
「あんなこと?」
「堀田さんに、真正面から挑んだじゃないですか」
ああ、と漏らす。二リットルのペットボトルに、そのまま口をつける。
「真正面から挑んだというか……まあ、不愉快な視線をずっとぶつけられていたからに過ぎないよ。好奇の目や羨望の目が学校では多い。その中で向けてくる……嫉妬? みたいな視線は、見分けが簡単につく」
真っ白な画用紙に、墨汁を一滴垂らすようなもの。堀田梨沙の視線は、それはもう凄まじかった。
「あの子がとあるサッカー部員の男の子に恋い焦がれていて、その男の子がわたしを褒める。わたしにその気はなくても、恋敵みたいに思えちゃったんだろうね」
三角関係でもない。しろあの矢印はあらぬ方向に向いているのだから。
「なら、そう言えばよかったんじゃないんですか」
「わかってないなあ。佐白ちゃんは」
ちっちっちっと首と指を横に振る。
「女心というものがちっともわかってないよ」
表情の変わらない、感情を母親の腹の中に置いてきたような佐白ちゃんに、懇切丁寧に説明してやる。
「わたしがあそこで、『べつに新井くんのことなんて興味がありません。お好きにどうぞ』って言ったら、どうなると思う?」
まあ、答えは来ない。来ると思ってない。しろあは続ける。
「は? でしょ」
いろいろ感情が交ざった上での、は? だ。
「たしかに、なぜそれを、という気分にはなりますね」
第一に、なんで彼が好きであることを知っているのだ、と羞恥に襲われ、その後に焦りと動揺が走る。
「それはよくて、だね。最悪、押し倒されるよ」
「それはまた、どうして」
「好きな人を蔑ろにされて、黙っていられる女はいないんだよ」
片方の口の端だけ吊り上げる。
好きな人のためだったら世界だって敵に回す。たとえ世界中が彼を否定し非難しようとも自分だけは肯定し優しく包み込み、否定する世界こそ否定する。それが女の肝っ玉というものだ。
「べつに蔑ろにはしてないと思いますけどね」
「佐白ちゃんも、恋愛をすればわかるよ。好きな人とかいないの」
「おじさんみたいなことを言いますね。ああ正確にはおば」
「その先を言ったら……わかってるね?」
ポテチをバリッと噛んだ。
たしかに生きた年齢だけで言えば、しろあはこの見た目にそぐわない。人間の寿命は遥かに超えている。自分でも自分がどれほどの年月を生きているかは定かではないが、百歳のご老人でもしろあからすると赤子同然。だからおばさんと呼ばれても間違ってはいないが、心は乙女なのだ。人間としては身も心も若い少女なのだ。
「まあ、蔑ろにするような言い方をしなければいいだけの気もしますが」
佐白ちゃんはそう、弱い反論に留めた。
「でも不思議なのはさ」
油がついた指を舐める。
「なんであの子は、サッカー部に入らなかったんだろう、ってことなんだよね。そうすれば部活でも一緒になれて、時間を多く過ごせたはずなのに」
べつにそこは知らなくても今回の一件に影響はなかった。
誰からの依頼でもなく、解決しなくてはいけない謎があったわけでもなく、今回は堀田の勘違いを解消することにあった。目の敵にされているのは心地よいものではないのだ。
「……笑った?」
ふと、佐白ちゃんの苦笑する声が聞こえた気がした。
「はい、笑いました」
ぎらっと睨みを飛ばしたつもりだったのだけれど、キッチンに立つ彼女には届かなかったらしい。それでもそこは、いいえと言うべきところだ。
「しろあ様も、充分乙女心はわかっていないようでしたので」
様呼びはやめろと何度も言っている。もう彼女は崇め奉られるような神様ではなく、普通の女の子。人間になった天知しろあなのだから。
一旦、そこへの文句は飲み込み、訊く。
「わかってないって、どの辺りが?」
「サッカー部にはマネージャーがいません。つまり堀田さんがマネージャーになるとすれば、その一人目となります」
「……ああ、女の子ひとりじゃ、重労働か」
「そうじゃないですよ。まあ、それもあるかもしれませんけど」
呆れたような声が飛んでくる。他に考えられるのは、なんだろう。何事も一人目、一歩目第一人者というのは風当たりが悪いもの。そうも考えられるが、弱い気もする。
「サッカー部には女子がいません。男部員しかいないところに、女子がマネージャーとして入る。そうすると、周りからはどう見られますか?」
「どうって……」
「男好きと見られるでしょう」
ああ、そうか。と納得するが。
「そんなこと?」
とも思ってしまう。
「人間社会的にはかなり致命的ですよ。同性からは男に媚びを売ってるとあらぬうわさをかけられ、異性の男子たちからは俺のことも好きなんだろと迫られる。身に覚えはないですか」
「まあ、似たような経験はしてるか」
幸いにもしろあに対する悪いうわさや、下品な感情で迫ってくる輩はいまのところいない。それはしろあの振る舞いや影響力、遠すぎる美貌が嫉妬の対象にもならないといったところなのだろう。しかし同性異性問わず学校ではひとりにはならないし、下駄箱や机に呼び出しの手紙は後を絶たない。
意中の男子と近づくために入部したのに、違う男子のために奉仕するというのもなかなか割り切れることではないだろう。男部員ばかりの部活のマネージャーに対する偏見に、男好き、尻軽ビッチとうわさされる事例は、知る限り、すくなくないようだ。
すると突然、鍋が激しい音を立てた。やれやれ、と首を振りながら、ゲームを中断してスマホを取り出す。
「ちょっ、佐白先生!?」
その音を聞きつけたらしく、慌てた様子で、ひとりの男がリビングに転がり込んできた。
髪は濡れていて、肌はツヤがあって艶めかしく、見事に腹筋は割れている。シャワーを浴びていたのだろう。そして身体を拭いている途中だったのだろう。つまり、まだ着替えていない。裸だった。
しろあは素早くスマホを連打した。連続的にシャッターが切られていく。
「おい、しろあ……ってカレーが!」
連写を止めるべきか、火を止めるべきか。彼は後者を選ぶ。
「お前、服……」
佐白ちゃんが文句を垂れる。
「見ないで!」
股間に手を当てながら、キッチンに立つ男子高校生がひとり。シュールだ。きっと、誰とも知らない相手なら、しろあの心はぴくりともしないだろう。
生唾を飲み、しろあは連写を続ける。
「だから撮るなって!」
「見えそうで見えないのがいいんだよ!」
「俺は男だぞ!?」
「でもわたしの好きな人だから!」
頬を赤く染めた。照れてる。かわいい。その隙に連写。彼は、もう、諦めたようだ。
「佐白先生、カレー、見ててくださいって言いましたよね」
「ああ、だから見てた」
「ならなんで焦げるんですか!?」
「見てたからだ」
病的なまでに白い肌をした佐白はさも当然と言う。彼女に料理ができるはずない。それは任せた人が悪い。彼も佐白ちゃんの性格は知っているが、まさかここまでとは思っていなかったようだ。痛感したように、漏らす。
「いやっ……見ててってそういう……。……はぁ、じゃあ、もう、いいです。俺が悪かったです」
「何事にも失敗は付きものだ」
「どんまい!」
「~~~んのっ」
拳を震わせていた。




