3、燃え尽きかけた思いが再び
読みやすくするため、改行を増やしました。
また、誤字脱字を修正しました。(2017/3/19)
その頃、茶所、70歳が経営する喫茶パトライトでは、
茶所がカウンター内でガラスコップを布巾で磨いていた。
テーブル席では、犬神(いぬがみ)、61歳と綱木(つなぎ)、65歳が、
暇を持て余すかのようにテーブルの上に積み上げられた雑誌を順番に読んでいた。
金輪が電話を掛けてから小一時間ほど経った頃であろうか、
金輪が菓子折りを抱えながら、喫茶パトライトの店内をドアのガラス越しに
窺いながらドアを開けて現れた。
カウベルの音と共に茶所が
「いらっしゃいませ。おっ、ちょっと老けかかった、金ちゃんかい?」
と微笑みながら金輪に話しかけてきた。
「お久しぶりです」
「やっと勤め上げたかぁ」
「はい」
金輪はそう言いながらカウンター席に座り菓子折りを茶所に差し出した。
「ありがとう」
茶所は気持ちよく菓子折りを受け取ると、
「今、飛び切りのコーヒーをプレゼントするから待ってくれ」
と微笑みながらサイホンでコーヒーを入れはじめた。
店内には、指名手配犯のポスター、警棒、十手、寛永通宝などの品が飾られている。
金輪はしばらくそれらを眺めた後、茶所に問い掛けた。
「茶所さん」
「んっ、どうした?」
「私は先程、今後の生き方を相談しようと、退職していった先輩たちに電話をかけてみました」
「どうだった。みんな元気にやっていたか」
「一人は定年四年目で亡くなり、もう一人は痴呆症で昔の面影もないそうです」
「やっぱりだ。警察官が定年を迎えると、余命は大体十年くらいなんだぞ」
「どうして?今の60歳は体力的にも元気だし、やる気だって若い者には負けない」
「そうだとも。でもな、命の危険もある環境下で市民の平和を守るために日々戦い、
時には守るべき市民から暴言も吐かれ、それでも戦ってきた者が
まだ働けるのに定年という伏目がきただけで職を失ったらどうなる」
「ん~燃え尽き症候群ですか」
「そうだ。私はそれを止めたいがために、病める元警官たちの情報交流の場として、
この店をはじめたんだ。ここは定年退職した元警官の溜まり場だよ」
金輪が振り向いて店内にいる客たちを見ると、茶所は客たちの紹介をはじめた。
「紹介しよう。そこで科学雑誌を読む彼は、元鑑識課の犬神(いぬがみ)くんだ」
「犬神です。もしよかったら今度、土壌分析クラブに参加しませんか」
「どっ、土壌分析クラブとは?」
「鑑識にいた頃に鑑識仲間や友人達と作ったクラブで、いろんな場所の土を持ち帰り、
分析や成分情報の交換をしています」
「それは、楽しいんですか?」
「はい。この前なんか、近くの公園で冬虫夏草を見つけたんですよ、凄いでしょー」
「あぁ~漢方薬ですね」
「そして、赤いつなぎ姿でバイク雑誌を読んでいる彼が、元白バイ隊隊長の綱木(つなぎ)くん」
「綱木源吉、通称源さん。夜更かしはダメだが、メカの修理はおまかせあれ」
「そっ、その時は、お願いします」
「それから、今、市民病院に骨折で入院していて当分来られない、
元少年課の港(みなと)くんと、本日無断欠席の元警備部外事課の米良(めら)くんがいるんだ」
「昨日、日の出警察署捜査課を定年退職しました金輪 錠です。よろしくお願いします」
犬神と綱木は声を揃えて「金ちゃんよろしくー」とフレンドリーな
言葉を返すと茶所が金輪の前に入れたてのコーヒーを置いた。
「お待ちどう」
金輪は優しい香りと温かな湯気を立てたコーヒーを一口飲んだ。
そして、微笑みながら同じ境遇の仲間ができた喜びに包まれ、
憩いの場所ができた喜びを感じていた。
金輪が、犬神や綱木と警官時代の失敗談で盛り上がっている頃、
そこから1キロも離れていない緑の樹木に囲まれ、遊具施設の備わった
児童公園で事件がはじまりかけていた。
児童公園の砂場近くの団地に住む、
巻き髪でロンゲ、一見してチャイドル風の美咲(みさき)5歳が
一人で砂山を築いて遊んでいた。
そこへ銀縁のメガネに乱れ髪で、誰もが一見して怪しい雰囲気をかもし出していると
判断したくなる危内(あぶない)、30歳が、高級一眼レフに外部ストロボを
付けた厳ついカメラを持って、辺りに人陰が無いかを見回しながら
美咲に歩み寄って行った。
「ねぇ、お嬢ちゃん、一人なの」
「そうだよ」
「ねぇ、可愛いから写真撮ってあげるよ
「どうぞ」
美咲は撮影されることに慣れしているのか、恥じらう様子もなく
笑顔でポーズを決めはじめた。
危内は数枚のシャッターを切ると
「ねぇ、お菓子あげるから、ちょっとあっちに行って写真撮ろう」
と美咲の腕を掴んだ。その時だ、美咲は絹を引き裂くような大きな悲鳴を上げた。
「キャー!」
そして首から掛けていた防犯ブザーのピンを勢いよく引き抜いて遠くに投げ捨てた。
辺りにけたたましい防犯ブザーの音が鳴り響いた。
危内は狼狽して高級一眼レフカメラを地面に落とし、
慌てて拾いながら、欠けたカメラのパーツに気づくことなく走って逃げた。
児童公園で起きた事件のことなど全く知らない金輪が、
喫茶パトライトで充実した時間を過ごした翌日の朝のことだ。
一人暮らしになってから毎朝の定番として、居間にあるテーブルの上には、
丼飯と納豆、インスタントのお味噌汁、メインとして冷食の惣菜セットを
並べた朝食をテレビのニュース番組を観ながら食べることを日課としていた。
「朝はしっかり食べんとな」
そして女性風に
「頂きまーす」
と言うと、男性風に
「召し上がれー」
と一人でニ役をこなしながら寂しい朝食をはじめるのであった。
その時、地元ケーブルテレビでやっているニュース番組のキャスターが
日の出署の管轄内で起きた事件を伝えはじめた。
「昨日の午後3時頃、横浜市港南区日の出町の児童公園で、
女児連れ去り未遂事件が発生しました。
被害を受けた女子児童は持っていた防犯ブザーを鳴らし、
駆け付けた近所の人によって無事保護されました。
近隣の小学校では集団登下校を進める一方、保護者らに対し、
防犯ブザーが確実に作動するか確認するよう呼びかけています」
金輪はごはんを口いっぱい頬張りながら、壁にある孫娘の写真を見つめてから、
テレビに映るキャスターに向かって吠えた。
「ちゅ、注意を呼びかけるだけじゃダメだぁー!」
金輪は興奮した面持ちで、口から米粒を沢山辺りにまき散らしながら激怒すると、
残ったご飯やおかずをかき込み、急いで居間を出て行った。
ちょうどその頃、日の出警察署の捜査課は、いつもの朝を迎えて刑事達が
パソコンと向き合い報告書を黙々と書いていた。
静かな室内にキーボードを叩く音だけが響いている。
その音の中には早い音と遅い音があり、
比較的若い刑事達はブラインドタッチで軽快な音を発てていたが、
年齢の比較的高い刑事達は、一つ一つのキーに魂を込めて
大切に打つという時間がかかりそうで、仕事がはかどっていないと
容易に予測がつく音を発て続けていた。
30分ほど経った頃だろうか、捜査課のドアが勢いよく開いた。
手を止めて身構える刑事達が一斉にドアの方を見た。
視線の先には、現役時代に着ていたスーツを着た金輪が立っていた。
捜査課一同は金輪を見て固まっていた。
堤川が仁王立ちをする金輪に
「おはよう、ございます?」
と挨拶をした。
続けて継持課長も声を掛けた。
「金輪さん、今日は、どうしたんですか?」
金輪は継持課長の言葉で我に帰りつぶやいた。
「いかん。私は定年退職したんだっけ」
金輪は思わず身を引くとドアを静かにドア閉めて逃げるように立ち去って行った。
地元ケーブルテレビのニューズ番組で放送していた幼児誘拐未遂事件の被害者と
孫娘が同じ年ということで、怒りが沸点に達した金輪は、
刑事を定年退職したにも関わらず、我を忘れて暴走したことを反省しながら、
街道沿いに面した歩道をうつむきながら歩いた。
「私はいったい何をやっているんだ。刑事としての仕事は終ったんだぞ、しっかりしろ」
金輪はしばらくの間、やるせなくため息を何度もつきながら、ただただ歩いていた。