第二章:新しい人生、新しい名前
リセットセンター「ゼロ」。真っ白な建物は、まるで病院のようにも、空港のようにも見える。エントランスに入ると、アロマの良い香りが漂い、心を落ち着かせるヒーリングミュージックが流れている。ここは、人生の終着駅ではない。新しい人生の出発点だ。
受付で手続きを済ませ、身分証と現金の入った茶封筒を差し出す。無機質な受付嬢が淡々と確認作業を進める。
「山田一郎様、初めてのリセットですね。ご希望の容姿や声、体格、体型についてヒアリングシートをご記入ください。こちらは最終的なカウンセリングとなります。リセット後の新生活について、改めてご希望があればお聞かせください」
俺は震える手でペンを握りしめ、シートに理想の自分を書き込んでいく。背が高く、顔の輪郭はシャープに。声は低く落ち着いたトーンで。筋肉質な体型。そして、新しく始める仕事は、人と話す機会の多い営業職がいい。もう誰とも関わらず、ただ時間が過ぎるのを待つだけの人生は嫌だった。
シートを提出し、奥の個室へと案内された俺は、ガラスの壁に囲まれたベッドのような機械に横たわった。脳波や生体情報をスキャンする装置が頭に装着される。
「では、まもなくリセットを開始します。痛みはありません。約2時間程で完了します」
そう告げられた瞬間、俺の意識は白い光に包まれた。これまでの37年間の人生が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。早紀と初めて出会った日。結婚指輪を渡した日。喧嘩して、離婚届を突きつけられた日。後悔ばかりの人生が、走馬灯のように頭の中を駆け巡り、そして、すべてが、この光の中に溶けていくようだった。
次に目を開けたとき、俺は知らない天井を見上げていた。優しく響く声に、俺は思わず飛び起きた。目の前にいる看護師は、朗らかな笑顔を浮かべている。渡された鏡をのぞき込むと、そこに映っていたのは自分でも見覚えのない、引き締まった顔立ちの青年だった。身長は180cm近くあり、鏡に映る体は無駄な脂肪が削ぎ落とされている。
「おはようございます。これから新しい人生のスタートです。」
看護師はてきぱきと俺の体の状態や気分不良の有無を確認し、今後の予定を説明した。重たい荷物を方から外し、解き放たれたすがすがしさの中で看護師の話はどこかぼんやりと流れていく。看護師が退室してからもしばし鏡を見ながら自分の顔や体をぺたぺたと障った。
「…田中健太。俺は、田中健太」
新しい名前を口にすると、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。まるで、古い殻を破り捨て、新しい命を得たかのような感覚。ここからだ。ここからやり直すのだと腹の底からエネルギーが湧き出る不思議な感覚があった。
その日の午後、リセット後の各種サービスについての説明会会場で、俺は二人の男と出会った。そこでは、リセット後に受けられる就職支援サービスや職業訓練、住宅紹介のサービスなどの説明を聞くことができる。二人の男は説明会場で俺の左右に座っていた。
一人目は、加藤と名乗る男。30代後半だろうか。やたらと馴れ馴れしく、リセット3回目だと胸を張る。「あんたもリセットか? 初回はいいぞ、就職率も高いし、企業も熱心に支援してくれる。だがな、2回目以降は厳しくなる。俺みたいに3回目にもなると、もう履歴書だけで『こいつはすぐに投げ出す』って思われるからな」と、軽薄な口調で自慢げに語る。
もう一人は、柏木という20代の爽やかな青年。彼はリセット1回目だと言うが、どこか胡乱な雰囲気が隠せていない。その目が、こちらを値踏みするように探っているのが分かった。「初リセット、羨ましいですね。真っ白な人生、何にでもなれますから」と、口ではそう言うものの、その目は全く笑っていない。俺は、柏木も初回のはずなのに、まるで何度かリセットをしているような口調で話すのだろうと、わずかな違和感を覚えた。
リセット後は戸籍も新しくなる。当然に前使用していた携帯電話を引き継ぐこともできないため、二人と連絡先は交換できなかった。だが、加藤が「せっかくだから、1年後に会おうじゃないか。情報交換でもしようぜ」と提案してきた。俺はしがらみを作りたくなかったので乗り気ではなかったが、加藤の軽薄な口車と、柏木の有無を言わせぬ圧力に押し切られ、渋々同意してしまった。