1、定年退職の日
読みやすくするため、改行を増やしました。
また、誤字脱字を修正しました。(2017/3/19)
日々休むことなく犯罪と戦い市民生活の治安維持を担う警察官達。
そして、平成19年2月のある日、日の出警察署の捜査課では、
警察官になってから数々の犯罪と日々戦い、
刑事として最後の仕事である夜勤をもって定年退職の日を迎えた
金輪 錠(かねわ じょう)、60歳が、捜査課の西側にある
窓から差し込む温かな朝日を浴びながら、九谷焼の湯呑みに入れた
渋めの緑茶をすすっていた。
時刻はまだ午前7時を少しすぎたばかりで、捜査課の同僚達はまだ出勤していない。
静寂の時に包まれた捜査課を金輪は愛おしむかのように見渡し、
今まで正義を貫くべく過ごした、熱き戦いの日々を思い出していた。
その中でも鮮明に思い出されるのは、15年前、同僚刑事達と共に、
新たに導入されたパソコンと向き合いキーボードを叩いている光景だった。
二十代の同僚は両手を使い軽快なブラインドタッチで報告書を書き記している。
金輪は、この時45歳、決して飲み込みの遅い方ではなかったが、
コンピュータとの相性が悪いのか、右手の人さし指に魂を込めて
キーを一つずつ確実に打ち込んでいた。
すると事件はいつものように唐突に発生したのだ。
「110番入電、日の出町3丁目のコンビニで強盗事件発生。
犯人は店員を脅し現金を奪った模様です。
着衣は黒いジャンパーに紺色のジーパン姿で逃走したとの情報」
鶴田(つるた)課長、50歳が無線のマイクを手にした。
「了解。みんな、行ってくれ」
「はい!」
金輪や同僚の刑事達は、捜査課をさっそうと出て行った。
刑事達は事件現場のコンビニに到着すると、まず先着していた制服警官達に
情報をもらい現状を把握した。そして、二人一組に別れて
現場周辺の初動捜査を開始した。
捜査課の刑事達に無駄な動きは一切無い、いや、むしろ経験と野生動物のように
研ぎすまされた感覚があるのか、それとも犯人の行動が予見できているのか、
繁華街の人垣を軽快な動きでかき分けて、
犯人の情報にあった背格好の人物を探していた。
夕暮れ近くにはじまった捜査は、すぐに夜を迎えて
繁華街は賑やかさをましていた。
人々が行き交うパチンコ屋の前を金輪や刑事達が通り過ぎようとした時、
出入口から出てきた男に金輪の視線が止まった。
その男は、強盗犯が着ていたジャンパーこそ着ていなかったものの、
被害者のコンビニ店員が言っていた強盗犯の身体的特徴に酷似していた。
金輪の刑事としてのカンが狙いを定め
男に近寄ろうとした、その時だ。
男は突然、勢いよく走り出した。
人々で賑わう繁華街の人込みをかき分けて逃げる男が強盗犯であると確信した刑事達は、
迷うことなく三方に別れて男を追った。
男は行き交う人々を突き飛ばしながら尚も逃げる。
逃走している男の背後から追う金輪が叫んだ。
「逃すかー!」
強盗犯は金輪の叫びを嘲笑うかのように叫んだ。
「捕まるか、ボケ!」
その時だ、路地から飛び出した若い刑事の一人が男の前に立ちふさがった。
一瞬立ち止まった男が後ろを振り向いた時、金輪は男に飛びかかった。
男は路面に倒れ金輪が逃すまいと覆いかぶさった。
激しく悶えて悪あがきをする男を金輪はいとも簡単に
腹ばいにしながら後ろ手にして押さえ込んだ。
男が「畜生!」と叫んだ。金輪は尚も逃げようと
悶えあがく男の手首に手錠をかけると優しく諭した。
「まだ遅くはない、心を入れ替えろ」
男は急に力なく項垂れた。
金輪は自らが刑事として輝いていた頃の出来事を
夜勤明けの定年退職を迎えた日に思い出していた。
そして犯罪者の手首にはめ続けてきた手錠を左手で持ちながら、
愛おしむかのように眺め、渋い緑茶をすすって独り言をつぶやいた。
「はぁ~。私にとって無情の朝が来てしまったのか・・・」
午前8時15分をすぎた頃から同僚である刑事達が次々と出勤してきた。
同僚たちは捜査課のドアを開けると、真っ先に金輪を見つけては、
にこやかな笑顔で「おはようございます」と金輪の今まで刑事として
犯罪と戦ってきた労をねぎらうように優しく声をかけてきた。
金輪はうれしかった。苦楽を共にしてきた同僚達が、
優しさを込めた挨拶をしてくれたことが。
だが刻一刻と刑事としての最後の時が迫ってくる言いしれぬ寂しさも感じていた。
制服の若い婦警が花束を抱えて笑顔で現れた時、
壁に掛けられた時計の針が無情にも午前8時30分を指し示している。
現在、捜査課の課長を勤める継持(つぐもち)、50歳の座る席に
金輪はゆっくりと歩み寄って行った。
「課長」
金輪はそう言うと継持課長のデスクに、警察バッチと手錠を静かに置いた。
継持課長は席を立ち金輪に向けて深々と頭を下げた。
「金輪さん、今日まで刑事としてのお勤め、誠にご苦労さまでした」
制服の若い婦警が両手で抱えていた色とりどりのガーベラと
白いユリアルストロメリアをあしらった女性らしい色合いの花束を
金輪に向けて差し出した。
「金輪さんお勤めご苦労さまでした」
金輪は、少し照れくさそうに花束を受取ると、同僚の刑事達が、
微笑みながら無事に定年退職を迎えたことを拍手で称えてくれた。
金輪は花束を抱えながら同僚達を見渡して素直な気持ちを口にした。
「みんな、ありがとう。無事にこの日を迎えられたのは、みんなのおかげです」
新人刑事の堤川(つつみかわ)、25歳が金輪に歩み寄ってきた。
「金輪さん、後は俺に任せてください」
「堤川じゃあ、ちょっと頼りないけど、頼んだぞ」
「気合い入れ直して、がんばります」
捜査課に笑い声が飛び交ったその時のことだ。無線機から事件の第一報が聞こえてきた。
「110番入電、日の出町4丁目13の高利銀行で強盗事件発生。
犯人は白い軽自動車で逃走中。逃走車両後部には防犯用カラーボールの跡があります」
継持課長が命令を下した。
「みんな、行ってくれ」
刑事達は一斉に鋭い眼光に変わると、金輪を残してさっそうと去って行く、
金輪はその去り行く刑事達を見つめていた。
継持課長が金輪に歩み寄ってきた。
「すみません。本当は堤川が送別会の準備をしていたんですが」
「気持はありがたく受け取っています」
「みんな、金輪さんには、本当に感謝していますよ」
「課長、感謝しているのは私の方です。私が今までやってこれたのは、
みんなが居てくれたからこそですよ」
継持課長が微笑みうつむくと囁くように呟いた。
「金輪さん、定年というものは、自分で決めたいものですね」
「まったくです」
金輪は、ついに訪れ、逃れることのできない定年退職に打ひしがれていた。
そして多くを語ることなく惜しまれながら静かに捜査課を後にした。
日の出警察署の出入口脇に制服警官が警戒のため立っている。
金輪が気落ちした面持ちで花束を持って出てくると、
警戒にあたっていた制服警官が金輪の方を向いて頭を深々と下げた。
「お勤め、ご苦労さまでした」
「ありがとう。後を頼んだよ」
「はっ!」
制服警官は金輪が寂しそうに歩き去る後ろ姿を見つめながら、
敬礼をしたまま静かに見送っていた。
金輪は、花束を持ったまま街道沿いの道に出ると流しのタクシーを止めて、
今は亡き妻、文絵(ふみえ)の眠る日の出霊園へと向かった。
そこは小高い丘に作られ海を望むことのできる霊園で、
海を観ることが好きだった文絵が、いつでも海が観られる所にお墓を建ててあげたいと、
金輪が築いたものだった。
金輪は日の出霊園に到着すると管理棟で借りたバケツと、婦警からもらった
花束を持って歩き、金輪家のお墓へと向かった。
お墓は定期的に手入れをしているのか、雑草も生えていなければ、
墓石は新品のように見えるのだが、
金輪は墓石を愛おしむかのように丁寧に拭き掃除をした。
その後、線香と定年退職の祝いで貰った花束を手向け、
亡き文絵に向けて静かに語りはじめた。
「文絵、今日無事に仕事を終えたよ・・・あっ、それから、
この花を貰ったんだけど、私には似合わないから持ってきた・・・
お前には随分辛い思いをさせたね、今さらだけど、すまなかった
・・・本当は、今日、この日を、お前と一緒に迎えたかった」
金輪はそう言うと、うつむきながら立ち上がり、その場を力なく去って行った。