第9話:本
本を読んでいる。
ただ、そこには何ら文字はなく、もちろん絵も図形も写真も何もない。果てしなく何もないような紙の質感が、ほんのりぼやけた白の光りを春日に含ませているだけだった。
だが確かにこの人物は、本を読んでいるのだ。
どことなく懐かしい本の匂いがする。
チラチラと埃はゆったりと舞っていて……
日の光りがそれらを、雪の結晶のように優しく照らし出していた。
ゆっくり流れる時間。
本を読むその人物は20年もの歳月をこうして一歩も動かず過ごしているが、それでも永遠を証明するには遥かに時間が足りなかった。
大したことではない、と思っている。
しかし、長い。……永い。
いくら毎日こうして固まったままでいようとも、なにもしないでただそこにいるだけというのも案外面倒臭いことではあるし、かなり気長な性格であるにしてももう随分前からこの状態は苦しかった。
20年……まだたったの20年だ。10倍の200年こうしていても、たかが200年。100倍の2千年でも1000倍の2万年でも、たかが2万年だ。まだまだ先を証明しなくてはならない。
進むよりも引き返して戻る方がよっぽど簡単なことのように思えた。
だがしかし、ただこうして時を待つだけなのだ、大したことではない。大したことではあるまい。なにもしないでいいのだから簡単なことなのだろう。大それた実験ではない。ただゆっくりとじっくりと証明するだけなのだから。小さなこととそんなに変わらないはずだ、一つの疑問に一つの答えを探すだけなのだから。
予測と事実が同じであると立証するだけでよい。もしくは、予測と事実は異なると立証するだけでよいのだから。しかし、なかなかにその答えに辿り着けそうになかった。
辿り着いたときにはまた新しい宇宙のようなものや空間や時空や生命や物質や感情や精神や魂や抜け殻や祈りや何やらが生まれているのかもしれないし、ほんとうに何も無いのかもしれないし、無いというものが在るのかをどうやって計測するのかもよくは分からない。
楽しいのかは分からないが動けないでいるのにも関わらず思考が止まっていないのにはいつも驚きと嬉しさと戸惑いがある。
もしかしたら一秒も経過してないのではないか、そう思うこともある。
腐敗はとうの昔に止まり、皮膚は筋肉に張り付き、筋肉は干からびて骨に張り付き、内臓はたぶんもう燻製されて醗酵されて分解されて朽ち果てて砂のような石のような金属のようなものになっているのかもしれない。
最近思うのは、この実験が終わったら何を食べようかということだった。
オムライスが食べたいと思う。
あ、そうだ、あの子は元気にやっているだろうか。
もう少し大きくなったら可愛い洋服をプレゼントするという自分の中の約束はまだ果たされないままだ。
水分はもうとっくに身体から消え失せ、喉の渇きすら懐かしい。
背中を掻きたいと思っていた時代もあったが、今は未来のことを考えようとしている。
これからどうしようか、と。
なんだか楽しみである。
先ずは買い物に行きたい。
そのあとは翼を手に入れて、森を抜けるのだ。
エメラルドかサファイアをいつか買いたい。エメラルドの中を覗くとどんな景色が広がっているのか、見てみたい。
蛇行する川に沿って歩くとどこに辿り着けるのか知りたい。
ゆらゆらと幽霊みたいに塔の中を徨ってみたい。
ああそうだ…それがいい。
アイスクリームを片手に、いやソフトクリームがいいなあ!あの牛乳のような真っ白くて濃厚な甘くてとろけそうな!
本を読むこの人物は本を取り落としそうになっていた。
ああ、いかんいかん、すっかり日が暮れて、夜のような暗闇が辺りを包んでいる。
いかんいかん、とはなんとも老人のような言い方になってしまった。まあでも若くもないか…いやまだまだ若いはずだ。
窓や窓枠の細い木や古びた机や椅子や低い棚や高い棚や分厚い石の壁があったはずなのだが、もう気付くとそれらはすっかり夜の林に呑み込まれていた。
はて、なんだったかな。
いや、いかんいかん、まだソフトクリームもエメラルドも翼もオムライスも手にしていないではないか!
よし、もう少しだ、すくなくともソフトクリームだけは早い内に食べておきたい。いや、洋服を送るのが先か?いや、まてよ、先ずはこの足元の草木に絡まる蔦を掃い退けることからだ!うーん、そうだ、それよりも先にこの樹木のような体に小鳥の棲める穴を作ろう。うんうん、それがいい。もしかしたら先に翼が手に入るかもしれない。やや!しかし、天空に生い茂る葉の碧はエメラルドにも似た綺麗な色合いではないか!?おお、そうだ、そしたら遥かオヘソの辺りから出っ張り出した枝の先に成る青い果実はさながらサファイアのような美しさではあるまいか!
おお、なんと、いま思い出したのだが、本を読んでいる途中であった!
本は今、いずこに?
本は……
いま、
何処に…………。