おっかさん
【うち、染め抜きされたん】
「久や、ひさっ、お久はん。喜んでお呉れ、日が決まったぞ、向こう三か月後の十五日や」
お店に来てから一月と余日。小舟町のおじさんが来るから挨拶がてらお前がお茶を持っておいでと、朝の遅い臥所で言い含められ、奥向きの身支度を整えて襖あけたら、挨拶どころか盆の茶も置かぬ間に「やンややンや」を浴びせられ中へと引きずり込まれた。型どおりのあいさつを済ませても聞いてか聞かずか、小舟町のおじさんと勘三郎おとうはんは、いま開けた障子戸の向こうの小春日和よりももっと先の晴れの良き日を見つめている。そのくせ、うちを「やンややンや」の輪の中に取り込もうと、盛んに声を重ねてくる。まぁー、山の出なもんやから肉太りが先に目に入るけど、粗野なところはなく、まずは商人向きの顔してる男や・・・・・・お久はんの腹から血の繋がった6代目が代替わりするまでは、加野屋勘三郎を当分は背負ってもらわなぁあかんのやから・・・・まずまずの算盤と筆の方も達者であって・・・・何より、荷駄を持たされるのを厭わん御仁でないとあきまへん・・・・逢うたとき「その力自慢、見せてくれ」言うたら、すぐに土産用の俵ふたつ担ぎなすった・・・・・それなら、まっことまっこと堅い男で・・・・・余分は口にせぬ男で・・・・・
ーうちのお婿さんの話し、してはるー
おとうはんは、うちに聞かせよう、言い含めよう、こうして、「臥所ではのうて、大事なご親戚を前にしてちゃんと話してるんのやで」って、己れの心うちを余分な口まで使こうて何度も何度も繰り返してはった。小舟町のおじさんと呼ばれた狒狒も、自分に向かって話しておるんでないのは気づいておったようやが、父娘の先の匂いまでは感じとれんかったんか、お茶碗片付けてる後ろ越しのふたりの声からは気配からは何も感じられんかった。
「ほんとのこと言うとなぁ、親戚一同、本家のお前様があれから何年も経つのに後添いももらわんの、気ぃもんでおったんよぉ、それが、まぁー」声を潜ませ、いったんは間を置いたので頭の芯の奥がひんやりした、が「外にあないに美しい隠し子を囲っておったとはのぉー、年寄り連中、特にうちらのほんまのおばはん、あのひとなんぞ「堅物がお面はがしよった」と、口からアブクはいて笑い転げておったぞ」
此処は照れ笑い浮かべる処とわきまえてる目尻のシワが、今度はうちに近づき寄ってきた。
「おとう・・・・はん」
想った以上に大きく近くに浮かんだ勘三郎は、常より冷たく艶めかしかった。
「おとぅはん・・・・ほんまに、うちがぁ・・・お店がぁ、お婿はんもらっちゃうの」
気分良く帰る狒狒のおじさんを頭下げて見送ると、振り返るよりさきに声が出た。
「年頃の娘を迎え入れたんや。婿でも入れんと、お店に穴があくやろぅ」
言い含めする気配りで、ない。抑揚のない声が決まりごとを伝えるのだから、うちへの口上はもう二度とないやろぅ。膨らまそうとした頬を無理に閉じようとしたら、やっぱり涙が出てきた。
「とうとう秋も深まってきたなぁ。あないに日中は温くぅても小春日和やなぁ。夕暮れんなると、肩まで冷えてくる」
濡れそぼってる久の肩がみえるのか。勘三郎は抱えたふりして、お店に戻る。ふたりの後ろ姿は映し出しても、師走の慌ただしい通りには、仲睦まじい親子の色合いより先を感じ取るものは居なかった。
流され辿り着いた先は、あせの婆ぁだった。むろん、久の名前を貰う前の話である。在郷から塩引き鮭と一緒に数珠つなぎで連れてこられた者たちはは、てんでバラバラいなくなり、ひとりになってからも何度もところは変わった。その間に、呼び名も仔から娘のような名前に変わり、出される飯の味も段々と薄くなった。そうした流れの落ち着く先が此処なのは、最初から分かっていた。なぜって、こんなにも金色の甘いものを椀いっぱいに盛って出してくれるんやもの、此処で特別なもんに生まれるんや、と決まってた。
「まぁ、しばらくはこうしてるんだね」
「はい」
部屋をあてがわれたっきり、それっきり、なにひとつ、言いつけはない。一日の中で、臥所をたたむよりほか己れですることはなかった。三度三度の膳は部屋に運ばれ、必ず金色の甘いものが椀いっぱい付いてきた。食べると、湧いてくるこの先の不安が、少しだけ溶けて、消えた。
ーこないな身の置き処におかれたら、指図するんは、ご不浄せがむ身体だけー
いつ、湯を落とすか分からぬほどいつも湧いてる湯船には日に二度入った。昼は、用足しと同じで身体がせがむとき、夜は決まって一度きっかり目が覚める時があって、目覚めと同時にすっくと湯室に向かった。湯屋よりも大きな湯船には、篭もっておった男と女が、もらった互いの澱を落としにぼんやり浸かっている。
ーこの屋に居るもんで、此の湯の中に何も出さんのは、うちだけー
他人の澱が白く溶け出す時を想い耽るたび、「ずーと数え切れんほどの晩、浸かってるだけのうちの身体、見つめるよりほかなかった。あれが婆ぁが仕向けた修行やったんやなぁ」と、同じ処を振り返るたびに思い出す。
あせの婆ぁを見つける場所は、湯船の中よりほかない。運良く、夜の一度きっかり目が覚めるときが夜闇の白みかかる時分と重なれば、湯船に先に入った婆ぁに出会える。婆ぁの刺青の龍は首もと胸元まで這い出していて、正面を向かれると、爪先が喉とお乳を締め上げた痛々しさに目を背けたくなるが、沈んでいく澱のあとの肌合いの若々しさは、余計にどの客や女よりもつややかに見えた。
「お前さん、未だ、おったんかい」
どのあたりに物差しあてて問うたのか。湯船に使った足裏から首の元まで何度も何度も視線を往復させ、「まだ、お前様のものは溶け出してこないね」と云う。
はい、と声出すのも無作法に思っていたら、「もうしばらくやね、そうしているんだね」と先にあがっていった。
双頭の背中の龍のどちらか野太い声で、「いい塩梅や、仕上がってきよった」と吐いたようだった。
前触れはない。その日はストンと落ちてやってくる。
午の膳のとき、婆ぁが呼んでるの言伝がきた。膳を横にすぐに立とうとしたら、食べてからでええからと促される。婆ぁもそうするように言っている、急いで汁で流したりせず「いつもどおりでええ」から、食べたもんがお前様の血になり肉になりのやり方で「お食べ」と諭され、心ここにあらずのまま、鏡をなぞるよう一粒一汁残さずに、この屋についた日に一度だけ入った婆ぁのいる、火鉢の間に入った。
「よう来た、よう来た、あがれ、あがれ」
昼になったばかりのせいか、生まれたての娘の格好だ。それで、一日千秋の思いの好好爺の口上は続く。
「お前様には、嫁いでもらうことにした」
「はい」
「勘三郎、それが主の名だ」
「はい」
「本人の素性やお前様の扱いは、着いてから向こうで飲み込むことになるやろう」
「はい」
「あとは、向こうに辿る前に、ふたつみっつ寄り道して化粧を施さねばならん」
「はい」
「雛やったお前さまを張り出すのに少ぉしばかり足すもんばっかりが多くなってしもうて、納めるにあたり、抜きの工程が必要でな。なぁに、此処と対して変わりゃあせんよ、己れの臥所の世話やくよりほか、お三度だしてもろうて好きなときに湯船に浸かって肌磨いて、毎日毎晩そんな日々の繰り返しさねぇ」
「はい」
婆ぁは少し裾を割り、別の女子のようなあぐらをかいて寄り添ってくる。
「お前さまはね、そういう女子なんよ。いつでもなんでも飲み込んでいく、そうした水にあってる・・・・これからは一本だ、少し抜いていかないとね」
「はい」
「主が誰か、知りたかぁないかい。おんなじ湯船に入ったこともあるお人やけど」
「いいえ、ちっとも」
「だと、思ったよ、この仔は・・・・・・部屋に戻ったら身支度をおし。此処から出ていくのは今夜だ」
「お世話になりました」
「ここに舞い戻ってくる仔もあるが、お前さまは戻るまい。今生のお別れや」
あせの婆ぁのいった「染め抜き」の工程は、それでも5軒に及んだ。先はどれも茶寮で、里を挟んだ山ふところの奥にぽつねんとあって、切り出した生木のザラつく匂いがした。そして、似たような素性のふたりの女が屋敷の世話をしている。着くと、ひとりで寝起きするのはもったいない広い部屋があてがわれ、その代わりに、仕舞う納戸はないのか、高く積まれた布団が一組鎮座している。さっそくに拡げて人肌に触れていない布のキュっキュっした面に顔をうずめて楽しむ。ごろんごろんの寝返りうって絹地に匂いを移すと、やっとこの屋に居る心地が馴染んできた。
日毎に変わる茶寮の主は、どれものべて白髪頭の痩せた男ばかりだった。肉は落ちて皺ばかり寄せた拵ええなのに、顔のない男たちを一束「年寄り」と括れない。見まえるのは、薄暗い湯室か臥所の中ばかり。言葉はおろか顔も身体もそのときの欠片しか結び得ないのに、一括りでは零れてしまう。といって残るのは白髪と皺ばかり。ひとりひとりを残すほかの形はすっぽり抜けて、朝方に見る夢と同じに、薄目開けて足跡見とっても、向こうは通り過ぎてく一方やった。
そんなこんなが続くうち、夢と現の境目もつかぬようになって、眠くなる一方。どんな姿態であろうと構やせん、起こされるまで、眠ってよう。こないなこと、もう二度とないんやから。
そないぐずぐず言い聞かとったら、すぐに目が覚めた。起こされたからやない、ひとりでに目が覚めた。なんや、ずーと覆われとった綿臭いもんが拭われて、生まれたときと同んなじツルンになった。じーと待っておるお人が居るのもわかった。目が覚めるまで、起こさんと、種に籠もって待っとってくれてはったんや。
「おとう・・・・はん」
うちの口から出たのんは、その一言だけ。あとは、そのときを待ちわびていたふたりがそれぞれを吸い取るように受け入れていくだけ。移ろいが何も目に映らんまま湯船に二人して入いる。体を流してもらい、髪を結い直して、それからのために拵えてあった襦袢に袖を通したら、やっとその人の顔の、身体の、輪郭が見えた。
「加野屋勘三郎、それがうちの主の名、男の名」
外むけに整えた白髪交じりと張り出した頬骨がなければ、その声は婆ぁの湯船の声だった。「おとうはん」の呼び名にそのひとは抗わなかった。むしろ妓と娘の両方に耽り、嬉しそうだった。日が続くに従って、茶寮の時は早まっていった。おとうはんは、午をまたがずにやってきて、着けば、くつろぎをもたぬまま、久の敷き放した布団のうえで交わる。「染め抜き」の効か、ほかの身体と心は抜け落ちていて、塗り直されるときの痛みは返ってこない。描かれるのに任せればよかった。勘三郎の所作は、与えられたおもちゃを持て余しながら楽しむ子どもでも、生き急ぐために長細くなった年寄りの掌でもなく、含んだ墨を偏らず白紙に落とし込む絵師の静寂に似て心地いい。いつも精を送り込んだあと長い暇を作り、肌についた妓の艶を落とし娘の若さばかりを取り込もうとしてた。久も、その暇を、己れの癖として受け入れた。鳶色の甘い匂いが名人のする刺青のように肌でなく身体の芯を色付けしてくる。久は、それを、ことのあとの癖にした。
そんな日ばかりが、仔も付かぬまま十年と過ぎた。久は相変わらず娘のままで、勘三郎も会った日から歳を取ることはなかった。鳶色の匂いは、肌にはたまらず目の奥にだけ溜まっていく。波のうねりが勘定になって、星砂が積もるように濃く染まっていく。鳶色の色味もその色の名も、手鏡越しに覗き込んだおとうはんが「ようよう同んなじ目ン玉になりよって」と吹き込んだのをきっかけに覚えたもので、ほんとうにそないな色が世間にあるのかさえ詮索する気は起きんかった。
話すのは勘三郎で、久はそれを受け入れるだけ。口は、話をするためのものではなくなっていた。とびいろ・・・・そう、鳶色、空飛ぶ鳥の鳶、おそらをとんでくとんび、羽のいろは小豆色に近こうて、赤くて茶色で翳って・・・・下向いたら真っ黒ん中に混じっとるのに、空を見たときだけ赤茶けて光って、正体をあらわす色・・・・しょうたいあらわすひと・・・・・ひとやない、いろや・・・・色・・・・ひと、いろ、ひと、いろ・・・・・あったその日の同んなじときまで戻って、それより奥へと潜ってく。
ざぶーん、しゅるるるぅ しゅるるる、るぅー
天井見つめてるとき、呆けたまんまの顔しとるだけやないんよぉ。目の奥で両手両足ばたつかせ、下へ下へと暗い穴蔵まで探しものして降りてんの、おとうはんはしらんやろぅ。こないに、ぎょうさんに、お喋りしとるのも聞こえてはおらんのやろなぁ。今宵は、特に長くて深い。身の丈の十億度まで届いていけそう。おとうはんの振り子から離れんよう、静かに足先から浸かっていかんと。
かき回してる音が伝わらんように、せんと。お互いの吐いて出す方の息が、ばらばらにならんようにせんと。
今夜こそ、足先が触れて、穴蔵のそのさきが見えるやもしれん。それでも、「でも・・・・・」と思う。見つかって行けると分かっったら、うち、その先まで行ってしまうんやろか。それがよぎると、今宵もだめやったと、足先が己れの身体に再び戻り、ほっとのため息が溢れる。もちろん、おとうはんに気づかれんよう、濡れた足の指をきれいに拭き取るのは、忘れないでおかんと。
今宵も届かず、おとうはんの元に、戻ってしまった。
【うち、婿はんもろうてからおとうはんのほんまの女子になりました】
婿はんを初めて見たのは、祝言のその夜。先に座っておったら、右手の障子戸が開いて、他の何の音のせんままに「つつっ」と、隣の空いとる座布団に指図も受けんと座りはった。広間ぶち抜いて大広間こしらえた中のみっしり埋まっとるお客みんなに観取られとる中、横目向けるわけにもいかんし、右目に映るヘリ半分の影、見とった。向こうは、言い含めれれたとおり、婿取りするお店の娘がおる「居住い」より先には目がいっておらんかった。
誰よりもおとうはんが、うちらを見てはる。
「もうじき、や・・・・お披露目をつつがのう始末するまでの辛抱や。お隣の、鼻ばかり高うていかり肩のその男は、お前様の婿はんやない、お店の婿はんや。出所の在のもんも含めて、そのことは言い含めておるから、怖がらんと新床に入ったら、よろし。こないに冷えた夜は大きなアンカが温うしてくれる。毎晩、そないに思って、先に入ってもろうてたら、ええ」
あんかはん、と小さく口真似すると、おとうはんの満足した破顔が飛び込んでくる。勘三郎にそう云われ、久は一段高いところに登って、お店の婿はんを眺めてみる。半紙を山におって拵えたようなピンと尖った裃とこれ以上は血が吹き出しかねない奥まで剃り込んだ月代をいかり肩の大きな鼻に加えてみると、カチカチの鰹節みたいで、臥所の中におっても、白い脂がとろりおちよる仕草は見えてこなかった。
お店、お店って云うてはるけど、おとうはんはアンカなんて言い草こしらえて、新しい楽しみ見つけはったんやな。
「若夫婦が気張るようになったのに、年寄がお店ん中でウロウロばっかりしてるのも目障りやろうから。ほなぁ、行ってくるわ」
用意良く朝から横においた巾着ひとつ携えて、帳場からすっと立ち上がると、小僧が草履差し出すより先に足がすたすた動き出す。
「婿はん、お気張りなされ」中腰の風が流れるように、そう言った。
「おはよう お帰りに」
お店が揃いの声明で送り出すときには、潜ったのれんがはたはた揺れるばかり。「ご料さん、また大旦那さん、茶寮にいかれましたぇ」
「さよか、それじゃまた奥の方に用意するよう頼んでおくれ。うちもすぐに支度するよって」
婿取りを境に勘三郎の茶寮通いは日増しに増えていく。月に二度三度のことが数を重ねて、今では月の半分は店を離れるようになった。顔を見せる旦那衆は、加野屋さんも代替わりして隠居の身のとは羨ましいかぎりでと、時相のあいさつよりも口に上る。
そのあとを、出掛けの合図からせわしなく詰め始めたお重をもって、久が追いかけるのが習わしだ。
「先立たれたあとは茶屋の味が一番と思っておったのに、娘の味が舌について、もう他のもんでは口に合わんようになってしもうて・・・・好みに融通がきかんのは、年取った証拠でしょうかな」
寄り合いで盃を回りにきた旦那衆が箸をおいたまま手を付けない勘三郎をいぶかしそうにみると、きまってそう告げた。少し鼻についても良さそうなのに、穏やかな余生を羨む笑いばかりが盛り立って、そないやろぅそないやろぅと世間様は頷く。
用心からか験担ぎか、勘三郎は久をお店に向かえたときから、お互いの臥所に使用人部屋を挟んだ。お店と奥の行き来には当然の作法が敷かれていたが、勘三郎はお店では久との距離を半間まで縮めることを課さなかった。
ことは、いつも茶寮で、久にあてがわれた部屋で営まれ、時は、長かろうが短かろうがいつも午のうちと限られていた。己れの差配のみでことを運んできたこの男は、婿入り後の新妻が演じる差配も楽しみの勘定に入っていた。久には、そうした執拗さが女子とは違う男の何かのフリのように感じられ、婿はんばかりかおとうはんも「あんかはん」と呼んで、一段高いところから眺めるが好きになった。
おとうはん、今度は堂々とうちの中に宿して、代替わりの荷物落ち着けたいんやろなぁ。娘と妓の両思いをひとつの身体に納めてやろうと、おとうはんの、男のエゴが鼻についてしょうもなかったんかな・・・・アホくさと思うたんか、身勝手やと思うたんか、うちが息止めている間は「そないな差配に乗るのんは出来ゃしません」って、高いところから両の掌で拵えたバッテン口に当てて何度も何度も繰り返した。
そないに上から眺める癖が付いたせいで、頻繁に現身から抜け出る癖も一緒についてきた。女子やから、そないになるんは幼いときから慣れっこやけど、こないにしょっちゅうは気味悪い。片一方が俯瞰しとる性で、疼いて膨らんでも、すぐに萎えてしまう。おとうはんとの間にも白いもんが入り込むようになった。だめやねぇー・・・・肌のすき間に、あないにひだひだが浮くようになって。ふたり一緒に眺めると、おとうはんの方にだけ、歳月はちゃんとくっついとる。
おとうはん、歳とられましたな。ことの最中、うちがこないに右往左往してても一向に感づかん。娘と妓いっしょにした身体に、乗り込もう、移りこもうばっかりが、冷たくしたあたまん中でグルグル廻っとる。
久のほうは相変わらず娘のままで、仰向けになろうがうつぶせになろうが「染ぬき」をした時分と変わらず若々しい。それが誇らしい。「じつの娘に子をなしてはあきまへんのや。そないに両の掌あわせておがむほど意固地になって、乗りこもう、移しこもうされても、子は着いたりはしません」
久のほうが動かんうちは、おとうはんはそのままやろうと、「すぐに戻るよって」と己れの空蝉に声かけてお店に戻ったら、がら空きの帳場のうえで噂話が舞っている。
若だんなはん、息抜き覚えましたなぁ・・・・・あない硬いおひとでも茶屋の酒はよう効くようで・・・・・年甲斐もなく、大旦那さんがご料さん離さんからや・・・・・あないな匂いつけて帰っても、ご料さん気づかんのやろうか・・・・・どうやろうなぁ。あのふたり、膝より先に近づいたことあるんやろうか・・・・・ほんになぁ、せやけど、あの匂いってタニのどの屋なんやろう・・・・・
ーあんたらが、いくらひくひくしたかて、たどりつかんところやー
まだ聞きたがっとる片耳を引っ張り上げて、サッと婆ぁの屋に移る。部屋の配置は覚えとらんでも、匂いがそこに引き戻す。婿はんもおとうはんと一緒で、下になっとる女子に、乗り込もう、移りこもうしている最中やった。顔はどこを覗いてものっぺらぼうにしか見えなんだが、それはどうでもエエ。ここでは誰もが婆ぁの拵えもんや。姉妹の近しい感じはしないが、赤の他人やない。血は繋がっとる。移れる気がしたので、ザザッと降りたら、思った以上にすんなり移り込めた。がらんどうだったのやもしれない。うちと同んじように、片一方がぷらぷら出払っておる最中かもしれない。婿はんは若いせいか、うちが移ったときの変化が要衝にあらわれとったが、まさかうちらがこない危ないことしとるとは露ほどに思わんやろうし、「まるで、ほんまもん抱いとるような」が膨らんで、昇華した心地で果てはった。
こっちはみんな分かった上でのことやったのに、いつもとは違う初めてはなく、「つつつ」が湧いてくるだけ。なんぞ一人だけ損したような心地ひきずったまま襟元直して、同じく空蝉しとった身体に戻っても、おとうはんとのヒダひだのすき間は埋まらんかった。
膨らんでくる処はどこも見つからんかった。
ーおとうはん、ほんとに齢をとられはりましたなぁー
空口でなんど囁いても、勘三郎は繋いだ格好を解こうとはしない。解けば、冷えた頭でこしらえた己れの差配が崩れてしまう、とでも言いたそうな一途さだった。
この午、勘三郎は久の本当のおとうはんになった。
あれから婿はん、布団にはいってモゾモゾはじめても、ムクムクが頭もたげて起き出してくるの隠さんようになったなぁ。そのくせ、あんかはんより先まで出てくる気概はないんかなぁ。どないな約束をおとうはんとしたんか、山の在所のもんたちに言い含められたんか、そないな諸々はうちは知らんけど、今夜はとっておきのもの持ってきてあげたん・・・・・・心配せんかてええ、もう大丈夫や、その口ん中から尻の奥まで入っておるもの抜いてあげたわ。わてが掴んどる両の掌、離したらあかんぇ・・・・・そこまでが男はんのもんや、どないにも好きなように使うてもエエ、せやけど、そこから先はうちのもんや。うちの好きなようにさせてもらいます。そんでな、こんど此処に嬰子おくことにしたんよぉ。心配せんかてええ、おとうはんの仔や、婿はんの仔やない・・・・・せやから、もう、あんかはん脱いでもええんよぉ・・・・・
初めてやないやろ、うちと二人でこないするのん。うちの顔のついた女子はん抱いておったの知っとるん。隠さんかてえぇ、あれはうちの差配や、うちの拵えたもんや、婿はんはそこでただ踊っておっただけや、そやから・・・・なぁ、もういっぺん踊っておくれ
いま、ぴくんと動いたのわかりますか。ご自分の指持って触りなはれ・・・・ほぅら、おとうはんの中指ふるえてますぇ・・・・見えへん分からへん言いますのんかぁ、そないに弱くなられはって。あないに、うちに願かけまでしてしてはったのに、楽しみにしてはったのに、酷いもんですなぁ・・・・・はぁー、酷いと違う言いますのんか、そうですなぁ、せんないことですなぁ・・・・・おとうはん、うちに願掛けしとるとき、「わたいの仔やのうて、わたいを生んでくれっ」て、云わはりましたもんなぁ。おとうはんの神さま、ちゃんということ聞いて、おとうはんをうちの中に拵えよったんよ。せやから、この仔が出てくるとき、おとうはんはこの世には居りはしません。オギャーの声は勘三郎の声や、おとうはんの声や。勘三郎が、この世に二人おるわけには、いかんからなぁー。せやから、おとうはん、これからも寂しい気持ちにならんで楽しい気持ちで過ごしておくれ。そんで、これだけは約束してな、うちはおとうはんの娘です。加野屋勘三郎の娘です。うちが生んだ子は、あの婿はんの子です。最期の最期、どないあかんようになっても、「わたいの仔」云うたらあきません。言いたかったら、わたいや、わたいや。わたいの生まれ変わりや、わたいは死んでまた勘三郎になるんや、言うてな。
【うち、少ぉーし早まったんやろうか】
すいっちょんぎーぎー すいっちょんぎーぎー
また、やってきた。四十九日が過ぎたいうのに、こないなことまだ続けるつもりやろか・・・・・生まれ変わった可愛らしゅうになった顔が見とうてふらふらしとるんかと思うたら、見とるのは此方の方ばっかりや。婿はんと布団の中のときばっかりや。これでは未練がましい狒々爺や、おとうはん。加野屋勘三郎はどこにいってしまいはったんやろ、あないに仰山の芝居じみた拵えもんをあっちこっち張り巡らして、婆ぁの女子の里からうちを釣り上げていった真っ黒で艷やかな掌は何処へいってしまったんやろう・・・・・・ほうら、またっ、「そないないけずなんぞせんと、寂しい・・・」いう顔して、婿はんと仲良くしとるときだけ顔だしときながら「そないな気持ちこれっぽっちもない」云う顔ぉよう出来はりますなぁ。そないに、よう、ぷかぷか浮いてばっかりで、そないに、そないに・・・・・
うちかて、あないに不憫な子どもやのうて、婆ぁの処でものうて、染め抜きの工程でものうて、おとうはんの四畳半でものうて・・・・・婆ぁは「何を言い出すかと思ったら、この娘は」って薄ら笑いするんやろうけど、世間様と同じところに肌を落ち着けて暮らし始めただけやおまへんか。歳の出張った家つき娘が婿はん迎えて代替わりして、舅小姑おらん中で肩ひじ張らんと一粒だね可愛ながら世間様に後ろ指さされん程度のほんの少しの贅沢の味たのしんで、そないな真似事なぞっておってはいかんのですか・・・・・何ですか、婆ぁ真似したみたいな薄ら笑い浮かべて。「何処が真似事や」言いますのんか、片目つむったまんまで当たり前みたいな顔した大嘘つくな言いますのんかぁ。そうですなぁ、女子で生まれた仔を男の子やゆうて乳あげてますもんな、当たり前やおまへんな。うち、仔を生んだのは覚えとりますけど、その仔は何処にも在りはしません。すぐに往のうなってしもうたんです。代わり勘三郎はゆう男の子が現れて、身の上話を仰山に話してくれます。それは、おとうはん、あんたさんですもんなぁ。
うちと繋がっておったのは女の子や。己れの中に十月十日おったもんに嘘つけますかいな・・・・・・そうですな、生んだまんまの仔を抱いてやることも出来んのやったら、いっそそっちの、ぷかぷか浮いて眺めとるだけの処に引っ張り上げてもらいますか、今度は婆ぁのときと違って仰山な拵えもん張り巡らさんと、すっと、片手で一気に釣り上げておくれ。
なんですやろうなぁ、コレって。あーあ、早まってしもた。損したな。一日の始まりは、このクドキから。ちゃんとお日さんが番してる下界と違うて、夜に眠って、朝に起きるケジメさえない。そう思ったときが一日の始まり。こっちに来てからのおとうはんの凝り性は、こきりこ一辺倒。見知った顔を見つければ、時相の挨拶はいつも「ごいっしょに」「次のときは是非とも」を繰り言に、両の手に持ったすいっちょんぎーぎー、すいっちょんぎーぎーを鳴らしている。挨拶あとの本編なんぞとっくに縁のなくなった者ばっかりでは、作法を外しての関わりようは持ち得ない。長講釈の繰り言ばかりが何処もかしこも咲いてる。おとうはんは、娘であった女子を釣り上げ再びこないしとる経緯を話しているが、誰もが何度も聞いた話しばかりが咲いてる中では別の花を咲かせるほどはなく、うちはあくびを噛み殺しながら、花園の似合う風景から足をはみ出さんようにする。たまには抜けて、婿はんが子守に雇うた女に潜っても、すでに現身で無うなった身の上では肩身が狭うて、間借りしとるような居心地のわるさが付いて回り、以前のような勝手気ままとはいかんようになった。作法、型、結界、そないな呼び名で言い表されてもんでガんじガらめになって窮屈や。親を不憫に想う情け深いむすめ、残した仔を案じる母ご、離れたあとも繋がりを忘れえぬ女、それぞれ綺麗に染め抜かれ錦絵になって張り付く。下とは違うて、動かんようになった分、それぞれの線は綺麗なもんや。せやけど綺麗なもんは、お互いに交わろうとせん。却って始末が悪い。壊してはいかんのやから、此方に遊びに行ってもあんまり長居は出来ん。
それでも窮屈を我慢すれば、気ままなのは間違いない。ひとつ処に戻らんといかん身の上は、すっぱり無うなったんやもの。それに、おちゃっぴーとも遊べるようになったし。フフフっ、おちゃっぴーだって、その名云うだけで楽しくなる。女子に生まれたら、女子は片時も離れんものと思うてたけど、あの子に入ると、すぐに女子を衣紋に掛けた心地がする。勘三郎と同じ目線の高さまで揃えたら、楽しいの心地よりほか湧いてこない。みんな衣紋に掛けて軽うなったら、追いかける。逃げる。隠れる。それの繰り返しだけやのになんでこないに楽しいんやろう。
「かんざちゃーん」おちゃっぴーが勘三郎を呼ぶときの大きくて長い声がする。
この時が一番好き。遠くの方から呼んでるのと頭の中で呼んでるのの両方がする。梵鐘被って昼寝しとるみたいや。暗くて暖かで、少し草の匂いがする。「かんざちゃーん ーぅ」
今度は少し小さく長ぁーく呼んだので、一緒に口真似してみた。遠慮しいしいしてると、ほおづき膨らましてる声しか出てこない。
勘三郎はまだ出てこない。隠れたまんま。もう、むずむず、わくわくしてくる。短い手足になりきってドタバタぷいぷい回りだす。夏のスイカまで膨らんだおつむがゴロゴロがらがらの爆発音を貯めていく。
「か、ん、ざ、ちゃーん」
音のひとつひとつに、隠れんぼのオニになってるおちゃっぴーのお団子結びに結った丸ぁるいおつむが食っ付いて、お店中を駆け回る。ひねり出るときはほっぺ膨らますみたいにゆっくりなんで、乗りやすそうなの見つけたらお尻ペタンと風きって跳んでいく。そんなこんなが十といわず二十といわずにポンポンぽんぽんポン菓子みたいに弾みつけてお屋敷といわずお庭といわず飛んでくるのだから、これは賑やかなはずや。
ピぃひろ、パぁひろ、ピぃひろりん。乾いた音の粒が天井廊下を弾いて回る。ここまで出揃えば、探し回らなくても勘三郎はやってくる。透きとおったスイカ頭のおちゃっぴーの頭を二つ抱え、凛とした可愛さ詰まった顔でニコニコはいはい。豆粒あられになったお囃子踏みつけながら、すたこらサイサイやってくる。
こないな紅白饅頭みたいな大道芸、見えてる聞こえてるのは子供ら二人と子守してるうちらだけ。あとは静かなもんや。どないな跳ねっ返りも通り抜けてして、涼しい顔して母屋とお店の行き来してはる。それとも、立ち止まってパチパチ豆粒あられ弾いてる勘三郎に、一旦でも眼を注いだら石にでも化かされるやもしれんと、怯えてるんやろか。それほどに、勘三郎は可愛い、きれいや、とても己れの腹がひねり出したともんとは思えん神々しさや。世間様にある可愛いものは、全てこの子を見たあとに拵えたんや。そないにでも思わんと、ギュッと掴まれた合点がいつまでたっても降ろしゃせん。
繋がりもっとるうちでさえ、こないやもん、まして・・・・お店から一歩踏み出し世間様にだしたら、いったいどないなことになるんやろう。
くっ くっ くぅ。腹からむしがひねり出てきた。笑い、こらえられへん。あっ、という間におちゃっぴいのお団子結びから滑りおちて、固い地面にしたたかに打ってしまった。
たまきと目が合う。対峙してるのは間が抜けて可笑しい気もするが、合ったものはしょうがない。眺めてみる。勘三郎の守り女としておちゃっぴーと一緒に屋に入ってきた女だ。姉といってるが、おちゃっぴーを生んでいる。猫と一緒で尻の匂いを嗅げば繋がりはすぐに分かる。三度ほど入ってみたが、男の匂いが一杯に籠もっておった。そのくせ婿さんのはしてこない。婆ぁの匂いもあったが、それは捨てとこう。うちの身代わりやモノ、収まるところに納まるんやろう。
それより、勘三郎、勘三郎。こない独り占めしてええんやろか、贅沢しとるわ、許されるんやろか。ちっちゃいけど掘り出したばっかりの尖った鼻の先で、えいえいっと、おちゃっぴーのお団子結びを爆ぜていく。
パぁパぁーん パぁパぁーん
おらおら顔したキラキラがあたると、お団子結びは未練の顔をみせんとポンポンぽんぽん消えていく。爆ぜるの見つけて笑い合うときは楽しい。
パぁ、パぁ、パぁパぁーん、パぁ、パぁ、パぁパぁーん、パーん、パーん
最後に両手抱えた二つ首が、ひゅるひゅるひゅーと、ほっぺすぼめたクシャクシャの紙風船になってパッと消えた。消えたら、抜けて、ここにあるもん皆んなと向かい合うだけのお久はんに戻った。
「本日の分は、これで仕舞いや」嫌な女の声が見送ったが、やりすごして帰る。もってもいない巾着袋を肩に回してふりふりさせて、少し気取って身代わりはんに見せてやった。
「ただいま。もどりました」
それでも三指ついた挨拶はする。すると、おとうはんはくるりの背中を正面に直して「こっちに来てからいうもの、お前さまは我が強うなった」の決まり事を返す。しぶ茶こそ手に添えとらんが、すっかり好好爺の所作ばっかりなぞるようになって。それでも、腹ん中のムシを聞こうと思えば聞こえてくるんで、「やっかいや、なぁ」になってくる。
ぐちぐちプチプチ ぐちぐちプチプチ
夏のセミみたいな取り留めもないもんが続きそう。
そないならと、おっきくて重たい水まんじゅう吐き出して、そのままぷいっと、また下に戻ることにしたったん。
勘三郎は、小僧さんつれてお得意さん周りしてる最中やった。あー、ついさっきやのに、此方と向こうでは時の間尺が合わないのが心もとい。そんでも、此方に気づいたらニコッと返してくれる。ええ子ゃ。
お店から一歩でも外に出てくれば「そりゃあ持ち切りやろう」、ほうら、こっち来てよーく見なはれ、表店の影になって隙間にしか見えん路地の、じーとたむろしとる世間さんの、たくさんに居ること。膨らんでる目ン玉の数、零れて、おもて通りまで溢れてきそう。可哀想に小僧さん、両手ふさがっとるもんで、目ン玉のヤリぶすま、あないに仰山にあたるのに、払いのけられんとブスブス穴が開いて血だらけや。
「勘三郎、守ってあげんと」そうそう、前になり後ろなりして、お前がおったら氷の刃も淡雪に変わるやろ。掛かって落ちて、濡れるだけ。
着いたのんか。そうか、今日はこのお屋敷か。どんなお屋敷さんやろ、お前を待ちかねてるおひとは・・・・・くんくん・・・・婆ぁの匂いはせんなぁ、まだまだ夢みとるおひとや。錦絵に描かれとるホンマモン呼んで、動かしてみましょうと、そないな酔狂で呼び出した姫御前や。小僧さんの抱えた反物、飾り物、みんな置いてったら、ええ。全部お買い上げしてもろうて、風呂敷たたんで胸元に仕舞って帰っておいで。それだけの駄賃あたりまえやろ、と涼しい顔してな。錦絵やのうてホンマモン現れたら、きっと腰抜かしてそれどころやないやろから、何言っても言われたまんま。どないすることも出来へん。己れの頭ん中に納まらんもんに、ホンマモンに拐われとるんやもの、その心地ゆうたら、どないもこないも・・・・・・・ほらほら、もう。
蝋人形になりはった。ぽたぽたが腹ん中で溶けとる音が聞こえる。きっとあの中でゆっくりかき混ぜながら、コンペイトウの先とがらせとるんやで。
小僧さん、何処におるんやろ。何してはるんやろう。隅のところに固まって静かに一人遊びしてはるわ。遊ぶもん何ひとつ持ってこんかったんで、己れの両の手首足首を器用に外して並び替えてはる。おちゃっぴいなんやろか、いいや、おちゃっぴいやったらこの時分にはもうおらんようになった、無うなった。
そろそろ、お暇せんと。ちゃんと元どおり並びなおしてな、まえ後ろ合わさんといかんよ。勘三郎、ちゃんと面倒みてあげて。びっこひいとる、足首が前うしろあべこべやないかぁ。あたまも拳ひとつ傾いで・・・・そうか、分かっとるんかぁ、そうかぁ、帰りはちゃんと手ぇ繋いであげて、ええ子や。
おや、おや、まぁー、またお店に、おんなじ処に戻ってしまった。おとうはん、うちの吐いたあの大っきくて重たい水まんじゅう、片付けはったんや。三つ指ついて「ただいま もどりました」の格好してんのに、正面向いて居てくれんと格好つかんやないですか。まー、ええですわ。そっちの木戸しめはったんなら。目ぇ醒まさんうちにまた同んなじ夢の続きみさせてもらいます。おとうはんも意地はらんと此方に来たらええのに。うちもあの仔も婿はんも、皆んなおとうはんが拵えた仕掛けものやないですか。張本人の勘三郎が高みの見物してもらわんことには、観客が一人もおらん芝居打っとるみたいや・・・・・・
そうですかぁ、そうゆうもんですか。あっちには美しい勘三郎がおるんですもんなぁ、あの仔はわしや云わはって死んだんですもんなぁ。己れに嘘はつけませんなぁ。ひとっ処に二人の勘三郎が居てはる道理はありゃしまへんは、なぁ。
名前を替えられたらよろしいのに。宗吉でも小太郎でも、呼びやすうて見栄えのええ名がおますやろ・・・・・・えっ、何ですって・・・・何か言わはりましたなぁ。お前みたいなわけにはいかん、そない言わはりますのんか。
そうですかぁ、そうゆうもんですか。うちは、おとうはんから久いう名をいただくまでに、両手の指つこうても足らんほどの名をいただきました。ええ、えぇ、皆んな覚えております。お陰さんで、こっちに来るようになっても、あっちこっちふらりふらふら出来る身になっとります・・・・・おとうはん、辛ろうおまへんか、そないに大人しゅうして。どこぞで見つけたんか、こきりこ二つシャカシャカ鳴らして、ホトトギスみたく血でも吹き出すような声しぼりあげて。声の切っ先だけですな、うちを身動きできんほどにしとった勘三郎は。あの時の両の掌は、何処にいってしもうたんやろ・・・・お前とは違う、女子とは違う云いますのんか、ははぁー、また逃げはりましたな。逃げ足だけは早うなりましたな。
それよりも、勘三郎、勘三郎
いた、いた、おった。
さっきの綺麗な勘三郎もええけど、こない可愛らしゅうの勘三郎もええなぁ。そりゃあ、見るもん触れるもんスパッと切ってく顔も惚れ惚れするが、あっちはもう他のおひとの掌のあとがついとるし。今はまだ、うちらだけのもんや。秘密知っとる大人だけのもんや。「めんごい仔」で、秘密は隠されてク。通り過ぎてク。
たまきは、いつ知ったんやろう、このこと。もとより因果を含められて寄こされたんやろか。すっぽんぽんになって同衾しとる婿はんからか、それともうちらみたいな得体の知れんもんが耳元でコソッと、やろか。
そろそろかぁ。
そろそろやろぅ おっぱじめるんは。
たまきが、おちゃっぴーおぶったまんま勘三郎抱き上げたら、己れの首すじ挟むように二人の仔の両手首たがいに掴まえさせた。たまきのくび挟んで見合わせとる二人が、もうこらえきれん顔してる。勘三郎は「あれか、あれかっ、あれやってくれるんか」なんて、金魚のクチまでしてる。目ン玉が首っ玉まで乗り出してる。待ちきれんもんがお腹ん中で吹いとるくらいピクピクしとんのに、怺えたまんまたまきの首を盾にして、いないいないばあして、いい子してはる。「いい子やな、ふたりとも」って穏やかな顔しとったら、瞬きする暇のあいだに捉えきれんくらいのグルグルを始めよった。ミシミシ、ギシギシも始まりよった。あんたらのちっちゃな腕、引きちぎれるんやないか。と、両手で目を塞いで隙間から見とったら、
あれまー、跳びよった。たまきの首は丸ぁるいジャイロ、ふたりの仔は羽になり、ミサイルの如く真一文字に大空に突き刺さる。
「タケトンボ、タケトンボ」
聴こえるぇ、勘三郎、お前の珠のように可愛らしい声が、お天とさんより高い空の上から一直線になって地面に落ちてくる。此方はこない激しいのに、きっとあんたらはメリーゴーランド運ぶ波のリズムの中でたゆとうしてはる。
少し、暗くなったやろか。たまきの首がお天道さんの一番明るいとこを塞いでしもうたみたいやし。なんや、壊れた桶のあな、塞ぎにいったみたいな格好やな。そこを軸に二人の良え子たち、二枚羽みえてるゆっくりの速さで楽しそうや。少し暗うなった世間様を照らしてはる。みんなそないに忙しんやろか。ひとっこひとり仰いだり指差してるもんは居らん。口あんぐりも口ぐさむのも居らん。静かな景色や。両の腕、もっていかれんうちに早ぉーお帰り。
掌を付けてくれよと泣く仔かな
【うち、たまきを染め抜きしとるんやろうかされとるんやろうか】
地面に戻ると、三人は何もしてへん顔でいつもの振る舞いに還っている。たまきは守りをしながらのお店の下働きに、おちゃっぴいは、「お手伝い お手伝い」とたまきに纏わりつき、勘三郎は子守されるのを装いながらおちゃっぴいのだだ漏れしてるお手伝いを拾い集めては、たまきの手足になって働く。
それぞれが元通りになっても、三人の生木を裂いた跡は残っている。見えている。目で追いかけて重ねてもくっついてはくれないが、たまきを真ん中にして「生えていた」三人の楽しそうな身体は、目を塞ぎたくなる「異形」よりも先にある懐かしさを連れてくる。滑らかで温かなホゾが通っていた、あの頃の湿ったぬくもりが、身体をばらばらに三つに分けた今を良しとしないのだ。
たまきは、持てるんやたったら挿し込めるんやったら何人でも何十人でも仔を宿したいと欲する女だ。そのくせ、「母ご」から呼び起こされるたゆとうの柔らかさは、持ち合わせてはいない。
ー業や、ー
業とわかっとるのに、角や爪は見つからんように出さんと、暖かく湿ったものに隠してる。それが久との違いや。黒いシミみたいなもんが、かわいい勘三郎についたシミが、鉛色のように移ろってる。そのくせ、嫌な気は起こりゃせん。掌まみれが重なりすぎて全身真っ黒のおちゃっぴいを見ても、可愛いだけや。への字の口までなっても、汚いは浮かんでこない。
ー眉間の間のたんこぶチん、産毛はやしてジリジリ光っとるのにー
たまきの掌はとうに輪郭を失っている。弄り、凝視してみても、生えてたんやのうて捻り出したみたいな掌や。粘土を掴んでは投げ掴んでは投げしてる厚ぼったい掌や。婆ぁの処で睦んでおった背骨が鈍く黒い女、その女が急に現れ、後ろくびをピタリ、通り抜けた。どこか合わそうと凝らせば外れてく。そんでも、繫がってるザラザラは残っとる。婆ぁと繋がっとらん女子はおらんのやから、いずれかに響いて帰ってくるやろ。
可愛らしいもんを前に、たまきの業は膨らむ。太ってくる。黒くてザラザラとげとげの馬糞うにが、思った以上に海溜まりを素早くうごめく。汗は固まってクジラの脂身まで白く厚くなる。吹いては、固まり、重ぅなって、己れではどうにもならん格好やな。
「食べたかて、ええんよ」
それに変えるため、皆んなあげ尽くして、あげて、たまきは餓鬼になるまで痩せ細った。
おちゃっぴーは、そのナデナデ声を、そのまま遠慮なく、無防備で柔らかで美味しいモンやからと、受け止める。
胴体よりは頭が、頭よりは口が、口よりは牙が、あばらから腰骨までの上半分をがぶりと一発で持ってく。拵えもののおもちゃの身体でも繋がった肉と骨が断ち切られるのだから、ふくろの隅々までが血があぶくを勃てて、もんどりうつ。抜けたあとの肉塊は重く、濁音ばかり地響きを立てた。濁音が消えたあとの血まみれは、地面がヒュルリと両頬すぼめた声たてて、すべて吸い取り片付ける。
それを見ていても、勘三郎は怯えもしなければ固まりもしない。次の、いつものを、待っている。好きなトンボが羽化するのをじっと待つ仔の眼で。
もぞもぞ、モゾモゾが始まった。
形を変えて膨らみ、厚着した傴僂みたく尖った背中が伸びてくる。
そおら そおら 生えてくる
そおら そおら 生まれてくる
たまきとおちゃっぴーの顔が襟足から這い出るスピードは、初めてタートルネックを着たときより早かった。たまきは、同じ胴体から這い出たおちゃっぴーを、生えたばかりの両腕で、そっと地面に下ろす。怪物は消えていないが、いろいろ奥底の穴にきちんと畳まれ、仕舞われた。
ほっとしたんか、風は息を吹き返したように雲を動かし、お天道さんは顔を出したり隠したり。そこら中が一斉にチマチマ組み上がっていく。何か橋渡ししようにもあまりに多くて小さいものが目いっぱいに拡がるので、そこいら中が零れて見えやしない。まごまごしてると「一斉なり」が、高らかにラッパを吹いた。
勘三郎が、終わったいう気持ちと始まったいう目で、庭の二人に駆け寄る。毎朝の、見慣れた光景や。大概の世間が止まっているときに、三人は、多かれ少なかれ、生まれ変わりを繰り返す。勘三郎が勘三郎の名だけ残して、いっつも美しく生まれ変わり続けるわけや。お久もモゾモゾ真似て動いてみる。
どうせ、グルグルから外れられへん、身の上やもの、・・・ んやものぉ、好きにさせてもらいますぅ
親ごの情も不憫の仔ぉも、そないな心持ち、ますます遠くに追いやられていく。情の方は辞められても、業のほうは、辞められしまへん。「熱そうや危なそうや、毒やろな」って腹ん中は分かっていても、「食べたいっ」って口にする。それが道理や。金色に光るネバネバしたもん仰山に腹ん中に詰めて、金色の炎あげるんよ。首元から後光が差しとるかてぇ、羽二重のせいやぁない。金色が、炎が、ちらちら燃えとるんよ・・・・・・ほれほれ、雲を突き刺す山かて二越して、眼のない手練達の鼻をヒクヒクつまんどる。ちっちゃな可愛い掌やけど、柔らかで厚ぼったいだけのもんやない。毒が隠されとる。針が仕込まれとる。斬られて初めて見えてくる血潮の泡が吹いておる。
【うち、どないしても女子が疼かんのよ】
すいっちょんぎーぎー
すいっちょんぎーぎー
あない舞い廻って、とうに解脱でもしはったんやろか。聞いた話か、覗いた噂ばなしか忘れてしもうたけど、むかぁーし、お女房さんとお義母さん、両方いっぺんに亡うならかしたおひとが居って、いがぐり坊主の子供みたいな身体しか持たへんのやけど、高野槇で一寸刻みの大きな数珠こしらえて、首に掛けたら首より下は数珠に隠され良う見えん正装までされはって、「読経写本」、「読経写本」で篭もりはった挙げ句、それよりあとに続く功徳が用意でけんようになったんやろなぁ、やっとこさ首を括らはった。そないな己れを冷やかすばっかりの真似ごとで頭でっかちにならんでもええのに、すっと素直に追いかけていったらええのに、すぐに昔みたいに仲良う戻れるんのに、遠吠えみたいなこえ聞くたび、こないな処に来てまでも、「やれっ、縄はりましょ柱たてましょ」云うて、両足くんで拵えた凹脚の空き地まで陣地にせんことには身の置きどころのない男のおもろない可笑しさ感じます。
なぁ、おとうはん、同じ勘三郎でもあの仔にそないなマネは出けしません。皺くっちゃのその両の手に、飴玉ひと粒づつ並べてますなぁ。隠さんかてエエ、おいでおいでしたかて、こっちに連れてきたかて、そないなマネはようしません。こっちに寄こして、二人揃って、すいっちょんぎーぎー、すいっちょんぎーぎーなんて考えとるんと違いますかぁ。それって、「無理」ってもんです。あの仔は女子なんやし、ひとつ処にふたつの勘三郎が居ることはないんやし・・・・・どなたが決めはったんやろう、そないな決まりごと。生まれた子に勘三郎つけて、生まれ変わりなんぞややこしいこと始めたのは・・・・いまはのきわやった、って言いますの。死んで無うなってしもうたら、「四角四面のこないなカラクリごとに押し込めれれるとは思わなんだ」って言いますの。
ーそないな恐れおおいこと、めっそうもないー
首ふって、何に怯えてますのぉ・・・・大丈夫、うちは、そないな大それたこと滅多矢鱈に口から出したりしやしません。ツンツンしとっても、ええ娘のままです、おとうはん。あっちの時かて十年やってきたんやもの、無うなったって身体は覚えとります。少ぉし、イケずしとるだけです。こないな大きなカラクリ、おとうはんお一人の中から出てきたもんや、おへん。もっと大きな掌、黒くて深いもんの仕業です。振り返らんかて、首んたま締め上げる黒い手なんぞ出てきやしません。誰も、何処も、二人のこのこと聞いとりゃしません。
婿はんを婆ぁの処へ連れていったの、おとうはんでっしゃろ・・・・・違う言いますのんかぁ・・・・まあ、どっちでもええわぁ、聞いたかて教えてくれへんのやし、云われたかて本当かどうか確かめる術はないんやから。いま確かなのは、金色の湯舟からあがって糸のしたたりおちる娘の赤い肌になった婆ぁが、たったひとり三指ついて、上がりかまちで待ち続けとる姿と、それを想ったらいてもたってもおられんようになる婿はんの顔だけや。両腕の腋汁まで婆ぁの匂いが沁み込んどる。たくさんおった娘たち、みんな外に追い立てて、窓いう窓に板塀打ち付けて、たったひとり三指ついて、愛しい殿ごの訪れ待っとる女の業の蜜の味、そればっかで食いつなどる物の怪。離れておっても、同じ肉の匂いしか嗅ぎ取れんほど成り下がっとる。
硬いが 弾む 豆の味
婆ぁが婿はんの肩に皺じわの前歯たてたとき、壺の中から歌がこぼれた。さっきまでごま油の気泡のなかに隠れていたのも、油まみれで臭うなってるのも忘れている。
むすめが片目つむればあれよあれよと婆ぁに戻るの 忘れるように
婿はんが生身なんぞ一片たりと抱いておらんの 忘れるように
お互いが、尻のかわ握って、巴えになっとる。肉塊が互いの皮の隙間の在りかに気づき、「やっぱり」といって離れようとすると、白黒、黒白の丸ぁるい石が、うねって隙間の在り処を隠そうとする。消し去ろうとする。「身ぃふたつぅ」ばかり連呼して囃し立ても、臥所を覗く穴と同様に細く小さくなるばかり。
目ン玉ぬれて、アブクが立った。
前の妖しさに負けて、覚えとる在りまで絡め取られてしまう。袖の奥の手をもう少しだけ引っぱると、底に繋がる奥に溜まってる深い気配が、遠慮会釈なく、ふわっと登ってきそう。久は「えいえい、えい」っと、両手で蓋を締めて、パタパタ駆け上がり、桟敷席まで戻ってきた。
かぶりつきの客が一人もおらんようになっても、ふたりの巴えは止みはしない。解かぬまま互いの肉をつまんでは、ポツリポツリ食ってる。お互いが己れに似せようと、跳び出たところを削り取って食ってる。食っては増える異形を、また飽きもせずに削ぎ落とす。おぞましい異形の行いも、桟敷からなら慣れてみえてくる。
もういいよ出ておいで。顔は出さぬとも何処ぞで穴を拵えて覗き込んでるのは承知のこと。
ー女子や、ものー
少し、胸がすっとする。何か奥で落ちた音がしたが、確かめるとそのまま連れて行かれそうやので、ぐっと我慢する。それでのうても、光悦の見えない手に引っ張られそうやのに。片手で庇こさえて、臥所の真横を拡げて覗くと、ゼラチンよりも少し硬いアクリル樹脂が敷かれているよう。飽きもせぬポツリポツリも、愛でる営みや、鑑賞物や。掘りは進んで皮膚は剥がれ、真皮はめくれ、肉と脂は交互に削ぎ取られ、指が三本ぴたり納まる崖っぷちが、角を出す。余ったほうの手で鼻の穴ほじってるような無造作の割に、定規充てたみたいに直線が立っている。「慈しみの結晶」の名札がみえたらムズムズが始まった。
嫉妬があたまを擡げてくるのに、澱は粒までは丸まらんし、重たい気配も降りて来ない。ゼラチンよりも少し硬いアクリル樹脂が飾り立ててるんで、シュッとしとる。
ー生きとるもんやろかー
座った身分で鼻を近づけても、生臭さはしてこない。無機の檻に閉じ込めてあるからといって、侮ってはいけない。
ーきれいや、こないななりして生まれたいー
と、高く柔らかな生のこえが出てきそう。こっちの不安しっとるくせに、いっつも穏やかな顔してる。
ー操り糸は何処に繋がっとるんー
女の色が移ろってきた。顔や身体の移ろいと一緒に、婆ぁは色も移ろう。
ーうちのときは、鳶色。色より先に名があって、匂いがあって、その重なりが音のしないサラサラの砂時計みたいに溜まって出来た色ー
移ろっているのに、色味が何か見えてこない。サラサラは婆ぁの中に溜まり、湯船に溶けて色を出す。
ー懐かしい、ただただ懐かしいー
此処に座っておらんかったら、とうに婆ぁに吸い込まれ、溶かされてしまいたい想いに打ち負かされそう。うちもあの中におって、金色の湯船の中で溶け出され、婆ぁが好きなときに好きなべべ着込める用にと上物の桐箪笥の中に、この屋におったほかの女子と同様「後生大事」と仕舞われてる。
ー業や、ものなー
婆ぁは業で出来てとる。ようみると、砂鉄みたいな業の虫がいっぱいに傘さして歩いてる。それ以外のものみな打ち捨てて、姿形は綺麗サッパリ無うなっとる。近づいてみはなれ、いろいろ押し寄せたもんが押しくら饅頭しとるのがようく見えます。
逢いたい。あぁあぁー、あせの婆ぁに逢いたい。うちの穴という穴みんなカラッカラに拭き取られたみたいにギシギシ泣いとる。こないに互いの鼻がくっ付く処におるのに、おらんときの切なさがヒリヒリ昇っとる・・・・・お店におったときはこないなモゾモゾいっぺんも起こらんかったのに、なんでいま時分になって駆け上がってくるぅん・・・・・・
目ン玉を開けても閉じても、婆ぁの顔、もう見えんようになった。どないな顔やったか、色やったか。お店出るとき、お前様はきっと戻ってきたりはせん云う声が、今生のお別れや云う声が、とうにうちの声に成り変わって。
替わっとる。変わっとる。婆ぁのなかにうちが居るのが見えるようにうちの中にも婆ぁが居るのがようく見える、とうに垣根はのうなって。
婆ぁなんて、あせの婆ぁなんて、本当におったのやろかぁ・・・・・またお湯で息塞がれて、金色の湯がとろとろになって何本もの両の手で身体中の穴という穴を塞ぎに来よった。中のもんを出さんよう、外のもんを入れんよう、桐箪笥にしまったもんが勝手に動き出さんように見張らんとあかんのやな。心配せんかて、うちは綺麗なべべや云われる方が好きや。桐箪笥から勝手に出歩いて、裾の汚れるような真似はようしません。
ぽん、ぽん、ポンっが鳴ったら、もう大丈夫。うちは元のまんまや。勘三郎の可愛い名を見とるだけで十分な、久いう女子に戻っとる。どの辺りのお久はんまで戻ったか、それは両の掌に聞かな分からんけどな。
婆ぁが籠もっていた火鉢の部屋に、ちっちゃな仏壇の厨子いうんか、あったな。「火事やっ」の合図があれば、いつでもそのまんま持っていける香箱に品を変えて、猫みたいに耽って、穴から覗かれとるの承知のまんま小さな拝み婆ぁの格好で、己れの上半身沈めてお篭りしとった。
ずらずらニャーニャー むにゃむにゃハー
唱えるのは、そんなもんばっかり。シャボン玉に丸まった読経を、丸めたそばから突っついて、消す。その間も蟹みたいな居眠りのアブクを仰山唱えるもんで、突っつく指の数が足らんようになって、千手さん仰山に働いておった。
あんな仰山の掌に掴まったら黄金色の湯の中よりも気持ちええんやろぅなぁ。それに気づいたんか、「こっちゃ来い、こっちゃ来い」が呼んでくる。呼んでいるのは、婆ぁなのか、その両の掌なのか。両の掌なら、「危ない、危ない」と襖を閉めて、結界に頼んでお祓いしてもらわんと。
ねぇ、おとうはん。勘三郎って、おとうはんのやと思いますぅ、それとも婿さんのやと思いますぅ・・・・・そんな罪作りの顔せんかて、隠さんといかんうちの方が聞いとるねんもん。ねえ、どっちやと思いますぅ
うちなぁ、ずっと婿はんのやと決めてました。日に日に大きゅうなるお腹をさすって、「得体の知れんもんやろか、愛しいもんやろか」って、己れとは違うもん抱えとる気分が移ろいでいく中でも、芯の入ってるケシ粒の正体は婿はんだと決めてました。
気ぃ悪うせんとな。おとうはんに足の裏むけてたわけやない。婆ぁの処を出て、新しい名と素性に塗り替えてもろうてからは、うちの身体と心はおとうはんに拵えてもろたもんばっかりです。茶寮に入ってからうちは生まれてうちになりました。お天道さんのぼんやりが、いっつもお屋敷に四畳半に入ってきて、おとうはんが居るときも居らんときも、うちはいっつも真ん丸の暖かな気分のまんまやった。
おとうはんの娘いわれてお店に連れていかれて、「逢瀬は茶寮のときだけや」と耳打ちされて、そんでも何も変わらんのやらと務めてきたけど、やっぱりだめなんよ、やっぱり男はんとは違うんよ。
他所で拵えてずっと披露せんかった娘なんやって。それからは、お店に婿はん迎えんと、婚礼の日は「向こう三月の十五日」と、どんどんどんどん降り注いで、積もり積もって・・・・・いくら立て前や形ばかりや云うても、目に見えるんですもの、そこに居るんですもの。寒い晩のアンカや云うても、そないに繕うても、婿はんとあんかはん、ふたつ一緒に在りはしません。ひとつだけです。婿はんだけです。おとうはんは何ひとつ変わらんまんまでうちを抱いてはったけど、うちは呼び名やのうて本当におとうはんに抱かれとる娘になっとたんよ。勘三郎いう男はんは無うなって、おとうはんになったんよ。せやから、どんなに欲しがってもおとうはんの芯は、うちの中には着かんかった。茶寮におったときに、女子でおったときに欲しがってくれたら良かったのにな。娘にされて婿はんまで充てがわれて、どないしたら仔が付くんやろ。女子はひとつのもんしか受け入れられせんのや。せやけど、うち、婿はんと婆ぁがしとるの、あないにくっついて見とっても疼くもんが一つも出てこない。出てくるもんはおとうはんに拵えてもろうたもんばっかりや。うち、ほんまに婿はんにしてもろうたんやろうか。おとうはんはどんどん小そうなって、うちのお腹はどんどん大きゅうなって、婿はんは己れのもんゆう掌でずっとずっとさすってくれてた。その掌は正直な掌やった。婿はんがしはってうちの仔をなしたのは、まぎれもない正直なことや。それは、うちなのか、どうか、はっきりせん、違うような気がする。こないに奥深い処まで潜っても疼かんのやから・・・・・きっと、違うんや。