私の辞書
人間は自分の辞書を使って人と会話する。
話をしている相手も自分の辞書を使って会話をしている。
とすると相手と話し合った内容は
百パーセント一致していないのではないか?
そんな疑問が湧いてくるかもしれない。
そうかもしれない。
であれば、この世界で誰とも分かりあえないのでは?
そんな虚しさから、対話を諦めてしまうかもしれない。
それでも
対話した方が良いと私は提案したい。
なぜなら、そこに可能性が存在しているからだ。
自らの辞書で認識できる範囲は、あくまでも自身の可動域に制限されている。
そこに新たなる知見を追加していくことに限界があるだろう。
これは当たり前の事かもしれない。
例えば、私達が読書をすると、それは著者と対話していることになる。
特に意識せずとも相手の話を聞いているのだ。
そして本の内容を理解して、必要であれば自分の辞書を更新している。
とすると「分かる」とは、自分自身を更新すると言うことである。
つまり、理解した時点で変化しているのだ。
分かることは、他者があって初めて存在できる。
そこには可能性が溢れていると私は思いたいのだ。