Chapter1 一寸先は病み
高校生になって人生で初めて彼女ができた。天にも昇る気持ちというより、バターナイフで首筋を撫でられている気持ちだった。
きっかけになったのは、放課後の暮れた教室で彼女が読んでいた一冊の卒業アルバムだった。ガスコンロのような厚みがあり、妙なことに、それは彼女の出身校のものではなかった。
扉のゴム板から離れ、背後から声を掛ける。適度に音を立て、こちらの存在を知らせるようにした。
「それ、僕の小学校の卒業アルバムだよね?」
一メートル程まで接近し、訊ねると、白石さんは声だけで反応を示した。
「そうなんだ、一ミリも気が付かなかったよ」
「いや写真に映ってるよね、僕も」
「この細長いやつかな」
「それは電柱」
冗談なのか、なんなのかは分からない。が、失礼なことだけは大変はっきりしている。
「思い出にね、浸ってたの」
「白石さんの思い出じゃないんだけど」
彼女は僕の上級生で、校内外のボランティア活動を通して面識があり、敬語も禁じられた仲だった。だから、声かけくらいは許されるだろうと、そう勝手に判断した。
「人の思い出と花瓶に水を差すのはよくないよ」
「いや花瓶には差した方がいいよ、絶対」
「著名な写真家の名言があるよね、カメラは目以上にものを見る、だから使うべき」
「僕とも話すべき、だよね」
あまりに取り付く島もないので、そう言った。
「嫌 」
目に見えて機嫌が悪い。だけど、僕が上級生の教室に顔を覗かせたのには訳がある。
「枝宮先輩、先に帰るって」
「そう」
白石さんは机に片肘を突いて、不機嫌そうに手元のアルバムを眺めていた。
「こっちに向かって来てたから、なんの用だろうとは思ってたけど」
「え、どうして分かったの?」
「黒井君の身体にGPSを付けてるから」
「真顔で言わないで」
冗談が冗談として響かない。
伝書鳩の役目を果たし、僕はその場を去ろうとした。それでも、その場に留まったのは、彼女の横顔が少し寂し気に見えたからかもしれない。
♢♢♢♢♢♢
白石さんは構わず、アルバムのページを捲り続けていた。丁度、野外学習で訪れた公園の写真があり、当時よく友人と遊んでいたエリアだと、白石さんにも伝えた。
近くにはビジネスホテルもあり(今は廃墟だった)、その場所も映り込んでいる。
「へぇ、その友人ってどんな子なの?」
「ただの幼馴染みだよ」
「ふーん、ただのね」
やがて、レコードプレーヤーにカバーを被せるがのごとく、静かにアルバムを閉じると、白石さんは僕の方に向き直った。なぜか、不機嫌さが増して見える。
「それにしても久々だよね、黒井君と校内で話すの」
そこでようやく、その視線が僕にも伝わった。関係のないことだけど、白石さんはなぜか窓際の自分の席ではなく、それより手前の他人の席に座っていた。
「なにか用がないと話しかけてくれないから」
だから彼女の態度に少し棘が感じられたのかもしれない。
「袖踏み合うも他生の縁って言うのにね」
「お互いの人生を邪魔し合ってるみたいに言わないで」
「なんかさ、寂しいね」
確かに、僕が校内で白石さんに話し掛けることは滅多にない。僕達が出会った時、彼女は街に越して来たばかりで、誰でもいいからコミュニケーションの取れる相手を探していた。
「私は黒井君のよき支配者でいたいのに」
「理解者」
だからこそ、街の清掃活動にも参加し、そこで知り合ったのが僕だった。
「きっと地球が丸いのは、私達が出会うためだったんだね」と初対面の白井さんは冗談で笑っていた。
それがどうだろう。
街に馴染み、高校の友人も出来た今、僕がいつまでも当時の恩を掲げ、必要以上に彼女と接することが果たして適切なのか――。
すると、そんな心の内も白石さんには透けて見えていたのか、「一応伝えておくね」と前口上のあと、こう話した。
「確かに、黒井君と知り合った時、私は街に馴染もうとしていたけど、だからと言って、別に友達になるのが誰でもよかったわけじゃないから」
その言葉に、僕は自分の行動を省みる思いだった。
物事の押し引きは、土俵が狭いことによって発生することがある。この場合は、自分の狭い心の中で、彼女に対して勝手に押し引きを繰り広げていた。
「もっと気軽にお喋りしようよ、別に用がなくても」
「そうだね」と僕は微笑みを返す。少し態度を改める持ちで。
「たとえ会話に大した意味がなくても」
「それはあるといいけど」
♢♢♢♢♢♢
「黒井君と話すのは好きだよ、言葉のキャッチザリリースを楽しんでるの」
「放出って、それだと僕の言葉をなに一つとして真面に受け取ってないみたいに聞こえるんだけど」
「うん」
「うん、じゃない」
白石さんは言葉のキャッチボールと言いたかったのだ(と思う)。有言実行と言うべきか、僕達の会話は続いていた。
「そうだ、思い出したけど、昔の人は、着物の袖で自分の気持ちを伝えたって言うよね。言葉で愛情表現をすることが難しかったから、袖を振ることで、好きっていう気持ちを伝えたみたい」
「よく知ってるね、そんなこと」
「告白を『振る』っていう言葉も、袖のことを指してるんだよ。当時は好意を指す言葉が、今では逆になってるみたい」
その時は気が付かなかったけど、思えば、そう言う彼女の制服の袖は小さく振られていた。
確かに、僕の心臓に向けて。