おとっつぁん
連作の編集画面不慣れで個別に掲載しておりましたが、四章で完結する目途となりましたので、完結後一体として編纂いたします。
【いまわの際】
すいっちょん ぎーぎー
すいっちょん ぎーぎー
そうした気配が薄々這い回っていたが、勘三郎おとっつぁんの今際とお久が産気づいたのは同じ刻限になった。長火鉢を真ん中にお店と奥を右往左往するうち、こきりこの鳴る音がますます渦を巻いてくる。それがその時のことなのか想い起す度に巻いてきた渦なのか、こうまで年月が経ってしまった今となっては、埒もない。
「わては、もう、あかん」
「はいっ」
「ばかっタレ。こないな時にまで二つ返事で返しよって、正直すぎるわ、ばか正直も大概にしぃ・・・もう一遍やり直しやあ」
錦の金羽織を背負ってこきりこかしゃかしゃ廻っていた手のひらサイズの勘三郎おとっつぁんは、いったんは体内に戻りいつもの悋気臭い顔で小言を繰り出したが、「こんなもん繰り返す阿呆もおらんやろう」と、いつもどおりのそっぽを向けた。
「せめて、お久の産んだ子の顔を拝むまでは、どうか・・・・」
入婿の手前そのままにもしておけず、意固地な背中に向かってそういえば、「何をテテ御づらして」と鮫のような冷たい目を返してきて、そのイトミミズの赤い目の中に「お久の生む子は、わしや」と、沸いている。死に際迎えた年寄りの「生まれてくる子をわしやと思うて」といった枯れた風情は一切なく、己の今生を切れ間なく永らえさせようとする男の業があけすけに剥き出しで、おそろしゅうておそろしゅうて襖という襖みんな閉じて、生まれる赤子のもとへ布団かぶりかぶり駆けつけた。
すいっちょん ぎーぎー
すいっちょん ぎーぎー
「若だんはん、男はんがこないな処まで追いかけてきたら、あきまへん」と、女たちの両手がハスから押し返してくる。
「早う生んでくれ、早うひねり出してくれ、せやないと・・・・おとっつぁんが、もてしまへん」と、口の端にあげながらもう一方の腹の中では「せやないと、お久ごと赤子ごと乗っ取られてしまう」と何度も何度も繰り返し、長火鉢の元まで帰ってきた。灰の上のごとくの上で錦まみれの小さな勘三郎おとっつぁんはこきりこを鳴らす。その度に金羽織から降り落ちる金粉が「すいっちょんぎーぎー すいっちょんぎーぎー」になって勘三郎おとっつぁんを飾り立てる。廻りだした勘三郎おとっつぁんは、小さくなっていることも、先っきまで戻る場所だった身体のことも、お店も、お久も、いま捻り出されているその子のことも、真っ赤なイトミミズの目ん玉の裏側に映し出すことはなかった。
襖越しの向こうから赤ん坊がこの世に顔を出した最初の声がした。生まれた。助かった。両腕を二度まで上げて万歳をした。
「ぐぅ、おっぽん」の小さな咳が、ひとつ。小舟町のおじさんと呼ばれている勘三郎おとっつぁんの弟が、「この婿はん、この場を一体何ぞと心得る」と、足元を見つめるよう促した。此処は、今際となって閨から移された座敷の二十四畳で、加賀屋勘三郎を真ん中にした親族という親族がみっしり布団を囲み、いまかいまかと下向き顔でその時を待っているのだ。血が繋がっとらんのやもぅ、はじめての子が授かる方にばっかり顔が向いてもしょうがないわなぁの顔で、先程からずっと長火鉢の灰をかき回しながら見て見ぬふりをし続けていたのだ。それでも万歳まで始まると、世間様を旨とするこの屋の人たちの胸から一気に声が飛んでくる。四代目がこうして没していこうというのに六代目ばっかに目がいって、腰が浮いぃとる。婿はん云うても仮にも加賀屋の五代目なんやから。身内の席やから口には出さんけど、このあとの仕切りはきっちりやってもらいますぇ、こどもが出来たって浮かれた顔しとった、四代目がのうなったあともまだ「四代目半」なんて尻下がりで陰口を叩かれまっせぇ、といらぬ小言は几帳面に続いていく。
「あの子は、わてや」
小さな勘三郎おとっつぁんではない。生ける骸に見えても、まだ本マモンの生の声だった。灰なんぞかき回してる場合やないと、親族みんな、その声の一音一音聞き漏らすまいと、耳をそばだて、筆をとった。
「わてが無うなったら、久の子がわてや。わてぇは、あの子に生まれ変わって、加賀屋を、お店を、この屋を守っていく・・・・せやからぁおのれ等みんなぁ安心したらえぇ・・・・・弔いは、あの子を棺の真ん中に座らして、来たもん皆んなに「この度のお生まれ変わり、おめでとさんで」って云わせるように触れ回れ。金屏風ならべて、こきりこ鳴らして、朱塗りの膳に金と銀の鯛を盛り付けて、大盃にひょうたん酒そそいで、廻してくれぃ・・・・・ちよも、せいも、とせも、まあも、あやも、くみも、なつも・・・・」と、女の名前ばかりなぞって、勘三郎おとっつぁんは死んだ。が、小さな勘三郎おとっつぁんはこきりこを鳴らしながら未だ女の名前を呼び続けている。
かよ さよ うめ かをる あやの まちる きさらぎ ふじつぼ あねわか よなくに さんかろう ことしずく あめんぼう・・・・・
南無ミょー南無ミょー 法蓮華キょー ナンミょーナンミょー ホーレンゲキょー
中の二人を籠目にした坊主たちの声明が襖すべて取り払って拵えた大広間にこだましている。
ひとりは骸になり棺に納まった勘三郎、ひとりは目も開かぬまま棺と一緒に作らせた葛籠に納まった勘三郎。すでに首が座った顔で羽織袴に着飾った己の晴れ姿を見入っていた。母のお久は、産後の肥立ちにあっても喪服の帯をきりりと締めて山に積んだ座布団にもたりかかり、その顔は娘と母の寂しさ哀れさが相まって喪服の黒よりも深く艶やかで周りの涙を引きつけ、誘う。
オンぎゃー オンぎゃー オンぎゃー
籠目をかいくぐって勘三郎の産声が三度なった。うつむく一同の耳も持ち上げてはいるが「赤子は泣くものよ」のしわぶき声がのせいか、手を出すものはいない。弔いは前に進んでいく。産みおとしても腹を突き出す姿勢から未だに逃れられずに、お久は口を半開きに見えないものを見つけようとしているが、空いた腹はすでに次の方を向いていた。
半開きの口元をじっと見ていると、昨夜の褥の匂いが迎えに来た。
生んだあとの女は母には変わらなかった。皮をひっくり返すように産褥を剥いで、次の女に変わっていた。大広間を拵えるために外した襖の隠し場所の布団部屋に手を引かれたときから、慣れ親しんだとはいえない家付き娘の身体が別の女生に变化しているのを感じた。感じながらも、こうなってしまえがそれも致し方ない現れの一つと分かっていた。
「こんな茶番、あんさんの子が次に付くまでの辛抱やから、ようよう付き合ってあげんとなぁ」ことのあとに緩んだままの下腹をさすり、そのまま川上に誘い入れるよう、そこに向かって吐いている。合点のいかない顔をそちらに向けていると、暗闇でもわかるようなニコニコ顔が近づいて「あっ」と気づく前の口を吸い取るように塞いで、もう一ぺんの続きをこの闇夜を塞ぐように被さり入ってきた。
「それまでの間、あの娘をずっと勘三郎って呼ばんといかんのか・・・・・お久はん」
その時から腹に湧いた繰り言が、何度も何度も回っている。
テテ御の目から映る不憫さには、お久は何も躊躇はない。こきりこ鳴らす小さな勘三郎おとっつぁんに魅入られていると思ったら、すぐに勘三郎おとっつぁんと同じ金羽織と赤ずきんのいでたちになり、「ひとり踊るのは寂しかろう」と尻っぱしょりまでして、こきりこを踊り始めた。
すいっちょんぎーぎー すいっちょんぎーぎー
お久はん、何の身構えもなくあっち側に渡ってしまったこと、承知やったんやろか。このままおっても母にはなれへんお人やからおとっつぁんがの剛力ばっかりやともおもわれへんが・・・・お久はん、これでもう、次の子の話は無うなってしもうたなぁ。せやけど、あの子は、勘三郎は、うちらの授かったひとり子として、加賀屋の五代目として、きっと立派に育てていきます。どうか、どうか、おとっつぁんと一緒にこきりこ踊りながら見守っててなぁ。
【たまきとおちゃっぴぃと三人っきり】
加賀屋勘三郎は錦絵にまで成り上がった。丁稚に商いものを背負わせて出歩けば「勘三ろうぅ」「六代目ぇ」と、街の札付の呼び声を合図に、歩くも止まるも目のある者すべてのひそひそが砂鉄のようにとぐろを巻いてこだまする。お店の中に入れば入ったで、つむじが連れてきた砂のように戸口に積もっていく。
「冷やかし、覗き見のたぐいじゃないからねぇ」と、返しに木戸銭くるんでる間抜けを袖に暖簾くぐる上客に、勘三郎は六代目の主として、ちゃあんと躾けれれた子供時分と変わらぬお店の用向きの顔を正面に合わせた。そうなったら、まん丸から瓜実に移ろうに従ってお久に似てきた女顔は、ただただ麗しい。この齢で、艶まで匂ってきそうな月代の白さを、こんな胸元間近で見せられたら、弾かずにいられる世間様なんて一人としていやしない。
意図したわけやないけど、勘三郎は店の奥より一歩も外へは出なかった。本人もその中よりほか出たがらずに育った。見知った世間様は子守の二人の顔ばかりだった。子守にとやって来たのは、おっちゃぴぃという名の同じ齢の連れ子のいる女で、たまきと名乗った。
やってきたその日から、たまきおちゃっぴい勘三郎、たまき勘三郎、おちゃっぴい勘三郎の塊になっていた。ふたりのどちらともくっついていない勘三郎はいなくなり、遊んでいるときも飯食うときも寝るときも、それが戻るときはなかった。勘三郎の眼にするもの匂いにするもの皮膚や粘膜に触れるものすべてに二人の女が混じっている。「おとこん子」として生まれ、扱われたまま、勘三郎はずっと女の国に住んでいた。
お店の方は、番頭、手代、丁稚に至るまで当たり前の男ばかり。奥には、用向きのある時ばかり接してくるのだが、そこにそうした線が引かれることはなかった。
勘三郎おとっつぁんから橋渡しを託されたお店やもの。誰もが勘三郎の名から五代目の主を投影して、幼な子の顔に目を細めるよりも四角く律した心根を配っていた。
それは良く見てとれた。はっきり見える分、この屋の結界に囲まれた勘三郎が対岸から此方に渡って来ないのも良く見てとれた。たまきやおちゃっぴいの膝より先は一歩も出て行かなかった。そこより先なにも知らない者同士のやり取りは素直で他愛もない。が、その分哀れだった。こちらからは、もうどこからも他の感情は湧いて来なかった。
上を仰ぐと、仕掛けた勘三郎おとっつぁんは歌を諳んじ、こきりこ踊りに余念がない。既に下界の世話ごとなど、とんと忘れたご様子だ。お久はお久でそんな父親に操を立てて身体を捨てた身のくせに、相変わらずそっぽを向いてひとり己れの容色を見入っている。操るふうもなければ見守るふうもなかった。
対岸は、対岸の者たちは、つくづく勝手なものだった。
そんなでも勘三郎が初めて口にした名は、おひさやった、お店でその名を口にするのはもう誰もいなくなっているのに、「ひさひさ、おひさ」と、必ず三度続けて口にした。近くの遠目で勘三郎の目の先を追ってみても、世間よりも身の内を見ているその澄んだ目からは、名を口にする在り処は見付けられずじまい。産んだだけの女やないかぁとうそぶいてみても、血のつながりは繋がっていることのみで何万編費やした言霊も近づけない殻に覆われている。
あっちに行くまでずっと子を生んだ女の顔のまんまやった、母の顔は一片も拝ましてももらえなんだなぁ
乳やったり、添い寝したりばっかりが母御と違いますろぅ、女んな娘の慈しみはもっと仰山に、男はんには見えんもんが仰山とあります。
あのお屋敷の四畳半には、いつでも夕焼け小焼けの入る仕掛けがしてあるんよ。
はじめて月代そってもろうて、お店の皆んなに手ぇひかれて、ご贔屓さんへの顔見世したとき、あのお内儀はん、美和はん、嫁いだばっかりのお手がついたばっかりの二の腕むき出しにして刷毛で油でもしごくみたいに二へん三へんと、うちのあたま楽しんでおった。後ろで控えてるお腰のものが羽交い締めにせなんだら、ずっと障子戸に刺す灯りが朝に変わるまで同んなじことしておった。
あれが、勘三郎が初めて女んな子いうもんを知ったときや。赤子のワガママさせるだけさせてじっとしとる飼い猫の顔と同んなじように、前においた扇子の結界くずさんように、されるようにされとったが、月代の白さから入ってくる染み込むもんは、少こうしの柔らかな塊を抱いて足の裏まで滑り込んでいく。最後は五人の子までなしたあとも、新妻づくろいの指の腹は変わらないお人やった。
鼻の先に、懐紙に盛られた砂糖菓子がやってきたので、顔を上げてみる。「これ、みんな頂いてって、ええの」
絞った蜜の悲鳴まで聞こえてきそうな糖蜜が南国の果物に万遍なく塗り固められた菓子は、三っつ四っつと数え始めると段々とうず高くなって、お内儀が両手で差し出す懐紙から溢れるままに増えていく。
「うちにもお裾分け」そういって自ずと指でとった菓子は、己れの口ではなく勘三郎の口へ運んでいく。
「お前もお食べ、これはみんなお前のだから」月代から開放されたこの子は、几帳面にひとつひとつを飲み込むたびに口に入れた。
遠くでかけすが鳴いている。夕暮れ色はそのまま、どこを切っても真四角な几帳面はころころ転がっていく。双六しているのは天女の指で、蓬莱山の上がりは心得ているのか、粉が吹いても真っ黒になったふたりの口はさなぎの殻になっても止まらない。
こうまでばらばらになっては己れだけでは身が持たぬ。明日の晩はタニに入って、あせの婆ぁに抱いてもらわねば。
すでに春なのだと想った。
【皆んな、あせの婆ぁから出てきたんや】
あせの婆ぁは春日町をぬける無造作な路地のどん詰まりにある。路地といっても花娼の棟の寄せ集めで、お互いがそっぽを向いて蛇の摺足が跡になったような窪みに立っている。闇を潜りながら道なりに身を任せていると、手にも足にもならなかった爪の先が小さな明かりをともして待っている、そんな屋の一つにあせの婆ぁはいつもかしこまった姿で迎い入れてくれる。「昨夜あなた様が立ち去ってより千年一秋の想いで同んなじなりのままお待ち申し上げておりました」
婆ぁは、前年と同じ何も刺さらない口上を述べた。それが、婆ぁといいながら張りのある若さに陰りを見せないこの女の存在を現していた。年を隔てたあの夜ことが昨夜のように近づいてくる。「また、春が巡ってきた。もうこの身がどうにもならん。他のところに逃げていかんよう慰めてくれ」
「さぁーさぁー胸も顎もようよう肉が剥ぎ取られて、無うなってしまわれて」
「婆ぁは変わらんなぁ、はりも、きめも・・・・・・どこぞも引っかかりのない童女のままゃ」
「うふふふ、ふふぅ、うふふぅ・・・・・二百も三百も何が変わるものでも、なしぃ。お前様も変えてみたらよろしいのに、わてなんぞ首のヘリ一枚残してあとはみんなもう取っ替え済みやぁもの」
「そんなら、それを隠しとる首の包帯とっとくれ」
「あきません、それはあきません、あとは皆んなあげますけど、ここだけはうちのもんやもの。ここが無うなったらあっちこっちくっつけた他人様が勝手に踊りよります。そんなんなったらほんまもんの化け物にまで堕ちてしまいますぅ」
「ほかの娘がおらんようになって幾歳たつかなぁ」
「みんな嫁つがせました。金をつこうて他人様つこうて二つ三つ家を転がしてゆけば、どんなお姫ぃさんでも拵えますよってな」
「どれほどの金砂子が動くんやろうなぁ」
「そうした旦那はんは、そうした旦那はんになりたいいう男はんは、そのために出さんでもええ冷たい汗かいて、地べた這いずり回ってジタバタしてはるんやおへんか。あんさんかて同んなじやオへんか」
「そないな回り道なんぞぉ、はなから持ち合わせておへん。春んなったら、お前様にこうして抱いてもろたら、この身ぃは鎮まります」
「毎夜毎夜きてはるのに、その言いよう・・・・・うちにばっかり熱いもん移して、火照った身体ぁお置いてけぼりにして・・・・・何も飲まんと食わんと、ただただ真っ赤なべべほどいては繕いほどいては繕いして、畳の縁に三つ指ついてかしずいて待っとりますのや、いじらいって思われへんかぁ」
「まっこと、まっこと」
「お稲荷さん、よばれましょか」
「ぬくい布団の中で、こないして食うと・・・・美味いなぁー」
「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ・・・・・ひゃく。はい、無うなりました」
「百個みんな食うたんか」
「だんなはんかて食べたやろぅ」
「わたいは三つだけや、残りは皆んなお前様の腹の中や」
「そんなら百個やのうて千個買うてきたら良かったのに、弁慶みたく膨らんだお腹、ようけ見てみたいわぁ」
白い頭巾をするりと剥けば、ふしどに転がる赤い珠
「ふふふぅふ、そないな拵えものがお好みどしたなぁ」
「あの内儀も、お前が拵えたんか」
「お前様の目に掛かる女な子やったら皆んなうちが拵えてもんやろな」
「うぉっほほほほぉ、出自かて身体かて変えて嫁つがせんのに名前の何に拠り所がありますのやろぅ・・・・・ほなら、見えましたんやな」
「見えた。小さなもんが」
「わてらも、いっつもこないな仰山なことばっかしてて、もう、世間様から見えんくらい小そうなってますのや」
あのお内儀はんが月代なでてから、勘三郎は頭を股の下にやって景色を逆さに眺めるように己の中の方ばっかり見とるようになった。いくらじっと股に頭を挟んでも後ろ頭の方まで来ているはずのものは形にならず、もぞもぞばかりまとわり付く。
髷を硬うに撫でつけて、お店の長火鉢の前に正座しとらんといかんときも、籠もってしまった口はすぐにふにゃりと半開きになる。すかさず、店の誰かの咳払いが聞こえて、干潮の砂浜に半分顔だしたマテ貝たちは一斉に奥へと引っ込む。
春の昼下がり。幾度となく繰り返された模様の本を閉じるように勘三郎は口を締めた。が、また開くたびに輪郭までぼやけてきそう。もう、咳払いする物音など聞こえようがない。人差し指だけ使って描いた水滴が垂れてくるのを見ようとすると、逃げた女性の逆さの瓜実顔のようにプルプル震えてきた。凝らせば凝らすほど、瓜核の輪郭の中にある顔はのっぺりのっぺらぼうの卵のよう。行きつ戻りつの波が留まろうとする意識を消していく。
音がする。弦を弾く音が。
ぼーん・・・・・・・・・・ぽっ
ぼーん・・・・・・・・・・ぽっ 間隔は狭まり、粒となって調べとなって届く
見惚れる先を追いかけているのは、見ている目ではない、ような。たゆとうの反復が小刻みに震えると、昇り着いた先は鉛色に変わる気泡の中。「ざぶーん」もないまま大海に身を沈め、光も届かる奥に押し込められても気泡のまばゆさは相変わらず。そこにあるのは青御影の冷たい目玉がポニョっ。
「ほなぁ、いってまりります」
「お気張りやす、お早うお帰りやす」
勘三郎のお得意様先周りには、お店が一緒になって芝居がかった大音声でお見送りしてくれる。こうして緑青が束になったグォーんが打ち鳴らされると、潮が引くように凸凹頭を出していたたゆとうは一旦はきれいに洗い流されていく。が、ふたつ対になった眼玉だけはしっかり穴の中で、じーと勘三郎の後ろ姿を、奏でる海の足音を、追いかけるようにひたひたピタピタ干からびたカンブリア紀の巨大海獣のように付いて廻った。まだドロリとした肉塊を頭と胴体が同じ分量になるように積み上げて、もったいないからと余ったヘリの肉脂を薄く伸ばして拵えた手脚が、前裾も乱さずに、すたすたスたスた勘三郎の後を追う。
追いつく。
そのまま追い越そうになるのが可笑しくてこらえ切れず、笑い出す代わりに「目隠し」した。
「だぁーれ、だぁっ」
「おちゃっぴい」
「なんですぐに当ててしまうん。こんなにいろいろ変えてお姉ちゃんの格好したのに」
「だって、むかしと同んなじ南京豆の音がする。くちゃくちゃ噛んでる音がする。すりすり引きづる匂いがする」
「わたい、お姉さんになってもお母ちゃんが拵えてくれた袋、帯に結わえてんねん、同んじ南京豆つめてるん、しょっちゅうポリポリしとったらお腹空いてナカんてもエエし、道に迷ってもずっと一本道に繋がっとる南京豆の殻おいかけてお母ちゃん探しに来てくれるやろぉ。うち、お利口になったん」
「ほんまにお利口さんになったんやなぁ。そんならそのお利口さんの顔、ようけ見せておくれ」
勘三郎のきゃしゃな掌の半分にも満たない小さいな手のひらをどけると、巨大な南京豆が「黄八丈に包んで帯お締めた」なりが現れた。
目線は同じでも島田髷ひとつぶん勘三郎よりも高い。が、首は勘三郎のへそに在る。向かい合ってのおしゃべりから繰り出されてくる唾がきっちり締めた胸元をこちょこちょくすぐる。そのくせ油染みの浮いた低い鼻はどんなに大きな顔に变化しても刷り物のように扁平で勘三郎に届こうとしなかった。
「いくつに、なったぁ」
「いっしょやない。いくつになっても同じ分だけ歳を取ってるやろ」
「賢こぅなったなぁ。そんなのが直ぐに口から出てくるようになったんやなぁ」
「当たり前や。うちぃお利口になったん、お姉ちゃんになったん、女のひとになったん」
「たまきは、どうしてる」
「お母ちゃん、いまも生きとるよ、死んだりしてへんよ。いっしょにいるよ。うちが帰り途わからんようになってじっと立っとったら、お天とさんが落ちるまでに必ず見つけに来てく呉れる」
「たまきってお母ちゃんなんか、姉ちゃんかと思うてた」
「ううん、お姉ちゃんだよ。たまきお姉ちゃん」
「さっきは、お母ちゃんって云うたやないか」
「そう、お母ちゃん」おちゃっぴーはそのまま、何が飲み込めずいいるんやろうの顔ばかり。
「まあっ、いいわ。いろいろあるんやな」
「そう、いろいろあるんよぉ」
何を云っても大きな島田はグラングランと大きく左右に揺れるだけ。埒が明かないので件《くだん》に残してそのまま道を急いだ。
雛へ雛へと登っていけば富と権威に従って茶寮も膨らんでいく。中段あたりに「広東の大奥様」の屋はあった。勘三郎は、ずっと端に追いやってた丁稚を手前まで招き寄せると、後ろ向きに廻して、押しつぶされろうな背中の商い物の隙間を作り「チチンプイプイ」を唱えながら手をこすり合わせ、まだ食っ付いてくるおちゃっぴいを頭の先から消し込み始めた。掌から何か出ているのか、薄くなった穂先の墨を補うように押し出す仕草で処々擦り合わせる。
おちゃっぴいは消され続けている間も駄々っ子のあがきよろしく南京豆を頬張り、咀嚼し、己の身体が消えた後も探してもらえるよう、結界でも貼るように殻を撒き続けた。
「そんだけ撒いたら気が済んだやろう、さー、その南京豆の入った袋こっちに渡しときぃ・・・・」
おちゃっぴーは素直だ、すぐに渡す。いややなぁ、こないけったいなもん預かるのと駄々こねる丁稚の懐にねじ込み、広東の大奥様の茶寮に入った。
作法に則り、回遊式に作庭したふたこぶ池を左回りに二周半して、辿り着く。
様子がいいようにと池之端まで引っ張ってきた茶寮は、そのまま水面に浮かんでいたように映る。障子戸という障子戸をすべて取っ払って拵えたそれなりの広間に、「これ以上は、絞れん」まで油脂を抜いた白髪頭が二つ待っててくれた。一方はお奥様であり、片一方はその伴ざむらいなのだが、洗い替えばかりして色も糊も廃れ果てた着たきりスズメの一張羅の裃ばかりが印象で、上に乗った頭が前と同じかと聞かれれば言いよどんでしまうほど印象にない。
「今日も、たんと持ってこられたなぁ、ご苦労はん。そこの角にそのまま置いとってもらえば、ええ・・・・・あー結わえもんは解かんかて、ええ。風呂敷の、そのままでよろしぃ、そっくり納戸に持っていかせるんやから」
「本日も、持ってきたもん全て買うてくださり、ありがとうございます」
お店の送り出しの大音声と同じ、たくさんの大きく野太い声がお礼をいう。丁稚がやっと、やれやれの尻もちをついた。
「では、早速」
前口上の作法はこれまでと、こらえた弓でも放つように大奥様は膝を叩き、伴ざむらいは長い横笛を取り出す。横笛が大奥様の口に渡るより先に、勘三郎は座を移すようにそこに尻をおとした。吹き口に唇が乗ると「はぁーい」の大声明が響く。
「こぉきりこぉーのー たぁーねーわぁー 七福ぅ神よぉー」
伴ざむらいは烏帽子を結わえ、帷子姿で待っている。身体の二倍はゆうにあろうかのこきりこは天井を揺らす。それに負けまいと今生の極みで歌い、舞っている。笛は、大奥様の唇よりも指が奏でるように静かな調べをたてて、どんどん小さくなる伴ざむらいに代わって、勘三郎に歌わせようと仕向ける。伴ざむらいも小さくなるが、こきりこも小さくなっていく。丁稚は現が崩れていくのに居たたまれなくなったか、空になった風呂敷と一緒に納戸よりももっと奥へと隠れてしまった。「代りに」といった風に、おちゃっぴーが大昔の木彫りの置物になって、そこに伏している。
「その娘は、いつから居ったんやろぅ・・・・・初めは、お前様に消されとったみたいやけどぉ」
すでに肩に停まるまで小さくなった伴ざむらいを肩に載せ、大奥様は、おちゃっぴーの存在を認めるようと二尺を超える顔を舐めている。すぐに、パンパンに張った木綿袋から豆乳が絞り落ちるように、泪が零れ落ちてきそう。
「泣きとうて泣きようてしょうがないんやったら、泣いたらエエ。此処におるのんは女子ばかりなんやから」
堰を切った泪は二筋の弧を描いて茶寮を超えて、ふたコブ池へと落ちていった。水の匂いに誘われるようたゆとうに、勘三郎おとっつぁんとお久が泪の周りに集まってきた。張られた結界は少し緩んできたようだ。
「少こうし時の順を踏む手違えがあったようや。あやつ、現し身のまんまでこきりこ始めよった。それでも、ほれぇー」静寂に吸い込まれるように伴ざむらいは発ち昇っていき、やっと抜け殻になった。
「さて、そろりと我が身の刻限もやってくる。折角やから、その子の泪を借りるとしよう」
泪の滝を滑ってお奥様は、飛んだ。豆粒まで小さくなったら、三歩手前で忘れものでも思い出したように「麹がガサガサいっておる、白い顔の別嬪さんも黒うなってくる。いよいよやもしれん」と耳打ちして、えいやぁーの等々力声よろしく、水中に没した。
掘割より外は、ふたコブ池から運ばれる涙でかさが増したよりほか何も変わりようはない。壁向こうの中で二つの骸が生まれたなど知る由もなかった。勘三郎とて同じ。門を出ても白磁の顔には澱のシミひとつ付いては来ない。いつもと同様、行き交う世間様はその顔を見たばっかりにつきようもない溜息に覆われ身動き取れなくなるばかりである。
ドサリ。そう、両手にいっぱいいきなり。その重さは、はっきり載せられてくる。さて、ドサリの目方は黒いのか。呆けるほどに見初める先は、輝きさえも奪い取る強欲さ。漆黒の照りだけ返してくる。
それがため「昨今は椿の花ばかりが増えている」と、いう。
椿の種を絞った油を二朱金に盛ると金が油を吸って大きくなる、という。溢れぬように十度繰り返せば、はじめの二朱の二倍の金に太る、という。勿論すべてではない、中にはそうした種があるのだといっても、もう聞くものは誰もいない。そうして巷には太って出来損ないの一分金ばかりが増えていく。この手の話は、花の季節に現れては消え、消えては現れてを繰り返すのだが、どうしてどうして年を超えても勢いは衰えず、灯す油は姿を消して春の闇夜は長くなるばかり。世間のザワザワの元は刈らねばならぬはずなのに、面子ばかり気にするお上は、肝心のその名を出さぬまま「いらぬ風評ばかり立てる輩はきついお咎めを沙汰する」ともってつけた立て札を小路の四隅に立てるばかり。そんな腰引けの仕草をもの嗤うように、立て札には赤墨の落首が、四角く几帳面に並んだ祐筆の書いた文字の上を
二朱金や 喉をさえずり 油すう
闇のふち 布団かぶって 油さす
太らぬか 猫の手だして 油もる
と、履き散らかしていた。
油の乾きは、闇夜ばかりでなく猫たちも煩くする。寝不足のお天道さまは自然と力が弱まり、どんよりの薄ら明かりの午ばかりが占めてくると、猫たちは揃って唄い出す。一度でも猫にやる油をケチって欲たかりに狗った輩は戸を締めて薄っぺらの布団を被って寝てしまう。ざらざらした鳴き声の奥まで縦に歯が並んだ化け猫がその中に一匹でもいたらと考えると、怖さと寒さで震えが止まらなくなってしまうのだ。
怖くても、欲の乾きは昇ってくる。今夜も二朱金に食わすため、部屋の闇夜はひもじいまま布団かむった中にしけた残り油を灯し、二朱金に見立てた一分銀を並べ立て、手前勝手に拵えた呪詛やら唄やら並べ立て、いつ火達磨になるかわからぬ危うい夜を続けている。しけた炎はくぐもった息で湿った布団をあっという間に紅蓮の炎で包むと、焦げても灰になっても気づかぬ男のことなど眼中になく、四方八方へと渦を巻きながら触れるものすべてを焼いていった。空に昇った黒いすすは、黒い雨粒となって地上に打ち上げられた。ざんぶざんぶの声を聞き、油食いの二朱金も、それに横取りされたと恨む猫もいなくなった。
【嫁とり】
「勘三郎が嫁をもらうことになった」
「幾つになりはったん」
「十八」
「で、相手の方は」
「これも十八」
「それって、嫁とりなんか。婿とりなんか」
どんなに針の穴を小さくしても、あせのばあは糸を通してくる。布団の中の温みが遠くの方へいくような気がしたが、仕方ない。此方から途をつけたのだから。股ぐらに掌をいれると、先ほどの火照りがまだあった。
「また、むずむずしてきたんかぁ」
いまは眠りの淵の蛙の声だ。ばあは拒みはしない。食べて飲み込む身体。吐いて排泄する身体ではない。途はついていたので、逆さでもすんなりだった。水風船が膨らむように若い女に戻っていく。闇の中で育む暖かさも艶も立ち上がった毛穴から再び吸い込まれていく。どこまでも強欲の勘定がしっかりしている。
ここでまたひとつ、ばあぁに歳を取られた。年に一度の禁を破ったんやから。願掛けの身ではせんもない。
「うちが云うたくらいで立ち止まるんやったら、此処に連れてきたらええのに」頃合いよりも少ぅし若返りすぎた女を持て余してるのか身体も話も饒舌だ。脇から両腕を差し入れ、両胸を抱きしめにかかってくる。
「こないなことしたあとに、男と女のことわり並べとるんやものぉ・・・・ほぅら、二つ貰おぅた歳の数、黒ずかんうちに二つとも返しまひょ」
ふたつ分緩んだ身体に、歳が二つ元通りにかえってきた。こないな芸当ができるんやったら、これから先もずーと女の方がええなぁ。
「そないに恋い焦がれたかて、こないな芸当は一辺きりや」
若い女はもういない。楽しんだあとの婆ぁの口は、黒ずんだ息の漏れるひぃーひぃー声に戻っていた。「はらの中がよぉうく見えてくる、見えてくる・・・・連れてくるのはどっちやろ。勘三郎か、婿入する娘の方か・・・・それともふたり一緒のダンゴか。いっそお前様も入って三人クルクル丸まるのも、どないや」
すべては泥の中。プカリが浮かぶ。
だんだんに小そうなっていったおちゃっぴーが回れ右して戻ってきた。実寸大の落花生の異形は幼い仔まで戻っている。子守の頃まで戻ったので、背中には、動き回らんようにと、結わえ付けられた勘三郎が一緒だ。勘三郎は未だスカスカのただの赤ん坊、でなければ幼子におぶえるはずもない。小さな年子の女兄弟が、おぶりおぶられのままごと遊びをしているような目を細めたくなる景色である。声も姿も、ただただ可愛い。まだまだ勘三郎おとっつぁんは入り込めてはいないのだ。
「あんさん、また、こないな真似しよって、表まで連れ出して、おもちゃにしたらいかんよって言うたばかりやないかぁ」相変わらずたまきの声は初ういしい、いつも初めてあった女の声がする。子守するために奥にいるような女でないのは、店の誰もが思っている。しかし、戯言一つ耳に届きはしない。どうやら皆んな口を隠されたらしい。
「お母ちゃん。ううん、お姉ちゃん、何でカンざちゃんのお股、うちらと同じつるつるなん。みんな、坊っちゃん坊っちゃんいうてるのに。男ん子は、生まれたときから小っちゃいなりに大人と同んなじちんちんが生えとる、女な子みたいに割れとるのは後ろ向いとるお尻だけや・・・・」と、アヒルのくちでまだ言うおっちゃぴーの口を、青筋たてた左手の親指薬指でヤットコ拵えて、ギューと締め付ける。
「そないなことに、口を立てんでええ。いずれ生えてくる、それだけのことや。それよりなー、いまお前がいった口上、お店の誰が吹き込みよったん、小っちゃなちんちくりんの仔に、なにが楽しゅうて、妙なこと吹き込みヨったん・・・・痛いんかぁ。ほうれ、くちびる青うなっとる、そのうち紫のコブつくりよるでぇ、言うてしまい、うちの人差指に硬いコブが生えてくる前に・・・・・・
・・・・・そうかぁ、あの男か・・・・・・うちの鼻さきより下ぁの背丈しかない男のくせに、言い寄りよって、何様やぁ思っとるんやろう。袖にした腹いせにお前にそないな真似させたんかぁ、そうかぁ、あの男かぁ、・・・・・可アイそうになぁー、何も怖がらんと好き勝手な真似しよってなぁ・・・・」
たまきはあせの婆に頼んで、その男のタニにある馴染みの屋を聞き出すと暫くじっとその屋の女に忍んだ。なりや身体を変えるのは一晩で済んだが、男が現れるまでは幾晩も忍ばねばならなかった。その間、おちゃっぴーはままごとよろしく勘三郎を結わえたまま待たねばならなかった。こんなときは、おちゃっぴいも泣かなけければ勘三郎も泣かなかった。ことの定めを前にして、ふたりとも子供を解いて棚飾りのようにじっと待っていてくれた。
そいつが、やって来たときは奥にいてもすぐに分かった。溜まったものが唾を伸ばし伸ばし整えてきた髷の匂いがする。あの男の酸えた心根がぷーんとする。布団の上で横を向いていると、襖を開ける音よりほか立ち止まりもせずに入ってきた。ことの間も、たまきはそれを成さずに男の好きなようにさせていた。男は単純に、今夜のツキの良さを次の夜も次の夜も思い出して楽しめるよう、繰り返し繰り返し身体に馴染ませた。手に取るように分かる男の反復に費やす時間を、たまきは冷たく見据えてその冷たい残酷な笑みが己の身体から漏れないように息を殺す。
「ここで良え」と果てて身支度を整え送り出しても、男はたまきとたまきの仕掛けには気づかずじまいだった。直にそのものに触らなくとも、途中で火照った体が冷めていけば否が応でも気づくだろうが、なんの因果で男を取り上げられてしまったのか、術まで使ってこないな殺生をなんであの女が我が身に施したのか、せいぜい怪かしにかかった体たらくとしか、刻まれないだろう。
「あの男の先行きなど、そないなもんはどうでも良え。うちがもろうて、あの男がもう無うなってしもて、さっきまであったうちのモヤモヤ、きれいに消えてしもうた。それでおしまい」
翌朝そいつは頭を丸めて白装束の手甲脚絆に整えると
おもうところあって、こないな運びと相成りまし
おもうところあって、お暇を頂戴いたします
おもうところあって、遠いところまでいかんとならんようになりました。
と、おもうところあって、ブツブツ、ブツブツの独ごち言いながら、お店からでていった。
男の膳と布団は納戸に仕舞われて、表を掃き清めれば世間様の朝の頃にはお店は何もぶつからずに始まっていく。たまきは、そいつの翌朝よりも少し手前に戻って、まずは「そぉーと」ふたりを棚飾りからおろした。あとは、お店の奥で、抜き取った男の欠片のことなど覚えようもない身体でその様子を通り過ごした。
そんなこんなでも、一番にやって来てくれるのは、お久はんやった。朧混じりの晴れた空の下うろうろ探せば小さくぽつんと浮かんでいる。お気に入りやった小さな藤色の日傘が目印なんで、すぐ分かる。あんまりに小そうてどないな顔しとるかまでは見えんけど、きっとにこにこ笑ってるはずや。
「そない云うてもやっぱり母御やものな」と、世間様には映るかもしれんけど。まぁー愛しいもん見つめてるのは相違はないが、おろおろはらはらを我が子に注ぐ母御の「それ」ではないわなぁ。あの藤色の傘とおんなじや。どこまでも穏やかな日和の中に居る。静止をまたいだ惜別なんぞ露ほどもない。青虫終えて羽化した蝶の眼のように下界を眺めとるだけや。
お久はそうゆう女や。先に下まで降りて勘三郎にうろついても、勘三郎おとっつぁんのように肩に腰を降ろして話しかけるでもなく「そないな年寄りの長話聞かされて、せんないことやなぁ」と、同情のちょっかい出して気を引こうとしている。勘三郎は、そんないっつも横に座って接する母親を好ましく感じとるが、世間の母子を横に並べると不憫があたまをもたげてくる。もたげてくるが、不憫ばかりが並んだこの仔の身の上を想うと「お前様も同じ身の振り方しとる親やないか」と叱られて、潮は引いても鉛を吊るした下腹の冷えばかり溜まってくる。
下腹の冷えに惹かれて更にいじめようと、お久のにたにたは近づく。
お前さまとて情のないのはお互い様と言いたげだ。よくもまぁ不憫なんぞと他人様の物言いができるものよ、と顎引き顔が言い放つ。お前様は生身は男はんでも、抱くんではのうて女子に抱かれとる男や、それにひきかえ勘三郎は生身は女でも女子を抱ける男や。
言い放つとお久は午の中から消えてていた。お久が言ったのか己れの腹から溢れたか、あやういまま淵の中へ戻る。
今宵、勘三郎は嫁をもらう。
同い齢の娘
金貸し屋の娘
器量良しの娘
お店が決めた嫁はその三枚のお札でことは進んでいく。名や身体は後から付いてくる。
「それでは、十八になったその日に」と決められ、時が追いついたときにことは成される。嫁取りを包んだ世間様もその流れの中で暮らしている。誰がどのように勧めているかは、誰も眼中にない。流れていけばその日は向こうから訪れる。
器量良しと決まっていても、嫁とりを整える段になると綱渡りの震える綱が、一面に張られたような高揚が、店中から聞こえる。商い物の衣結ぶシャラシャラも奥の煮炊きの塩梅も皆んな緩みがない。けれど、そこの高揚に勘三郎はいない。それでも、「本当はお店の誰もが背中向けとる」真ん中の、お団子みたいな座布団にじっと座る務めは心得ている。心得構えは素直だ、斜に構えた虚無は見えない。この仔は使いに行くのも嫁取りも生まれてきたことさえも務めの棚にならべているんやから。
その晩の「美也と申します。どうぞ末永く可愛がってくださいませ」の三つ指ついてのお披露目で、この店の嫁は美也になった。どこぞの有体すべて隠そうとする小さなかしずき姿は猫を引き寄せ、声の隙間に「ニャー」が入り込む。美也と猫の性とは切っても切れない関係となった。勘三郎おとっつぁんが死んだときと同じく襖すべて取っ払った大広間には、その時と大して時を隔ててない顔つきの同じ顔ぶれが控えていた。嫁からの短い口上さえ聞けてしまえば、「さては、これにて」の模様替え。二人の十八は揃って離れの四畳半に送り出される。禿一人つかぬ旅路のような、あまりに儚くあっけにとられ、引きづられるようにただ一人食っ付いてはみたものの、お久はんかて見舞ってもくれない道中に、浅はかな父御ばかりが四面ばりの鏡にすっくと立っているのが見えてきて、泥に汚れた足袋が明かりを入れたように浮かび、今夜の宴が興ざめしそう。周りの冷ややかな視線が向くより先に己れが寒うなって、「さて、さて」の次の「首尾は、これで良え」と、ひとりごちを落とした処で、汚れた足袋を替えてもらい濡れ縁より大広間には戻った。
「おー婿はん、五代目、こっちこっちぃ・・・・・」座が崩れた嬌声の真ん中は「小舟町のおじさん」と呼ばれる狒狒だ。酒坏ほす前から毛に覆われている。
「 それよりも、テテ御殿、かのう。今をトキメク勘三郎のテテ御殿が一番に耳慣れしとる呼ばれようかのぉ、それそれ一杯・・・・ほぉー、あれがあないに名を轟かせるようになったおかげで、お前様も酒の腕ぇあげたのぉ、隠さんかてぇぇ、隠さんかて。どれだけの座敷でどれだけの客人でどない見目のええオナゴに囲まれて飲んどる酒か、干し方みたらよう分かる。何もそない怪訝な顔せんかてええやろぉ。先代が逝って家付き娘が逝って十八年や、あんさんに重しのせる者はもう居らんのらから。どこの寄り合い出たてかて、お前様の呼び名は加賀屋さん一本や。いまでも加賀屋の婿はんなんて呼ぶもんは、とうに座敷にお呼びのかからん婆ぁが一人おったっきりや。立派な旦那衆になりはって、加賀屋も安泰、大々万歳や。それもこれもみーんな勘三郎の、お前様のたった一人の倅の勘三郎のおかげや。何もいったん持ち上げたもんを無粋に落としとるのやない。これくらい世間様が認めた確かなもんはないやろう。みーんなあの仔のお陰や。あの仔が加賀屋勘三郎やから、加賀屋に居るものやから加賀屋から繋がるものがこないして居られる。ありがたいことや。こんな爺ィでも「小舟町はん、小舟町はん」って座敷の中の一番の若いべっぴんさんが「うちが最初でええやろう、うちが此処の一等なんやから」と、鼻先き尖んがらせて爺ィの袖引いて勘三郎に近いもんの息ぃ吸い込みよろうと、女の生臭いもんようけ出してきよるでぇ。ほうれ、見てみなはれ。あの仔が生まれた頃よりも、肌艶なんぞ若やいできたやろう。かーんと鳴りそな枯れ木の身でさえこれやもの、お前様みたいな絞れば香油がぽたりぽたりの盛りであれば、この世の春が毎日毎晩続いておることよのぉ。羨ましい限り、もったいない限りやのぉ・・・・それでも始終そばに居るのは、恐ろしゅうはないか。こないに枯れた身の上でも、直に見るのは怖い。口上終わって、「綺麗な揃い雛みてるようや」の心もちのうちに離れまで引けてくれて、ほんに胸をなでおろしとる。話半分、遠目半分で、あの賑わいの宝のお仔やもの。今更、とうに逝ったものには悪いが、あの中に先代の勘三郎は欠片も入ってはおらんなぁ」
勘三郎おとっつぁんなら「ほれそこに」よれよれの裃つけた年寄りざむらいと一緒にこきりこ鳴らして祝うとります。返す言葉を聞く耳などとうに失せたこの狒狒に言葉を足すこともできず、身体に触らいようにと奥で用意していた水増しの酒を継ぎ足した。
折角祝おうてくれはるのに、おとっつぁんは段々に勘三郎から遠くになっておられる。ヨレヨレさむらい相手に社交する辛気臭い感じが板についとる感じや。
それにひきかえ、お久と大奥様の女二人は、離れを覗きに行くのに余念がない。大奥様なんぞ、やっと吉良上野介ばりにシルバー色した総髪まで結ってもらい、ずっと憧れやった品のいい爺ィの格好でおるのに、出掛けてはクシュクシュ、戻ってはクシュクシュとお久の耳元に零すばかり。お城抜け出したお姫ぃさんより明け透けや。爺ぃたちが興じてるこきりこ乱さんように己れの小さなこきりこ鳴らしておるが、心は離れの四畳半の恍惚に無我夢中とみえる。
それでも、彼方のひとの四人が四人とも同じ離れの四畳半を眺めとるのは、婚礼のこの屋の天井を華やいだ絵図に染め上げている。漏れた明かりでこの華やぎやもの、離れの新床はどれほどやろか。美也って名乗ったあの女、十八の金貸しの箱入り娘に拵えるまで何処ぞで何をしとったんやろう。みゃーみゃーの声が、空耳やろかと思えば空耳のように四畳半から運ばれてくる。主の地声か、勘三郎のよぶ声か。声は肉球した鈴のように小さく丸まり、白痴の思索顔のように熱を帯びない四畳半の情景を伝える。勘三郎と合わさる女な子やもの、お里が猫であっても「さも、ありなん」やわなぁ。とても生身の身体では務まるまい、あやかしの衣でも着ておらねば、合わせた肌は、受けた情けが伝わる前に溶けてしまいそう。
それでも、お久はんと大奥様は行ったり来たりを繰り返し、クシュクシュするんは止まらない。夏の日の雪堂みたく溶けてしまうのは怖いが、小舟町の狒狒が云うようにその度に艶めき若返る。女やもの、それには抗えんわなぁ・・・・ふんっ、大奥様の首のコブや思うてたの、おちゃっぴーや。埋まっておるんやのうて、小さいながらもちゃんと大奥様の首元に腰掛けて、大人しゅうにしくしく泣いておる。お屋敷水没するほど大洪水の涙流しとったのに、えろう成長したもんや。なにが哀しゅうてそないに泣いとるんか聞いてみても、嗚咽の返事ばかり。あのおしゃべりが一言も漏らさんと泣き続けてるの見とったら、こっちまで悲しゅうなってきた。
己の涙で作った滝に乗って彼方まで往ってしまったかことやろか。横の二人の女みて、女な子の好色もしらんと、こないなチンケななりのまま終わってしまったことやろか。
おちゃっぴーは頭を振る。そんなんやない、そんなんやない。うちが泣くのは、悲しゅうになるのはいつも決まっていたやない、ずっと変わらずにいたやない。
鼻を近づけても、たまきの匂いはしてこない。南京豆の袋も、食い散らかした殻も見当たらない。いつも一緒のお姉ちゃん、いつも探してくれるおっ母さん。
おちゃっぴー、いつまでたってもねんねのお前さまを、彼方に往ったお前さまを、たまきがずっと放っておくはずがないやろう。ほうれ、離れの、四畳半の奥をみてみぃ。勘三郎の嫁の目の中に、美也ゆう女の目の中に、呆けた猫の目の中に、お前様の欠片が入っとる。それを見つけたら、匂い嗅いでみぃ。ほうら、涙止まったやろう。嗚咽なくなったやろう・・・・あかん、あかん、玉ねぎ剥くみたいに衣はがして中を覗くような真似したらいかん。仰山の手の跡やら拵え物やらの結界が張られた身体、無邪気な顔してむしゃぶりついたらあかん。匂いだけや、匂いだけ。
ともあれ嫁取りは終わった。夜通しの宴は老いさらばえ疲れた順に帰っていく。一番の年長の小舟町のおじさんは、意地を張って朝飯の炊けるを待って、丼飯にあさり汁三杯ぶっかけ威勢よく杖を頼りに帰っていった。嫁取りを終えたお店は、すでに提灯が外されている。お店の正面はいつもの朝の支度どおり掃き清められ、暖簾が下がった。姿が見えるまではと、ひとり小舟町のおじさんを見送り余韻に浸っていると、中からいつもの「せいぜいお気張りやす」「お早うお帰りやす」の大音声がした。先に、背負えるだけの商いもの背負うた小僧が出てくると、勘三郎も昨日の朝となんら変わらん身のこなしのまま「今日に限って、表まで出張って送り出してくれはるなんて、ほんに大儀なことで」の横顔向けて小僧のあとをすぐにも追いかけようとするんで、「まぁ・・・・気ぃつけてなぁ」などといつもよりも意味ない言葉出したら、少し「怪訝」と肩がいった。
そんな素振りばかり見せられては、「あれから、」よりさき次が続いてこない。
「よう眠れたんか、」
「嫁のある身になっていよいよ6代目さんやな、」
「美也はどないしてる、眠ったままにしてあげたんか」
どれをとっても、投げかけてはいかんと羽交い締めしてくる。
暖簾を潜ってお店に戻ると、嫁取りに貼ってた高揚はみんな剥がされ、嫁取り前の形を繰り返している。座布団ひとつ落ち着く居場所はない。
美也は、まだ離れで寝たままやろか。
拵えた大広間は襖を戻され、いつもの小部屋に変わっている。小舟町のおじさんの膳は片付けられた。もうあさり汁の残り香さえ、無うなってしもうとる。ここまで綺麗に折りたたまれると、口には出せぬ躊躇が頭をもたげる。
昼餉につこうと、お三度の部屋に入ったが、膳は一つだけ。勘三郎は戻っていないのかと聞く前に女中の方から、若旦那はんはごりょうさんと一緒に離れの方に用意させてもろうてます、と云う。
ひとりだけ読み立てを聞いとらん筋書きの中に居るようで、配膳すましてすたすた出ていこうとするのを呼び止め、「どうしたのか」と聞いた。それでも、朝からのもやもやがそのまま口からでたのか、向こうはポカンとしてる。それでも、それに気づかんふりして対峙した。
「お店のしきたりやと承っておりましたが、それが・・・・
顔を横にそむけて、「何の的はずれな物言いやろぅ、もうエエ、もうエエ、元に下がってエエ」と、片手で出ていかすのが精一杯だった。顔も見覚えのない入ったばかりの女中に誰がこの屋のしきたりを言い渡しておるのか。
女中が一旦は閉めた障子戸を開けた。四方すべてを母屋の濡縁が囲んだ中庭の真ん中にふたりの離れはある。それが決まってから建ったのは覚えておるが、それがどのように運ばれていったかは定かでない。息を殺せば気配は手に届く処に居るのに、そこに十八のふたりの気配はない。膳を横にしたまま、ひとり想い焦がれる午の時は長い。
事切れた顔で膳に向かったが、汁は存外に冷めていなかった。
また来たんかぁ・・・・こないにまだ日の高い、女子の身繕いも出来んうちからお早いお運びで・・・・ふふふふぅっ、いけずなんぞせんからそないに畏まらんと、サぁもっと奥の方に入って。
お前さま、ごはんまだやろう。汁と香のもんで掻っ込むだけやけど、向かい合って一緒にどうや・・・・・
アツアツでっしゃろォ。釜ァいっつもたぎらせておるから、熱っつい汁かけよると冷えた飯粒がびっくり仰天してようけ立ちよるんよォ・・・・おかわりですかぁ、いくらでも喰っとくれやすぅ。わたいがお茶碗おいて両手合わせてごちそうさんするまで流し込むの止めたらあきまへん・・・・・
・・・・・あんさん、若ぉに戻られましたなぁ。やっぱり十八の夫婦が横におったらむずむずが滑ってくるんやねぇ。
ごちそうさん、さぁ、箸おきましたエっ。その欠片、わたいにも分けておくれ・・・・・・あらあら帰るって、どないな気の変わりようや、あないに仰山たべはってスタスタ動けますかいな、ごろんと横になったらよろしぃ、フッふぅー、心配せんかて横になっとるもんをいじったりせんから。安心して寝てたらエぇ。いつ眼ぇ覚ましてもいつもと変わらん仰山のまんまなんやから・・・・・・あらあら口なんぞ開けたらあきません、腹の中に入ってるもんが零れてしまいますよってな・・・・・白いお蚕さんになって夢ん中、ひとりでみるより二人して、ふたりでみるより三人で、四人、五人、六人と繋ぐ掌ほしの数・・・・・・
おちゃっぴーは大きくなったり小さくなったり。
膨らんでいくその後に萎んでいくその後に、若かったたまきが現れる。なつかしい。会いたい気持ちがドクンと波を打つ。あせのばあァの拵えた千手観音の中のたまきはいつも勘三郎をおぶったまま。直におぶってたときはそんな感じは起きんかったのに、おちゃっぴーごといなくなってから、他の女におぶわれた格好見せられると、焦がれる乾きを覚えるようになった。それからや、ばあァの処で沈めてもらいに来るようになったんは。血の繋がりを、そうした匂いを感じるんやったら、お久やのうて、きっとたまきの方やろう、おちゃっぴーの方やろう。あの仔が見ておったもんはあの二人しかおらなんだからなぁ。
静かやなぁー、ほんま静かや。どっちの身体の重ささえも響いてこない。米粒ひとつ入らんほどギュウギュウに詰め込んだ中に、たまきの欠片ぁ入ってきてくれるやろか。
やはりおちゃっぴーおんぶしたまんまの姿が一番きれいや。ふたつの顔が並んどると血の確かさがようけ見える。首から下の裸の身体はひとつやから、おちゃっぴーはとっくに埋まったらしい。釣り合いのとれた安らかなかたち。それであんなに幸せな顔しとるんやなぁ。
变化を繰り返す女子のとって今生を男のなりで過ごすなど合わせの向きを変えるだけ、大仰に身構えることでもないやろ。と、そんな声が聞こえてきそう。
どんなに焦がれたとて、たまきはやっては来ない。薄目を開ける度、ばあァの己れの楽しみをほじくり返すくるくる回る人差し指が繰り返されるだけ。その度、肌は若やぎ艷やかに变化している。でもまだ形まではなっていない。迷っている。団扇を使ってネエねえと催促するのが楽しくてしょうがない。「ほんまのこと、見たらええやないか」と当てたくてしょうがない。
女は三つ指ついて待っている。そのくせ、上目遣いの顔はずっとこちらを見透かしている。蜉蝣のように薄くなる前に焦点を合わせて、顎を挙げてやった。勘三郎に嫁取りした美也やった。
「図星やろ」と、指がとまった。
【模様替え】
今朝は朝から騒々しい。聞けば模様替えだという。建具調度の類から障子のはてまで一切合切が持ち去られていく。見知った顔はひとりも居らぬが、揃いの印半纏で全てがお店の者とわかる。この屋の四方の地所を増やした際に雇い入れた者たちだが、男はいない。女ばかりである。力仕事であっても一人のところを二人、三人のところを六人でと合力すれば難はない。「どうしても、そればかりは」などの声はなくなって、男はみんな消えていってしまった。町家の造作に見栄の石積みなんぞあろうはずもなく、隣り合った板塀は互いの出入りが良いよう全てに鋸を入れて穴を開けている。十人の合力で一斉に始めたものだから、辺り一面四方八方から古材たちの悲鳴が轟き出した。
勘三郎が、「お天気が良くてほんに良ぅおしたなぁ」の顔で近づいて来る。こないな間合いは初対面やから、ドギマギがバレん様に「何をおっぱじめるんだ」と問いただすが、「いややわぁ、もうこれで何度目やろか」と笑って相手にしてくれない。すでに今夜の支度に目は往ってるようで、ハレの日に水を差す親もあるまいと、手を後ろに回して作業とそれを差配する子を見守る親の振る舞いに終始した。
午にはあらかた形になったようで、夕暮れを待たずに来る客を迎える支度も出来ているようで、そこら中に湯を沸かすふつふつした感じが満ちてきた。
板塀を挽いて拵えた新しい木戸は、遥かむかしに切り出されたときを思い出したように、匂いがプーンと立って蘇っている。それらをみんな潜り抜けて、昨夜まで他人様だった地所に入ると、紅殻格子の朱が真っ先に跳び込んでくる。格子の中から聞こえてくるのは柔らかく楽しげな女の、それも若く幼げな声ばかり。格子の影がいやいやして顔も手足も見えんでも、桃割れした振袖姿で並んだ何十人が藤娘踊っとる香りまで運んで呉れるよう。
娘たちが身に付けとるもんは、肌にまとぅとるもんまですべてお店から出ていったもんや。
みると、万両の花の茂みから部屋の数だけの勘三郎が出てきて、女の数と部屋の数だけきっちり収まった。
時が満ちぬ前に早くいつもどおりのひと騒ぎを終えると、すぐにひとり身が出るだけの隙間を開けて、出てくる。首筋から一本の汗を流すと、ひとりに戻った涼しい顔で「お天気が良くてほんに良ぅおしたなぁ」と、此方にまでやって来そうなので慌てて木戸を潜って母屋に戻った。戻って閂をかけると、すぐに別の木戸が誘い出す。今度は、挽かれた軋みの声で生なましく迫ってくる。潜った向こうは先程とと同じく、紅殻格子の茶寮に若やいだ女達の藤娘が満ち満ちているのも、最後は勘三郎の百人斬り千人斬りの殺陣を見るよな冷やかしを指を加えて口をあんぐりしたまま見せつけれれるも百も承知なのに、踏みとどまっておられん誘惑が先を越していく。
引っぱっていくもん引っぱられていくもんが何なのか、もう分からんようになった。紅殻格子の厚化粧した娘らも足首しぼった軽業師の長袴みたいな勘三郎も、知った顔していけずするばっかりやしぃ、木戸を開ける度に喉を締め付けてくるあのギシギシを、みんなでよってたかって廻しつづとるんやろぅ。
「ようやく、ここまで、辿りつきましたな」暗くもないのに何も見えては来ない。それでも此処が離れの四畳半で、相手がたまきなのはよう分かった。
「いややわぁ。違います、うちは美也です」相手の作法が面倒なのでそのままにしようとしたら「あかん、あかん、ちゃんと己れの口で喋っとくれやす。眼に入ってくるもんは、うちが預かってますけど、お口はそのままに残してあります。思ったとおりを声に出したらえぇ」
「美也いぅんは、大嘘や。あれは勘三郎の嫁や」
「ミヤトモウシマス、ドウゾスエナガク、カワイガッテクダサイマセ」形は違うのに、声は美也のものだった。「借り物やぁおへん、己れのもんだすぅ。ほぅら顔の造作かて白無垢に三指ついた可愛らしいもんでっしゃろ」細くて柔らかいが大きな掌が此方の手を取り、目のくぼみまで指の腹を押し込むまでなぞらせる。己へともってくるときにわざと触れさせた乳首の先はたまきのものだった。お前さまかて同じや、といわれて初めてすっぽんポンなのに気づいた。寒さが先にくる前に、肌を重ねる。あんなに焦がれたたまきの肌はあせのばあが娘に変化したものとなんら変わらん。
褥に目玉まで預けるような周到な準備までせぇへんでも、たまきとの邂逅は勘三郎の嫁とのあやふやな関係と一緒に続いていった。邂逅がそうこうするするうち美也は身籠った。ますます勘三郎夫婦の仲の睦まじさは増してゆき、祈祷師坊主の役回りが終わると、それきり四畳半には呼んでは貰えなくなった。それからはいつもの大広間でひとり昼餉をとるよりほか、詮ないこと。
お七夜も過ぎて、生まれた子は勘三郎と披露された。仔の勘三郎を抱いてる勘三郎に、お前はこれからどうするんだと聞くと、何を今更と、わたいが勘三郎と呼べば勘三郎が返してくれるやろうし、おとっつぁんが勘三郎と呼べばわたいと勘三郎の両方が返してあげるだけのことや、とニコニコ顔で返ってくる。むずかる赤子に、やっぱりおっかさんの方がええんやなぁと美也に渡すと、赤子の初着から捏ねたばかりの肉だんごを積み上げたようなアンヨが剥けた。ツルンとした印象よりほかなかった。どうやらこのまま四畳半に籠もるのはやめてこの母屋に移るらしい。
なつかしいやろう、この屋に、また、たまきが戻ってきたんやから。
若旦那はん、お懐かしゅうございます。たまきです。また、勘三郎と坊っちゃんのお世話をさしていただきに戻ってまいりました。この前と同様に可愛がってくださいませ。
赤子も交えて三人が三人ともはらはら言うだけ言って、此方は放ったらかし。勘三郎で繋がる仲睦まじい中に入っていけぬ身なれば、ひとりの昼餉が続くのは致し方のないこと。
「天井でフワフワ傘さして浮かんどるところみると、おちゃっぴー、死んで無うなってしもうたんかぁ」
「無うなってしもうことなんてありますかいな、うちらはいつも一緒です。おしゃまになって勝手に一人で出払うようになってしもて、だんだんに小さく遠くになっていくあの仔見ておったら、雑巾絞るほどの乾き覚えるほど哀しゅうなって、息ぃ止まるまでおぶい紐をギュウギュウに縛って離れんように抜けられんようにしてこんこんと眠っておったら、神様が可哀相に思うてくれはったんかぁー、こないにふたりがいつも一緒に居られるよう離れんようにしてくれはった・・・・・開いてる方の掌でうちの背中なぞってみなはれ・・・・・そこそこぉ、丁度そこがあの仔のかたびっこ飛び出しとる右肩や。そのゆび納めんと、そのままでずっとうちの首まで昇ってきておくれやす・・・・・ちっちゃい可愛い顔が、うちのうなじ恋しい云うて、うつ伏せのまんますやすや眠ってますやろぉ。そんときのこちゅばゆさゆうたら、名人の筆のはらいがつぼにあたったときと同んなじで、得も言われん暖かなぬるぬるが足の先まで沁みてきますのや。せやから、坊っちゃんをおぶうときはあの仔もおぶうとります。長い長いひと回りやったけど、やっとあの仔も「カンザちゃんおんぶできるようになった」云うて喜んどります。背中には可愛らいもん背負って、腹の方はすやすやべったりうちの温いもん貼り付けて、女子と赤子の欲しいもん両方に抱かれて。
高貴なお人ばかりが住むという彼岸の果まで出向いても、これ以上のことが望めすやろか」
片方の掌はたまきが溶け込んだまま離してはくれないので、空いたほうでそこに掌をやると右からひだり左からみぎへとごろんごろんする塊にぶつかった。それが女が云うようにおちゃっぴーのすやすやの寝顔なのか、嗚咽からくるただの作り話なのかは分からなかった。
すいっちょんぎーぎー
すいっちょんぎーぎー
「これだけ広いところにおって、年寄り二人ばかりでは少しさみしいと思うがのぉー」
「まっこと まっこと」
「女人はどうも腰が定まらんようで、ふらりはらりと出たり入ったり」
「まっこと まっこと」
「新しいもんが欲しいのぉ、少し無理しても若いもんがぁ。少しは話し相手の出来るもんが」
「まっこと まっこと」
「さぁさぁ 歌ってくだされ」
「こきりこぉーのぉー たねわぁー 七ぃ福ぅ神ょー」年寄りふたりは、まだ見えはせぬ大切な珠を大切に大切に囲むようにゆっくりと廻り始める。
すいっちょんぎーぎー
すいっちょんぎーぎー
「お前様のあの美しい孫仔はどうかのぉ、頼んだら来ては呉れぬかのぉ」
「呼べば来てはくれるやろうが、あの仔はまだまだ女の子のままや。あのように振る舞ってはおっても、こちらに呼んだとて、ほれほれあのようにただただ連れないものよ」
「一緒に来られた娘御のことか」
「娘であって娘ではない。あれは、お店で生まれた子ではなく、あとからお店に入ってきた女だ」
「つれないのはこちらとて同じこと。わたしがお使えした殿に大奥様が輿入れした晩に、いずれは、来世はと、お誓い申し上げたのに、男と下僕の両方でお使えした齢もこうまで重ってみると、お互いの移ろい過ぎた姿かたちばかりが目について・・・・・そのような世迷い言、言の葉に乗せるさえ是非もない」
「そのように仰せられても、大奥様もすぐにこちらに付いてこられた」
「想いなどとうに離れても、すでにひとつの形になっている故」
「いやはや、男と女の達人であらせられるのぉ」
「まっこと まっこと」
すいっちょんぎーぎー
すいっちょんぎーぎー
「さてさて、娘御ではないとすれば、すぐに呼ばれたは何故か」
「その子が生まれて、今までのつながりがやっと形になってしもうたからのぉー、それが此処での作法なのか掟なのかは分からぬが、ひとつにくくられ、ひょいとつままれてしもうて、あれも哀れな女子と呼ばずばなるまい」
「あの婿殿は、何を、どう」
「さてさて、お飾りで、言い含められたとおりの成行きを守って手を触れなんだら、あのようなギクシャクな成りまでせんでも良かったものを。あれも哀れな男子と呼ばずばなるまい」
すいっちょんぎーぎー
すいっちょんぎーぎー
眼をつむり 耳を閉じた暁に
それでも入る 理は
縁のきもの なせるわざ
【おとこの仕事】
いつもの昼餉に箸をつけていると、部屋に勘三郎がひとりで飛び込んできた。「まぁだこんなところで一人ご飯なんぞ食いよって。おとっつぁん、いつもいつも退屈やろう。三度のお膳よりほか、この部屋に来るものはなし。やってきたところで、こうしてひとつひとつのご飯粒いちいち数えて、飯が固うなるのも汁が冷とうなるのも構わんでただただゆっくりゆっくり噛んでるだけや、ほかにすることはなし。造作増やしてお店を大きゅうに広げたら、もう猫の手も借りんとならんほどのてんてこまいや。お店でお膳とにらめっこしながらままごとみたいに飯を食うとるの、おとっつぁんだけや。はようはよう、その両手両足を貸しとくれ」
箸持つ掌まで引っぱられ、米粒ついた裾前を払う暇さえ与えられずに前のめりで駆け出すと、女の合力のみで手直した木戸を五つ抜け、先が見通せぬほど長い百軒間口の切妻屋敷が現れた。中にはぎっしり詰まった女客の悶々の息を殺した声が堰を切れずに待っている。長い切妻には、同じく長い軒が連なって、見苦しいアブクが立ってもそれが持ち上がる前に消えるよう、節度が図られていた。
「さあ、やってくだされ。これは男の仕事です」
足を入れたときは、小石一つ置き去りにされていなかった庭に、切り株に刺さった斧と一尺刻みに切断され堂の甍を超えるほどにうず高く積まれた樫の木の山が覆いかぶさる影を作って待っていた。襖絵のひらひらしたふりしてたのが、急に重さの伴う設えに変わり、模様替えにしてはいささか乱暴な感じがした。
リアルやわぁー
その声を端にして身体のすみずみまで肉という肉がコブに変わり、もろ肌脱いで斧を持つ。山の奥にいた若い身体に戻ったら、毎日毎日来る日も来る日も山を一つづつ刈り込んでいった握力と記憶が蘇ってきた。樫の古木のマルを掴むと2つに割り4つに割り8つに割る。鋼が入るたび、とうに乾いているはずの木肌からとうに忘れた生木のザラッとこすれる匂いが辺り一帯に立ち昇る。
木肌の匂いを嗅ぐように、男の汗を嗅ぐように、二つしかない鼻の穴を鉗子でおっぴろげるように吸い込んでいる千を満たした女の鼻の穴が飛び込んできた。割られたらすぐに生きの良いまま堂に持ち込まれ饗されていく。汗は吹きこぼれることさえ諦めて、まっすぐ足元まで流れていくので、足元はすでの池淵に浸かるよう。もろ肌脱いで腰に巻いていた衣は、模様替えの次元の違う水攻めにあい、もう手をつなぎ腰をまとうのをあきらめたか、溶けて流れて消えてしまった。
それに引き換え斧と切り株の見事なことよ。数万の打ち鳴らしのあとでも傷はおろか曇り一つ生やしていない。こぶだらけの赤い身体は、切りたての薪がすべての客に供されて、ひとり熱苦しさに浮いている。
奥の気配は、亭主の勘三郎ひとり。いつもどおりのかんぜない顔をこちらに向けている。
これだけのお客をもてなすのに大汗かかねばならんかったのを、今日は指一本で済みはりました・・・・・合力ありがとう、おとっつぁん。おかげで、今日のお客は涼しい顔のまま、幸せな顔のまま、すやすや眠っていられる。
お喋りはいくらでも膨らんでやってくる。転がってこちらにやってくるだけ。止んでいた風は、山から海へと舞い戻り、場の心地はまた変わった。溶けて消えてた思っていた下帯やら襦袢やら鬢付け油やらが、干上がって目に見えんものから元通りまで戻って、身支度が出来上がると、めしいに手をひかれる年寄りに戻って木戸を出る。
冷えてしまわんうちに元の膳の待つ部屋に戻してくれるとばかり思っていたら、木戸ばかり何度も潜らされ、さっきと同じ切妻屋敷に戻ってきた。「ぐるぐる廻って、なんで同んなじ処に戻るんや」と聞くと「まさか、そんな」と笑って、まるで相手にしてくれない。裏周りしている間に、舞台は模様替えが済んだらしく、このまま大の字なって浮かんでいられるほど大きな水を張った桶が二列になって先まで並んでいた。中には、鱗の数を一枚一枚数えられるほど立派な真鯉が、生まれてこのかた桶の中のより知らぬ純な目をして泳いでいた。
「これもまた、わたいがやるンかぁ」
「そりゃあこれも男の仕事ですからなぁ」勘三郎の声で「男の仕事」と呼べば堂内の気配は呼応するように膨らむ。こんな明るいお天気でも、長い軒は中の女の姿を隠し続ける。見るのは向こう、見られるのは此方。決まったことなのだから仕方がない。足元には見栄え良くことが成就されるように、少し鋼を薄くした刃渡り一尺五寸の出刃と、これも元の材は両腕いっぱいあろうかの大ヒノキの大トロだけを誂えたまな板が、目を移す合間に用意された。
「うちにはお客が待ってますから、ほなぁ」
勘三郎はスタスタ堂に入いるとすぐにお客のものになったようで、気配が消えた。「おとっつぁんはお店に来てからずっと隠居みたいなもんやったのが、代替わりしてほんまもんの隠居になりはった。そないなお人には、これからはビシバシ働いてもらわなあかん」
気配が消えたので、己の中の勘三郎を絞り出して、せっついてもらって、ケツ叩いてもらって鯉を抱え出す。今度は百の殺生をおっぱじめるのだから、肉は一気に赤い瘤に変わって、下帯も襦袢も布という布は今度は愛想尽かししたみたいに溶けていなくなってしまった。獣に貶められた身体に浴びせられる返り血の匂いを嗅ぐ鼻の穴の蠢きがビリビリ伝わる。まな板の上の鯉は本当で、下手な暴れ方はしない。今生の命だけを此方に向けている。このために鍛えた鋼は筋がいい。立てた刃の入った先から血が盛り上がるように吹き出し、果てた途端に血のアブクは鱗を汚していく。
プシューッ、 ウー、 スー、
音に出るのは三つだけ。それからの解体に目を向ける女はいない。死んだあとの血は流れたら、我が身を汚す液体に成り下がっている。命を葬るまでが血潮なのだ。あとは己の命を腹を満たす肉塊。臓物はなく腹が空っぽの鯉は捌くのに手間はかからない。骨筋を間違えずに切り分けていくのみ。解体に興味はなくとも、ひとつで十人の腹を満たす鯉の肉はすぐに奥へともっていかれ熱々の汁物に変わって、発散で冷えた女の腹に納まっていく。
その間も、殺生は繰り返される。桶から引き上げればすぐに、
プシューッ、 ウー、 スー、
そのとき、待つ女、食う女とも、箸も口も己の血潮さえも止めて、命の刹那を聞き入る。もちろん終われば、事なきを得たように余韻はない。血潮による命の刹那を長く止める術はない。役割の定まった互いの身を食いつ食われつ剥がされ肥えてゆくのみ。鯉を食った女の部屋は、肥えていく女の重みに耐えきれずに、捌かれた鯉同様に、天井は反り返り、柱は折れるのを許さぬ歪曲のまま七転八倒の苦しみに、のたうつ。
ここにいる女の誰よりも長生きしていたのだ。他人の腹に納まったとてすぐに他の肉塊に納まるまい。
部屋の寸法の一間五尺にぴったりの真四角まで、大きくくっつき膨らんだ白い肉塊が整形されると、赤い塗箸を引っ掴んだ勘三郎が膳に向かう姿勢のまま菊花の筋目にダイブする。
シュワシュワッと炭酸の溢れる音で脂は溶かされ、元のしゃなりしゃなりの女の華奢な顔が戻ってくる。一旦は大騒ぎに赤く染まった四畳半も、昼に闇を拵えた庇の落ち着きを取り戻していた。
プシューッ ウー スーを順番に捌いていけば、いずれは堂の先まで辿り着く。後ろには空になった桶ばかりが並んでいて、しーんと云うものさえいない。百は下らぬ鯉を捌いた血が層をなして降り掛かったのに、血生臭の嗚咽は出てこない。
午のお天道様は、そこにいたきり微動だもしていない。最後の肉塊が運ばれ、やれやれと萎びた懐かしい身体が戻ってくる。真っ裸だがそれに構う気配はないようだ。庇の間から飛び降りた勘三郎が側にいてくれるが、昼餉の膳から手を引っ張り連れ出したにこにこ顔に変わりはない。
今度はどこに、と言おうとしても声にならない。さんざんに連れ回して獣のような真似させて、と続けても、それは己れではなく手毬寿司のような勘三郎の声になってしまう。仔どもが駄々をこねるテテ御の腕をそこから剥ぎ取ろうとするように。
【女の子の節句】
うふふふ ふふふ
ふふふふ うふふ
小さな子どもの笑い声は小さな粒の波に変わって身体をふわりふわり持ち上げる。手足を引っぱられあちこち転がりながら連れ回されるときと違って、今度は爽快だ。またぐるぐる廻って設え模様替えの済んだお堂に入って理不尽な力仕事ばかりさせられると思っていたら、着いた先は離れの四畳半、勘三郎たちの部屋だ。
「ようやくお役御免か、やっと戻してくれたんか」
「うふふふ、そないなアホな。さっき言うたやないかぁ、おとっつぁんはお店に来てからずっと隠居はんやってたんやから、これからはビシバシ働いてもらいますってぇ・・・・・うふふふ ふふふふ」勘三郎は楽しそう、変わりなく楽しそう。
「そない云っても今度は本当に戻ってきたやないかぁ、此処はお前たちの部屋やないかぁ、お店やのうて家内やないかぁ」食い下がってみても、何を今更の楽しそうな顔に歪みはおこらない。
「いややなぁ、此処は家内なんぞではのうてお店です。うちらの部屋なんかでは、おへん。お客様に使うてもらう部屋です。まあ黙ってそこに座っておったら、いずれ形になっていきますよってぇ・・・・うふふふふ」
そこまで段取ると勘三郎は去っていった。お膳のあるこの部屋には、もうやってこないのは分かった。
えんえんもんもんと時は経っていく。生半可ではない。一時二時・・・・三日四日・・・・五年六年・・・・七つの何か八っつの何か、と数え方を諦めさせる長さが続いた。
膝を崩し立ったり座ったりを繰り返すのは、まだまだ眺める外を意識している間のこと。そうして、襖を開けてやってくる者を待つ半畳の己れは崩れることがなくなった。動くことも想うこともなくなり日の移ろいだけが外の存在を現してくれる。苦しくはない。一人でいることさえ意識しなくなるのだから。馴染んだものとの呼吸を乱さぬ交合のように飽きるときを忘れさせていく。ひたりと浸かる姿に戒めは及んでこない。
熊のみ許されている冬眠
おしえてくれる声がする。たっぷり太って穴に入って、がっつり痩せて戻ってくるんよ。眠りを造るのに一冬潜っていたんやろか。いやいや、眠ってなんかありゃしません。じっーと中だけ眺めて一冬暮らしておったん。春夏秋と、もがいて、がっついて、うろうろして脂臭い生身を晒しているのも、清冽なこのときのための生業。
ほうら、熊の毛皮に包まり背中を向けてくぐもって見せても「小さなアンヨはみえてるよ」、それでも向こうはもてなす側なんやから、「フリしたまま」受け入れ続けてやらんとな。
そこまで科白を間違えずに云い終えると、キュッと袖の向こうに隠れていった。小さなアンヨはふくらはぎまでめくれている。時は経っていくのでなく遡っている。
向こう岸も見えない大きな河に櫂も帆もない船が浮かんでいる心地だ。目を閉じぬうちは分かっていても、うたた寝一つ間に入れば、四方八方が分からなくなる。それでも、船は進む。ただただ先へと進んでいく。
海のしじまのその先の
遠くを隔てる砂丘には
月が二つのくにがある
東にのぼるつきを見て
西にしずむつきに泣く
二つのつきの重なりを
片目瞑って見たければ
二つのおのれを従えて
瞬きはせぬと誓わせよ
声は一人ではない、二重奏で聞こえてくる。それでも声は同じ、他人同士ではない。
ひとりの仔 ひとりの女
その仔のことを想うと疼いてくる。遡って来てくれるときの疼きだ。
見えてはいないが、船は戻ってきている。重たい泥に満たされた河をゆっくりと、それでも誰の力も借りずに船は進んでいく。戻っている意識はない。舳先の先が示す先へと進むのみ。
緑青のふいた血管のザラメが角々したアタリは舳先が分けるにゅうめんの束に変わった。
肌はじっとりに戻っていた。見ずとも触らずとも、毛穴が規則正しく並び出した。さてさて、どこまで遡っていくのか。
「おとっつぁん、どう・・・・」
七五三の勘三郎が鎮座している。五歳の裃姿ばかりでは不憫と、あせのばあに頼み込んで一夜だけ桃割れを結わせた七歳の晩が現れた。衣の白地が隠れるほど朝顔を染め付けて、同じ図柄を禿たちにも羽織わらせ、重ねた雪洞の間をしゃなりしゃなり歩いている。姫御前に扮したあせのばあは濡れ縁に出張って琴を弾き、一夜の趣向が世間まではみ出していかんように閉じ込めてくれていた。
「今夜は桃の節句、女子のお祭りや。お前様もそないな無粋な格好しとらんと早ようにお着替えよしぃ、ほらほら禿さんたち、手伝ってあげて」
小さなおかっぱ頭の群れに囲まれて、眼はおろか息つく暇さえ与えられずに剥がされ塗られ、拵えられていく。「出来た出来た」ほんに可愛らしゅうになぁー、と禿を散らし、ばあぁはじっくり満足そうに検分したあと、「今宵はこれはうちが預からせももらいます」と、裾を分け入ってまたがるなりカチリともっていった。
「大切にうちの腹ん中に納めておくよって、ちゃーんと明朝は返してあげますよって、今宵はお嬢ちゃんと一緒の女子の身体で楽しんだらええ。これを知っとるのは、うちとお月さんの二人だけや」
そう促され、親子二人で月を見る、満月とも半月とも名のつかぬ朧な月を。
あせのばあの琴の音が、足らぬ月を埋めてくれる。揺れているのは、ふたりの朝顔だけ。今宵は、あとは止まって閉じようとしていた。心配しなくとも月は今日も西へと沈む。
ドスンの音がして目を開けたら赤ん坊の勘三郎を抱いた美也だった。黙っていると「どちらでも好きな方の名前で呼んだらよろしぃ」と気を使ってくれた。
「お父ちゃんにご挨拶するの久しぶりやなぁ、忘れてしまいそうになったなぁ。そうやなぁ、ずっと抱かれておらんかったもんなぁ、いつまでも覚えてもらえるようにいっぱい抱いてもらわんとなぁ」と、目は笑っとらん笑顔で、赤子を腹話術人形に仕立てて口説いてくる。そのまま預けられた勘三郎のおくるみには青紫の朝顔が何百と染められている。先程までのばあぁの弾く琴の音に守らとった「今宵」を見透かされたような恥ずかしさがこみ上げてきた。
女は美也のままで移ろわなかった。三人に形は変わらずに時だけが移ろう。幾百幾千が満ちるうち朝顔の色も茜色に移ろっていく。美也がたまきに変わっても勘三郎は変わらない。朝顔が青から赤に変わっても赤子の顔は変わらない。両手で抱いているこの重さと同じ。
赤子が泣いて、お乳だ、おむつだの些事が散らばってばたばたと引き上げたあとも未練は起こらなかった。今宵を抱え、こうして生身を抱いたあと、勘三郎とのこれまでの声や匂いや姿かたちがホンマモンになって隅々まで入り込んでいって、もう逃げていく心配はなくなった。
これが女子に生まれた勘三郎にしてやったただ一つの父の務めだった。
すいっちょんぎーぎー
すいっちょんぎーぎー
生まれ変わりの勘三郎の姿かたちを得てから勘三郎おとっつぁんの踊るこきりこはぎこちなくなった。代わりに、お久はんの眼差しは、生んだ子の姿かたち若やいだ有り様で優しくなってしまう。その眼差しに接する度「別々の用意はしてもらえなんだんかなぁ、何かこぉー張り付いてるようで、その顔見るたびにくすぐったくてやりきれん」のぼやきが始まる。
美しい顔と声から繰り出される爺ぃの物言いに、お久は、生まれてからこのかた知らずにいた笑いというものをすべて此処につぎ込んでくる。勘三郎、勘三郎と、遠くの猫を呼ぶ続けるように名前ばかり連呼していいればいいのだ。あとは自然と腹が痙攣を起こしてくれる。
「じきに慣れますよって・・・・辛抱しなはれぇ、ウッふふ、うふふふ・・・・・さあさあ、お仲間が来られましたよ、お相手してあげなければ」
はいーッはーいの掛け声よろしく、幕の右手から伴ざむらいがやって来る。お久はいつもどおり一段さがった観覧席へと降りていく。袖からは頭も肩もコテコテの糊ばかり立てた伴ざむらいが口上の読札持参の世間話を設えやってきた。こちらも裃作法で饗応せねば
「いやはや美しゅうに変わられて、役者のような立ち居振る舞い、ほんに羨ましい」
なんの なんの
「お連れ合いは頬を染め、それに気づいた血潮でまた赤くなる」
なんの なんの
「されど過日のお姿とお会い出来ぬ寂しさは、これまた同じように綿々と満ちてくるばかり」
それって、ないもんねだりいうんと違いますかぁ、の声は跳んだが、観覧席のお久ではない。
「いやはやお姿ばかりか声から口調からすっかり変わられてしもうて、これではもはや過日の御方は無うなってしまわれたのでは・・・・」
ここのタメが見せ場なので、呼吸を図ってすがるように科白を繋げなければ。お久も腹の痙攣を両手で抑えいまかいまかと待っている。
「なんのなんの、そのような薄情なお言葉に及ぶとは。まだまだ達者でおりまする。そのようにすぐには放らんでくだされ」それっと、しなをつくる娘の年寄り芝居が畳み掛ける。
「何やら芝居臭うなりましたなぁ」張ったものが段々ときな臭くなっているのに興ざめしたのか、こきりこも踊らず、汗をかかねば立てた糊も剥げ落ちぬまま、伴ざむらいはへたりとしゃがみこんだ。
「お前様が来てほしい云うからこんな辛気臭い処までわざわざやって来たのに、そんな所で背中向けていじけとらんと、そろっと本当の顔を見せたらどうや」いけずな勘三郎が這い出して肩の廻りをちょんちょんする。
「本当の顔って言われましてもなぁー、はて・・・・・」
「それって芝居やろう、その老け顔もかちかち固まった振る舞いも、ずーと芝居やってはったんやろう」勘三郎の両耳は伴ざむらいのガサガサがさごそに聞き耳を立てる。「お前様はお屋敷に奉公したての前髪ふさふさあったときのまんまや。輿入れした大奥様の首元から先の奥の方まで覗き込んで、もんもんしとったときのまんまや・・・どや、どや・・あれれぇー」と両手で隠す年寄の顔を払い除けると、
「おぶーちゃんや、ないか」と合点がいって、笑いが地面を転がり続けていった。
合図が出て、やっとおちゃっぴーは舞台に上がった。
「おっきなおぶーちゃん出てきたから、お隣さんごっこやろうか」
「やろう やろう」
おちゃっぴーは力を込めて両足を踏ん張り、腹鼓を打ち始める。ぽんぽこ ぽんぽこ ぽこぽこ ぽんぽこ
「お隣さんの若夫婦 嫁入りあったその晩に 大きな膝を抱えだし おぶーちゃんをひねり出すぅー」ぽんぽこ ぽんぽこ ぽこぽこ ぽんぽこ
「大きな旦那は慌てだし 心当たりを数え立て 背中丸めて隠れだす」
勘三郎は伴ざむらいの紙のように薄っぺらな裃に滑り込み、伴ざむらいごと二人羽織よろしく大きなおぶーちゃんと背中丸めた大きな旦那を左右に演じ分けながらひらりひらり踊り始めた。
それを見ていたおちゃっぴーは、舌なめずりまでしていた乾きを抑えきれずに「うちも入りたい、ぃー」と、飛び込んだ。押しつぶされてはたまらないと、勘三郎はサッと袖を通り抜け今度はお囃子に廻り、こきりこを歌い始める。
すいっちょんぎーぎー すいっちょんぎーぎー・・・・・・えーいままよぉー・・・・っと
こらえ切れずに脱ぎだせば 小さな己が顔を出し 心は軽く見も軽く 天井からの御対面
笏など持っては不相応 両手でやるべきことはなし
片手ばかりの寂しさを つらつら見かねる人ばかり
お囃子となった勘三郎は鬼コーチになって千本ノックを畳み掛けるものだから、おちゃっぴーはその一節一節を耳でなく手足で拾いに行くものだから、中の伴ざむらいはたまったもんじゃない。蛇の脱皮から始まって、うつ伏せの亡骸から天井上のすまし顔、首に巻いた両腕を一度も解かずにいるうしろの泣き女まで束になってひねり出そうとしている。此処におっても痛さ辛さは生身のまま。肉饅頭のあびせ倒しを喰らい続けて、伴ざむらいは、己れの白髪頭と皺々の肉塊を切り売りして、いくつもの小さな人形を口からほいさほいさと出していく。
小さな人形たちは、ついでに両脇に抱えられるだけの子豚を抱えていったので、伴ざむらいもおちゃっぴーも「それなら、うちらもついでに」といった具合に、伴ざむらいは美しさだけをたすきに掛けた若侍に、おちゃっぴーは「勘ざちゃーん」と小さな勘三郎を追いかけ回していた高く細い声と小さくてきゃしゃ幼い身体を手に抱えた。
「勘ざちゃーん、もう・・・・ちょっと」欲張りのおちゃっぴーは袖からは剥き出した右腕のおや指ひとさし指を精いっぱい開いてからキュッと半分に縮める。欲しがってる目方が分かると勘三郎は飴玉を切るように三つ多めにお囃子を投げ入れる。
うまうまうま・・・うま ウマウマウマ・・・ウマ うまうまうま・・・うま。もう、よけいな仕草や振りはいらない。裃に隠れて小さく丸くなってるおちゃっぴーが、「ほんに綺麗やなぁ」と、たすき掛けした若侍の背中をさすると、子の健やかさを願う五月人形に変わった。腹掛けのハイハイが順繰りに回っていく。「もっと、もっと」が聞こえてくるので、小さななりのまま人形に乗り上がったら、「あとは、もうお仕舞」が鳴って、ぺらぺらの裃は紙よりももっと儚く散って、あとには生まれたよりほか何もない生のままの一組が塊となっている。
「皆んな、何も見つからんほどの小っちゃな仔どもにもどってしもうて・・・・・えろう遠くまでいってしもうたなぁ」
「そりゃあ、見てる側と違うてやってる方は大賑わいやものぉ。あないに早ように回り続けたら余計なもん皆んな振りほどかれて、あっという間に生まれ落ちたときまでに帰ってしまう」
「余計なものって一括にするんじゃ・・・そりゃあ、少し寂しくはないかい。わたいはこうして見とる側に立ってるほうが性に合っとる、あないな真ん中で他人様に見られたまんまくるくる回るなんて」
「うちも、そうです。次のお仲間が来るまでこうして待っとりましょう。ほら、勘三郎がおります。たった一人やけど、あの仔さえおったらあっちもこっちも同じ顔して出たり入ったりしよりますから、それを楽しみに此処でこうして座っておりましょう。また、いずれ、あそこで面白いことが始まるやろうし、あそこに立つのは嫌やけど、あそこに来たもんを見るのは、ほんに、楽しゅう・・・・」
「そないなのんきは、許されしまへん」舞台から身を消していた勘三郎が桟敷席の二人を羽交い締めする。「皆んな己れでは何ひとつ出来ん、お世話が必要なもんに変わっとるやないですか、早ぉー早ぉー」と、赤ん坊ふたりを両脇に抱え戻ってくると「ひとりでひとつずつ抱いててください」と、伴ざむらいだった赤ん坊はお久に、おちゃっぴーだった赤ん坊は大奥様に押し付けた。
「余った方の掌でほかの仔も世話してください」
ふたりとも自分らだけと思っていた赤い雛壇にはかつておちゃっぴーや伴ざむらいを拵えていた残がいが、そのなりのままでひとつひとつ丁寧に飾られていた」
「いまは手だけ足だけの仔ばっかりやけど、ちゃーんと面倒みてあげれば元のちゃんとしたなりに育ちますよって、頼みましたエー」
みると、腕や足の残骸の根本には小さいながらも伴ざむらいとおちゃっぴーの不足が、瘤のように発根のようにキラキラした断面を繋いで生えていた。大きな片腕や片足を持て余しながらもくねくねと原形に負けないような「のびノビ のびノビ」を観察したら、微笑みが勝って先に出た。初めがそれなので、後頭部のついた髻を見せつけられても、血肉の破片が凸凹している断面であっても、目を背けるおざましさは脇に追いやらわれて、寄って触って抱きしめた。お久はんは風呂の湯加減をみるように、大奥様は乙女だった在りし日を姿見でみるように。「この髻、わたいが引きちぎったもんやわ。逃げ出そうとするんで、嘘つき、嘘つきっ云うて、両の手で鷲掴みにして栗の木に縛り付けておいたら、ほおづき噛んだ音がして、血まみれの髻だけ残して、ようよう消えて無うなってしもた。そんな時分があったなぁ」
油を塗らんでも固まってる濁りのない若い男の髻をキュッキュッ絞り上げると、そのままジッとなった。何か世話する様子とは思えないので、お久が「食べたらあきまへん」と取り上げる。大奥様はすぐには抜け出せずにいたが、半開きの口を自ずの手で締め上げて、「そないな分別のない齢や、おへん」とお久の上げ調子の口を真似して、いねいして欲しそうな顔だけしていた。
「あんじょうに、な」と、勘三郎は下に潜った。案外にそこは近く繋がっている処で、六条間に三っつ布団が敷かれた端女部屋だった。
今夜の客は、その中の十六歳の娘だった。一度も日の下において眺めたことのない錦絵、勘三郎の大首絵、夜伽する絵、それを背中から剥がして持ち帰る。もちろん眠ったままの女子を前に、作法は必要。心よりも身体の疼きが先なのを未だ知らない。だから想いを寄せている鱸権現よりもイヤな奴と顔に書いた男の方に身体が向いてしまい、ひと月経たぬうちに熟れてしまえば堕ちるばかり。それをその張本人の鱸権現は知ってはいても知らん顔。可愛さ余って憎さ百倍の言葉通り、えーいままよと飛び込んであえなくことは成就される。その日を境に違う身になるものと信じていたものが何も変わらず、朝向く膳も昨夜の膳と何ら変わらず、口に運ぶ飯の数さえ変わらない。朋輩に、変わった顔と読まれるはずも何ら変わらぬ忙しさばかりが始まって、己れのあたまのみ昨夜の早鐘が鳴り響き続けるだけ。いずれはそれもなくなり慣れていくだけの女の身を憐れみ痛い心根ばかりが疼いている。
添い寝しながら片方の鬢に小指を置くと涙がひとつ、逆らって落ちてきた。女子やもんなぁ、と背中のくぼみに書いてやる。
どこまでも飲み込んでゆく女子の切なさよ
娘の口が吐き出しやすいように唇の指を添えてから勘三郎は、娘の背中の錦絵を剥がして別の女の褥へと向かった。
とおる度ぬける度、あぶくの音がするばかり
クるり グるり グるぅー
「やれやれやれやれ やれやれ」
六本丸めた錦絵を抱え勘三郎が宙空のあいた穴からストンと長火鉢の前に落ちる。あせの婆ぁのくぐもりが「おつかれおつかれ おつかれ」と、ばたついたように聞こえてくる。
「こっちに移ってから何処へ廻るにもあっちこっち近こうなったのはええが、濡れた身体を放す暇がのうなった」
ばあぁひとりが落ち着く手狭な部屋で勘三郎もろとも、「ばたん」と、手脚もろとも広がった大首絵が開く度に、ばあぁは追いかけては畳み直し追いかけては畳み直す。表はどれも同じ勘三郎だが、裏には剥がした女の反転している背中が残っていた。一枚だけ畳まずに読み込んでいる神妙な姿が見えたので、「よく取り戻してこれた思ってるんやろう」と問うたら意外にも素直に黒い塊はこくんと頷いた。
「元に戻るだけやけど、あれで本当にええんやなぁ」
うむうむ、それがええ、それでええと頷けば、「すぐにまたどこぞのどなたか分からんようになるまで打擲されるんやで・・・・そんで、また戸板に乗せられて、同んなじ尼寺へ放り込まれるだけや」と口をトンガラがしている。女の打擲される話に及ぶとこの仔は素の顔に戻っていく。本当のところ、魑魅魍魎が息を止めて奥に引っ込んでいる顔をもう少し見ていたかった。
「あれは、あれでええんよぉ。前のときはあべこべやったんやから・・・・男の方の顔、みたかぁ」
「しらん」まだ口をトンガラがしてそっぽを向いている。ばあぁは喜々として語りだす。「門前まで迎えに来てたの見ておったろう。お前様なら気づいたはずや、あの女房と同じ顔しておる、あれたちはひとつのもんや。今生では女房のほうが女の身体と心を持っとるもんで、欲しゅうて、寂しゅうて、己れを掻きむしるだけではどうににもならん。溢れて零れたもんが女房を打擲する。あないに姿かたちは保っておるが、亭主のほうがもっとぼろぼろばらばらになっとるはずや」今日の婆ぁは何にもはぐらかさんと、よう喋る。
「仕舞までおってもそないな匂い、ひとつもせぇへんかったぇ」
「分かるわけないやろぉ、心も身体もいまは別なんやから」
「お店にはもう戻らん方がええんかなぁ」勘三郎は、婆ぁにならった素のままで、話を変えた。
「お前様が生まれたところやからなぁ。帰りたかったら帰ったらええだけのことやないか・・・・」ただしのその先は勘三郎が「お店にはもうすでに勘三郎の名のついた仔がひとりおるんやもの」と続けたら。
「そうや、お店に戻っても、もうお店の仔ではおられんのや」
ちゃぷちゃぷの声がしている。丸めた身体がぷるるんとしてきた。「此処におる束の間は、好きにしとったらええんやで」
「隣近所一帯の地所増やして模様替えして拵えた茶寮らは、あれからどないになったんやろう」
「あれかぁ、あれはなぁ、お前様がいのうなったあとも綺麗に使うとる」
婆ぁは、また何か始めたのだろう。手を休まずにおるのは、勘三郎のための話を手探っているばかりではなさそうだ。「さすがにあれだけの、住むものはおらんお店でもない仰山のもんを、一人で束ねるお大尽はおらんから講をつくってお上に申し出て、あの辺り一帯を新しいタニに拵えたようや」
「・・・拵えたようやなんて。分の違う他人様みたいな口きいとるけど、そないなもん拵えたら婆ぁの商売もあがったりになるんやないかぁ」
「フフフぅっ、心配せんかてええよ。向こうは所詮、表と裏の型にはまった二つの顔しか持たん商売や。うちのように変幻自在のマネは出来しまへん。こない誰も見つけることの出来ん奥で、両手両足どこでも好きに行ける四畳半を構えてるのは、うちひとりや」
「・・・・おとっつぁんたち、どないにしてるんやろう」止まったままの白い四角い糸の周辺が震えた。土に埋もれ岩の硬い闇に飲み込まれた静寂が跳ねた。婆ぁは、すでに諦めたようだ。それでもそこに至るまでの始まりから始めねばなるまい。
「あそこも同じよ。何も変わりはせぇへん。地割が変わって、賑やかな茶寮の裏のどん詰まりに皆んなで顔付き合わせとる。件の木戸から入れば、底が抜けたような閑さや。酔った客が鍵をこじ開けて入っても、「捨て家か」の一言で未練なく帰ってしまう」
「・・・・やっぱり、あの四畳半、あの離れに三人で籠もっておるんかのぉ」
「そんなにお店に戻ってみたいんか。それなら約束や。最後は必ず此処に戻ってくるんやで」
「もう、婆ぁのお使いできんけど。うちの大首絵の錦絵、持って帰られへんけど」
「あほな気ぃ使わんで、ええ。お前様のお店に帰るんやろう、ホンマモンの処に戻るんやろう。ホンマモンがおるのに錦絵を背負っとる女子は、おりゃあせん」
【お店は繭の中に籠ってはおらなんだ】
お店は、眠りに籠もる樹々に覆われ捨て家に見えていたが、木戸より先、そうした結界を一本また一本と取り除いていけば病んだ湿り気はなくなり、懐かしい清潔さに溢れた屋の姿を現した。
おとっつぁんは霞に籠もる怠惰のおひとでは、ないものなぁ。
羊歯は生えていないし菌糸は一粒も見えてこない。お店は、お店のままやった。どこに目をやっても遮るものはなく、延々と視線を運んでくれる。そう、かたちより広さが目に入る屋なのだ。幼いときまで振り返れば、屋内といわず屋外といわず、たまきとおちゃっぴーと三人、ただただ駆け抜けている記憶しかない。どこに行ってもどこを向いてもぶつかるものはなく、曲がれば必ず広い口が開いて待っていた。
がさごそ、ガサゴソ、頭が振れる。小指をかきまぜて探したら、小指の爪より小さなおちゃっぴーが、それでも小指の爪先まできれいに生え揃えた五体満足で喰っついていた。
あー、また、一緒に喰っついてきよって。今更では、どうもしようもない。婆ぁは知っとるくせに何も言わなんだのだから、そのままで良いとして、先を進む。なんにしても見知ったものが居るのは、心強い。
結界は切ったはずなのに、四畳半の離れに近づくにしたがって混み合い、がさごそガサゴソの、とうせんぼする。
女の手やなぁ、おとっつぁんのやない。美也をかむったたまきの気配が濃くなっている。
四角い離れは、丸ぁるく白く、霞か雲かの繭になっておった。建屋の四角は、表に写さなくても、中には四畳半があって、そこに三人が潜んでいるのは確かだった。ここより先、結界は中からでなければ解けはしない。美也の姿のたまきか、たまきに戻った美也か。向こうから声をかけてくれるまで、只々待つよりほかはない。此処の時をとめたひとの寄る辺に、只々すがるよりほかない。髪の中に安堵を見つけたおちゃっぴーの欠片がガサゴソいった。話さなくとも見知ったものがいるのは心強い。
さて、と云って腰を降ろす。これからが何処までになるんやろうと思ったら、真っ直ぐのままどこも折らずに座ってしまった。待つのんは、苦ではない。せやけど、時を持たない相手を待つのはしんどい。話すのは、己れに話すよりしようがない。
「かさこそ、カサコソ」の声がする。女の声だ。髪の中のおちゃっぴーやない。声は白かったが、どちらなのか誰のものなのか分からない。「結局の処、此処に来たんやなぁ」ひとりごちの禅問答が始まった。
「戻ってきたと、言っては呉れんのやな」
「そうやった。お帰りやす、お早いお戻りで」
気を遣ってくれたんやろう、声が幾分か明るく絞っている。「お店のもんを仰山に小僧に持たして、方方のお屋敷廻っておったのが、懐かしい」
「そのお齢で、もう昔ばなしかいなぁ」
「向けてきたのはそっちやないかぁ。おはようお帰り、なんて・・・・・何年ぶりに聞いたんか」
「何年ぶりなんて、大仰なこと。つい昨日までのことやないかぁ」
「昔はみんな昨日の寄せ集め、先はみんな明日の寄せ集め」
「そうそう、それだけのことや。暫く向こうにいっとって大人になったんやなぁ」
「そうやない、逆や。仔に戻ったんや」
「云いようは何でも好きなようにしたら、よろし」たまきの声の前フリは、此処でパタリと切れた。
おとっつぁんを、男の声を、呼ぼうとしたが、呼んでもこない。おちゃっぴーは髪の中で眠ってしまったらしい。頭骨を通じて寝息が聞こえる。このままだと、こっちも眠ってしまいそう。どこも折らずに座っていたのに、うとうとの在りかがやってきて、どこぞへ連れ行かれてしまうかも。あっちこっちとうごめいて、ここがどちらかはっきりしないまま、中から白い指が一本でてきた。小指、薬指、指の名前はわからない。ぐずぐず眺めていてはすぐにでも引っ込んでしまいそうで、「おちゃっぴーの欠片、もってきたよ」と、起こさない寝息の仕草のまま渡すと、指と指はくっついて中へと溶けていく。
むかし、背中におぶったおちゃっぴーがすやすやの眠りの中で己れの身体の中に落ちて、「これからは 離れることない 一緒の幸せ」と、たまきは歌った。その時と同じ邂逅に浸っているんやろうか。
おちゃっぴーが向こうへ渡ったとて、たまきとひとつのものならば、四畳半の中は相変わらずの三人のまま。
時は、しんしんと降り積もる。
中に3人でおると感じられても、おとっつぁんも赤ん坊の勘三郎も感じとれない。先っきまで髪の中にいた好で、おちゃっぴーの方に顔を向けても、「うち、欠片の身ぃやからなぁ」とつれない返事。「だから、あの時のことより先は、よう知らんのよ」
「あの時って」消えて尽きんようにと、にじり寄り鸚鵡返しで手繰り寄せる。
「桃のお節句。うちもあの中におったんよう」「あの中って、あの仰山の禿の中におったんか」「ううん、そんな中やないけど・・・・」が、か細く聞こえ、ばらばらに尽きそうなるのを「きれいやったなぁ」と寄せていったら、「ほんま、ほんま、赤ぁい灯、白ぉい灯の仰山に囲まれて綺麗やったぁ」の声は、お庭でたまきに捉まっていたおちゃっぴーを形作っていく。
「うち、どないやった」
「紅い綺麗なべべ着せてもろぉて、あたまもお人形さんみたいに結ってもろうて、お姫ぃさんみたく可愛らしかった」
尋ねんでも、はりぼてまで大きくなった頭が大きく頷く。
「綺麗やなぁ云われるのと、可愛いいなぁ云われるのとどっちが好きや」「そんなん、決まっとるやないか。可愛い言われるのが一番や。胸ん中に真っ直ぐそのまま届いてくるやろ」」「かんざちゃんのお乳みせて。もう、なんにも巻いとらんのやろ」今はもう布を巻いて身体を固める必要はない。布も肌も一緒に己れの身体となっている。両肩をすぼめるだけで、上を覆った布は腰まで落ちて、鼻よりも先に乳首が正面に立った。「まん丸で白くて可愛いお乳や。女子でも食べてしまいとうなる」
「ありがとう、おちゃっぴー」
名前を呼ぶと声は消えてしまった。見とれていた視線も段々に薄くなって消えていき、また、ひとりが残った。衣を両肩に戻すと、そうした気持ちでさらした分、少しは身体が柔らかくなっていた。通り抜けていったのは、おちゃっぴーだけでなかったようだ。
「だんな様、お久しゅう存じます」問答の声は変わっていなかったが、だんな様と使い分けているのやから、美也を相手に続けねばならない。あちらはあちらで模様替えしてるんやろうから、袖に戻ってあたふた着替えしてる姿が見えてきたので、繋がりはこちらからと構えたら、口が少し前のめりになった。「その声は美也やないかぁ。その声きくだけで、懐かしい。勘三郎は健やか、やろか。風邪なんぞ引いとりゃせん、やろなぁ」
いったん女歌舞伎のような鼻持ちならないぎこちなさで始めた以上、この幕が降りるまではその線で廻していくよりしょうがない。身体が女の柔らかさを取り戻した分、男心が故意になっている。積み上げた石のゴツゴツさが先に出ている。今までのような蔦を持ち上げれば、芋が掘り上がるようなわけにはいかない。
絶壁の辺のうえで こきりこを踊ろう
それが雲の上の天空であっても
それが鉛のつるつるであっても
その後ろにあなたがいるのなら
あなたの安らぐ寝顔があるなら
あなたの平穏が守られるのなら
宙は高くなろうとも
鉛は細く磨かれようとも
あなたがそんなことの一片たりとも知らなくても
踏み外し滑り落ちるその日まで
わたしは踊り続けていく
ホーホーホケキョ ホーホケキョ
静まった地にうぐいすの声は沁み渡るように響く。冷えてきた。あらゆるものが白く立ち上っている。うっそうの中ひとり取り残されているのが、いっそう突きつけられるときだ。実の声を零したら、澱のように重たい両粒となって、そこだけ深淵がジュッと消えた。冷たさは乳首の先より感じられる。それでも、丸い柔らかみを帯びたままツンとすました顔を隠したくはなかった。しみじみ、この身体を見てもらうのが喜びだった。結界の向こうにいる3人は、じっとまばたきもせんで見ているはずや。
声はこちらが持っていて、目は向こうが持っている。見られることを知り、欲情は他人のものとなる。
そうか、こんなにもわたしのお乳は美しかったんか。そうか、こんなにも勘三郎のお乳は美しかったんか。そうか。こんなにもかんざちゃんのお乳は美しかったんか。そうか、こんなにもあの仔のお乳は美しかったんか。そうか、こんなにもうちのお乳は美しかったんかぁ。
繰り返すことで声は小さくなろうとも、耳はうるさくなろうとも、滴らず、繋がり運ばれていく。初めからあなたに届いていたにせよ、連呼の波がぐるり一周してからあなたの求める場所にきちんと留まる。
あなたは、どっち。おとっつぁん、それとも赤ん坊の勘三郎。こうして、わたしを、女を、晒して会いに戻ってきたのを、逢いたかったのは、どっち。おとっつぁん、それとも小さな勘三郎。こうして、岸を超えて、はるばると、あせの婆ぁが引き止めるのを振りほどいて、やってきたのに。それなのに。
もぞもぞさえ、動く気配はない。
「お寂しいなら美也をお呼びください。美也は勘三郎様のたった一人の女子にございます。美也はずっと待っておりました。この離れで、四畳半で、睦み合うのを心待ちに待っておりました・・・・・そのお姿ではお寒いでしょう。早く肩を納めて、本来の凛々しいお姿にお戻りくださいまし」
ここまで来てくれるのは、化粧と髪を結い直し三指ついた美也ばかり。婚礼より先、見まえてないない気もすれば、覗く鏡の後ろにいつも張り付いていたような気もする。
わたしが会いたのはどっち。おとっつぁん、それとも勘三郎
「可哀想な勘三郎様、ひとりよがりの勘三郎様」美也の人さし指の先からおちゃっぴーが歌い始める。
「待ちぼうけの勘三郎様、裸の王さま勘三郎様」二節つづく声はお札になって、女子を晒した肌に貼りつく。
メソメソ泣きむし勘三郎 甘ったれの勘三郎 無いものねだりの勘三郎 ひとりぼっちの勘三郎
「わたしが逢いたいのは、勘三郎」
お札がさらしに戻ってお乳を元どおり隠すと、覆いかぶさっていた重たい気配は散って、何もかも慣れしたんだ顔が戻ってくる。結界は消えてた。離れも四畳半も只の建屋に成り下がっていた。耳をたてれば、そこにいるはずの人たちの声が、普段の生活の声が自然に零れてくる。それでも、それは昼餉を囲む声。赤ん坊の勘三郎はまだまだおとっつぁんの膝の中。むずかるか、喜ぶか、抑揚だけのその声を、おとっつぁんは鸚鵡返しに話し言葉に変えて、勘三郎に返す。
お椀のお麩は熱くてお口に入れられない。ハイハイ、ふーふー。お箸は、ちゃんと握らせて。その一本を、おや親、ひとさし指、なか指と三本指で押さえたら、もう一本はお手ての中を抜き通し、くすり指は添えるだけ。力こめずにカタカタと、サギのお口のはしばししたら、丸く切った小芋でも、刺さずに挟んで
「お口の中へ、パくん」
日常の声が漏れてきても、雨粒の澱は堕ちてはこないし結界が閉ざすこともなかった。それどころか、
そこに居るのは、かんざぶろう・・・・・勘三郎じゃないか。あーあー、あー、戻ってきたんだ、美也、たまき、どっちでもええから、お膳をひとつ用意して。あーあー、作りた足さんでもええから、三人の口に入るもんを少しずつ持ち寄れば、一人前の立派なお膳に仕上がるから。ほらほら、はやくはやく、この戸を開けておやり、声を掛けておやり、すぐにまた居なくなってしまわんうちに・・・・声は段々に大きゅうなる。ほんに、飛び出してきそうな勢いじゃ。
「ここまでや、ここまで。あとは戻ってくるよりしょうもないやろぉ」婆ぁの声が襟首掴んで戻しに来た。
もと来た途を同じ足跡を踏まんように戻っていく。なかで言い含められたんやろか、おちゃっぴーが元の小指ばかりのなりのまま、仲良しの小さな玩具のようにぴょーんと弾かれて髪の中に納まった。
勘三郎は、みんなが寄ってたかって仕向けた作法なぞ露知らぬ顔のまま、あせの婆ぁの開けた穴へ戻った。
あとには、しくしくも、あーあーもない。
「地ぃはそないに若いのに、何でいっつも婆ぁの格好に拵えとるん」
毎晩きまって鏡に向かい汚いなりを拵える婆ぁに、聞く。
無事帰ったあとの挨拶に成り下がったその問いかけに、婆ぁはいちいち応えてくれる。楽しそうに聞いて、いつも別の答えを返してくれる。「その方が楽やで、楽しいで」と。
ちやほやされる時分から婆ぁでおると、いつまで経っても若い女で居られるんよ。婆ぁの皮は、かむりもの。脱げばいつでも若くてつるつるの肌が、待っとる。此処におるのは皆んな、そう。一晩たって夜明け前に、薄皮浮いて剥がれたら、お日さん顔出す前に新しい顔にようけなっとる。四畳半の塗り壁にこびりついたささくれも、臥所に寝ておるお客も、お客の数だけ用意したつるつる肌も、みんな新しいもんに変わっておる。お店の誰も目を覚まさん前に、そぉーと廻り込んで、伸びっ切って足元ダラリの薄皮をちっちゃな手箒で掃き集めたら焚きつけにする。ぼぉーぼーいい音たてて燃やして、みんな気持ちよう朝風呂に入れてやるん。どんなに大勢のお客でも待たせんと、一度にザブーンの湯舟がうちの自慢や。昨夜の己れを焚き付けて、無理強いにお湯に浸かると、まだ馴染んどらん肌から白いもんが浮き立って、お湯を絹の地に染めていく。
女子は弱いもんやからなぁ。妖しに負けて、目ン玉パチクリしてる間に、溶けて無うなってしもうとるわ。生まれ変わったお客は、昨夜のことなど覚えとらん。己れの澱を食っていた古いもんは竈のしたで昇天しとるんやから。そないな先さんたちの残り湯に棒切れになった身体を浸けると、あっちこっち散らばっておったもんが帰ってきて、昨夜の朝と同んなじに戻っていくんよ。
あたまの芯も小指の先まで、すべて。
また、娘から始まる日
二十三万八千七十三日