いまなんて言った?
土曜日と日曜日、平穏な日々を過ごした。
休日は遅くまで寝てしまうことが多々ある。とはいえ、昼食が朝食になるほど眠りこけていたのではない。起きたのは学校のある日よりも一時間ちょっとばかし過ぎた、八時ほどだった。まあ、正確に言えば、起こされたのだが。
「やっべ!!」
という声と、慌ただしく部屋を駆け回るような足音が、聞こえてきたのだ。となりの家の、新井の部屋から。
新井と堀田の家はとなりだ。ふたりの部屋に関して言えば、脚立を横にすれば渡れるほどに近い。実際、玄関まで降りてまた階段を上がるのが面倒だと言って、渡ってきたことがある。小学生の頃に好奇心でやって新井母に雷を落とされて以降、新井は部屋渡りをやめるのではなく慎重になった。
部屋で友達とゲームしながら騒いでいるのをうるさいと怒鳴ってやったこともある。普段の私生活では話し声も聞こえず、どちらもカーテンを引いてることがあるのでプライベートは見えないが、その日は珍しく部屋の中が見えた。
休日の時間を気にしない睡眠を邪魔されたことに、文句のひとつでも言ってやろうかと開けたカーテンの奥では、寝癖にパンツひとつ、大慌ての新井がいた。その慌てっぷりを見て、本当に焦っていることがわかったので、文句は飲み込んでやった。
堀田が見ていることにも気付かず、自室を出て行く新井。行ってきまーす! との声がして玄関のほうを見下ろせば、エナメルバッグを肩に掛けながら瞬く前に新井は消えていった。
「あれは遅刻だな」
半分しか開いていない目蓋で、半開きの新井の部屋を見て、ぽつりとつぶやく。
部活動は大抵、午前練と午後練にわかれる。練習試合とかだとまた話が変わってくるが、練習なら大抵がそうだ。始まるのが八時、八時半、九時のいずれか。そこから三時間程度の練習がある。
スマホの電源を押す。画面に表示された時間は、八時二十分。ここから高校まで、歩きだと三十分かかる。信号の運が悪ければもっとかかるだろう。全力ダッシュ、信号で足を止められることがなければ、二十分辺りでつくだろうか。最短で、理想で、八時四十分到着。
九時の開始だとしても、新井は遅刻だ。着替えやスパイクに履き替えた後、準備をしないといけない。九時開始なのだから、準備はそれよりも前に終わっている必要がある。
先輩たちよりも遅い到着は白い目を頂戴することになるだろう。同級生がゴールや道具の準備をしている最中、ひとり部室に入って行くのもなかなか勇気が要ることだ。
「やっぱり、遅刻だな」
新井は怒られる。それなら、堀田がわざわざ怒ることもない。
もちろん、高校の部活の体系が中学と同じである、という前提のもとに成り立つのだが、堀田は同じであるとした。
土曜日はそんな平穏で、すこし良いものを見た日だった。
日曜日も特筆するようなことは起こらず、月曜日もいたって普通の日常を過ごした。
火曜日、堀田は新井を呼び出した。
「それで、なんだよ」
顔を突き合わせるのは、木曜日以来だったか。会っていないのはたったの四日。一週間も経っていない。人間とは、たったの四日でこうも変わるものなのか。
「疲れてんの?」
すこしトゲのある口ぶりは、不機嫌や怒りのものではないだろう。顔にはまざまざと、疲れたと書かれている。四日の変化は、げっそりした、と表現するのが正しいか。
「疲れてる。めちゃくちゃ疲れてる。つか……」
そうして新井は、カウンターに崩れるようにもたれ掛かって、泣き言を言った。
「天知さんがいないんだよ~~……!」
とりあえず、デコピンしておいた。
現状、堀田のシフトは火曜日と木曜日だ。初バイトだし、まだ高校が始まったばかりだし、ということで、仕事に慣れるために二日だけ、放課後バイトをしている。バイトにも高校にも慣れてきたら、時間も曜日も増やそうと考えている。
「そこにいられると邪魔なんだけど」
「呼び出しておいてけったいな言い種」
「それ使い方あってる?」
「知らない~」
特に注文されていないし、新井も注文する素振りはない。だがそれは頼むつもりがないわけではない。堀田は口と同時に指も動かしてる。
「番号で呼ぶから」
「……客に邪魔って言ったの?」
思い出したかのように言う新井。非難がましい顔つきだ。しかし堀田は口の端を上げてみせた。
「新井にお金はもらってない。つまり客じゃない」
新井は眉を寄せた。
「……自分のだけ頼んだのか?」
「なんでそうなる」
呆れた。本当に、なんでそうなる。
空腹の男子高校生を前に、自分だけご馳走にありつく。涎だけ分泌させる。疲れ切った部活帰りの新井を呼び出しておいて、それはいったいどんな拷問か。
「私が支払った」
「それは、つまり……?」
「奢りよ」
「一生ついていきます!」
その言葉に嘘がなければいいが。
商品の載ったトレーを手にした新井が席を確保しに行く。客を二、三人捌いた堀田は、頃合いを見計らってバイトを抜けた。
「お疲れ様でーす」
バイト仲間に声をかけるが、返答がない。首を傾げながら覗き込むと、木曜日にもいた先輩と堀田の指導係がふたりでニヤニヤしていた。
先に口を開くのは指導係だった。
「この前もあの子来てたけど、あれ、堀田ちゃんの彼氏?」
なるほど、と納得した。
新井にだけ、砕けた態度を取っている。それは友達だからではあるけど、そう捉えられても仕方ない。
「違いますよ」
笑って否定したが、ふと思いつく。
「まだ」
と、付け足しておいた。そうすればふたりのニヤニヤはマックスにまで上った。すこしでも喜んでもらえたなら幸いだ。
「お疲れ様です」
もう一度挨拶する。
「おつかれっ!」
かなり上ずった声だった。恋愛漫画を読んでキュンキュンするようなものと同じなのだろう。バックヤードのロッカーで着替えを済ませ、店内に出る。
「お待たせ」
と、喉まで出掛かった。つまり、言ってない。それでも、新井は堀田に気付いたようで、手を挙げてきた。
口角が下がる。ゆっくりとした足取りで、堀田は新井のとなりに座った。新井の態度が露骨に違ってくる。ここまでそわそわしているのを見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。
新井の対面には、天知しろあがいた。
きっと睨んでいただろう。すくなくとも、友好的な目つきはしていなかったはず。できるわけがなかった。それでも天知しろあに動じる様子はない。物腰柔らかく、ごく自然と、こう言う。
「こんばんは。偶然、お見かけしたので。お邪魔……でしたでしょうか」
当たり前だ。……口を突いて出そうな言葉を、必死に留める。そんなことをしている堀田を他所に、新井は真っ向から否定した。
「いや! いやいやそんなわけ! むしろ俺たちのほうが邪魔じゃないか心配で……なあ?」
言っている意味はわからないし、何に同意を求めているのかもわからない。
丁寧に、緩慢とした動作は注意を集めているかのようだ。天知は手を口元に持っていき、綺麗に笑みを作る。
「ふふふ。面白いことを言うんですね。新井くんは」
「え、いや。その……ははは」
何も面白いことは言っていないし、たぶんバカにされている。
「ってか、名前……」
緊張の塊と成り下がった新井は要領を得ない反応を示しつつも、そこだけはなぜか聞き取れていたようだ。
「いちおう、同級生ですから」
「うわ、マジかぁ……」
感動を噛み締めているようだ。
しかし堀田の感じているところは、新井とはまったくの正反対だった。遠くから見ているととても綺麗で可愛げがあって華やかで、上に立つ存在とでも言うべきか、そんな印象を抱く。だが実際は、どうだろうか。この笑みや所作は、なんだか嘘っぽい。綺麗すぎるのだ。
人が書いたまっすぐな線と、機械の設定で書かれたまっすぐな線。綺麗さだけで言えば後者に軍配が上がるだろうが、直感や好みとしては、前者を選ぶ。
そういう、嫌悪感とまではいかないが、感覚的な違和感がどうしても拭えない。
「じゃあ、私は? 私の名前も知ってるの?」
堀田は声を抑えて感情を抑えて言った。初対面だと偽った。サッカー部観戦の時も、入部届を渡された時も、名前は呼ばれたから知っているのだろう。その不自然さを、察してくれたのか。天知は名前を思い出す素振りで小首を傾げる。
「堀田さん。堀田梨沙さん」
ひとりホッとしていると、新井はとなりで昂奮していた。小さくおぉ! と歓声を上げ、自分の顔を指さす。
「俺の名前。俺の名前も呼んで!」
いつもの通りに、堀田は冷ややかな視線をする。
「さっき呼ばれたじゃない」
「いや。俺は新井くんとしか言われてない。まあ、それで充分ありがたいんだけど。梨沙は、ちゃんとフルネームだったろ。ズルい。不公平だ」
「天知さん、呼ばなくて良いから。調子に乗るだけだから」
「お金が必要だというのなら払いましょう。払わせて頂きましょう」
崩れない笑みのまま、天知は言った。
「ちなみにいくら払ってくれるんですか?」
乗り気だった。意外だ。
新井もまさか前向きだとは思ってなかったのだろう。一瞬、固まる。
「ちなみに、いくらなら呼んでくれるんですか」
覚悟を見せたように新井も前のめりになった。しかし。
「冗談です」
「……へ?」
さらりと言ってのけるので、肩透かしを食らう。冗談ぐらい言って当然なのだが、周囲の感想から考えるとその衝撃は大きかった。あの天知しろあが冗談を言うなんて! と。
「そこをなんとかお願いしますよ! 出世払いしますんで!」
「どんだけ執着してんの。気持ち悪い。天知さんも、遠慮なく訴えていいからね」
「うるせえ! アラームにすんだよ。そうすればもう寝坊せずに済む。外周せずに済むんだ!」
そうして新井は、スマホをテーブルに置いた。
「ということで、ひとつ。お願いします。台詞は、新井くん、起きて。で」
録音が開始された。
「新井くん、起きて」
語尾にハートまでつくおまけつきだ。これはさぞかし気に入るだろう。嬉しさのあまり、新井は震えている。
「だぁから梨沙じゃない!」
素知らぬふりで、ストローに口をつける。天知は楽しそうにニコニコしていた。
録音終了。スマホは堀田が没収。何か言いたそうだったが無視してハンバーガーに手を伸ばす。冷めてしまうと気付いたのか、新井もとなりでハンバーガーに手を伸ばした。
「おふたりは、仲がいいんですね」
目と目を合わせる。べつに否定することはない。
「まあ、幼馴染みだからね」
「腐れ縁? ってやつだよ。まさか高校まで一緒だとは思わなかったけどな」
「お互いちょうどいい場所があそこだっただけ」
「そうだなあ。俺も、サッカーができればどこでもって感じだったし。わざわざ県外に行かないといけないほど、ウチの高校も弱小ってわけでもないし」
強豪ってわけでもないけどな、と新井は苦笑した。
「県大会は常連みたいですけどね」
「詳しい。さすが」
快活に笑うが、
「まっ、行ってるだけって感じもするけどな。優勝なんて……したのかな。あんま知らないや」
遠い目をする。
輝かしい成績があるほどの結果を収めているわけでもないし、大学からのスカウト、優秀なプロ選手を輩出したわけでもない。本気でプロ選手を目指している人が選ぶことはないだろう。新井のように、高校までと区切りをつけていれるのであれば、選択肢としては不足なし。その程度。
「それに、一年はいまは雑用みたいなもんだからな。サッカー部なのに、ボールに足で触れてるのは……ああ、三浦ぐらいか」
「足じゃなければ触れてるっての?」
口を挟んだ。新井は頷く。
「手だな」
「サッカー部なのに?」
「サッカー部なのに」
「先週までは普通に蹴ってたじゃない」
「今週から変わったんだよ。厳密には、土曜から……か」
ポテトを咥えた新井は、お手上げと言わんばかりに頭の後ろで手を組んだ。
「金曜までは仮入部でしたからね」
天知の発言に、心がざわつく。
「そういうこと」
勝手にふたりで納得しないでほしい。
「どういうこと」
コーラに口をつけた新井は、仕方ねぇなあと嘯いた。
「仮入部に来た新入生を雑用みたく扱ってたら、誰も入らないだろ? サッカー部に入部するのはサッカーがしたいから。で、サッカー部も部員がいないと困る。だから、仮入部の時だけ好きさせるんだよ」
「それ、わかってて入部したの?」
「ああ」
暢気な返事が返ってきた。
「まっ、精々あと二、三ヶ月の辛抱だ。そうすれば三年が引退する。三年が引退すれば、すこしはボールを蹴れるチャンスも回ってくるってもんだ」
「それまでは?」
「ビブス洗ったり、ボール出ししたり、ボトルとか荷物運びとか準備するのが、俺たち一年生の仕事」
マネージャーみたいだ。とは、言わないでおいた。新井もわかっているだろう。プライドを刺激する発言になりかねない。代わりに、
「下積みってわけね」
と言っておいた。
「それかっけぇな」
「バカで助かる」
「いまなんて言った?」
「玄人みたいだねって」
「それかっけぇな」
「バカで助かる」
「いまなんて言った?」
天知が口を挟む。
「ですが、三浦くんだけは、先輩に混じっているんですね」
「だな。ああいうやつのことを、才能があるって言うのかもしれない」
新井も堀田も高校生だ。野望を抱いたり夢を見たりする時は過ぎた。現実を生き、現実を見る。新井はサッカーに熱がある。きっと、いまの彼が一番注力しているのはサッカーだろう。優先順位として一位に来るはず。
しかしプロになろうとは思っていない。それは現実ではないからだ。
一年生の間は下積みをこなし、二年生となったらレギュラー争いに励む。三年生になったらきっぱりと引退して受験に切り替える。大学で続けるのかどうかは怪しい。将来、大人になったら振り返るだろう。昔はサッカー一筋だったなあ、と。
それが普通。プロになれるのはほんの一握り。新井からすると、三浦は嫉妬の対象かもしれない。彼ならこの夢は夢ではなく、地続きの現実として見据えることが叶う。地に足がついたものなのだろう。
物悲しくなり顔を伏せていると、スマホの着信音が鳴った。堀田でも、新井でもない。対面の天知だった。
「すみません」
彼女は断りを入れてスマホを取り出す。
「はい、はい。……食べます食べます。すぐに帰りますから。……はい。ちょっと待っててください。……はい」
電話の相手は誰だろうか。連絡先を交換している相手。食べるという言葉から、近い距離感を感じる。天知の雰囲気もすこし柔らかい気がした。
短い電話を終えると、口元だけ笑った天知は席を立った。
「すみません。家族から呼ばれてしまって」
学校指定の学生カバンを持った天知は慌ただしい。
「お邪魔しました。あとはおふたりでごゆっくり。また、明日」
ぺこりと頭を下げる。堀田たちの返事も待たず、ぱたぱたと駆けていった。
中途半端に上がった手を下げ、新井はぽつりと言う。
「家族にも敬語なんだな……」
「え、そこ?」
「他にどこがあるんだよ」
逆に堀田がおかしい、とでも言いたげだ。呆れて溜め息も出ない。
「私たちも帰ろう」
トレーをひとつ持ち、ハンバーガーの包装紙や敷かれていたチラシや紙ナプキンをまとめて燃えるゴミに捨て、トレーを返却。飲み物とポテトをふたりぶん抱えた新井から自分の分を受け取り、堀田たちも帰路に着いた。




