第32話 その名前を、呼ぶな
焚き火は、小さかった。
煙を抑えた火。
暖を取るためだけの火。
それでも、
人は集まる。
「……聞いたか」
誰かが、
声を潜めて言った。
俺は、気づいた。
名前が、出る前の間。
嫌な予感。
「勇者が……」
言葉が、途切れる。
子供が、びくっと肩を揺らす。
母親が、
無意識に口を塞ぐ。
片腕の男が、低く唸る。
「……その言い方、
やめろ」
だが、もう遅い。
「勇者エルドが、
動いてるって」
誰も、続きを言わない。
勇者。
世界で一番、
“正しい”存在。
だからこそ、
逆らえない存在。
「神殿兵とは、
違う」
「一人で、
軍より強い」
「会ったら、
終わりだ」
噂が、
恐怖を運んでくる。
俺は、火を見つめる。
何も言わない。
今、俺が否定しても、
意味はない。
「……あの人が来たら」
若い女が、震える声で言う。
「私たち、
どうなるの?」
答えは、
誰も持っていない。
片腕の男が、俺を見る。
期待と、
不安が混じった視線。
「……あんたは」
言いかけて、
止める。
それが、
一番残酷だ。
俺は、ゆっくり口を開く。
「逃げる」
即答。
勇敢じゃない。
正しくもない。
でも――
現実だ。
「勇者と戦う準備は、
していない」
誰も、反論しない。
「……でも」
母親が、言う。
「逃げ続けたら、
また……」
言葉の先は、
地下だ。
俺は、頷く。
「分かってる」
「だから」
少し、間を置いて。
「ここで、
分かれてもいい」
空気が、凍る。
「勇者は、
俺を追う」
「俺から離れれば、
君たちは
“正しい側”に戻れる」
誰も、すぐに答えない。
勇者という名前が、
選択肢を増やす。
それ自体が、
恐怖だ。
子供が、
小さく言う。
「……おじさん」
「勇者って、
いい人なんでしょ」
俺は、目を閉じる。
「……分からない」
正直な答え。
「でも、
いい人でも」
「君たちを
守るとは限らない」
それが、
この世界の現実だ。
焚き火が、
ぱちりと音を立てる。
誰かが、
小さく笑う。
「名前だけで、
こんなに怖いなんてな」
俺は、立ち上がる。
「明け方に、
進路を変える」
「その時までに、
決めてくれ」
「一緒に来るか」
「――ここで、
正しい側に戻るか」
勇者は、
まだ見えていない。
剣も、
光も、ない。
それでも。
その名前だけで、
人は分かれる。
それが、
勇者という存在だった。




