破婚と求愛の因果関係
チャーコ様主催の「年下男子企画」の参加作品です。
鳥のさえずりも遠くで聞くぶんには心地よい。
スマホに設定したおなじみのアラームではなく、カーテンの隙間から差し込む陽射しが清瀬紅実の意識を覚醒させた。
「ン……?」
見覚えのない天井に、紅実は現実に引き戻される。
「え? ど、どこ?」
自分が眠っていたベッドから体を起こす。体になにも身に着けていない。
慌ててタオルケットで胸を覆うと、細い肩に長い黒髪がサラサラと流れる。にわかに昨日の記憶がよみがえってきた。
――昨夜、嵐に抱かれた部屋だ。
酔いつぶれるまで飲んだ居酒屋から、どうやって移動したかは覚えていない。
気づけば彼に押し倒されて――
それは、紅実の婚約者の浮気が発覚した三日後のことだった。
『独身最後の飲み会なんてどう?』
そんなLINEメッセージに応じた自分に呆れたが、紅実は飲まずにいられなかった。
幼馴染・向井嵐と待ち合わせたのは大手チェーンの居酒屋。
嵐は紅実の実家の近所に暮らす向井家の三男坊(しかも男四兄弟だ!)。
二歳年下の嵐は昔から紅実によく懐いて、お互い社会人になってからも、時々飲みに誘ってくれる気の置けない間柄だった。
「婚約解消?」
嵐は驚きすぎて、酒のつまみに注文したやきとりの串を危うく落としてしまうところだった。
彼は仕事帰りでネクタイやシャツの襟元を緩めて気楽にしているはいるが、精悍な顔つきで男前の部類に入るはずだ。
身長だって中学生のころには紅実のことを追い越して高校の三年間で一八〇センチまで伸びたという。
「どうして? 理由は?」
「彼の浮気。二股かけたうえに相手に子供がデキたんだって」
「はぁ……?」
元カレとなった副島克彦の浮気相手は同じ会社の受付嬢。ゆるふわ茶髪とつぶらな瞳が愛らしい。女性らしさをアピールすることに長けている人だった。
彼女は男性受けがいい。化粧も控えめな紅実とは真逆のタイプである。
「マジか……」
嵐が思わず発したつぶやきに、紅実は笑ってしまう。
来月には式を挙げるはずだった。
二十七年間の人生で、幸せの絶頂に立つはずだったのに……
「まいったよね~! 手近で済ませるにしても限度があるよね!」
紅実が婚約した副島克彦は、同じ会社の営業マン。ルックス抜群で営業成績も良い。最初は美人でもない自分にどうして彼がアプローチしてきたのか不思議だった。
今になって思い返せばという推論はできる。彼は紅実の容姿ではなく、堅実で男性に尽くす内面性に目をつけたのだろう。
事情を聞くと、総務で働く紅実と受付嬢を天秤にかけていたことになる。
――式場のキャンセル、招待状を送った人にだって連絡しなきゃいけない……どうして私がこんな目に遭うの?
「結婚前から浮気なんて……」
そもそも、どちらが浮気だったのだろう?
なぜこんな事態になるまで気づけなかったのか悔やまれる。
「男を見る目がなかったんだね…それとも、私が女として魅力がなかったのかな?」
自虐的な笑みが紅実の口許を彩る。
「相手がとんでもないバカ野郎ってだけだ。紅実ネェが自分を責めることはない」
嵐は年下でも紅実の愚痴を聞いてくれるほど心が広い。
だから紅実は、惨めな自分を忘れたくて甘えてしまったのかもしれない。
数時間後、自分の身に降りかかるできごとなど予想もできずに――。
* * * * *
普段飲まないのにやけ酒を呷ったせいで、紅実は居酒屋を出るときには酩酊状態にあった。
休める場所に移動できたのは、紅実よりも酒を控えていた嵐のおかげだろう。
だが、気づけば見知らぬ場所で彼に押し倒されていた。
「俺、こんな紅実ネェの姿見てらんないよ……」
熱っぽいまなざしを受けて、ただ流されるまま……紅実は嵐に身を委ねてしまったのだ。
「好きだよ、紅実ネェ――」
嵐が耳元でそっと囁いた台詞を辛うじて覚えている。
彼の素肌から感じるぬくもりが心地よくて、なのに物悲しくて涙が零れた。
「浮気男なんか、俺が忘れさせてやるから……っ」
可能な限り昨日のことを思い出すと紅実の顔から……いや、全身から血の気がひいた。
――私、嵐と……!
「あ、紅実ネェ起きたんだ」
濡れた髪をタオルで拭きながらスウェット姿の嵐が部屋に入ってきた。
「嵐! こ、ここは……?」
「俺の部屋。紅実ネェ、酔っぱらって家には帰りたくないって店で騒いじゃってさ。俺のアパートに一時避難してもらった」
大変だったんだぞ、と嵐から非難するような目で睨まれる。就職後に親元を離れてアパート暮らしなのは知っていたが、部屋に入ったのははじめてだった。
やっと手に入れた自分だけの城、と以前嬉しそうに話してくれたのだ。
「ゴメン! あ、あのさ、昨夜のことだけど……」
「覚えてないの? あんなに盛り上がったのに」
意味深な嵐の笑みに、紅実の全身から嫌な汗が噴き出す。
たしかに、彼と肌を合わせたことは覚えている。意識が朦朧していたのに、体の感覚は鋭敏だった。
ベッドに腰を下ろした嵐が、紅実の耳に唇をよせて囁く。
「昨夜の紅実ネェ、凄く可愛かった」
扇情的でどこか思惑を感じさせる声に、紅実は慌てて嵐から身を引いた。
困ったことになった、と頭のなかで危険信号が灯る。
「昨夜は、私にも非があったけど……嵐とは、こんな風になりたくなかったの……ゴメン」
二度目の謝罪には深々と頭を下げた。
顔を上げると、嵐はショックを受けているようだった。明らかに動揺している。
「なんで? 俺、紅実ネェに嫌われることした?」
「そういうことじゃなくて……」
恋人の浮気によって破婚したにしても、状況も落ちつかないうちに他の男性と関係をもってしまったことが問題なのだ。
しかも身近な人間と。
「昨夜、好きって言ったのは俺の本心だからな」
嵐を見上げると、照れ臭かったのか彼の顔が赤い。
「どうして、そんな……急にどうしたの?」
「急なんかじゃない。俺はずっと紅実ネェが好きだった。相手にしなかったのはそっちだろ?」
高校に入ってはじめて彼氏ができたときに、中学生の嵐に言われたことがある。
『あんなヤツより俺のほうが、紅実ネェのこと大事にするよ!』
紅実は笑って受け流したが嵐は本気だったようだ。
「結婚するっていうから諦めるつもりでいたけど、婚約解消のこと聞いて、これでやっと俺にもチャンスがきたと思った」
情熱的なのに、縋るような目で嵐は紅実を見つめた。
「俺のこと、今度こそ男として見てよ」
彼の真剣なまなざしに、紅実は目を逸らしてしまう。動悸が止まらない。
「なにが不服なの? 俺じゃダメな理由ってなに?」
「それは……」
――私、婚約解消したとはいえ、こないだまで結婚したいって思う人がいたのに……
嵐に不満があるわけじゃない。問題は自分だ。
「嵐に不満なんてない。不満があるのは私自身なの」
「なんだよソレ、どういう意味?」
きちんと説明しなければ嵐は納得してくれないだろう。
「結婚はダメになったけど、色々片付けなきゃいけないこともあるし……気持ち、まだ切り替えられないと思う。また夢中になるほど人を好きになる自信がないの」
半分くらいはまちがっていない。
「そんな中途半端な気持ちで、嵐とこんな風になったのは申し訳ないと思ってる。でも、今はそれ以上の言葉はなにも言えない」
「切り替えなんて必要ないだろ! 俺とつきあってるうちに、浮気男のこと忘れればいいじゃんか!」
「……私は、嵐を現実逃避の道具にしたくない」
紅実の言葉に嵐が一瞬怯んだ。
傷ついたから、立ち直りたいから新しい恋に踏み出す。それも自己再生の手段かもしれない。だが、剥き出しの傷口を別の誰かに舐めてもらうようで紅実は嵐の好意を受け入れられない。
「ごめんね……」
それしか言えず、胸が痛んだ。
* * * * *
曇り空が、今の紅実の心境にぴったりだった。
結婚が破談になってから二週間が経とうとしている。
嵐とは彼のアパートで別れて以来会っていない。彼からの連絡がないことに落胆している自分にも呆れた。自分で拒絶しておいてなにを期待しているのだろう。
その間も婚約者である克彦の裏切りとは別に、事態を収拾するため紅実の心は疲弊していた。
披露宴の招待状を送った相手に事情を説明し謝罪してまわるだけで苦痛を強いられた。
「気にしないで」「またいい出会いがあるよ」と励ます人間ほど、好奇と嘲りの目で自分を見ていることがわかって、よけいに傷ついた。
せめてもの救いは、ことなかれ主義の父親が知り合いの弁護士に紅実の一件を相談してくれたことだ。
「男の一方的な理由で婚約を解消するんだから訴えても罰は当たらない」
父親も紅実に対する克彦の仕打ちが許せなかったのだろう。
弁護士にかけあってもらい、結婚の準備に費やした経費、式場のキャンセル料など克彦が全面的に負担することになった。さもないと克彦と受付嬢ふたりに慰謝料を請求するという父親の意志を最初に伝えたらしく、克彦は渋々了承したようだ。
社内での視線は気になるものの、紅実は会社を休まなかった。克彦が平気で出社しているのに、自分だけが肩身の狭い思いをすることは納得できなかったからだ。
だが、妙な視線を感じるようになって同じ課の信頼できる同僚・相原真紀に相談してみた。
「それって例の松田さんでしょ。ときどきアンタのこと睨んでるもん」
「えっ、なんで?」
松田というのは、克彦の浮気相手である受付嬢の名前だ。
「どうして松田さんが私のこと睨んでくるんだろ?」
「副島さんがなにか吹き込んでるのかもね。営業マンは口が上手いから」
婚約者を寝取った相手を恨んでつけまわすのなら、立場が逆というものだ。
本来なら紅実のほうが松田を恨んでもおかしくないのだが、克彦を他の女性に渡したくないという執着もなく呆然と悲嘆に暮れるのみ。
――それほど好きじゃなかったのかしら。
自分の感情と向き合えるのは冷静である証拠だろう。嵐に愚痴を聞いてもらったおかげもしれない。
そんな優しい嵐を傷つけてしまったことのほうが気になっている。
「松田さんって最近目つき怖いし、紅実! アンタ本当に気をつけなさい!」
「そんな大袈裟な……」
だが、友人の忠告は大袈裟ではなかったと紅実は身をもって思い知ることになった。
夕方には空に垂れこめた雲がさらに黒くなってきた。いかにも雨が降りそうな雲だ。総務課の窓から空模様を窺い、また天気が荒れるかもしれないと紅実は定時に退社することにした。
――嵐に、謝ったほうがいいのかな……
鞄からスマホを取り出してみたものの、思い直してまたしまう。
「紅実!」
会社を出たところで、聞き覚えのある声が紅実の名前を呼んだ。
あたたかい家庭を作りたいと、人生のパートナーとして選んだはずの男性……副島克彦、その人だった。
「ちょっといいか? 話したいことがあるんだ」
「私はもう話すことはないわ。必要ならば弁護士さんと話してちょうだい」
父親から結婚や婚約解消についての話は当人同士でしないように言われている。紅実自身、これ以上煩わしい話はしたくなかった。
「そうじゃない。ただ、ちゃんと紅実に謝りたかったんだ。でも、電話にも出てくれないし、会社で会えば人目につくし……」
自業自得とはいえ、彼にも誠意を表す機会は必要かもしれない。
他の社員の目を避けて、近くの公園まで移動した。
「じつは、可奈子の妊娠は嘘だったんだ」
「は?」
開口一番、克彦が語りはじめたのは松田……松田加奈子とのトラブルだった。松田は克彦と別れたくない一心から妊娠したと嘘をついて紅実との結婚を妨害したという。
「あんなに聞き分けの悪い女だとは思わなかったんだ」
「それ、あなたと彼女の問題だから私に話さなくてもいいんだけど」
謝罪の機会をほしいと言われたのにゴメンのひとこともなく、彼は終始弁解に走っている。だが、紅実との婚約中に松田と関係していた事実に変わりはない。
裏切ったのはまちがいなく彼だ。
「俺が言いたいのは……本当は紅実とやり直したいんだ」
紅実は開いた口が塞がらなかった。疑惑の目で克彦を睨んだ。自分がどれだけ非常識なこと言っているかわかっているのだろうか。
「な、なに勝手なこと言ってるの!」
克彦への想いを断ち切れない松田を追いつめておいて、紅実には復縁を迫る腹積もりらしい。
――どうして、こんなひとを好きになったんだろう?
百年の恋も冷めたてしまった……あくまで例えだが。そんな男に甘い言葉を囁かれて舞い上がっていた自分こそどうかしていたのだ。
同時に腹が立って、衝動的に克彦の頬を平手打ちした。
「会社の人たちにも私ひとりで頭を下げてきたのよ? 営業で外回りなんて言って都合の悪いことからは逃げてまわってたくせに……いい加減にして!」
こんな男に振りまわされるのはまっぴらだ。
時間の無駄だと踵を返す。だが、視界に気になる人物の姿を捉え、紅実は足を止めた。
「松田さん?」
顔を強張らせた松田が紅実と、後ろにいた克彦まで睨みつけていた。彼女の血走った目が、尋常でない気配を伝えてくる。
「アンタのせいよ! アンタが慰謝料なんて要求するから、あたしは克彦に結婚してもらえないのよ!」
「慰謝料……?」
克彦の請求したのは今までの結婚準備にかけた費用だけで、よけいな金銭は要求していない。
「どういうこと?」
克彦に視線を戻すと、明らかに動揺しており紅実から目を逸らした。
「もう二度と克彦には近寄らせない。彼はあたしだけのものよ!」
松田が自分の鞄から包丁で紅実に切りつけてきた。殺意を感じて紅実は後ずさりする。
「松田さん、落ち着いて……誤解よ!」
声が震え、上手く言葉が出てこない。
両手で包丁を握り直した松田が突進してくる。
「やめて!」
持っていた鞄で攻撃を防ぐが、松田の体当たりで紅実は転倒してしまった。華奢な体は勢いよく地面に転がる。
「死ね! この世から消えちまえ!」
紅実に馬乗りになった松田が包丁を振りかざした。
――殺される!
「やめろ!」
「なによ、アンタ? 放せバカ!」
男が叫んだ直後、松田の怒号が飛んだ。
圧し掛かってきた松田の重みから解放された紅実は慌てて起き上がる。
「嵐!」
視界に飛び込んできたのは、嵐が松田ともみ合っている光景だった。
――どうして嵐がここにいるの?
紅実が混乱している間に、嵐が松田の手から包丁をもぎ取る。
「どうした! ケンカか?」
近くにいた通行人が事態に気づいて駆けつけてきた。
「アンタのせいよ! 全部アンタが悪いのよ……うぅ……っ」
松田は地面に突っ伏して号泣する。
「包丁に血がついてるぞ! ケガ人がいるんじゃないか?」
「え……」
駆けつけたサラリーマン風の男性の指摘に、紅実は足元に注意を注ぐ。
松田の手から奪い取った包丁の刃にべったりと血が付着している。
「……たしかに、ちょっと痛いかも――」
嵐が腹部を抑えて頽れた。
「嵐! ケガしたの?」
彼のグレーのスーツに腹部だけ濃いシミが広がっている。
「避けきれなかったみたいだ……カッコ悪ぃー……」
「なに言ってんのよ! 喋っちゃダメ!」
周囲の野次馬が、警察だの、救急車だのと言っている。
「結構痛え……」
みるみるうちに血の気が引いていく嵐の顔に、紅実の目から涙が溢れだした。
「なんでこんなバカなことしたの!」
「命より大事だからに決まってるじゃん」
青白い顔で笑みを浮かべる嵐に躊躇いはなかった。
「紅実……俺、好きな女を体張って守れるくらい男なんだよ。わかってもらえた?」
息が止まりそうだった。彼はそこまでして自分への想いを貫こうとしていたのだ。
「……うん、わかった。わかったから――」
遠くで救急車のサイレンが聞こえる。
「やべ……なんか、ぼーっとしてきた」
苦しげに呼吸を繰り返す嵐は目を伏せた。
「嵐、しっかりして! 目ぇ瞑っちゃダメ!」
人だかりのなか、紅実は嵐の名前を呼んだ。
何度も、何度も。
* * * * *
壁に貼られたカレンダーを見て紅実は気づいた。
今日が結婚披露宴の日だったことを。正確には予定していた日、なのだが。
「紅実、どうしたの?」
壁に寄りかかって座っていた嵐が不思議そうに紅実を見ている。
「思ったより早く退院できてよかったなぁって思ったの」
嵐は搬送された病院で緊急手術を受けた。
傷が内臓に達していなかったので最悪の事態は回避できた。医師からはひと月くらいの入院と言われていたが、実際は一週間も早く退院許可が下りて、早すぎやしないかと身内が心配したほどだ。
三週間の入院を経て、嵐は自分のアパートに帰還したのである。傷口は塞がっているが、しばらくは無理をしないように医師からきつく釘を刺されていた。
今度の騒動でふたりの両親は含みをもった言い方で紅実に嵐の世話をするように勧めてきたのである。
よくも悪くも両家公認の関係になってしまったらしい。
そして嵐が入院している間に、騒動の全貌が明らかになった。
やはり原因は克彦だった。
紅実との婚約解消後に結婚を迫ってきた松田に対して、「慰謝料を払わなければならないから結婚は経済的に無理だ」と拒絶し、彼女の怒りの矛先は紅実に向けられたのだ。
松田は妊娠していなかったが、克彦との家庭に憧れていたのは事実である。彼女は嵐に対する傷害の容疑で逮捕され、警察では取り調べに素直に応じているという。
克彦は、目の前で刃傷沙汰が起こったにも関わらずひとりその場から逃走してしまった。 後から警察に事情を聞かれたが、自己保身のために言い訳を並べ立てたらしい。彼を庇うものはもう誰一人いなかった。
しかも、取引先に今回のことが知られて、異例の速さで地方の子会社に異動を命じられたのだ。事実上の左遷である。会社側は解雇するより自分から辞めてくれることを期待しているらしい。
紅実を傷つけ、松田の支払った犠牲を考えたら同情する余地はなかった。
彼の身勝手な言動によって嵐まで巻き込んでしまったのだから。
「ごめんね、嵐……」
「紅実は俺に謝ってばかりだな。俺はそんなこと望んでないよ」
姿勢を変えようと上体をわずかに屈めただけで嵐は顔を顰めた。
「まだ痛むの?」
「痛いというか、皮が突っ張るのが気持ち悪いだけだよ。無理しないようにするから、紅実がこっちにきて」
言われるままに彼の隣りに座る。
それだけで嵐は満足そうに微笑んでくれるので、逆に紅実のほうが照れ臭い。
「名前……なんで呼び方変えたの?」
松田から助けてくれたあの日以来、嵐は紅実のことを「紅実ネェ」と呼ばなくなった。
「紅実ネェって呼ぶと、俺のこと弟感覚で見るのかなと思って……嫌だった?」
たしかに「紅実ネェ」と呼ばれると姉、悪くすれば保護者意識が強くなっていた気がする。それに、呼び捨てにされているだけなのに、どこか新鮮でドキドキしている自分がいるのだ。
「嫌じゃなくて……嬉しいかも」
紅実の答えを聞いて、嵐はくちびるを寄せてくる。
「ちょっ、無理しないって言ったくせに!」
「ちゃんと捕まえてないと、紅実が逃げるだろ?」
抗議しても嵐は紅実の体を抱きしめてくる。彼の体に障ると思い本気で抵抗できない。
ケガ人とは思えないほど力強い抱擁で、彼の回復が肌で感じられるから紅実は心から安堵した。
「逃げないよ。嵐がいなくなったら私が困るもの」
嵐の手術中、ずっと考えていた。
もし、彼が紅実のまえから永遠に消えてしまったら……と。
自分が刃物を向けられたときよりも、恐怖で体が震え出した。今でも思い出すと怖くてたまらない。
「私、いつも嵐がそばにいてくれるって甘えてた」
――幼馴染って関係に依存していたのは私のほうだったんだ。
兄弟のような関係のほうが強い絆で結ばれていると思い込んでいた。
「嵐がいなくなるとか、他の誰かのものになるなんて考えられなかった。わ、私……っ」
泣きそうな紅実の背中を嵐が優しく撫でてくれる。
「俺はいなくならないよ。ケガ治して、もっと働いて貯金もするから……」
「?」
嵐を見上げると顔どころか耳まで真っ赤だ。
「今は男として見てくれればいい。経済的に安定したら、俺からプロポーズさせてよ」
紅実は言葉に詰まってしまう。
驚きのあとに、嬉しいという気持ちを素直に感じられた。
結婚話もダメになって、二度と男に振りまわされるものかと思っていたのに、また胸をときめかせることになろうとは。
「返事は?」
「いいけど……でも、なるべく急いでね。お局とか言われるまえに」
はにかみながら紅実が答えると、嵐は小さくガッツポーズを決めた。
「わかった……やった! 予約成立!」
「予約って……他に言い方ないの?」
ぼやきながらも、子供のようにはしゃぐ嵐の姿に、紅実は幸せを噛みしめる。
「私、嵐が好きだよ……」
照れを含んだ紅実の声に、嵐は目を見開いた。
失うかもしれないという状況になってはじめて自分の気持ちに気づいた。
われながら鈍すぎると紅実は反省している。
「やっと言った……遅いよ、それ」
嬉しいくせに怒ったように見える嵐に、紅実は申し訳なくなる。だが、彼の言葉はまるで紅実の本心をはじめから知っていたような口ぶりだから不思議だ。
――不思議と言えば。
「思い出した! 会社帰りに尾行するのはやめてよね! いつから私のあとつけてたの?」
紅実がふと気にかかっていたことを持ち出した。
嵐が紅実や克彦たちともめている現場に居合わせたのかがずっと引っかかっていただ。
「ばれてたか……紅実を抱いた夜の翌週から毎日会社の近くで待ち伏せてた」
――十日近くも……どうりでタイミングよく助けに入ってきたわけだ。でも、それってストーキングじゃないの?
「紅実の気持ちの整理がつくまで待つって伝えるつもりだったけど、いざ紅実が会社から出てくると声をかけられなくて……こうやって紅実と一緒にいられるようになったのはケガの功名ってやつだな」
「功名じゃないよ! 下手したら死んでいたんだよ?」
嵐があの日、あの場所で助けに入ってくれなかったら、紅実は本当に殺されていただろう。
――絶対になくしたくない。
「私が結婚相手に求める条件は、一緒に長生きしてくれることなんだから」
そのひとことで、機嫌をよくした嵐は「わかった」と素直に頷いた。次いで紅実に優しいキスを施す。
「俺がゲス男よりも何十倍、何百倍も紅実を幸せにする」
「……期待してます」
名前に似合わぬ柔和な笑みを浮かべた嵐を、紅実は抱きしめた。
もう、大事なものを見失わないように。
終