第8話:珈琲
珈琲を飲んでいる。美味しい。
苦みと酸味が絶妙に混じりあって、舌と口の中いっぱいに複雑な味わいが広がる。
鼻孔を煎った豆の薫りが心地好く貫ける。
あとにのこるおいしさだ。
これは感覚の話しだ。
もしかしたら人によって少しずつ微妙に違うのかもしれない。
同じ珈琲を飲んだとしても。
好みの問題かもしれないし、気分や体調の話かもしれない。
ともすれば知識や経験の差で変わるものかもしれない。
もしもっと詳しい知識やもっともっと様々な種類・銘柄・豆の現在地・焙煎の仕方・器や温度・飲み方など、いろんな珈琲を知っているならばどうだろう……もしかするとまた違った感想になるのかもしれなかった。
味の好みにしても、普段の食事はどちらかと言えば薄味を好む。
でも珈琲は昔から濃い方が好きだ。
素材の味、だからかもしれない……珈琲は豆だから……なのかもしれない。
しょっぱいわけではないし、それ自体が甘過ぎるわけでもない。
そういえば普段はブラックだ。
ミルクや砂糖を加えなくとも、いい具合の甘味は感じる気がする。
全く甘くないわけじゃない、気がする。
酸味と言っても仄かなものだし、レモンのように酸っぱくて口をすぼめるほどでもない。
苦みについても、珈琲ならではの魅力が詰まっているように感じる。
つまりは自分がただの珈琲好きなのかもしれないと、少し笑った。
これが苦笑いなのかもしれない。
あと、深みについてだけど、これはもうほんとうに感覚的なものかもしれない。
どうやら味の感覚の要素の一つに、「深み」というものがあるらしいのだが……
これは味が濃いから深みなのか、味のバランスの問題なのか、他の何かしらの仕組みがあるのか、基準はどうやって計るものなのか……よくは分からなかった。
しかし、なにやら存在する感じがする。
抽出する豆と水の量の比率によるものなのか、豆や水自体の質によるものなのか、なんなのか……
濃さも重要だと思うけれども、結局おいしいと感じる状態はバランスなのかもしれない。
どこまでも濃ければいいというわけでもなく、濃すぎる場合はちょっと口をつけただけで薄めたくなる。
ごくごく飲むというわけにはいかなかった。
薄すぎるとなんだか気持ちの悪いお湯を飲んでいる気分で、流しに棄てたくなった。
温度も大切な要素の一つだと考える。
抽出する温度(作るときの温度)も大切だし、口にするときの温度によっても感じ方は変わってくる。
熱いときも美味しいし、温かいくらいも美味しい。
ぬるくなったり、冷めてきてもそれはそれで好きだった。
カップによっても微妙に違う気がする。
大きいもの小さいもの。
縁が薄いもの分厚いもの。
底が深いもの浅いもの。
広いも狭いもの。
形。
もしかすると色によっても感じ方が多少異なるのではないかと思う。
雰囲気も大切かもしれない。
お店なのか家なのか、ビル街の隙間のカフェなのか、野原のピクニックの昼下がりのカラフルなビニールシートの上なのか。
湖畔が見渡せる木の造りを感じさせるロッジのテラスなのか、雨のしとしと降る夜の学校の食堂なのか。
天気や気候によっても違うのかもしれない。
時間帯によっても。
誰と一緒なのかによっても。
なんの話をしているのか、どういう気分なのか、明日には何が予定されていて、一ヶ月後には何が待っているのか。
さっきから何が迫って来ているのか、自由はあるのか。
残された時間はどれくらいあるのか、目の前の人の人生は今どの辺りを旅しているのか、自分自身の寿命や未来はほんとうにまだこれから先にまでずっと続いているのだろうか、過去とは何か、どうして過去から現在にやって来たのか、どうやって歩いてきたのか、どうやって今まで生きてきたのか、どうやってこれから先を生きるのか、どうやって時間と空間を繋いできたのか、渡ってきたのか、どうやって生きることを感じてきたのか、どうやって生きてることを証明するのか、どうやって全てを知るのか、どうやって珈琲のおいしさをキミに伝えるのか、どうやってキミとこうしていられるのだろうか、どうやって永遠を手に入れるのだろうか、どうやったらキミが永遠になるのだろうか、どうやって永遠を確認するのだろうか、どうやって永遠だと知ることができるのだろうか、ほんとうに永遠は存在するのだろうか、ほんとうに僕は永遠という枠組みからはみだしてしまうのだろうか。
いつか、だれかが知るのだろうか。
いつか、永遠とは無いものだと誰かが証明してくれるのだろうか。
珈琲は美味しい。
濃いめの、バランスの良い珈琲が、僕は好みだ。薫り豊かな味わい深い珈琲が好きだ。
ところで、今日は何曜日だろう……なぜかキミの顔を見て、ひとくち飲んだ珈琲は味がしなかった。