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全ては波である





 嘘です。

 流石に全ては盛りすぎた。いきなりだが、訂正しよう。

 それでも、そう言いたくなるほど波は森羅万象に関わっていると私はいつも感じている。



 波には水面の揺れ、大地の震え(地震)、空気の震えといったそのまま波の形をしたもののほか、振り子、ばね、回転など、横軸を時間、縦軸を振幅とすることで波として捉える事ができるものもある。振動は全て波と見做せる。物質のもつ温度も分子レベルでは振動なので波だ。

 物質の動きそのものを波と捉えるのなら、移動そのものが究極的には波なのだ。エネルギーの伝播するようすが波と言える。

 人間の体で言うなら、筋肉で生まれた運動エネルギーが骨を伝い、地面を押す事で筋肉が直接地面に触れずとも立ったり歩いたりする様がそもそも波の性質を孕んでいるということだ。

 波の性質のひとつに反射というものがあるが、この時筋肉の発生したエネルギーが地面で反射されたとも取る事ができる。それによって移動するのだから、やはり移動は波と言えるのではないだろうか。


 更に言うと、この筋肉に脳から送られる指令は電気信号なのであるが、これさえも波の性質を持つ。

 電気の正体は電子の運動だ。すでに述べたように運動は波と取れるので、電気もまた波と言える。

 電気は電波を発するので、字面そのまま電波も波だ。従って、その電気や電波を用いて送られるデジタル的な情報(信号含む)も波となる。




 さて、ここで波のもう一つの面白い性質について紹介しておこう。それは、干渉だ。

 波は別の波とぶつかった時、合成される。水面で別々の2点から波を起こすと1点で起こした時とは違う複雑な波紋が見て取れるはずだ。

 しかし、これは波同士でケンカしてめちゃくちゃになってしまったというわけではない。波と波がぶつかっても消えて無くなる事はない。発生した二つの波は重なっているだけで、それぞれの情報は保存されているのだ。実際、ぶつかった後はまるですれ違っただけであるかのようにそのまま別々に進んでゆく。

 このことは波の性質を持つあらゆる現象に同様に発生する。


 フーリエ変換という技術がある。

 この「波の情報が波によって消されない」ことを利用した技術だ。波が波で消されないということは、電波や光を使って複数の情報を同じ経路で同時に伝達できるということだ。フーリエ変換とはその複雑に合成された情報を別々に取り出す時に用いられる技術なのだ。


 また、逆を行えば、複数の単純な波の合成によってどんな波形をも描く事ができる。

 造波装置というものを知っているだろうか。この装置は水の張られたプールの外周を囲む無数の板が蠢いて、複雑な波を作り出す事ができる。主に海洋研究に用いられる装置だが、フーリエ変換を用いてコンピュータ制御することでどんな形の波でも起こす事ができる。

 どんな形でもだ。渦のような曲線も、方眼のような直線も、更には文字や記号すら描くことが可能なのだ。

 

 それを初めて見た時、私は衝撃を受けた。単なる造形ですら波であるかも知れない、信じがたい可能性を垣間見たと感じた。



 デジタル的な情報は波であると先程述べたが、現在の情報通信技術には光が用いられている。光も当然、波の性質を持っている。

 光とは色だ。我々の扱う五感情報の大半であり、即ち我々の認識する世界の大半だ。

 そして音すらも波だ。

 ここに上で述べたことを加えてみよう。するとどうだろうか、もはや我々の存在する世界のどこが波でないというのだろうか。そうか、世界の全ては波だったのだ!


 まあ、その世界は主観的な情報のみで構成されたもののことなので、実際は変わってくるのだろうが(そこまで考え出すと情報が多くて面倒なので省く)。




 とはいえ世界が波で満ちていることは間違いではない。

 ここからは物理的な話だけでなく、哲学っぽい話も考えてみようか。


 波は基本的に、基準となる位置を中心に行ったり来たりの往復を繰り返し軌道を描く。水面で起きる波も、バネの振動も、振り子も、回転も、グラフに起こせば似たような形を取る。

 一度頂点を極めると落下し、反対の頂点を極めると上昇してゆく。上へ登るためにはその前後で下に落ちることは避けられない。逆もまた然り。まるで、0から1を生み出すことは不可能だが、-1を代価にすれば可能になると言っているようだ。

 私には、その様がまるで人生のように感じてならない。当然、上がりっぱなしの人生や下がりっぱなしの人生もありうるので、その限りでは無い。しかし、全く波に支配されているとは言えないが、通じるものがあると感じるのだ。


 人生と言うのなら、生死そのものならば波と捉える事はできなくもない。生死は古くから表裏一体で二者がはっきりと分かれているものと考えられてきた。デジタル的な表現に当てはめて考えれば、人生を単に生死と捉えて波のように表現できないだろうか。

 また、人は生き物なのでいつか必ず死に至る。それは将来的に死=(-1)を支払う事で生=(1)を得ていると考えれば、生死=生命が波に支配されているように見えなくはない。

 もしかすると、はじめに死を支払うことができれば、恒久的な生(不死)を得られるかもしれない。



 不死に関しては冗談だが、諸行無常なるこの世の中が波に倣うように上下しているということを我々は忘れてはならない。

 世界は波に満ちている。

 その住人たる我々もまた、ゆらゆらと揺れているのだ。

波は神様だった……?

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