ふたたび、おとっつぁん
【東へ向かい、北の女のやっかいになった】
あれからなどなくて、ずっと昼餉の膳に向かっている気がする。
勘三郎に楽隠居の真似ごとを嗜められてから、地所みんな遊興に塗り替えたお店で諸肌脱いでのぉ玉の汗かいてのぉ見世物仕事が、膳から箸を離したほんの隙き間の「寝物語やおへんか」と耳元でひとこと囁かれれば、「ほんになぁ」と他人事のように頷いてしまいそう。いったい、襖をすべて外したこの大広間の片隅を借りて昼餉の膳だけを相手に暮らし始めてから、どれだけが経つのか。移ろいに気づこうとしても汁を盛った椀に触れれば、「ささ、お持ちしたばかりでございます。冷めないうちにどうぞ」の声がして、箸を入れなくとも花麩が巴えを巻いて踊っている。すぐに口に運べば火傷しそう。ふーふーいって口に放り込めば生まれて始めて食した鮮やかさがいつまでも口内に拡がってくる。滑らかで温かな汁の粒が、肌合いの心地まで昇華して五感すべてにそのことを伝えに来るのだ。
「あきはしない。あきるはずなど、ない」
声は地のこえ、己れのこえだ。たくさんの黒い手が幾重にも重なり闇を造り光を隠しても、声は波に化け、腕を掌を突き貫き、カリカリひっ掻いて、「まだまだいるよ消えてなんかいないよ」を伝えにくる。目をやれば、どなたが開け放してくれたのだろう、障子戸の縁側伝いの先にてっぺんまで登りきったお天とさんが、こっそり一休みしていた。じりじりの摺り足放らかして、大きなお尻を入道雲に引っ掛け休んでる。眩しそうに見つめれば、汗を拭き拭きの両の手で、おーいおーいを返してくれそうだ。
いつまで経っても齢は取ってはくれない、弱ったもんだ、と投げてみたら、目をつむり肩肘ついた格好のまま、
「潮時だろ、出ていきゃいいんだ」と、返ってきた。
膳を蹴飛ばし、でんぐり返り打ちながら、大広間のまん真ん中まで転がって手足広げた大の字で天井を睨んだ。
カタカタカタぁー カタッ カタっ
拍子木の掛け合いだ。幕を換え舞台を回す勢いは、硬い木の打ち鳴らしが相応しい。
「ちゃあんと、外からの声がけだったよね」まだまだ休み足りなそうなお天とさんもウンウン頷いたんで、ソレじゃと自分で自分のお尻を持ち上げた。勘三郎からの呼びかけはなかったけれど、幕替えの合図があったのだから出かけなけりャ。「いっつもそうや、好き勝手に出かけて」と、連れ戻されるときはいつでもどこでも好き勝手にされるのだ。その時はその時として、行く先を目で行く先を追っていたら、「三絃町」と半紙に書かれた町の名前が東からの冷たい風と一緒に流れてきた。
あそこならあそこにあった格好に変えよう。此処は服屋だ、着飾るんなら何でもござれ。襖を開けた先のウォーキングクローゼットには、溶接までして手間ひまかけて繋いだ武張ったものから、スッピンのまんまじゃ着ても見ても顔を赤らめる羽衣まで古今東西のすべてが納まってる。
このときのために面倒して用意してくれたのに、いざ手にして身体に収めようとすると使えるものは決まってくる。月代のカツラを脱いで黒ちりめんの帽子を被ると、同じ服地の余り布をマントにして、下駄をカタカタで出かけ始めた。
此処に居づらい連中は皆んな東へと向かう。流れた先にできた街はどこも一緒だ。西からの流れ者の足跡の数だけ道は固まり、己れの領分一寸でも伸ばそうと押し合いへし合いして、小屋が建つ、屋根が揚がる。あとは外に打ち出しての生業と、中の、陰に隠れてでなければ営めないものに分かれるだけだ。外へと広がれない分、影に隠れるものの掘った穴は長くどこまでも繋がり途切れはしない。背中合わせで隙き間を合わせ、ひとの踏んでない路を造っていく、通っていく。どんなとこでも廻り込んでくるお天とさんがイジワル顔でトーセンボするみたいに出てきたら、輩たちは、裾でも脇でも貸して、「ソコを絶やさぬように」と、串に刺したダンゴのようにパタパタ連なる。
そこに、「祭りの火を、絶やさぬように」の懸命な氏子みたくな神妙な面持ちはない。
山奥の一軒家に巣食う夜光虫の、よってたかっての静けさばかりだ。甘さ暖かさに欲の匂いは漂わず、寄木細工の踊る模様の可愛さ軽やかさばかりが占めている。
「何んーも、無くなったら」
右手の、おや指とひとさし指、ひとさし指となか指って、順にまん丸い輪っかをつくって順々に繋いでいったら、
「それでも足りないって云うんだったら」両手両足グルグルに包んで、おっきな輪っか、もっと拵えょォ。
西からばかりでなく、流れは北からもあるらしい。笑い声が先に届いてきて、隙間から、それら歯の隙間から、零れるヒト・・・・・ユビ・・・・・、ワッカ・・・・・・なぞるように辿っていくと、親切が形をなして現れてきた。
女の格好は、布と革を繋いで宛てがっている。ので、その隙き間とは言えぬほどあらわに地肌は食み出されていて、それがまた珠のようでいて錦を宛てがっても零れていきそう。
何しろ立派だ。何処から突っついても頭ひとつ仰がねばならぬ巨躯だ。
ばぁが目を付けてはおらぬはずは、ない。小屋を立てて屋根を敷くのも面倒なので、この女の厄介になる。都合よく小屋に連れはいない。割に年季の入った風合から誰ぞより奪ったものやもしれん。陰であっても、敵には向かない、真ん中の似合う女だ。連れはいないがゴソゴソ徘徊する輩はいる。ヒトではない。犬でもなけれな豚でもない。四つ脚かと思うたら六本ある。節をつないだ格好から、獣より虫の類であろう。おおきさは、豚みたく太ったネコよりも、ひと抱え大きい。幾分かジッと見ていると、女がそれを話したくてウズウズしていた。ニタニタした顔で近づいてくる。たった今、ヒトに変わったばかりのような声を出してくる。
「これかぁー、これなぁー、ワタしのコドもよ、このコだけ連れてきたんよォ、毎日おおきくなるよォ、サイショは、それっ、そこに入れるほどに小さかったんよォ」
竹で編んだ虫籠が大きさ順に十ぉと並んでいる。お仕舞の三つは大きすぎて籠というより檻と呼ぶほうが相応しい。もっと大きくなったら、この四畳半より大きな籠を編まなけりゃ、と笑って、あとは成り行きに任せているようだ。そんなでも、匂いはしない、糞のあともない。目玉ばかり泳いでいて、ほかは動く気配はない。
一番に小さな籠に、この一番小さなときのが居るから覗けと云うので、近づいてみると、同じ形した芥子粒みたいのが一匹納まっている。上から目線で、あたまからしっぽまでを眺めてみるとと、蚤の類であることが、落ち着いたらやっとわかった。
「夕べじっとしていたから、ソロソロかなって思っていたら、指の先から生まれたん」
生まれたが「分かれた」に聞こえたが、そっちがしっくりとくるので聞き返さずにそのまま飲み込んでいると、後ろから裂ける音がしてきた。みると、蟹をひっくり返すよりも簡単に節と肉に仕分けされて、きれいになって並んだでいる。外された節の山があり、節そのものは飴色なのがよくわかった。汁も零れてなければ、粉も散ってはいない。あらかじめ引かれていた点線に沿ってジッパーを引き降ろされた豚のように大きく太った蚤は、豪勢な一品料理に化けていた。
女はすでに食い始めている。美味そうだ。旨い物は、見えないように大人しくしている輩たちも喉を鳴らしてくるので、慌てて口いっぱいに頬張る。
「旨い」目が先に声を出して、女に伝わった。
弛んだ口が、疼いた身体を此方に寄こす。この女を食ってるように思うと、旨さはますます拡がり、腹には溜まらずに昇華していく。太った豚の蚤をすべからく胃の腑に納めたのに、はち切れる疲れは湧いてこない。
「ひとつ丸ごとならなら一月は保つんだけど、アンタ半分喰ったから半分までしか保たないね。このおチビさんが、今さっきのコまで太るのに一月かかるんよぉ」
と、云って待っている。黙っていると壊れたれレコードみたいに、はんぶんくったァ、はんぶんくったァ、と繰り返しそうなので、それまでに何とかするよ、向こう向いてフテ寝した。すでに何年も暮らしたヤサグレ夫婦みたいな気になった。何とかなろうがなるまいが、この女に食われるよりひどいことはあるまい。
女は、目の前からは、いなくなっている。穴か、隙間に添ってなのか、出ていったらしい。入ったときの入り口は、今は一筆書きにまで成り下がっているので、そこからではないらしい。陰で営むものは、表とはいっぱしの間柄でなければ、繋がりようがないのだ。何かジメッとした水のような流れが下にくぐもっていて、気にし始めると鼻腔に入れこんできそうなので、ヤメておく。そんな中で、明るく爽やかに暮らそうと、ちまちま、かいがいしく整理している掌の痕が見える。あー見えてマメな女なのだ。
順を待つ虫籠は、太い竹糸で何で編んだマトリョーシカみたく奥へ奥へと詰め込まれ、鈍く艷ややに光ってる。竹にならってピーンと居ずまえを正して対峙すると、天井の一番小さな虫籠に入れられた、前日に女の指から生まれたばかりの芥子粒様も、同じように左前など気にした具合に居ずまえを正している。ひとりは食べられひとりは出かけ、今はこうしてこの屋にいるのは二人だけなのだから、対峙の取り合わせが丁度いいようだ。
大きくなった。目を離さずに見続けていても、大きくなっていく様子は見て取れる。虫籠がはちきれそうで、危ない。慌てて、マトリョーシカに組まれた一番の奥の虫籠を掴みだしてて、おのおのの出入り口を開き、ピタリとくっつける。あとは、ただただお渡りいただくのを待つよりほか手立てがない。こっちの慌てぶりとはウラハラに、食いぶち様は初めてでも世慣れた感じで、しゃなりしゃなりの鈴でも鳴らしながらの、たよやかな身のこなしでお渡りになった。
芥子粒から朝顔の種までに成長している。ひと廻りもせぬうちに五倍にまで成長するのなら、こんな対峙合戦も暇を持て余すことはなかろう。
この食いぶち様のすこし先の方を考えた。このままの芥子粒の名では、いずれの遠くない先に座りが悪くなるだろう。今は大きな芥子粒で、その先は、巨大な芥子粒、途方もない芥子粒と繋げ、もうボタンが止まらなくなったときはヤドカリから始めればイイ。はじめは、探しても探してもそんな小さな貝殻なんか見つかりっこないよォ小さなヤドカリ、から始めよう。
ヤドカリの名を浮かべたら、大きくなった芥子粒のそれでもまだ小さな点にしか見えない顔の中に、ヤドカリの垂れた楕円の真っ黒の目ン玉が見えてくる。「そうなってるから呼び名をつけるんじゃなく、呼び名を付けるからそうなっていく」道理と同じだ。手狭な場所から少しは広くなって、両手両足で伸びをしている気持ちまで伝わってくる。殻やら節やらが寄ってたかって出来上がった身で、反り返りなど出来ようもない身の上のくせに、口元を爽やかにさせ、それでもそう云っている。ついでに言わせていただくと、と少しセキばらいなんぞしてから、一緒になって探してもらいえないかな、カイガラ・・・・・そりゃぁヤドカリになったときに背負うカイガラのことさ。ヤドがなけりゃヤドカリじゃなくってヤドナシだ・・・・・ちゃーんと虫籠の宿があるクセに、何でヤドが居るのかって、そりゃそんな呼び名で呼ばれることになった身の上にならなけりゃワカラナイことだろう、次にその名で呼ばれる運命を背負ったがために縁なきものを探し続ける宿命なのさァ。
女が帰ってきた。思ったとおり、虫籠の竹の網の目を上手に潜って出入りしているらしい。ちゃーんとお稲荷さんまで願掛けしてきたわと、小下駄を引っ掛けて鳴らした涼やかな顔が一瞥を呉れる。虫籠を換えたのも食いぶち様が成長しているのにも、何も触れない。元々がこの女の持ち物なのだから既にこうなっていることは分かっているらしい。それでも、あら、あんた、言われなくてもちゃーんと面倒みて、やれるじゃないのと、褒めてもらうのを待っている身が賤しい。女は少し痩せて小さくなっている。
何処ぞで少し使ったらしい。
飲んでしまった鉛が重く沁み出て、膝でも抱えたい気分になる。それでも女は抱いてはくれない。背中を向けて直し物を始めている。
女に目をやっている間に、芥子粒はヤドカリに変化していた。早い。時は此方が思った以上に早く進んでいるようだ。此方が気づかぬ間に、やつはもっといろいろたくさんのことに気づいているらしい。と、思うと腹の中の重たい鉛の矛先がヤドカリに向かって、そんなに腹は空いてはいないのに、食ったって大した腹の足しになんてなりはしないのに、食ってやろうかと思う。
思ったが、その前に女の手が掴まえに来ることは分かっているので、次の虫籠を用意するため奥に入る。外見はあんなに明るいのに、進むにつれ奥は暗い。先ほど黙って入ったときは気づかなんだが、この屋の間取りよりも長く続いている。女が出かけていた長い時間が跡になっている。
「みっつ先の、でいいから」
女の声が、石でも投げたように、三つ四つ反響してから伝わる。声の粒をうなじで聞いて、迷わずお目当ての虫籠を抜き取ると、そのまま押し抱くように後退りしながらいま来た道を帰った。習わずとも知る作法はあるのだ。
戻ると女は裸になって直し物を続けている。どうやら還ったばかりの自分に合わせ、布やら皮やらを、解いては刺しこみ解いては刺しこみを繰り返す。慣れているとはいえ、指先だけでよくもまぁ器用にやれるものよと感心していると、食いぶち様は今度は下品な世迷い言をは吐かずにお渡りになった。女がいると、こうも猫かぶるものかと感心した。芥子粒時代の虫籠は、また次用のときに備えて紐で括ったひとかたまりで、と言い付けるられる。あれだけの刺し子を指が覚えてるのだから、ここの管理をひとりでこなしてるのも納得できた。
直しものは既に終わっているのに女は裸のままだ。しなまで作って待っている。巨躯から頭ひとつ縮んだら、見惚れるばかりだったのが疼きに代わってきた。溢れてきたのを見定められないように、そぉーと黒ちりめんのマントを身体に寄せていったら、それより先に、まだ少しばかり此方より大きな掌がすすっと寄って剥がしにかかる。マントひとつの身ではすぐにあられもない格好にされて、肌が赤らんだ。
「あたまひとつ縮むほど他所で使ってきたのに、まだ足りないんか」と、少し跳ね返すつもりで言ってみたが、女は、とぼけるではなく何のことを言っているのか分らない顔で、預けているものを返してもらうように食わいこんできた。
「夫婦が、此処で、他にすることなんて、あるん」
と、擦られれば、ほかにどうしようもない。
半分食ってしまったしなぁ・・・・・それでもあと半月は三度三度のこと心配せんかてええんやしぃー、たしかに四畳半の中で他にすることなんかないなぁ。
なにィ、ブツブツ、ネンブツ、コイテっ
のしかかったまま、法悦は続く。顔を埋めた胸はポリマーのように拡がり続け息する透き間を与えない。
「もう、ブツブツかて言えんやろぉ。放してあげるのは食いぶち様の籠がえの時だけや」
息しないのは慣れてはきたが、女の重さは一向に慣れてこない。重さばかりが意識に上り、己れに与えられた仕事を心待ちするばかりになった。
離れると女は肌づくろい余念がない。日がな一日羽づくろいする虫食いの小鳥よりも、よくもまぁそんな処まで指が回るものよの体で勤しんでる。
食いぶち様は未だ小さなヤドカリのままだ。手狭にならないと籠替えは出来ないのに、さっぱり成長してこない。ヤドカリの名を冠する以上は貝殻でないと家を持った気がしないのか、延々と彷徨う恨みがましい足取りだ。本物の家か次の名を用意せぬうちは、ずっと小さな虫のままと決めたふてぶてしい面構えだ。
それでも、お渡りと籠替えの手順を済ませて四畳半に戻ると女はすでにニタニタしている。顔が横向くくらいに延々としているはずなのに、すれば初めての心地が現れて、あとの息苦しさや重たさを凌駕する。何が起きようがどのようになろうが勝てない眠りと同じだ。ほかを弁解する必要もない夫婦の営みは眠りと同様にどこまでいってももう剥がされない形に昇華していく。
眠りは重く、女も重い。
虫籠を替えようと再び奥へ入ろうとすると、「どうするの」と、後ろでおんなが呼び止める。大きくなってもいないのに、住みどころばかり替えて、
「わかってるんだから」
女の言い様が上からのしかかる。食いぶち様も勘づいたようで、精一杯に伸びをしてみせるが、今ごろ遅い。女の声は雑になり、体ごと北国の冷たさに戻ってしまったようだ。
「ほらっ、ちゃーんと大きくなっているよ。時間の回し方が思っているのよりも遅く感じるだけだよ」と、口に出しても女の剣幕に弾かれそう。こちらはますます小さくなるより仕方がない。ヤドカリはせいぜいお鉢が回らないようにと、耳を塞ぎ「せっせ」に余念がない。
女は再び大きくなってきたようだ。それよりも此方とヤドカリが縮んできたのか分からなくなってきた。今はもう夫婦ではない気がするので、女の処までは戻らず黒ちりめんのマントで裸の身体を覆う。座らせてはくれそうもないので、帽子を被ると立ったまま挨拶した。
「それじゃあ、ヤドカリの本物の宿か、次の名か、どちらかを必ず見つけてくる」
そうだろうと思っていたが、自分の口からこうもやすやすと言いつけが出てきたことに呆れた。一筆書きの扉が表に繋がる本物の扉に戻っていた。
「3日ね。それと・・・・」
続きを待ってると食われるよりも恐ろしいことを言われそうな気がして、仕舞まで待たずにスタスタ出ていく。
【ゲルマニウムラジオのポリバリコン】
表の通りには、もう流れ者を寄せ場に掃き集める風は吹いてはいない。今さっき建ててもらったばかりのクセに、これから先、ずーと此処に居座り続けるって顔した白くのっぺりしたビルヂングばかりが顔を並べている。地面を四角く切り取るばかりでは飽き足らずに、空も細長く切り取ったか。剃りたての顎を突き出したどこもかしこも丸みのない男の匂いがしてきそう。
風の流れも此方と向こうでは均質ではない。凸凹している。この様子では、黒ちりめんひとつクルリと巻いた格好だと身が持たぬかもしれぬ。ビルヂングからは均質でのっぺらぼうの男と女がきっちり同じ数だけ吐き出されていた。あたふたしている間にドンドン迫ってくる。
「ぶつかる」
と、両手で目を塞いだら、濁音も痛みも襲ってはこなかった。
見えるだけ聞こえるだけの、実のない連中だ。どんなに近づいても翻りはしない代わりに、小さなツブツブしたものを身体にみっしり這い付かせている。鼻先三寸まで近づいてようやく分かった。
カサカサ音を立ててる。生きてる。生き物だ。ようく見ると粒ではない。長い蛇状の生き物がわんさわんさと寄り塊まって素肌を逃さないよう肩組み取り巻きしあってる。のっぺりなくせに走るほど早く歩く連中の生裸が外に溢れないよう、薄く小刻みに震えながら一緒になって移動する。目くらましのように一瞬、裸が溢れそうになるが穴を空かすことはない。その一途さに見とれてしまいそう。
男も女も見た目のいい奴ほど、上手く引き立ててくれる単色タイトの黒蛇ばかりを扱ってる。それに引き換え身体の線のぼやけてる輩は、此処でも、斑も色付けもマチマチの組み合わせに余念がないから、どうしたって不安そうなキョロキョロ顔から免れられない。
黒くてシャープな、若いモデルの指ばかりの黒蛇たちが寄ってたかって編み上げたタートルスウェーターも、そのタイトな表情は微妙に異なる。鱗だとおもっていたものが、つぶつぶでなく細い輪っかの集合体だったり、節々の集まりだったりする。節々ならヤスデみたいな節足虫の類いやもしれん。
ジリジリまなじりを近づけて、声を聞こうとしゃがみ込む。下腹部を凝視しても露骨な変質者と勘づかれない。その点のっぺりした連中は扱いが楽だ。
ピンヒールから天井へと伸びるキン肉の細く美しい影が、内股の繁みまで、ゆっくりカーブを描いて一直線に伸びている。17歳の娘の一番大切な部位を任されている節足虫はラブラドールレトリバーの優しい目をしている。
鼻孔を拓いて、そっと耳を傾ける。
甲殻質の奥のカサカサは風の共鳴か、でなく、何千何万の内なる声か。マントの隠しからの、ゲルマニウムラジオのポリバリコンをゆっくり出しつ戻りつ回していく。
カサカサッ クゥー カリッ バリバリ
音の在り処の先に、ヤドカリと女が正座して待ってる渦巻の屋が、見えては隠れ、見えては隠れしている。ふたたび鼻を近づけ音の在り処のを聞こうとすると、鼻の穴の毛の一本一本を掴まえに、ニョキニョキ手がやってきた。
揉み手しながら控えめな顔してるくせに、やることといったら強引だ。それに気づかせないようにゆっくりと、身体をニクの中からひっくり返して、在り処へと誘う。持ち込んでいく。目で測れば、「通れないから」と諦めてくれるのに、今はこうして余分が引っかからないから、身体は素直にそっちに変わっていってるようだ。
もうすぐ もうすぐ もうすぐ
插れるとき 出すとき 脱ぐとき
生まれるとき 滅するとき 呼ばれるとき
営みはいつも同じ。
目を閉じたら、眠ってもいないのに目覚めてしまい横にあせの婆ぁが座っていた。今回の婆ぁは少し若い、はじめから艶めいている。
ひと息 ふた息 またひと息
こうした模様替えには、ばぁは必ず付き添ってくれる。目を閉じたさきは違っていても、開けたさきは、いつもばぁのいる四畳半だ。触ると髷はきちんと結われたままで、月代も鬢も風雪には晒されていない。ガサゴソが聞こえたのか。褥を剥がさずに添い寝してきた。
疼きが沸いた。長く空いた懐かしが、疼く。あちらで北の女との夫婦ごとをあんなにしてきたのに、それは疼きではないらしい。
腹がキュルキュル鳴った。
「そっちの方か」と、ばぁは褥をするりと抜けて奥へと入る。こっちは、そっちでなくこっちだったような、生爪が浮いてくる気配は残っているが、任せるよりしょうがない。
探しものを見つけてくるような時のかけ方を経てから、山盛りの白饅頭を零さずに積んできた。饅頭はカサコソなっているようだが、そのまま過ごすことにした。持ってみると手から溢れるのに、どれもこれもひと口に入るので餡は口の中で見るより仕方がない。蜜を練り込んだ餡はいくつ食べても、腹は膨らむことをしらない。だから、ダダを捏ねる理由は見つからないので、萎えた海綿は、喜んで蜜を吸い込み続けることになるだろう。
蜜ばかりと安心していると、油と肉汁で出来た丸い珠がひょっこり顔を出して「今度は、うちをお食べ」と柔らかなほっぺたを押し当ててくる。
そんなこんなが交互に続く。
盛られた盆の朱塗りの底地が顔を出すと、ばぁは膝を曲げて、「再び」と、奥へと下がる。次の用意を始めるのだ。
今は、ばぁひとりのこの屋に専任の厨房など在るはずはなく、どこぞからの仕出しで済まして、それを運んでくるだけなのだが、いったん奥に潜ってしまうと「再び」はあるのかと、戻ってくるまではやはり気が急く。
「ほなぁ、蒸篭蒸し」
こんなになってまでも噛んだときの汁が口中全部に溜る羹を恋しがってる。「火傷するのしっとるくせに」とわかってはいても、何かを優しくしてくれるはずもなく、生暖かな餡は続き、口からのお出迎えは続く。あいかわらず、腹は一向にくちくならない。そのくせ饅頭は腹に溜まっている某方を口の方へと追い詰め、言葉となって吐き下すように迫る。
その度に、慌てて押し込む。ばぁは勘付いたやもしれん。零れそうなのを掌までつかって戻したとき、出ていた尻の先を見られたようだ。
では、聞くが。
あーああー、やっぱり問答は始まった。すでに饅頭の山は下げられている。
それでは、お前様は先程の饅頭を手始めに、何処からを何からを拵え物と言われるのか。
ばぁは既にあたまを丸め墨染めの衣に着替えている。むかしから形から入るタイプなのだ。ばぁには抗えない、現身なのだから。
「ちりめんの黒いマント」と、カード一枚を差し出すように答えた。東の国の風塵を浴びてドス黒い重さに変わった黒いちりめんマントも帽子も脱いだはなから滅せられている。
まずはそこからか、ヨシヨシ
引き出しから帳面を取り出し、チビた鉛筆で文字など起こしている。刑事ごっこしている饐えた子どものようで、崇高さや妖しさは欠片もない。他のものも出してみればと、云う。何をと尋ねれば、カードに決まってる、ほれ、そこのを、同じように、順に並べて・・・・
ちりめんの文字は抜けて黒いマントだけ真ん中に書かれた大振りのカードが、ばぁと対峙している真ん中よりも少ぉし左に並んだ。
女を浮かべたら北の女と節足虫に守られた黒いピンヒールの17歳が出てきて、一緒になって並んだ。横がそれぞれ空いてるので他に何かを待ってるらしい。北の女はそのことがありありと滲み出ているが、節足虫に守られた黒いピンヒールの17歳とは、その下半身を視姦したばかりなので並べたものであっても面と向かうと少しくすぐったい。それでも、「節足虫」が寄席文字よろしく太く大きく波打ってるのをみると、あれから相当の事の成り行きがあったのが知れた。
「考えてばかりおらんと、早ぉう出しとくれ」
食いぶち 夫婦 繕いもの
東の国 背中あわせ ぐるぐる
芥子粒様 ヤドカリ 虫籠
螺旋 貝殻 カルシウム 節足 結束バンド
「分かってルんだから」
ゲルマニウムラジオのポリバリコン カサカサッ クゥー カリッ バリバリバリッ
途切れなく吐き出されてくるカードは、ベロが蛇みたく長く巨大に変化したよう。口には裂けた痛みはきてないが、きっとそれも裂けて巨大化していなければ、こうは器用に動けまい。
ばぁは変化しない、変化の兆しもない。相変わらず占い婆ばぁの澄まし顔で、こちらの手札ばかり読んでいる。こんな時のばぁはきっと楽しんでる、可笑しんでる。胃の痙攣で七転八倒して、脂汗までかいていても涼しい顔でひとり悦に入ることを快しとする。もちろん、そんな評価あげても何も出てこない。吐き出すのは此方だけ。カードを納める目はまだまだ空いている。
「まだまだ仕舞やおへんやろ。まぁ全てが埋まるではないが、それでも、ほれっ、まだお前様たちの探しものは吐き出してはおらん」
胃液の奥のどん詰まりからサカサに折り畳んでペッタンコのアイロンがけした二枚をしずしず吐き出す。
「ヤドカリ やどかり 借りる宿」のブツブツ声がゲルマニウムラジオのポリバリコンを通して耳骨に響いてきた。婆ぁの目が「それじゃ3日ね」と期限を切った北の女と繋がっている。
「カンブリア」
ヤドカリをはぐると、裏に同じカタカナ文字が書かれていた。何度も何度も書き直しがあったようである。文字からその時の迷いが伺えた。
宿が書かれた方は、結局は開けられずに他のカードと一緒くたになって、いったんセピア色に染まってから土用波が砂を蹴飛ばすように持ち去った。
「帰るときは、宿を背負こむよりも、かくしに紙一枚放り込んどくほうが楽やろて」
いつ着替えたのか。ばぁは墨染めの衣も丸めた頭も取りかえて、いつもの着たきりに戻っている。此方はというと、片手で身支度できるよう隠しておいたマントも帽子もフックに釣り上げられていてお帰りを待っている。
「カンブリアにまで行き着いたら、ここからどんな仔どもが飛び出してくるやら。ちゃんと食い頃を見定めんと、あべこべに食いぶちさまに落とされて、食い殺されてしまうでぇ」
婆ぁは、ひたすら弱電波を拾うポリバリコンになって長短の抑揚をつけながらこうした呪文を繰り返す。ときどき胃が痙攣する音が交じる。楽しいのだ。可笑しいのだ。
帽子をかぶりマントを羽織れば、外出着なのだからあとは帰るだけ。ここから先は、北の女の居るあの屋しか待ってはいない。持ち帰るものが今どきのヤドカリの宿ではなくて、螺旋に仕上げたずんぐりむっくりの円錐と「白い肉」を少しずつ少しずつ「甲殻」に詰めて太らせていく斑のウジャウジャが潜むカンブリアであっても、食いぶちさまとして育てるまで。北の女は口移しで既にそのことを知っている、はずだ。
【食い扶持様はカンブリア】
「早く早く、入って入って。節という節がパンパンに張って、いまにも胡散霧散に弾けてしまいそう」
戸を開けるより先、北の女の口が出てきた。言われなくとも節足様のミシミシがこの屋を震わせておるのは見て取れる。なりは変わらずとも、膨らんだ中身はすでに籠の中を超えているのだ。
「それで、どっちだったの」
婆ぁとの背中合わせで聞いたはずなのに、今どきの宿を背負ってないもの見えてるはずなのに、女はそれを許さない。すでに分かっていることを男の口から言わせたがる。いまでもやはり夫婦なのだと思った。
見てのとおり宿はないから名前の方だと、隠しに入れたカンブリアの名が畳まれた紙を渡そうとすると、拒まれ、そのままこちらの掌の中で小さく丸めて口の中に押し込んできた。力で勝てるはずもなく、なすがままに女の指から五臓中に押し込まれていく。女の作法は二人羽織となってこちらの身体を飲み込んでいく。腹の奥に紙が落ち着くと、女は交合の位置を変え、今度は己の中への移し取りを始めた。節足様はなりを鎮めて静かにしている。こうしたことには慣れているらしい。腹の中で喰い破られて果てるのがよぎったが、それはなく、ゲロを吐き散らかす寄生虫のように腹の中でモゾモゾ徘徊している。寒さで縮こまった蛸の足のような残酷な口が気が気でないが、そんな臆病を攻めたてる女の口はもっと怖い。女の誘いがわかるのか、カンブリアは己れを溶かしながら途をつくって女との繋がり口まで登ってきた。そこまで登ると、じっとしてるのが待ってるサインとわかり、ポンと送り出してからひとりで果てた。抜けたのは確かだったが、女の方に変化はない。いつもの夫婦ごとの後のように、濡れたのが乾くのを赤子がおむつを替えてもらいたいように待っている。紙に書いた名前ひとつ渡すのにこんな面倒まで挟んで、どんな「お恐れながら」が飛び出してくるかと身構えていたら、それっきり。
「籠を、かえて」
さっきまで生木むきだしの声だったのに、かんなで削られ丸みを帯びている。「大きなやつ、一番に大きなやつ」と、屋の奥まで女の声がこだまする。
虫籠もここまでくると背負うよりしょうがなく、四畳半の大半を占める大きさの中に、女は節足様の入った虫籠ごと入った。
気づかぬうちにポンと模様替えがあった。「これ、いらないから返してきて」と手に持った方の虫籠を身体の潜った大きな虫籠の中から差し出す。模様替えがあったので、虫籠の中の節足様の姿はすでに消えている。
「食べたんじゃないから、ね」
可笑しくて仕方がない顔だ。
「食べられたんでもないから、ね・・・・・多分」
「多分」を言ったベロだけが、尻の穴のように縮こまった蛸の足の、チロチロ、チロトロ這い回る様子になって見えてくる。再び、抜き足差し足後ろ足で籠を奥に返しにいく。奥に入ると、大きな虫籠の中の暗闇にたくさんの白い線がはびこってるのが見えた。恐ろしさは生まれてくるが、どうにも仕方ない。奥にはもう入用の籠はないのだ。女の入った籠に入るよりしょうがない。
「ちゃんと、また、戻ってきたんやね。また寄り道でもして、しばらくは戻ってこないような気がしてたんやけど、うちの心配性やったね」奥から出る暇もなく、声と両手で引っ張られて籠に押し込められた。
多弁になった気がする。籠の格子の縞模様が肌に陽炎の影をつくったせいか、細く華奢な印象までうける。北の大地の大きさ硬さが抜けてきた。西の柳の風を受けたはんなりが、しなまでつくった丸い窪みから立っている。少し酒臭い。
「うふふふ、ふふふ、口の周りばっかり覗き見しよって。けったいやわぁ・・・・そんなに恐ろしいんやろかぁ、うちが変化していくのが・・・・食いぶちさまがどないな目に遭っても何も吐かんかったのに」と言うや、籠の格子に前歯をひっかっけ、ヒヒーンと嘶き喉頭の置くまで見せびらかせてくる。たちの良くない女の酔っぱらいと、うっちゃらかせばそれまでだが、いつこちらの五臓六腑に歯牙をかけるか気が気でない。
ひぃー冷たい
おどおどした心根に刺さったので、かけられたことが、まずは冷たさを刺激する。ウッうーん・・・・と、五感が戻るとツーンと匂うし、むしろ生温かい。
こいつ、本当に溜まりに溜まったオシッコかけてきよった。
拭き取るにはあまりにもずぶ濡れ、せめてあたまだけでもと両手で絞ろうとすると髷と鬢がイヤイヤする仔みたいに絡みつく。どうしてこんな時まで時代がかった格好をせんといかんのか。少し悲しくなった。雫に丸めて落としていくと板張りの床に小さな丸い池ができた。
次があるかと刹那に身構えたが、今度は何も仕掛けてはこない。そんな硬さが子供じみて映ったか、またひとりでモゾモゾしよって、また頭でっかちになりよってのお小言が降る。
お前さまを通じて渡ってこられた由緒正しき通り路、小水できれいに洗い清めたからには、不遜な思いなど持ち込まずに、渡ってこられよ。
酔っ払いは、遊んで、からかい、誘ってる。この期に及んでまでもそないな恐ろしいこと、クワバラ クワバラ。
両の掌ゲンコに握り、クッと折った膝まで抱えてブルブルした大仰さに、酔っ払いも股も閉じられた。
「カンブリアの名、ばっかりやないんよ」と、なにか教えてくれる素振り。女からは刃とエロエロのどちらの生臭さも消えたので、片耳に鉛筆挟んだ頭を女の言う方に傾ける。あんさん、ちゃーぁんと宿の方ももろうてきたんよ。うちはカンブリアの名をもろうた食い扶持さまの宿になって、飲めん酒を無理やり飲んどる女子はんと同んじように、旦那はんのひと月に一度のお目見えを茶ぶだい囲む楽しみにして、大事に大事に産み落としたもんを育てて、夫婦ごともやらんと、ここでじっと耐えてみせます。
女は正座を組んで青桐になった。もう風は吹いてはこないので揺れる心配はいらない。シッコに濡れた頭は乾いてはいないが、女をそのままにして置くのは、何か理不尽で、可哀想に思えたので一緒に正座し、このままで模様替えとした。
対峙は長く続く。それでも今度はちゃんと向こう側に相手がいるので形になる、サマになる。今度もやはり目をつむらなくとも辺は暗くなって、視界から先に消えていく。消えて萎えるだけかとおもったら新しく生えてきたものもある。たくさんの柔らかなものが代わりを果たしているようで息苦しさは感じない。女の方も似たようなものだ。顔から目と鼻がなくなって口の周りがシュワシュワしている。そのくせ髷も鬢も感覚は残っているので、昔を重ねることはできそうだ。できるが違和感はあるのでやめておく。こうして同じ時をかけて変態していくと、積み上げた時の数だけ実になっているのがリアルに分かる。色のほうは移ろいに従ってしまうが、女のイボは形も大きさも変わらずに定着したままだ。右肩の付け根から、一、二、三と数え始め、くるりとひっくり返した尻と股の付け根の皺に隠れた六つを足して全部で三万八百六十五あった。こんな根気のいる地味な作業も好きな女のこととなればいくらでも数え上げられる。しんどさも間違えることもない。そう、そう、そういえば二人とも正座していたはずなのに足元がない、天井がない。上下、左右がない。
浮かんでいる。
水の中、それとも空の中、肌の色の移ろいは色ではなく発光していて、そのまたたきを掌で確かめ、楽しむ。小さな点の羅列が順序よくぼんやり瞬いて出ていく。プシュッ、プシュ。潮を吹く音が、遠い昔からとたった今の反り返った音が交互に羅列し、うぶ毛を撫でる。|ピタピタの海とプカプカの空の螺旋の渦の中で身悶えするばかり、音が交じわる世界は遠のいて、もう粘液と腺毛だけ。カンブリア達がうごめく太古となんら変わらない。ぶつかり、捕食し、捕食され、また分裂を繰り返す。
ひとつはふたつに分かれ、ふたつはひとつに喰っつく。時を垂らしてやらねば延々の重みなど分かろうはずもない。
いち、じゅう、ひゃく、千、万、億、兆、京、垓
プチッ ドサッ 泡あわァー 積みあげた目方が崩れて泡あわの細い穴の中へ一気に滑り落ちて、元々の四畳半が現れた。むろん、虫籠の類いは綺麗サッパリなくなっている。屋の半分を占めていたものがこうもキレイになくなってみると、四畳半といえど案外に広いものだと感じる。殺風景よりもこじんまりが先に立ち夫婦二人の居場所には丁度いい。
女とちゃぶ台はさんで食べる一月ぶりの晩餐。夜でなくとも、ごちそうはなくとも、待ちわびた者同士が食べるのは晩餐と呼んでいいだろう。女は並べたあとずっとこうして掌を膝に添えて待っていた、のか。何も零さず何も始めずに待っていた、のだ。そう思うと、やっぱりしおらしい。やはり夫婦なのだと思った。少しは腕をあげようと思ったか、今度のは少し手が込んでいる。
白い生地が半透明のゼリーに包まれて、ひとつひとつ勝手にプルプルしてる。ばぁの処で食わされたのが饅頭ばかりなので、どれもこれも水饅頭にしか映らない。餡は喉の滑りやすさだけに心を配ってるので、ツルリンの触感ばかり跨いでくる。
かぶりついたが、味付けには何も手が加わっていない。カンブリアとはこうして食うものと飲み込みより仕方がない。賞味がなければ一声のべれば十分だ。あとは咀嚼し腸に送り込んで伽藍どうの身体を組み直していくだけ。
女の食いっぷりは凄まじい。零した酒が地面に吸い込まれる前に四つん這いになってへたり込み吸い込み続ける酔っぱらいの厚ぼったいクチビルのようだ。
歪だ。唇ばかりが前を向いた顔は肥大化し、代わりに身体は抜き取られるように萎んでいく。北の大地の冷たい風がいつも付いて廻っていた俄然としていた巨躯は、いまはちゃぶ台の肩まで張り付くのが精一杯。産み落とすためだけの宿の身となれば、食えば食うほど歪に矮小化していく。食いっぷりが凄まじいだけに、餓鬼道に堕ちた哀れさが立ってくる。そんな感傷に浸って貪り食うのを呆けていると、ばぁの処で寄り道して饅頭を腹に詰めていたのが見透かされそうになるので、手は休めてはいけない。ただただ腸の言いつけに素直に従い、伽藍どうの身体を組み直していくだけ。
いち、じゅう、ひゃく、千、万、億、兆、京、垓
とおり過ごせばいいものを、わざわざ立ち止まって数を数えることばかりに費やすせいで、食うのはどうしても女より遅くなる。女は、こうして、無闇やったり一目散の体で元の巨躯の取り戻しにかかり、ツルリの肌の磨きまで始めた。河原でジッとしゃがみこんで珠の小石でも洗うように、己れの肉片をひとつひとつ両の掌で丁寧に洗って、下したてにしてから己れの身体に納めにかかる。
長い晩餐。長い湯船。長い眠り。長いため息。女の長いはみんなサウダージの匂いが付いて廻る。
咀嚼も喘ぎも、口元からは忙しなく見えるのに、飽きることをしらない繰り返しは、磨き込まれた銅板のように滑らかだ。眼差しに寸分のズレがなければ、女はこうして塵ひとつからでも、己れの身体を取り戻していける。
十分なところまで身体を造り終えると、女はちゃぶ台から離れ、以前のような「せっせせっせ」の繕い物に移った。肉や肌とは離さず己れの肉片をひとつひとつ丁寧に磨くように縫込みを始めている。延々延々の刺青を落とし込むような単調な作業をよくもまぁ飽きずにやれるものよと感心して見ていると、糸目の跡が見えぬほどのギッシリに赤い血蒼い血が沁みだし拡がっていく。仕上がって羽織ったとき各々の反対色が映えるようにと、肌の乳白色がコロコロ転がるまでさらに磨きをかける。
己れにこんなにも傾けられるもののある女の身が羨ましい。
ちゃぶ台の縁に腰掛けながら、女の脇下にも届かぬ運命となったが、不思議と卑屈は顔を出さない。女の掌はあんなにも忙しく動いているのに、音はない、静寂だ。食いぶち様を探し回ったお遍路は、遥か彼方のよう。カンブリアの名も、宿にされた女の身体も、水饅頭も昇華されてしまったらしい。
今はもう、何かを繋げなくても、夫婦でいられる。
【ばぁの屋は落ちぶれて、やるのは草むしりばかり】
こう長くひとりばかりが続くと、あせの婆ぁは猫たちを思い出す。誰それというより、「猫というやつは」と思い出すのだ。出たり入ったりをせわしなく繰り返し、大勢でジャレあっているかと思えば急にひとり擦り寄ってみたりを繰り返し、挙げ句の果てが皆んな一斉の逃避行。ガランの声ばかり聞こえ一人飯の支度になれた頃、ひょっこりのヒョの字も顔に書かんと、食べるだけ食べ、したいだけやって帰っていく。大勢の妓のいた賑やかな時分も勘三郎が妖かしに憑かれたいまも、それに変わりはない。到来物を胸元でキュウっと包み、丸髷まで拵えた他所行き顔の作法ばかり喧しいのもいれば、畳も剥がさずに床下からのそっとの跳ねっ返りと様々だ。
辿り着いたときは、「故を抱えたこの身であれば死んで灰になるまでお世話になります」の口上は一様に云うくせして、その同じ顔で「行水、浴びさせてもらったよ」の捨て台詞を吐くみたいに去っていく。こうまで長くやってると何が実で何が妖かしなのかさえ分からのうなってしまう。到来物、丸髷、他所行きの三拍子が揃っていたかって、そんな格好を正面から見たら、「いったい何時の時分の格好だい、あれは」のジャラジャラ声が飛んできそう。うちに限ってこんな律儀な妓が寄り付くはずもなく、お互い正座合戦して顔を穴のあくほど覗いてみれば、その顔の奥に鎮座する猫の顔が見つかるばかり。「まーいいわ、おあがんなさい」と一言いえば、勝手知ったる何とかのとおり、あとはズカズカ奥へ奥へと消えていく。
路地といえば、ここんとこめっきりと細く曲がりくねる一方。猫にでも変わらねば此処まで辿り着けにんようになってしまった。照葉の柴で拵えた手入れの行き届いた垣などはこの屋の周りだけ。あとは赤錆びたトタンやら角が朽ちた礫が顔を出し、近づけば肌やら巾やらをたちどころに裂いてやろうと待ち構えている。
猫の身だって気が気じゃない。
照葉の硬い葉の先が、雨に濡れた玉になってジャレつくのとはわけが違う。昔みたいにのんびりウロウロの体だと辿り着く前から皆んな血だらけだ。生来からの猫であったら持って生まれた敏捷も備わっているだろうが、途中からの輩であっては、乳母日傘の甘ったれが仇となり、血だらけの猫のなりを未だ解けずに三和土に打っつぶしたまま。汲んだ水にガーゼを充てて拭いてやると、「あい、アイ」と目だけ昔に戻って、どこの若旦那かと顔をあてがってみると、何のことはない。「キンボウ」と呼ばれ、貧乏長屋に棲み着いて、年老いた母親を裸にひん剥いても通ってこようってゆうヤクザな小倅だ。
猫に化けても一人歩きひとつ満足にできやしないと、哀れより愛想尽きが先に立つ。そんな輩にかぎって、なりさえ戻せば「湯舟まで案内してくれ・・・・それからのことは、それからだ」と、口だけはいっぱしに血潮の拭き取れてない足で床板踏みならし、ひとり勝手に湯殿のある奥にどんどん進んでいく。茶髪のロン毛に緑のメッシュの入ったあたまを掻きあげ、チェーンとピアスのぶつかるジャラリジャラリを従え、湯殿へと消える。
穴の空いたラテックス地の黒のジャンプスーツを傷んだ肌でも剥がすように脱ぎ捨てて上服に着替えでもするように湯船に浸かりながら「肌さえ取り戻せばこっちのもんさ」と嘯いてるの相違ない。
すぐに、湯船から見え隠れする白い背中から上物を物色して、吸い付く宿を見つけたらしい。
「釣りはいらないよ」の寒さを忘れたキリギリスさながらのふてぶてしさで女からもらいたてのピン札を三和土に投げてよこすだけでは足りずに「いつになったら此処はカードケッサイできるんだ、あァー」と首まで伸ばしてうるさくほざくんで、「いまも昔も掛け取する女郎屋が何処にあるのさ」と、さっきまで折れて泣きべそつけながらくっつけていた鼻を、「エイッ」ってつまんでやった。
大昔に沈めた「女郎や」の名がこのすました女のどこぞを抉ったか、腫れた鼻を撫でてもらいたいと擦り寄る男の泣きどころをピシャリ叩いて、女はひとり出ていこうとする。「キンボウ」は、釣り上げられたオヒョウみたいに口をあっぷあっぷシャチほこばりながら女の袖を引きにいく。女の帰りのイデタチは、やって来たときの御為ごかしとは対称のノースリーブだったが、それでもちゃんと引かせる袖だけは用意して、二人仲よく繋がって、戻るところへ収まった。賞味期限はあるにせよ、あれはあれで一対の絵姿やろう。こないなところで、しがみつくものも持たんとひとり立っておられるのは勘三郎くらいなもんや。
妓がひとりもいなくなってから、この屋もどれほどがとーんと経ったか。世間様からは在り処も分からんほど落ちぶれて、来てくれるのは昔の馴染みの繋がりばかり。男の客なら懐かしさも手伝って婆ぁとなった今でも抱いてくれるが、こないに女客ばかりになってしもうては、少し柔らかにした湯などに入れて朱塗りの盆にもった団子を「たんと召し上がり」と勧めるよりほか饗す術はない。あんなロクでなしでも男というだけでやっぱり浮き立つ。足の裏の筋がたってくる。うちも妓のはしくれだぁね。鼻についた気まぐれで拾った男だろうと、いつでも濡れ雑巾みたいにたたき落とせる男だろうと、袖を引いてくれたらやっぱり可愛いが顔に出る。一緒に居ればやっぱり身体に馴染んでくる。
ほぉら、戻ってきた。戻ってきた。
「ねぇーおかあさん・・・・・あんだけ使ってない部屋があるんだから、一つくらいあたしらに・・・・・貸してくれたっていいわよねぇ」
さっきの「女郎屋」のお仕着せのせいか、女の口はどこまでも日傘越しだ。男の方は、もう袖なんか引いてやしない。逢引きしたさに内股を擦り合わせてしなまで作る女の後ろ姿を、ニタニタ笑いながら楽しんでる。ほんにロクでもない奴だ。「部屋貸しは前金なんだが」と、うそぶけば、女は間髪入れずに財布を投げてよこす。そのまますたすた男の腕をとると、こっちを横目に、あがりかまちから見知った奥へいそいそ入ってく。それでもふたり分の履物を手前に返すのは忘れちゃいない。鼻緒の先が「女子ですもん」と囁きかける。耳を伸ばすと堰を切ったピチゃピチャまで、聞こえそうなんでやめておく。
逃げ場のない火照りが移されてはと、今朝から掛かるつもりだったようにしゃがみ、軒先の草むしりを始める。見えてる草むらだけが生きる証なのだと集中すれば、奥の気配はおろか揃えた履物も消えて、いつもの左右どちらにもぶれのこない午が上がった。「ジョ切り」「ジョ切り」とむしった草の掘り返しの黒々した穴の中から夜の帳はやってくる。土竜がどぶ鼠でない証に、土掘りには役たたずの左の小指を匕首で削いで包んで「これでどうか」の作法があって、夜の帳はやってくる。
「そろそろ口開けとするか」
草むしりでたるんだままの尻では、夜の帳に合いはせぬ。湯船に浸かり緩んだ皮を鞣しにかからねば。
引き戸を開けると、天井とは首ひとつが挟めるだけの高さよりほか隙間の見えぬまでみっしり湯気が立ち込めている。手桶をとって掛け流せば、肌のひとつひとつが、ホぉーと口をすぼめた声を出す。への字に曲がった海綿に張りが蘇るよう潤ってくると、婆ぁは妓を乗せる湯船のひとになった。身を預けて口をすぼめると、今度はやっとアブクになった疼きの声が湯気をかき分け天井まで昇っていく。この湯船にはいま同じ狼煙がほかに二本立っている。
先客がおるんか、と訝ってみた。脱衣の籠は空ばかりやったのに、部屋から裸のまんま這ってでもきたろうか。それとも、よそから此処に繋がる穴でもあって得体の知れんもんたちが親しく入り込むようになって、と湯気ばかりこう濃くては、湯屋の輪郭はおろか互いの筋目さえも怪しくなって、妄想ばかり膨らんでしまう。開けても閉じても見えるのはオレンジ色した斑点ばかり。巨人の大きな舌を四角く畳んで拵えたネットリよりほか相似のものは見つからない。入ったばかりで、もう湯当たりしたんか。湯のざんぶざんぶした波のうねりよりほか肌も花芯も溶け込んで、もう息する反復さえ忘れとる。後ろから薄っぺらなたくさんの手がするする伸びてきて、あたまを押さえてズブスブ潜っていく。
湯に潜っているのに何も変わりはしない。開けても閉じても見えるオレンジ色した斑点は同じまま。ただ丸く丸く柔らかになっていくだけ。
先の二人は湯船から上がったようだ。連れそふ二人の声がしたようなしないような、聞こうと耳を広げる前に消えていった。引き戸の開く気配はなかったので、何処ぞの穴より消えていったに相違あるまい。立ち上がった際、湯気の透き間から体の線がふっつり見えた。己れさえ見渡せぬこの濃い気の中では気の所為やもしれぬが、肩なのか尻なのか乳房なのか、丸いもんの塊が寄り合わさって出来とる若い女の身体がふたつ揺れてる絵姿がふっと止まって、盲となった目の中に一枚カシャリと入いった。
若い女子いうところが大切や。おォーおォー、見とれてうっとり、のぼせてウタウタ、うちのおっパイ張ってきた張ってきた、下腹のお肉が胸まで上がって戻ってきて、二の腕と首の筋は絵を書くのがうまい子が柔らかに轢いた蝋石みたく薄い弧を描いとる。腰から下までうつむかんでも、右足の親指にいたるまで欲情を煽り立てるもんに变化しとるのは、よう分かった。
勘三郎も婿はんも、みんなうちのこれを好いとうて呉れた。口ん中で飴玉みたいに転がしてくれて・・・・・・代わりに、うちィ、うちに向けとる方の耳たぶ、左手でそっと、「薬指と小指、中指と薬指、ひとさし指と中指、親指とひとさし指」っと順にはさんで、口ずさんであげる。そうすると、小んまい頃の、赤ん坊の頃の、ふわふわした心地に戻って、「気持ちいい」、「気持ちいい」、「気持ちいいがァー」がひとつひとつ羽根になって、風車になって、回り出すんよ。
音頭節まで合わせるように追いかけてきたんで、唄ってみる。
くっすり指と小指
なっか指とくすり指ィ
ひとさし指となか指ィ
おっや指とひ・と・さ・し指ィ
声はだんだんに丸くなりひとかどうかも怪しくなりそう ーうちのお髪いったいなんぼかのう、一度くらいはきっちり数えてやらんとー
色と艶の戻った髪を順にいじって湯船に浸かる。クモの仔を散らすように遊びたがる一本を引き抜いて、ようく言いつけすると、くるりまわれ右してほかの仔らに点呼出してくれた。くぐもった中で聞こえてくる小さなもんの声は、中身が何であろうと、気持ちええ。小さくてピタピタの指した腕がするする肌を包んでいく。
千から万に超えたところで精一杯、湯船からあがる。触れる肌の面はとうに無うなっても、なお包み込んでくれる小さなピタピタした指が腕がこしらえた繭玉こわすみたいに、すっくと表にでた。
今宵来るか来ぬかは横に置き、この屋のたったひとりの妓に戻って張り出しの若い身体で、お客を待つ。
いつもよりの長い風呂がたたったのか、女よりもひとつ前の娘にまで戻ってしまったよう。赤い緞子でく包んでもどこもかしこもツルんとひっかかる処がない、のっぺらぼうの青桐が隠れている。
若いゆうのもここまでくると、なぁー、添えもんの、のっぺらぼうの、顔なし妓になってしなうわぁー、いくら若いほうが好きや言うても、これでは引っ付いてはようくれん。みんな己れを若う戻しに此ないな処まではいず回ってくるんやから。猫に变化までして来る輩らもの、ひとっ風呂浴びれば、ようよう昔の若いじぶんに戻してくれると決めてかかってるんやから。
うちから一切合切してもろうてるって思ってるみたいやけど、みんな己れがしとることなんよ。せやけど、そないなことゆうてもキョトンとしとるだけ。そして、ニタリニタリ「何を今さら」のしたり顔で、此処は、この屋もこの地も、ばぁの息と身体で拵えたもんやないかぁ。それが恋しゅうて恋しゅうて、背中かがめながら狭い途たぐりながらやって来てるんや・・・・・何を今さら・・・・・
えんえんの独り言ちに巻かれ、あたまが重うなった時分にお客は来る。こんなにも若こうなった赤い緞子に包まれた青桐みて、「ホほぉ~」と生ツばゴッくん舌なめズりすると一目散に湯船に浸かり、己れの身体を堅く拵え、「ここまでぇ」とこらえきれんまで赤く硬く若こうなった身体で、丸太ん棒かかえるみたいに中に入ってきた。若いいうのんは柔らかいより硬いもんを「快」とする性質やから、こっちも連られて初めてのときの痛みがはしる。
お客はそそくさが済むと、これを落としてなるものかとやってきた長い道をサササッと帰っていった。
のっぺらぼうのためか、客と通じ合ったときの硬い痛い時間は身体のどこにも残っていない。やっぱり青桐は、青桐のままだ。妓でいると、こうして頬杖ついてお客を待つのも、やってきたお客に身体を預けるのも同じひとりのまま。ひと恋しいおもうたら、妓をやめんと。妓をやめたら、この屋もこの地も崩れ落ちてしまう、ばあを恋しがるもんたちの行き場が無うなる。
そしたら、うちかて行き場が無うなってしまう、消えて無うなってしまう。勘三郎がこの屋にひとりで来たとき、枕語りしてくれた。おとっつぁんだけ勘三郎の名ぁもらえんかったから、ずっと婿はんのままやった。大広間にポツねんと、箸をつけん午餉と対峙しとる背中と、うちにきれいなべべ着せて呉れて此処ん家のたくさんのぼんぼり、二人のいっしょに眺めとった夜のこと。そないに目でなぞったように言うて、
「想い出すんは、その二つだけ」と。
「おんなじ掌、おんなじ指」と呼び合い絡めてた口はどっちやったんか。勘三郎と睦み合うときは妓は忘れとる。
逢瀬が此処では、この褥ではなかったからか、身体は幼くて、お互いにくっついてるもんがすっかりみんな抜け落ちてしまったからか、おっきな二つの首ばっかりが浮かんどる。ナンゾ吐き出すんかおもうて待っとっら、きれいなもんに出逢うのに、懐かしさばっかり、寂しい気しか起きてはこんかった。
「ばぁは、抱かれたかったんやのうて、抱きたかったんやろな」
「だって、ほんに、小んまい幼いまんまのままごとみたいにじゃれおうててん、ひなたぼっこしとる子猫が二匹転がっとるよりほかのもんには見えやせんかった」
からからした声がそう言うと、まだまだ生温かい「おんなじ掌、おんなじ指」は浅瀬の波にかわり、ただただ懐かしさが溢れてくるだけ。溢れるものは、浸るを待たずにすぐに洪水になって押しつぶしにかかる。
ひたっておっては、いかんのや。
朝をむかえる前の夜は、いつも同じ。うるんを溶かす刷毛を立てておいて、ほんに、よかった。のっぺらぼうの青桐は、三人四人の時の移ろいを肩車したまま、肌も肉も息さえも殺し生き続けるあせの婆ぁを取り戻す。三人四人の骨のきしみは勘定できても、十人を過ぎてしまえば、あとは一発ガツンと殴られ気絶するのの繰り返し。本当に熱い湯に浸かるときの涼しさと同じや。超えてしまえば涼しさを、どれほどに長く重くとも一瞬の静寂を、受け入れるのは、ただそれだけ。高く真っ直ぐに伸びた青桐の葉の一枚一枚の育つ移ろいが見定められないなら、それら一枚一枚の葉が誰ぞの気まぐれで叩いた掌の合図であせの婆ぁの曲がった節々の肉片の変わったとしても、夜が朝を迎える理と何の違いがあろうか。
それやから、夜にすがりつくのんは、無駄なんよ。
「湯屋番」が、すがりつきたいと脇からつるリン抜け出てきた。使うのをとうに忘れられた下足札のように文字も言葉も半分消えかけている。猫に化けてまで此処にやってくる輩で覚えてるのはもう誰もおるまい。
「いまはめっぽう男も少なくなってやれっこないが、この屋にも湯屋番を置いておった時分もあったさねぇ」と、ばぁは相手を見定めぬまま話し始めた。
あの婿はんも、もとは山育ち、もろ肌脱いだ男衆のその中におったような、おらんかったような、なにしろ、湯気に紛れた顔無しばかるが、漂い、移ろっておる。みんな、湯の番、薪の番、客入れの番、客出しの番と汗水たらしてようけ働いてくれた。
「この屋のあのお湯は、まだ生まれてはおらなんだ。膝っ子抱えてすやすやの胎児の寝顔ばっかりで、まだまだ育ってはおらなんだ」あたり前に、火をささねば冷めてゆき、湯水に使えば底がつく。いつも丸ぁるい湯気と湯水を治めてくれる妖しの力なぞ持ち合わせてはおらなんだ。
「誰ぞが入ったから・・・・・そのためか」
「いやいや、いやっ。それよりも、なお・・・・・」泡の先からプクんの声は漏れては消えていく。
草のようにしなる若い青枝が引っかかった。夜は、皮一枚で、まだ朝を、とうせんぼしてる。いらだち、少し火照っているが、ギシギシいうだけで、ときは此処まで流れては来ない。半人半木の変容のまま、婆ぁの語りは続いていく。
「何処ぞへ墜ちたのか、何処ぞから堕ちたのか」
「ひっくり返せば同じこと、えんえんが同じ様を繰り返す・・・・」などと、ナンやろべんべん坊主の先行臭い声にかわってしもうた。おんなじシャレコウベ抱えるんなら水晶で拵えたもんにしてってぇな。あぁー男くさい、おとこくさい、四角いくせにぐるぐる回るしか能がないくせしよって、溶けるんなら早うに溶けてくれんと。もうちょっと赤いべべ着た可愛らしい声がききたいな。
「やっと呼んでくれたん、ようけ待たされたわぁ」
赤いべべ着た稚児ふたり、たったいま生まれおちたみたいなツルンの顔を膨らませて、チョコンと正座を始めた。赤いべべと一緒にあつらえた黒の山高ハットの中に、編んだおかっぱあたま隠しとる。ふたり並べれば一対の遜色ないばかりに見えるくせに、片方ずつで見比べれば、可愛いのうぉ綺麗やのうぉばかり重ねた顔と褒め言葉を取り除いた余り物ばかりで拵えたブサイク団子。そんな行ったり来たり繰り返すと、この仲良しのふたりに、なんぞ野暮なことを挟まれそうなので、ニコニコの両手だけで抱きしめた。
「懐かしいのぉー、よう来たよう来た、勘三郎、おちゃっぴー」と、その名を一旦口にすれば、野暮は承知としりながら、美醜の思惑はやはり横にたつ。立ったらたったで、「どんな楽しみしてくれんの、ねぇねぇ」の丸い声のきわがドカドカどかして、こちらの胸元めがけて押しかける。
「そない急かさんと、せっかくのきれいなべべやけど、そんな重たいもん早うに脱いでお風呂に入ろぉ。三人一緒なんて久しぶりや」
先におちゃっぴーの綿帽子ぬがすと、よくもまぁーこないに小そう折りたたんでと、あきれるくらいの毛虫、ザザムシ、ムカデ虫のゾロゾロが這い出てくる。勘三郎は、じっと上の仔のお痛を観察する下の子のまばたきしない
目で、それを追う。
「温うになってきた」
「お外は寒かったからね」
「ううん・・・・・寒いのはどこもいっしょ。こうして抱き合っておらんと、すぐに冷とうなって、よう動かんようになってしまう」
「抱きあっておったら、寒うないしお腹も空いてこん。怖いもんもどこからも近づいてこん」
「その代わりに、動き回ることかて出来へんぇ」
「そうそう、百年でも二百年でも、ただずっと立ちっぱなしのまんまや」
「そのうち仰山の手が伸びて」
「顔がでて」
「ふにゃふにゃばっかりだったもんが、カチンこちんに堅とうなって」
「近づいて、ほっぺこすりつけて、虫めがね使うてぐるぐる眺め回して、もうふたつの境目はもうわからんようになってる」
「見つけに来てくれるお人がおったらの話や。百年二百、風と雨よりほか誰の手も触れられとらん石つぶてに、足止めてしゃがみこんで飽きもせんとジーとしておってくれる暇人がおったらの話や」
「誰っ、それっ」
「おとうちゃん。そないまでしてくれる御人はお父ちゃんしかおらへんやろ」
「うん、そうやそうや、お父ちゃん、うちらが無うなっったときから探し回ってる」
「ずるずる廻って、ぐるぐる廻って」
「せやけど見つからん、見つからんから探し回る、見つからんけど探し回る」
「いけずやな・・・・・ほんとう言って、何かええことあるんか」
「だって楽しいやん、気持ちええんやもん・・・・・うち、お父ちゃんのこと、一番に好き」
「そんなら、うちは。うちのことは」
「もっと好きに決まっとるやん」
「なんでぇ、先っき、お父ちゃんが一番って言うたやない」
「だって、うちらはうちらやろ。他のもんとは別もんやろ」
「ほんまや、ほんま。いっしょやもん、なぁ。・・・・・・うち、一体誰と話しておるんやろ」
おとうちゃん、婿はん、哀れなお人や。今でも此処でも彼方でもないところまで出張って、重たい荷物を背負いこんで、どんどん身体を小そうにさせて擦り切らしてはる。
呼んでやったら、エエのに
あの子らの声やろか、ふたり一緒の声やろか。それともいつもの独り言やろか。
「婆ぁも一緒にお話したら、ええのに」
「そうやそうや、脱げるもんみんな脱いで、一緒に湯船に浸かって、こないぴっちり肌つけおうて」
「うちらにばっかりお喋りさせて」
「あせの婆ぁは、ひとり言ん中に、たったひとりで潜っとる」
「聞いとるだけや」
「聞いとるだけや」
うちが口きくようになったら、あんたらかて二人とも、おらんようになってしまう。
青桐は、もう堪えきんと、ピーンとはったツルを離す。ゲルマニウムラジオのバリコンが、カサカサっクゥーバリバリっと火打ち石の火花を放つ。もう、ええ、もうええ、ゆうべは終わって再び朝は来る。おてんとさんはやってくる。てっぺんになったお午の昼寝を楽しみに、ようよう朝早く、寒い夜をかき分けてやってくる。今日も今日とて、たったひとりの妓に戻ってこの屋に出張るだけのこと。それなのに・・・・
それなのに、この屋はいまだ朝を通されずにいる。線香花火の埋み火のように、ところどころで夜はギシギシ鳴っている。まだまだ・・・・
まだまだ、幼い二人は正座の中。もう一回もう一回の正座合戦のおねだりする顔で、赤いべべと黒の山高帽。おちゃっぴーの帽子の中は、お髪の中は、毛虫、ザザムシ、ムカデ虫とわかってる。分かってるから、わかってるの顔で引っ張り剥がしたら、あれレレレれれれー、レレレれレー、腰を抜かすほどに驚いた。
ーほんに、腰抜かしたんやー
ザワザワ ガサガサ ゴリゴリと、嫌われものの異音異臭をひけらかし、この屋の節穴めがけて散っていく。ほんまもん、ほんまもんや。言葉遊びなんぞでなく、ほんまもんの嫌われもんや。幼い二人は、婆ぁの慌てふためきぶりをキョロキョロ楽しそうに眺めとる。
「そう。ほんまもんなんよ、うちら。もう、消えたり無うなったりせえへん。だから、ばぁも独り言からもう出てきてもええねんで、うちら二人できっちり縛っといたから、結わえといたから・・・・・朝は、次の朝は、この屋にはまだまだ来られへん。安心しておとうちゃん呼んであげよう、迎えてあげよう、ひとりぼっちのおとうちゃん、さびしん坊のおとうちゃん、ふうらりユラユラのおとうちゃん」
ばぁは初めて涙を流した。おいおい泣いた。こんな声が己れの中で生きていたのかと何度も聞き返したくなるほど、全てが初めての新しさだった。ふたりは、ばぁの肩を、腰を、顔を摩ってくれた。何度も何度も四本の掌が身体を貫き、なかを描き回してくるが、痛くもなければ痒くもない。どんなにしてきても、この児らと溶けて一緒になる怖れはなくなっていた。対峙しても穏やかな心地は満たされたままだった。もう対峙合戦も正座合戦もない。合戦は終わりや。
ーひとつにならんでも一緒の心持ちになれるんやー
そう思うと、ずっと着続けていたと思うていたもんがひとつひとつ剥がされていく。むろん、剥がされていくもんは肌の外やのうて肌のうちにあるもんや。抜けていくもん見とると、そっちの方でもこっちを見とるようで、それがお互いに同じもん看取ったときの懐かしい心持ちがしてきて、それでも「あんさんはあんさん」「うちはうち」とお互い同じこと云うとるのに、その声はけっして混ざったりはせぇへん。それぞれ、通り過ぎていく。どっちもうち自身のような気はするけど、行ったり来たりするんやないかぁいう怖さはなくなっている。
「そない別々なんが一緒になるなんて、ほんにけったいやなぁ」と、丸めた両膝が「落ちんように」と下から支えてくれた。
ーいったい、此の婆ぁの中に、どれほどが入っておるのじゃろー
と、今では首より先が拝めぬほど巨大に膨れた北の女がとどめを刺す。
たまき お久 美和 おちゃぴー 勘三郎
ちよ せい とせ まあ あや くみ かよ さや うめ かおる あやの まちる ささらぎ ふじつぼ あねわか さんかろう ことしずく あめんぼう
すいっちょん ぎーぎー
カサカサッ クィー
すいっちょん ぎーぎー
カリッ バリバリバリ
【このことは勘三郎おとッつぁんが始めたことやない】
「お迎えがきたんやないかぁ。早ぅに支度して、おかえり」
北の女は、食いぶち様を探しに追ん出したときの声に変わった。その意味を伝える調子のほかは、何一つ含まれていない。こうまで余所いきの声に変わったのでは、もう夫婦では無うなった証と、この屋の外へ出るよりほかはなし。ぴょーん、と
ちゃぶ台の縁から跳び下りると、それを合図に今度もやっぱり表への戸口が現れて、外にいる誰やらが引いてくれたのか、カッぱりと大きく四角い口が開いた。側には、帽子とマントが縮んだ身体に合わせるように拵え直されている。針をもった身でなくても、元のを一旦ほどいて縫い直す手間が、いかほどのものかは分かる。
「ちゃんーんと用意してくれて、・・・・」と、零しそうになった。その先の何かあたまでも出していたら、ほんとうに零していたろうか。などと一歩踏み出して振り返れば、閉じらられたあとの屋が、どこにそんな屋があったのか、毛ほどもわからにほど剥がされている。
引くというよりは、幾重にも重ねているような。
北の女ひとりでない大勢の掌が寄ってたかって先程までの在り処を封じ込めている。そんな厚み、膨らみを感じる。感じてはみても、そこより先は近づけてはくれない。いつものことだ。ここの模様替えの前のもっともっと前から、段取りばっかりよくって姿はおろか掌のあとさえ見せない、あやつらのなせるいつもの技。
トボトボ歩く。いや、いざってるのかもしれない。比較するものの何もない荒野では、身体が戻ってきているのか、或いはもっと縮んでいってしまっているのか、わかる術はない。それでも前を向くと、「おいでおいで」してくる動きを感じる。
マントの隠しにはゲルマニウムラジオは入っていたが、ポリバリコンは外され、なくなっていた。一度としてイヤホンで聞いた様子はないのだから、まわしてなにか探す仕草が元々備わっていたのかは怪しい。十分に怪しいが、蟻ん子ひとついない道すがら、なにひとつないのは少し怖い。
ー吸い込みよるー
そこに向かうのに、いつも3度傾くのはそのせいかと、己れの胸先三寸に問うてみる。
ーいくんやのうて、帰るんやー
すいっちょん ギーギー カサカサッ クィー も、塗りと塊が間にはいって、耳ではのうて肌の隙間からしか入っては来ん。闇の中に、一度として名を呼ぶことのない遠い村の花火が瞬き、その遠い遠い閃光の芯の中に勘三郎おとっつぁんがこきりこを踊っている。あまりにも小さすぎて、勘三郎おとっつぁんとこきりこだけしか見えてはこない。それでもようく見ると、赤いちゃんちゃんこも見えてきた。赤いちゃんちゃんこは、あとで色を足したらしい。じーと見定めると、そこまでたどり着けた。おとっつぁんに会えたのは、久しぶりな気がした。或いは、久しぶりにおとっつぁんに会えた気がした。
はじまったのはみんなこのおひとから。或いは、このおひとからみんなはじまった。
ーちがう、ちがうがなぁ。おとっつぁんの勘三郎かてぇ、踊ってるんやのうて踊らされとるだけや・・・・・・あのおひとはそないな大きいもんやない。勘三郎の名ぁは、あのおとっつぁんが拵えたもんと違うからな。あのおひとの中から沸き起こった欲だけで、こないに大きゅうなんぞ膨れては来んー
死の淵の「あの子はわしや」の顔も声も、ぎりぎりのおひとやから見せるもんと信じておったが、そらに浮かんでこきりこ鳴らし、右へ左へすいっちょんギーギー すいっちょんギーギーの前から踊らされておったと想うと、勘三郎おとっつぁんも哀れなお人になるわけやぁ。
勘三郎、お前だけや。己れの平らかな気持ちのまんま、えんえんとニコニコしとったのは。骸囲んで輪になっとったあの御親戚筋の石鉢みたくに乗っておった業の塊も、それぞれのおひとが拵えた離れられん因果なんぞではのうて、勝手にゴリゴリ押し付けられた挙げ句に、首に結わえたタクワン石でギュウギュウに曲がりくねったあないな持ちもんに成り果てられたん、やなぁ。
生まれたてのお前さまは、それがようく見えて、「ここは、みんながみんな、よってたかって、〇〇合戦〇〇合戦と繰り返し、勝手それぞれ苦くて重い膏薬貼り付けて、辛い苦しい格好ばかりせにゃならんのか」と、おかしな顔、おかしな身体と、笑っておったんやなぁ・・・・まだ誰も使ぅとらんおっきな醤油樽の中に珠を落としたときに響く笑い声、それ聞いたときは、無邪気に両の腕さしだして抱きしめる心地は生まれて来んかった。その時は、おとっつぁんに言い含められた婿のわきまえと取り繕ってはいたが、その心根の芯のところは、「おそろし」そのもので・・・・・・・
ゲホゲホ ゲボゲボ ゲホゲホ ぶルルル、ルゥ・・・・・
見えるもん触れるもん、もうみんな無うなってしもうたんやろかぁ、すっぽりお湯に浸かっておるの忘れておった、髪の先から足の裏までぴったり吸い付けられて身動きが一分もとれんような、それでいて流れの中にすいすい乗って順調に運ばれておるような、肌に周りに触れとるもんの調子の良し悪しがもう分からんようになっとる。
ゲホゲホ ゲボゲボ ゲホゲホ ぷー
カンブリア、それももの凄う大きな、どない離れてみても顔の半分も拝めんようなデカイ奴、そいつがもの凄う臭いうがいしとって、それでもそいつの口ん中にみんなが繋がっておって、もうとっくの昔に塞がっとるはずの腐った記憶まで呼び起こして、四っつの胃の腑に生まれる悪臭のアブク、順番に、お湯の中のへみたいに下から上へ、汽笛一声一本調子でピィーーーとお湯で貯まった口の中を貫いた。
ガタガタ傾いてたお湯は、こらえきれずにザンブと零れた。が、その在処はどこか確かめようはない。ゲップのようなアブクが立ち上ってる気配もしたが、北の女と食べたカンブリアの残骸がまだこちらの胃の腑に棲んでるだけやもしれぬ。お互いの境がとうに失せた身の上であれば、食べたつもりのカンブリアの口の中で、只々終生うごめいているだけやもしれぬ。透きとおった無味無臭の水まんじゅうをどれほど口に入れ喉を通し胃の腑に落としたことか、それでもクソまでの検分を果たしてない以上、本当のところは真似っこの食べっぷりが刷り込まれとるだけで、この身一枚一枚うすく削られ、ゼロに向かっておっただけやもしれぬ。
「もう何処にも行かんと、ずっとココにおって。みんなおるのに、誰もおらんとたったひとり、そないけったいな真似、もう辞めたほうがええやん」
可愛らしい声が届く。お湯を通してなので、アブクに乗ってどれほどの旅を越して届いたものか。その感慨が先に立つ。届いた声は、すぐに破裂し、あとはそれに至る長い追想に想いが馳せていく。瓶に詰めた手紙のように歳月を感じさせる重みが手に持てたら、どんなにいいか。消えてしまった声を聞き返そうと、記憶を何度も回し続けるうち、丸く柔らかなマシュマロみたいな白い声は、火にくべるため積み上げられたウバメガシの硬い水気の消えたり声に変わっていく。
「そない大事に仕舞っておかんでも、欲しいんやったら、何時でも何処にでもでも届けてあげるわ」
おとうちゃん、うちを探しにきたんやろ、あんまり長いこと捜し廻って、己れの身かて変わり果ててしもうて、何をしに同じ処「ぐるぐる」、分からん処「ぐるぐる」彷徨うておるんか、それさえもう分からんようになってしもうたなぁ・・・・・・堪忍なぁ、堪忍しておくれ、それでもこうしてうちの声そのまま聞こえるようになったんや、もうすぐや、もうすぐこの顔、見つけ出しに来られるんやでぇ・・・・・やっぱり赤べべにしとこか、禿さんのあたまにしとこか、おとっつぁんとうちが父娘でおったたった一度の一晩やったもんなぁ、あの晩をたった一度の大事なもんにしとるの己れだけやと思っておるようやけど、それは違うで、うちかて同じや。だって、うち、女やもの、あのとき初めて己れの身体に遭うた気がした・・・・・あとからの作り話やないでぇ、あないに小さな仔からそないな女のため息が出てくるわけないってか、使うてる言葉はあとから食っついたもんかもしれんけど、鏡も覗けん小んまい時でも女は女や、生まれてから死んだあとも一本で繋がっとる、あの時、ほんまもんのべべ着せられとる、ほんまもんの己れの身体に遭うとる、それは真っ直ぐに降りてきた、おとっつぁんが見ておるゆらゆらたゆとうとしたもんとは、多分違う。
巡々に流れてくる、巡々に沁みてくる。「錦絵」一枚で、既に肌を許したように突き刺す「あの顔」ではない。「ほぉー」と「はぁー」の千手のため息が折り重なって形作られた美しさの権化でもない。どこの誰でもええ、そのたった一言、「可愛らしぃなぁー」でなんもかんも済んでしまうもんや。
「お前の、その眩しいもん脱ぎ捨てたら、何が現れてくるんや、勘三郎・・・・・」
どの勘三郎に聞きたいの。禿あたまの勘三郎、こきりこ踊っとる勘三郎、赤ん坊の勘三郎を抱いておる勘三郎、いったいどの勘三郎
こちらのグルグルは放っておかれ、勘三郎の可愛い声ばかりがどんど届く。たった一度の一晩だけ、夢を見させてもろうたあと、己れとは違う肌をずっと背負うのは殺生や、あないな土塊で拵えたおちゃっぴーかてうちよりも上等や、どんどん奈落の底に埋もれていく。
こない近づいて面と向かっておったら、ゲス臭い汗くさいもんばっかり出てきよる、綺麗なべべ剥がして中を覗いて出てくるのは、誰も目を留めんようなありふれたガラクタばかり。
これがあの勘三郎か。目の縁ぃ少しでもかすったら、遠く運ばれた残り香ぁ吸い込んだら、誰もがアンポンタンの口した勘三郎の奥の奥の院に鎮座ましますありがたいものが、その辺に転がっているドロ遊びで汚してばかりの両膝の擦れた童子だ。それが、その笑い声が、何もかもお見通しみたいな笑顔が、可愛らしゅうて、可愛らしゅうて、節ばったもの、強ばったもん、みんな丸まってしまう、溶かされてしまう。
水晶で出来た観音さんでも出てくる思うたんか・・・・・そんなら赤いぼんぼり並べて綺麗なべべ着とる姿となんも変わらんやないか。
退屈なほど当たり前のもんしか、ほんまもんの中には入っとらん。せっかく新しい朝がやって来てくれはって始まったばっかりや、匙を投げんと根気よう付き合ったり。