第一話 ミリアイルの新しい名
部屋の隅で蜘蛛が動いた。
掃除が行き届いていない部屋に、ミリアイルは深くため息をつく。
しかも先程から、緊張で速まる鼓動が気持ち悪くて、吐き気が止まらない。
視線を膝に落とせば、修道服に穴が空いているのに気づいた。
金のない教会の見習いシスター。そんな自分に、軍の諜報部のお偉いが何の用で会いにくるのか。気になってここ数日ロクに眠れなかった。
扉が開き、三人の男が入室した。
二人の兵士の中心に、立派な黒い軍服を着た中年の男性が立っている。
「キサラヴィン様……ですか?」
「はじめましてミリアイル・クラウス」
キサラヴィンが胸の前で人差し指と親指をくっつけると、ミリアイルも慌てて真似をした。
リー・ライラム教における略式的な挨拶である。
「わ、わざわざこんなところにお越し下さり、ありがとうございます」
「かしこまらなくていい」
キサラヴィンが椅子に座ると、老婆のシスターが紅茶を運んできた。
緊張か、老化のせいなのか、体はガチガチに震え、カタカタとカップが音を鳴らしている。
「しかし驚いたな。まさか本当にこんな町外れに教会があっただなんて」
「ご、ご足労感謝します」
「さてミリアイル。ジューンというテロ組織は知っているかな?」
「最近、首都で無差別テロをした……」
「痛ましい事件だったね。彼らは悪魔だ。そして今朝方、ジューンに援助をしていたホールース人の地主の娘が、事故で亡くなった」
キサラヴィンはカップを持ち、紅茶の匂いを嗅ぐと、眉をひそめて飲まずに戻した。
「彼女に成り代わってほしい」
「……へ?」
「姿形が君にそっくりなんだ。その娘は正確には生死不明の状態だから、生きて戻って来ました、とすれば通用する」
「ちょ、ちょっと待ってください! なんでそんなこと……」
「ジューンを潰すためだよ。雑兵や裏で支援している者たちを処分するのは容易い。しかし、その程度で彼らは潰れない。また数を増やし、我が国民を虐殺する。故に、彼らの頭を消す。ザルザとかいう謎に包まれた存在、その正体と顔、潜伏先を突き止めてくれ。ジューンの協力者を演じてね」
ミリアイルはキサラヴィンの言葉の意味がまったく理解できず、阿呆のように口を開けた。
スパイをする。要約するのは簡単だが、行うのは難儀。
ましてやミリアイルには学も、戦闘スキルも、虫を殺す度胸だってない。それなのに冷酷非道な組織で諜報活動をするなんて、無理である。
「あの……私……」
「大丈夫。君は魔法が使えるんだろう? 確か傷を癒やすとか」
「それが役立ちますかね……」
「まあ、私とて不安はある。だがそう気を張ることはない。数ある諜報活動の一つにしかすぎないのだから。……もちろん成功すれば報酬を与える。そうだな、この教会を大々的に支援しよう。もうじき取り壊されてしまうのだろう?」
「い、いいんですか!?」
ミリアイルが訳あって住み込みで働いているこの教会は、田舎町の外れにある上に簡素で、管理者も老婆の修道女たちしかいない。
老朽化も進んでいて、なによりマトモに管理されていないため、小さな教会にも関わらず既述の通り掃除すら行き届いていなかった。
ボロボロで、美しい装飾物もないこんな場所には当然人も集まらず、今も懺悔も冠婚葬祭も行われはしない。
神父も配属されないほど、リー・ライラム教にとって無価値な教会なのだった。
「知っているよミリアイル。ここのシスターたちは孤児や浮浪者を保護し、自立できるまでこの教会で面倒を見ていると。本来教会の役目を超えているが、主もきっとお喜びになられている。そんな教会を失われてしまうのは、悲しい」
「……はい」
無価値だからこそ監視の目が届かず、この教会は家のない者たちの仮宿として機能していた。
身寄りのない老いたシスターも何人か、ミリアイル同様ここで暮らしている。
言わばこの特殊な教会は、社会的弱者向けの保護施設兼、小さな修道院なのである。
教会が無くなれば、シスターたちは散り散りになり、隠居するか路頭に迷うだろう。
無名の年老いたシスターなど、どの教会の神父も修道院も必要としない。
ミリアイルにしたってまだ一三歳なので、修道院に入れる年齢ではないのだ。
「孤児の君を一三歳になる今日まで育ててくれた、シスターたちへの恩を返せるときだ」
喉から手が出るほど嬉しい条件。
親も家もない自分を赤ん坊の頃から育て、文字を教え、必要最低限の生活力を身に付けさせてくれたシスターたちのためにも、断るわけにはいかない。
「すべては我らが主と輝ける平和な世界のために。引き受けてくれるね?」
ミリアイルが頷くと、キサラヴィンは微笑んだ。
「よろしい。君の勇気にきっと神もお喜びになっている。誇っていい」
シスターとして常々、神が作りしこの世界の平和に貢献したいと考えていたミリアイルであったが、まさかこんな形で実現するとは夢にも思わなかった。
しかしこれがリー・ライラム教と世界の安寧、そして教会の未来に繋がるのなら、やるしかない。
「が、頑張ります」
「それでは今後、君の名前はメールとなる。メール・リユだ」
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メールとなったミリアイルは、キサラヴィンの訪問から一週間後、隣国にある地主の屋敷へ向かった。
リー・ライラム教が支配する宗教国家、神聖ロットエル帝国の属国、そのとある州が目的の場所である。
属国の地主なので表向きはロットエルに忠誠を誓う身。ジューンへの支援は秘密裏に行われているとのこと。
処罰しないのは、今回の作戦に利用したいからである。
本物のメールは馬車が事故に遭い、そのまま海へ落ちてしまったらしい。
メール(ミリアイル)は溺れていたところをロットエル人に救助され、帰還した。という名目で屋敷に潜り込むのだ。
屋敷の門についたとき、メールの父ハロルドが泣きながら抱きついてきた。
「あぁ、よかった。メール、生きていたんだなあ」
「た、ただいま。お父様」
父の隣には姉のソニーユが立っていた。
美しい人形のような顔立ちの彼女は、無表情ながらも瞳を潤わせていた。
「お、お姉様も、ただいま」
「……おかえり」
メールはホッと胸を撫で下ろした。
バレていない。本当に本人とそっくりなのだろう。
父は膝から崩れ落ち、深く深く安堵した。
「三日前、お前が海に落ちて死んだと聞いたときには心臓が止まるかと思ったぞ」
「え? 三日前?」
キサラヴィンの話によれば、本物のメールが亡くなったのは一週間前のはずである。
「可哀想に、事故で記憶が曖昧になっているのだな。お前が馬車で出かけたのは三日前の早朝だぞ」
話が違う。
本物は三日前に亡くなったのなら、キサラヴィンと話したときにはまだ生きていたことになる。
ではなぜ彼は死んだと?
もともと虚報を掴まされていて、偶然にも本当に亡くなったのか。
父の相好が怒気で歪む。
「あの忌々しいロットエル人が、お前を誘拐するために馬車を襲ったんじゃないかと疑ってしまったよ。なんせいきなり呼び出されたんだろう?」
「ロットエルは、そんなこと……」
「メール、やっぱりどこかおかしくなってしまったんだね。お前も知っていたじゃないか。ロットエルは、リー・ライラム教は宗教を利用して虐殺や強奪、弾圧、誘拐で国力を蓄える非情な国家だってこと」
そんなこと、メールは知らない。
教会の教えと違う。リー・ライラム教は神の教えを世界に広め、人々を平和へ導いているはずである。
もし仮にそうだとしたら、父の言葉通りなら、本物のメールの死は事故ではなく、他殺。
キサラヴィンは本物のメールが死ぬ前から入れ替わりの諜報作戦を計画していて、本当なら一週間前に殺し終えているはずだったのでは……。
そこまで思考して、メールは口元を手で抑えた。
そんなわけがないと、考えすぎだと何度も自分に言い聞かせる。
リー・ライラム教は素晴らしい宗教なはずなのだから。
「さあ、中へ入ろう」
震える足で門をくぐる。
メールをじっと見つめていた姉のソニーユが、ぼそっと呟いた。
「あなた……」
「は、はい?」
「……なんでもないわ。無事でよかった」
非道なテロ組織と自分を騙しているかもしれない国家。
二つの勢力に挟まれながら、かつてミリアイルだった少女の、新しい人生がはじまった。
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