第7話:館の主
勇者は勇敢であるから勇者なのだろうか、それとも勇者であるから勇敢なのであろうか。まあどちらにしても勇敢なことはうらやましい…と魔法使いは思った。
魔法使いはそれまで姑息に生きて来た。盗賊だったころの生き方が身にしみていたが、とある魔法使いに拾われて以来、少しずつ魔法使いとしての自覚を持って行動や思考をしているつもりだった。しかし、やはり、なかなか直ぐに性格を変えることは難しかった。性質を変えることは難しかった。小さな頃より人様の物を盗んで生きて来たために、自分の得たもの…身の回りの所有物に、つい目を配り、盗まれてはいないか失くなってはいないか度々確かめてしまうのだ。魔法使いに成れたのは、ものすごくラッキーなことであった。それは今でも亡き主人に感謝している。あの日、たまたま忍び込んだ屋敷で下手をやらかした。大きな失敗はあの時が初めてだった。ヤバいことはたくさんしてきたが、人を殺したのは初めてだった。毒殺でもなく突き落とすでもなく、刺してしまった。しかも何度も、ぐさぐさと。
何かに取り憑かれてしまったように。
だから刺すときよりもナイフを抜くときの方が大変だった。
今を一所懸命生きたいと思った。でも、それは勇者の勇敢さではなく、研究を深く続けることで何かしらの成果を上げる方法が善いとされた。魔法使いだからである。
魔法使いになれたのはラッキーだった。館の主人はこう言った、『キミ、キミはなぜ生きているんだい?』と、それからこう続けた…『私は魔法使いだ。キミにはここの主となって私の代わりに魔法使いを続けてほしい』と。何を言っているのか、まったく分からなかった。憎むでもなく、叫ぶでもなく、苦しむでもなく、非難でもなく、怒りでもなく、悲しみでもなく、落胆でもなく、恐怖でもなく、いっそ穏やかな口調で…その館の主人はそう言った。何も言えなかった。薄暗い部屋で、高価な調度品に囲まれた大きめの部屋で、暖炉やマントルピースや小さめのシャンデリアや豪華な絨毯のある部屋で、周りに集まり息を殺している使用人や家族たちは主人の言うことを一心に聴き入れていた。何も、質問さえできなかった。よく分からなかった。この状況も、ここの空気も、この時間も、館の主人がこれから発する言葉も、その約束も。その意味も。
「永遠を証明してほしい」
グサグサと刺された身体を横たわらせて、無防備に死にゆく身体はどす黒い血を流し続け痙攣している。口から吐き出された鮮血が、馬乗りになった少年の顔面に飛んでくる。使用人や家族たちは何かを悟ったようだった。一瞬にして主人の言わんとすることを理解していたようだった。誰一人、悲鳴の一つも叫ばない、逃げもしないし、去ろうともしない。少年に浴びせる非難の言葉も、少しの行動も、その雰囲気さえ無い。苦渋の一つも漏らさない、疑問の一つも見当たらない、吐息すら呼吸すら少年には感じられなかった。ただそこにあるのは、主人の死を見守っているという雰囲気だけ。皆が何故かどこかの何かを納得している様子だった。
勇者の勇敢さは太陽のようであった。強烈に光り輝くがゆえ、魔法使いには直視できない。魔法使いになって40年が経つが、研究は続いている。
使用人は古い者からこの世を去り、新たな者も順に加わったりした。元々の館の主人の家族は、あれから本当に一言の文句も不満もなく普通に食事を共にしている。毒を盛られるでもなく、寝首を掻かれるわけでもなく、日々の生活は平穏極まりなかった。長女は結婚し嫁いだが、次女はこの館で誰の子か分からない子を産んだ。魔法使いの研究がどんなものなのかいまいち分からなかったが、元々の主人の研究室や書斎の文献を片っ端から読み漁り、意図を掴もうと奮闘した。日記も時折つけていたみたいだし、メモもたくさん遺っていたのでそれも参考にした。研究は進みつつあったが、魔法は未だに使えた試しがなかった。研究者ではなく、なぜ魔法使いなのかは未だによく分からない。元々の館の主人がなぜあの時、魔法使いと自らを名乗ったのか、それは今でも謎であった。ただ、研究している内容が魔法の類なのかもしれない、そう思うことはあった。この研究はどこを目指しているのか、それはなんとなく肌で感じている。この研究の先に何があるのか、それは今のところ空想の範囲を超えない。理想は捨てなければならない。理想に近づけようとしてはならない。研究は、結果を理想に近づけようとしてはならない。そんな気がするのだが…なぜか遠ざけようとしてもなかなか遠ざかってはくれなかった。結果の範囲を、自分の想像できうる範囲に狭めてはならない。結果有きで物事を捉えてはいけない。なんとなくそんな気がした。研究は…この研究はもしかすると、代々脈々と続いていて…あの日のあの出来事さえも研究の、実験の一つと言えるような気がした。そんな折り、遠くで雷鳴のする午後、曇り空の日、軽い食事の後、二階の書斎から窓の外を眺め、林の隙間の薄い太陽の陽射し、少し肌寒い日、枯れた黄色、短くベルが鳴り、使用人は緩慢な動きで品やかに古い館の扉を内側から開け、届いた荷物を受け取った。
今ならわかる……あのとき館の主は、つまり今の自分は試したのだ。魔術で盗賊を操り、己の肉体と引き換えに魂を共有しようと試みた。
そういうことなのだろう。