第6話:その景色の行方
この街にはもう来れないだろうと思った。
思ったのか、意識したのか、感じ取ったのか、それに似た何かなのかは正確に知ることはできなかったが、そんな風な気持ちだった。
この街にはもう二度と辿り着けないだろうな。まあ、言ってしまえばどの街もどの山もどの景色ももう一度来ることは極めて難しいだろうな…と思った。どこからどこまでが体で、どこからどこまでが「一つ」なのかは分からなかった。水分と気体の集合体である。固体ではないような気がする。
それでもこの雲は何らかの意識を持っていた。
遠くの空の向こうから空気に乗ってやってきた。最初に比べたら、体の大きさは100分の1くらいになっている。生まれた海に帰るつもりはなかったが、なんとなく恋しい気分である。懐かしく想いを馳せるときだってある。しかし、どうやら空気の流れは進む方向がある程度決められているようだった。自分勝手に戻ることはできなかった。そしてなにやら広い草原を泳いでいるときに、下の方から何人かの人を乗せた色鮮やかな風船が近づいてきた。熱気球というものであるらしい。
人々は目を大きく開き、地上の風景に驚きと感動をあらわにしていた。
楽しそうだ。
笑ったり歌ったりしている。
私はなにか光りの輝きのようなキラキラしたたくさんの粒を感じた。
バチッというような音を聞いた気がする。
人々と私は接近し、やがて少しだけひんやりとした空気になる。人の肌を触れた。そして世界は溶け込んで合わさって掻き混ぜられて静まり返った。一瞬の出来事だったが、たしかに何かが変わった。だが何も変わらなかった。人々はゆっくりと空を旅してゆく。だんだんと高度を落としてゆく。他にもいくつかの熱気球が浮かんでいた。遠くの山肌が太陽の傾きによって、深い緑の影を大地に大きく映して出している。羊の群れが小さく見える。鳶だか鷹だかわからないが、大空を旋回する翼を気持ち良く伸ばしていた。森や川が見える。村がありテントがあり市場があり、次第に熱気球は地面に近づいてゆく。
上空は冷たく神秘的だったが、頬は上気してほてっている。嬉しい気持ちでいっぱいだった。私はまだ人間を始めたばかりだけれど、これまでのこの人となんとなくうまくやれそうな気がしている。なかなか可愛らしい女の人だ。普段の生活はどんなものだろう。学校へはもう行かない年齢なのだろうか。アイスクリーム屋さんとかでアルバイトでもしているのだろうか。レジというものも打ってみたいし、お客さんとも挨拶してみたい。お家に帰るとベッドというものがあり、そこで眠ることができるのだ。自転車に乗るのも楽しい。風を感じるのは懐かしい。いまでは空は飛べないが、それはまた熱気球にでも乗ればいい。犬と散歩するのもおもしろいし、友達と喋るのも有意義だ。家族と食事するのも嬉しいし、彼といるときも幸せを感じる。私はこの幸福感を大切にしたい。もちろんまたいつ雲や鳥やバッタや芋虫になるかわからない。花や木や谷や青い果実にだって戻るときがあるのかもしれない。ただ、今のこの気持ちと今の自分と今の世界をめいっぱい大切にしようと思った。手放したあとで切なくなるのはもう馴れっ子だったが、やはり哀しいものだから。違うような同じような景色はときに興奮するのだが、やはりそれと似たような哀しく愛おしい瞬間を私は知っている。私は、知っている。宇宙の一つの理を・・・