二月十九日・天地の日
地球が動いているのはなぜだろうか。
コペルニクスが提唱し、三人の賢者が証明したことで定説化された「地動説」。
いまや現代の技術をもってしてもそれを覆すことのできる逆説は存在しない。
しかし、いまだ議論されていない部分があるのだ。
それは、なぜ地球は回っているのか。ということである。
物理学の専門家に尋ねれば物理的証明によって解説してくれるであろう。
宇宙学の教授ならば宇宙の成り立ちから理解させてくれるだろう。
しかし、上記の理論はこの議論において適用されない。
なぜなら、これは地球が回っている前提において、どのように回っているかということの証明だからである。
どうして、地球は回っているのか。
目的は。
この答えは見つからないだろう。
そして、これは多少強引でも人が生きる理由につながる。
種の生存。これが真っ当な理由であろう。
いま、自分がこれを考えている間も徐々に時間は無くなってゆき、
やがて死ぬ。
さて、誰も見ていないこの空間で人が「なぜ」生きるのかを証明して進ぜよう。無理だがな。
何かを証明したいと願うとき、我々に必要なのは理論と証拠だ。
コペルニクスは理論を作り、賢者たちは証拠を示した。
ならばまずは理論だろう。
有力なのが種の生存。ここでは仮定を無視していくのであくまで「有力」だ。
次に「生きるために生きる」。なんとなくわかるが次に証明する。
はたまた真理を追究するため。人間は生きるために知能を手に入れたと「仮定」するとこんなのもある。これは前述した「生きるために生きる」と似通っている。
たくさんあるがここではここまでにしたい。これ以上追及すると※個人の見解です。が出てきてしまいそうだから。
まず、種の生存の観点から見ていきたい。
これはとてつもなく有力である。そもそもほとんどの種がこれを前提に生きているからだ。
植物も、赤い実をつけ枝葉を伸ばすのもこれが前提であるし動物の美しさも同様だ。
このように自分が格好をつけた文を書いているのだって自分はこれをしている自分に酔っていてそれでいてこの行為は他人に認められて自分の種が残っていくことにつながると考えているからだ。現実がどうであったとしても。
しかし、ここで述べたいのはなぜ生きるか、である。先に述べておくが私は老人差別主義者ではない。種の生存の観点から行くと種を残すのに適さなくなってしまった老人はなぜ生きるのか。
アメリカのとある大学の長きにわたる調査では「出産適齢期を過ぎた女性がいる家庭のほうがいない家庭よりも1~2人子供が多い」そうだが、それならば男性はどうだ。独身はどうか。その人の身の上だけを鑑みれば種の生存が本質的だとは言い切れないのではなかろうか。
ただ、私が無知なだけでもしかすると男性のほうのデータもあるのかもしれない。独身の方々の調査も。しかしいえることは、人間には種の生存に必要のない器官が多すぎる。ここまで知能を身に着けて種の生存が本質的な目標だとは言い切れない。異性への求愛をするためが意図せずして悪影響となくケースが人間以外、アンモナイトなどで報告されている。生存はあくまで表向きなのかもしれない。
次に、「生きるために生きる」論である。
些か哲学的、いや、哲学であろう。生を受けて、生きることを目標に生きている。生きることが目標なので生きる理由がなくなると虚無感に苛まれて自ら死を選ぶ、自分が生きるために種を残す。なるほど、ここまでくると哲学が生物学まで。そんなことをこれを聞いたとき考えたものだ。
しかし、ここでも反例が生じる。即ち、生きることが目標なら、ここまで生きることへのハードルが上がる必要性がない、ということである。
確かに、その日その日を生きて、明日も生きるために生きる、明後日も、明々後日も、そう進めば万事解決であるが、そこまで生活の質を上げる必要はない。生きるために生きているのだから生き残るために高度な文明が必要だ、というかもしれないが、待ってほしい。最初の説に頼っていくのも変な話ではあるが、それならば進化の過程で減数分裂の際の性別決定が変わり、アダムとイヴから男性と女性の子供が生まれ、そこが再びつがいになっていけばいいのではないか、ここで出した神の話は分かりやすくするためのもので要はその地区で生まれた男女はそれぞれが生きるためにエネルギーを使ってまで必要以上の子孫を残す必要はないのである。
高度な文明なくしても生きることは達成可能だったはずなのである。
押して最後の論として筆者が主張したいのが、真理を追究するため、である。真理、などと書くと妄想的思考に固まってしまっているようなので言い方を変えると、知識を得るため、ということだ。
これは前述の種の生存の過程である。即ち最高の目標は種の生存でなくてその過程だったのである。その過程ですでにして生きる目標が達成されていた、と考えるのである。考えても見てほしい。この世界には多種多様な生き物が存在して、それぞれがそれぞれの譲れない「生きる理由」のために日々闘争している。そんな世界の中で頑丈な牙も丈夫な角もない人間が持っている唯一無二の武器とは何か。それは知能である。人間は知能を身に着け、生き残ってきた。それならば生きるためには人間は知能を磨く必要があったのだ。知能を身に着ける。生きる。それでまた知能を身に着ける。これは一見種の生存と同じと見なされてしまうかもしれない。しかし、違うのだ。種を残すならば知能はあまり必要ではない。本能的な知識欲によって理性が作られた。その誰もいない空間で独り言を書き続ける私は、私も知識が欲しい。他ならぬ自分のために。
今回の議題は生きる理由。いずれ見つかるかもしれない。誰かの知識欲によって。そしたらもう一歩先の景色が開け、また新たな命題が開ける。
二月十九日は天地の日。
1473年地動説を提唱したコペルニクスの誕生日。彼もまた、我々と同じ知識を求めたものだったのです。