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宝石屋:メルヴィン・ウェイディル

例えば貴方の目の前に、旅人らしい一人の男が立っていたとしよう。

貴方に背を向けて立っているその男の足下には、左右に分かれた道が存在している。


彼は貴方の目の前で地図を広げた。

少し眺めてからまた顔を上げ、左右の道を見比べて顎に手を添え、また地図を見下ろす。

誰が見ても一目瞭然。

彼は迷っているのだ。

そして貴方は知っているとしよう。

その男は右へ行くべきだと。

そしてそう彼に教えるのは、自分の使命だと。

しかし、残念なことに自分以外の多くの者が彼に左へ行けと言い、彼は本気で彼を案じる一人の人間よりも、世間体を重視した多くの人間の言葉を信じ、左へ向かってしまった。

彼が背負っていたリュックには使い古された絵筆と、描かれた素晴らしい絵があったというのに、彼はそれらを捨ててペンやマウスを持つ左の道を選んだ。

上記のケースの男が、ある程度の大人ならいい。自己判断だ。

しかし、少年少女であればどうだろう。

しかも、貴方が人の才能を的確に見抜ける才能を持っていたとしたらどうだろう。


「君の夢は何ですか?」


誰もが一度は聞かれたことがある言葉。

大概の教師はマニュアルの通りに、分かり易い教師像を得るために幼い生徒たちへ尋ねる。

だが中には…本当に一部の教師は、この言葉に対する生徒たちの発言の中から、実際に“成れる”子供を見つけ出すことができる。

そういう目を持って、天職として教師になった者もいる。


「先生。僕は絵が大好きなんです。将来は画家になりたい!」


そう笑顔で言っていた少年は、親に言われて商社を継いだ。


「…私はバレリーナなんです」


内緒ですけど…と授業が終わった後に小声で教えてくれた少女はオーディションで受かって得た海外留学を反対され、地元の中学へと進んだ。

どんなに的確に才能を見い出せるとしても、ちっぽけな学校に在籍するたった一人の若い教師が「夢を諦めてはいけない。君には才能がある」と言ったところで、誰も真剣に信じようとはしてくれなかった。

才能の開花を見ることなく、周囲から圧されて無理に別の、上手く咲かせることもできない種類の花を何とか咲かそうとする子供たちが哀れでならなかった。

才能は活かさなければ意味がない。

活かした先に輝く未来があるのならば尚更だ。

才能のない人間などいない。

世界には様々な役割を担う仕事があるが、真に各々の作業に秀でている者を的確にその場所へ置くことができたなら、社会は今よりももっとずっと、突然理想的に回り出す。

AはAを求める場所へ。

BはBを求める場所へ。

…それが見えて、理解して、そして導くべき立場にいる者にとって、社会という目の前の大きな集団はじれったいと同時に心の底から残念でならなかった。

悔しくてならなかった。

毎晩神に祈りを欠かさなかった。

彼は生真面目だったものだから、それら全て、仕方がないことまで全部に己の力不足という名を与え、両腕で抱えて涙し続けていた。

慣れることはなかった。

卒業していく生徒の数だけ哀しみが蓄積されていく。

卒業して数年後、希に顔を見せにくる生徒が、「自分にはそれらの才能なんてなかったが、先生だけが励ましてくれて嬉しかった」などと言うともう堪らなかった。

ついに堪らなくなって、彼は夢を追って家出を決意した生徒の手助けをしてしまった。

それが明らかになり、彼は教師を辞めざるを得なくなった…が。

しかし落胆の底にいた彼を愛する貴族令嬢は優しく手を取って励まし、自分との結婚を提案してくれた。


「貴方は何か、他のものを助けてあげると宜しいわ。そんなにも目が良いのですから。…宝石はいかが?」


妻となった令嬢は自分の趣味と仕事を夫となった教師にそれらを勧めたが、彼は苦笑しながら首を振った。

自分にはそんな高価な物のことなど分からないよと、遠巻きに妻を眺めていた。

しかし、妻が亡くなり彼女を追悼している過程で、初めて“原石”と出合った。

よく才能のある者を例えてそう呼ぶが…。

それらは才を持った生徒たちととてもよく似ていた。

将来美しく輝く可能性を持っている原石を間違いなく美しい装飾品へと成長させ、持って生まれた美貌と個性を最大限に発揮させ、求めている人々の手へと導ける第二の人生は、まさに彼の第二の天職だった。

彼は輝いたどの宝石も、我が子、我が生徒のように思っている。

彼にとっては、輝ける才能を持ったものが埋もれてしまうのが何よりの悲劇であり悲愴であった。

人でもものでも、それはもう変わりなく。

輝くべき才あるものには輝きを。

彼はそれが、審美眼を持つ己の使命であると確信していた。


男の名はメルヴィン・ウェイディルといった。

本来名と姓の間にロードが入っていたが、妻を亡くして名家を出る際、名乗らないようにと強く念を押された。

姓の方も名乗るなと言われたが、こちらは妻と共にした思い入れのある姓なので現在も捨ててはいないが、聞かれなければ答えないようにしている。


…余談だが、彼が教師生活最後に家出を手助けした生徒は、異国の地で最高の映画俳優になった。






【宝石屋:メルヴィン・ウェイディル】


挿絵(By みてみん)






小粒だが、信じがたい程に美しいルビーの原石を持ち込んでからというもの、依頼を受けていた細工職人はすっかりその石の美しさに戦いてしまった。

細工職人は直感で仕事をする類の人間だ。

家具だろうが石だろうが金属板だろうが人だろうが、持ち主と細工を施す物、そのふたつと対面した数秒で完成図を創り出せる男だったが、メルヴィンが持ち込んだこの石だけは自分の手に余る品であったため、数日欲しいと言い出した。

そして実際に数日間、他の仕事そっちのけで毎日メルヴィンのテントへと足を運び、深紅に輝く石をひたすら眺めて半日を過ごす。

机に俯せてため息を吐く細工職人に湯気立つカップを差し出し、メルヴィンは苦笑した。

細工職人の腕は今まで施してもらった宝石の完成度を見れば明らかで、彼はいくらでも待つつもりだった。

だが細工職人の方が職人の壁に当たってしまったようで、机に伏したまま頭を抱えて首を振った。

今の自分じゃとても無理だ。

細工じゃなくてただの傷になってしまう。

自分は嫌われている…。

時折ぽつりとそんなことを口走り、そしてまた呻く。

若い細工職人が嘆く度、メルヴィンは励ますように微笑んだ。


「急がずともいいですよ。時間は気にしておりません。…ただ、この石が最高に輝けるようにと、それだけが私の望みです」


彼はいくらでも待つつもりだった。

数ヶ月とかいうレベルではなく、数年でも十数年でも待つつもりだった。

細工職人はまだ若いが、価値観はメルヴィンと近いものがあり、彼らはすぐに親しくなった。

親しくはなったが、お互いに語る量というのは少ない。

日中はもとより、日が暮れても尚細工職人は石と向き続けているし、メルヴィンはライトを片手に機械で岩石を調べ歩いており、ミニアは気ままに岩山周辺を散歩している。

しかし…。




「食事とお茶の時間だけは、その二名と一匹は集まるってワケなのさ」


ある日の夕方。

まだ遠巻きにテントが見える場所で馬車から降り、片手を腰に添えて胸を張った鍵屋が言った。

馬車から降りやすいようにと差し出された手を完全に無視して、遅れてフークバルドが降りると、彼の隣に立つ。

鍵屋は焼きたての菓子パンが入ったバスケットの底に人差し指を添えると、くるくると回してみせる。

付いてきてくれと言った覚えはない。

町中でフークバルドが少しカーテンを開けて町の様子を眺めた時に顔を見られ、ばっちり目が合った。

彼の興味を引いて馬車を止められてしまったことは、もう運が悪かったとしか言い様がない。

小うるさく何処へ行くのか、何しに行くのかを聞かれ、観念して話すと嬉々として付いてきた。


「しっかしなあ…。午後のお茶はもう終わっちまってるしこの時間じゃ…。お茶とかより夕食に招いた方がよかったんじゃねえか?」

「…そうなのか」

「当然だろ」

「…。僕は食事を取らない」

「あー。そう言えばそうだったな」


淡々と返したフークバルドの言葉に、鍵屋が思い出したような相槌を打った。

この時間帯、人間を始め多くの種族は食事を取るが、お茶という香りと味の付いた水分、そしてティタイムの雰囲気が好きなフークバルドにとっては食事らしい食事を食べるという行為は生活に馴染まなかった。

勿論食べられないわけではないが、あまり多くは食せないし食す意味がよく分からない。

紅茶と、せいぜいそれに添える程度の菓子くらいだ。

なので、彼らを誘う口上として食事は思いつかなかった。

もっと早くに言ってやればよかったなあ…と鍵屋は少しだけ後悔した。


「まあ、でも茶でもいいだろ。夜とはいえお前から茶会をしたいなんて…よしよし。良い傾向だ。そうだよ、仲良く行こうぜ!」

「…」

「おーーいっ!宝石屋ぁー!細工屋ぁー!!」


ウインクひとつ飛ばしてから、鍵屋は右手を大きく振りながらメルヴィンのテントへと歩みを進めた。

一番始めに気付いたのはミニアで、その後メルヴィンが気付いた。

細工職人はテント内にいたため石に夢中だったらしく、メルヴィンが声をかけるまでは出てこなかった。


「こんばんは。鍵屋さん、フークバルドさん」

「よー。どないしたん、でこぼこコンビが。…お。何やそれ、差し入れか?」

「パン屋に頼んで作ってもらった焼きたてだ」

「おー!ほんまに!?」

「おっと。今は食うなよー? 後で食え。あ・と・で」


鍵屋が持っているバスケットに気付いた細工職人が声を上げて彼に近づき、上にかかっていたクロスを抓んで中を覗こうとしたが、その前にぱっと身を退かれて開けることは叶わなかった。

細工職人が文句を口にする前に、意味深に鍵屋が背後に立っていたフークバルドの肩をちょんっと肘で突っついた。

…何だか不愉快だったが発言を促されているようなので、彼はぽつりと肉声を吐いた。


「…。これから一緒にお茶でもどうだろう」

「へ…?」


有り得ない誘い言葉に細工職人は素っ頓狂な顔で瞬き、鍵屋は始終にやにやしていた。

たが、そこまで彼のことを知らないメルヴィンは何の構えもせずに微笑むと、喜んで、と応えた。






御者は四人と一匹を連れ、来た道を戻る。

町の一角にあるカフェで夜のお茶会をすることにした。

この時間では道の向こう側に位置するバーの方に人が集まるので店内はがらんとしておりどの座席も座り放題だったが、そうでなくてもフークバルドがメンバーにいる時点でカフェの店主は彼らを二階テラスのVIP席へと通してくれた。

二階席なら周りに他の客もいないし…と言うことで、ミニアの入店も許してくれた。

各々オーダーし、中途半端な時間帯にお茶会は始まる。

茶会という名目に反して、やはり時間帯からかフークバルド以外の三人は軽食を頼んだ。

細工職人は一人で三人分くらい頼んだ。


「どうだ、宝石屋。この町には慣れたか?」

「ええ。とても良い町ですね」

「だろー? なら住んじゃえよ。宿屋がそーしてくれねぇかな~って言ってたぞ」

「本当ですか?」

「…」


会話が途切れない丸テーブルに混じりながらも、主催であるフークバルドは一言も語らなかった。

一方で、同じ沈黙ではあるが黙々と食事だけに専念し、人の分のラザニアまで取ろうと手を伸ばした細工職人に気付いて爽快な音を立て、その頭を叩いた所から鍵屋は彼と口論を始めた。

…ので、メルヴィンは漸く沈黙を守っていた隣の席の少年へと話しかけることができた。


「フークバルドさん。今夜はお茶のお誘いをいただいて、ありがとうございます」

「…どういたしまして」


フークバルドはちらりと彼を一瞥し、また退屈そうに正面を向いてカップを口元に運んだ。

メルヴィンは気分を害することなく、その横顔を眺める。

この年齢の子供と話すのは本当に久し振りだ。

彼は懐古していた。

それはとても優美な時間であり、小柄な少年少女が傍にいるだけで優しい気持ちになることができた。

目の前の少年がどれ程の年月を消化してきたかなどは全く知らないのだから仕方がない。

また、実際にフークバルドは一族の中では幼い子供同然なのだから、ひょっとしたら、彼の接し方が正しいのかもしれないが、それは誰にも分からない。


「サンドイッチおひとついかがですか?」

「結構」


既に辺りは夕日を終え、しかし完全に闇には染まらず、淡い色彩を徐々に濃くしていく所だった。

そんな色付いた空気の中で、断られたサンドイッチを皿に戻す途中ふと…。

今更ながらに、メルヴィンは近距離の少年に違和感を覚えた。

彼の頬や首筋にある茨の模様は、当然初対面の時から気付いていた。

気付かぬ訳がなかったが深く観察はしていなかった。

てっきりタトゥの類かと思っていたが、よくよく見れば茨が走っている部分だけ凹凸が存在し、薄い皮膚の内側に本物の茎が通っているように見えた。

シャツの中から覗け、首筋を逆上って伝い、頬を下から上へ渡ってその先には…。

頭部のハットに飾られた紫の薔薇。


「…」


帽子の飾りだと信じ切って気にも留めないでいたその薔薇が、妙に鮮明にメルヴィンの視覚を刺激した。

黙り込んだままじっと頭部を見詰めてくる老紳士に、カップを置いてフークバルドが顔を向ける。


「…何」

「ああ、いえ。失礼その…。素敵な帽子ですね」

「その言葉なら僕ではなく帽子屋に言うべきだと思うが」

「…」


丸テーブルの隣に座るというこの行為はフークバルドとメルヴィンを今まで最も現実的に近づけ、これによって今まで老紳士が気付けなかった多くのことが違和感として彼の五感六感に疑問を持たせた。

皮膚の下に植物が生えているなど、異常でしかない。

そこで初めてそれまで自分の中に確立していた常識とは懸け離れた特異な存在を目の当たりに、老紳士は唖然と言葉を無くしたままフークバルドの薔薇を見詰めていた。

加えて、異質なのは薔薇だけではなかった。

今まで対面はしたことは何度かあったが、横に並んで腰掛けることはなかった。

眺める位置や高さ、光の加減で違うのだろうか。

彼の眼球が妙な反射をしたような気がして、メルヴィンは視線を相手の髪から瞳へと下げた。

…あまりに活き活きと動き輝いている。

そんなことはある訳がないと承知の上で、彼は口を開いた。


「…。失礼ですが」


どことなく呆けた声で、フークバルドの眼球を見詰めたままぽつりと呟く。

興味のない顔で整った顔が少しだけ細い首を動かし彼を見上げた。

顔が正面から向かい合った途端、眼球を飾っていた先程の妙な反射はなくなったが、失礼を承知で聞いてみる。


「義眼でいらっしゃいますか…?」

「…?」


人は各々、生活の中で必要な単語と不必要な単語がある。

“義眼”という単語は、フークバルドの中では不必要な部類だった。

聞いたことのない単語に軽く首を傾げ、眉を寄せる。


「ギガン…?」

「貴方のその…」

「なあ宝石屋!ちょっとこっち来いよ!」


軽く片手を上げて何かを言い出そうとしたメルヴィンの向こうで、いつの間にかテーブルから離れて手摺りの方へ移動していた鍵屋が大きく手を振った。

呼ばれれば行かない訳にはいかず、彼は少し迷ったが、失礼…と断ってから会話を中断して席を立った。

残されたフークバルドはカップを口に運びながらテーブルに残ったもう一人である細工職人へ視線を投げたが、彼はイスの背に寄りかかって満腹になった腹をさすってゲップなどをしていたものだから、呆れて目を伏せカップを再び口に運んだ。


 __ギガン…。

  __恐れながら…。


優しい囁きとともに、素っ気ない態度を装いながら紅茶を飲む彼の斜め後ろにすう…と透明な女性のシルエットが現れる。

“ここにある彼女”は両手を前に添え、浅く頭を下げた。


  __お答えしましょう、プリンス…。


完全に透けている彼女の姿は臨めないが、空気中の水分量に敏感な者(人間では無理だろうが)ならば気付けるだろう。

その場所だけがシャボン玉の膜のようにどことなく歪んで見えるので辛うじて存在を知ることができる…が。

別にこのシルエット自体が彼女の本体ではないので、見えようが見えまいがさしたる問題ではない。

湿気を操ってその姿を映すのは、単に目の前の王子を敬愛していることを示す形式張った礼儀のようなものだ。

“ここにある彼女”はこのカフェの店主と似ており、誠実であると同時にどこか堅苦しい。

シルエットは浅く頭を下げたまま微動だにせず、声だけが優しく響く。


  __義眼とは、偽の眼球のことでございます。

 __偽…?

  __ええ。

 __…。


シルエットを振り返らない代わりに足下に視線を下ろし、フークバルドは少しむっとした顔をした。


「…不愉快」

「あん? 何か言うたか?」

「…」


吐き捨てた呟きに反応して聞き返した細工職人を完全に無視して、深くため息を吐く。

カップを置き、肩にかけているショールを羽織り直してからイスの背もたれに身体を預け、遠巻きに手摺りに並ぶメルヴィンと宝石商の背中を見据えた。

本来ならばすぐにでも撤回しろと詰め寄りたいところだが、今夜だけは不愉快を言葉にすることはせず、寛大にも許してやることにした。

…今宵彼には不幸がある。

それを思えば、失言のひとつくらいは許してやってもいいだろう。


 __…遅いな。躊躇ってるのかな。

  __いいえ、プリンス…。すぐに。


優しい囁きが返事をした直後…。

丁度、手摺りから身を乗り出して町の案内をしていた鍵屋の指先が、町から少し離れた藍空の中で岩山を指した瞬間。


岩山の斜面が、音を立てて崩れ流れた。










町から離れた場所であるとはいえ、岩山の土砂崩れは町人たちを酷く驚かせた。

地殻変動はこの町では安易に起こすことができるが故に極めて珍しい。

地響きと音に慌て、皆一様に店から出てきては灰色の煙が上がる岩山へと顔を上げたのが、カフェ二階のテラスからはよく見えた。

その直後、突然御者は忙しくなり、大型の馬車と十二頭の馬車馬を連れて町と岩山を行き来した。

土砂崩れがあってすぐに現場に向かうのは危険極まりないが、他ならぬフークバルドが大丈夫と言えばそれは確実に大丈夫であって、町人たちの一部はこぞって様子を見に行った。


「これは奇妙だ。雨も地震もなかったのにどうして突然土砂崩れなんかしたんだろう」


地震学研究者はノートを前歯で咥えながら急いでパソコンと機材を立ち上げ観測データを収集し始める。

その隣で、細工職人は呆然と言葉もなく佇んでいた。

馬車を待たず一番にこの場へ駆けつけたミニアは先程から何度も吠え立て高さのある土砂の上を行き来し、その傍で年老いた宝石商は泥にまみれ、必死になってスコップの先を土砂に刺しては掘り返していた。

テントや機材はどうでもいい。

そんなものは本当にどうでもよかった。

震える手でスコップを握り、掘り続ける。

ともすれば涙が溢れそうになり、唇を噛んで耐えたが、時々たまらなくなり片手の甲で目元を拭う。

それでも泣いている時間などなく、またすぐにスコップを刺す。

一分一秒でも早く、一粒でも多く、地中から救い出してやりたかった。

…しかし、例え救出されたとして、果たしてそれらにいかほどの価値があるのだろうか。

ケースが圧迫され、中身が傷ついてはいないだろうか。

細工の隙間に土は入っていないだろうか。

あんなにも輝いていた宝石たちだが、恐らく…。

…。


「ああ…なんてこと…。なんてことだ……」

「…」


細い声で譫言のように呟きながら掘り続けるメルヴィンの傍を忙しなく吠え回る黒い犬。

主人の前では普通の犬のつもりでいたいのか、本来の力を使わず狼狽するだけの姿に、少し離れた木陰に佇んで眺めていたフークバルドは眠気に一度片手を口元に添え、小さな欠伸をした。


「…。お前…最悪だな」


彼の隣に立っていた鍵屋は真っ直ぐ正面…悲痛な様子で掘り続けるメルヴィンの姿を凝視していたが、彼が欠伸をしたのを見て、心の底から呟いた。

微笑を止めて、フークバルドが眉を寄せて彼を振り返る。


「…僕のことか?」

「何で土砂崩れなんだ…。宝石屋の奴、何かお前に酷いことでもしたのか…?」

「ルビーだけ返してもらうだけだ。それだけ取り返せれば他の石はいい」

「…。例えばこの山が宝石取られて悲しがってたりしてお前はそれが聞こえるのかもしれないが…。でも宝石屋だって泣いてるじゃねーか」

「そんなのは知らない」


鍵屋の言葉に、フークバルドは悪びれた様子もなく目を伏せて肩を竦め、きっぱりと言い切った。

…岩山の泣き声が聞こえたあの晩。

フークバルドは彼女の所へ赴いた後、時間をかけて話を聞いた。

他の鉱石は差し上げても構わないが、女王から預かったあの石だけは返してもらわねばならない…と、彼女は哀切に訴えてた。

彼女の力は微々たるものだが、それは彼女の一族間での話であって、他の生物からすると指先すこし動かすだけの感覚で膨大すぎる力が動く。

小さな小さな鉱石一つだけをそっと取り戻すなど不可能だ。

どうするべきか…と悩む彼女の話を聞き、賢明な王子は迷わず答えた。

それならば取り返せばいいという結論が当然の如く導き出され、問題は方法だったが、彼がメルヴィンとミニア、それとおまけの細工職人を誘い出すことで無事成功できた。

ただ「お茶を一緒に」の一言で誘い出せてよかったが、もし誘い出せない場合は三人一緒に土砂の下敷きになっても構わないと思っていた。

彼にとっては些細すぎる問題だ。

避けられれば避けたいが、避けられないのなら構わない程度の感覚だった。

鍵屋が顔を顰める。


「そんなのって…。お前な」

「僕は忠告した」


フークバルドは淡々とそう言うと、目を伏せて深く息を吐いた。

その後、開いた双眸で遠巻きにメルヴィンの傍で吠えている黒い犬に目をやる。


「神は嫌いだ…。連中は端的で人間より話が通じないから好きじゃない」

「あ…?」

「皆様ぁー…!お下がりくださーい…!」


不意に高い声が、薄暗くなりつつあったその場に響いた。

追って、ガラガラ…と再び車輪の音と共に再び町中の方から馬車が戻ってきたいた。

先程この場にフークバルドたちや地震学研究者を運んだ時とは違い、随分と大型な馬車に変わっており、御者台で手綱を持つ御者の隣に品よく乗っている人形師が声を上げていた。

土砂崩れの先端で馬車を止めると、御者が手を差し出す前に御者台から降り、着物の裾が泥などで汚れるのも気にせず、片手を軽く上げて統率なく散っていた野次馬を別けて道をつくる。

その手には五本の全ての指に二つずつ銀色の指輪が輝いており、もう片方の指にも五本…計二十本全ての指に全く同じ指輪が通っていた。


「どうぞ、どうぞ何方も退いてくださいまし。道をお譲りくださいまし」


あくまで穏やかだが、彼女にしては急ぎ足で危なっかしく土砂を上り始める。

土砂の上で土を掘っているメルヴィンの所まで行こうとしているらしく、それを見た鍵屋は木陰から離れると自分もその場へ向かった。


「何かと思ったら土砂崩れ…。馬鹿か。どーでもいいじゃない。死人は出なかったんでしょ? 来て損したわ」

「何を仰いますか、一大事じゃないですか!」


人形師が鍵屋に手を借りながらメルヴィンの傍まで歩む頃、彼女が乗っていた大型の馬車から同じ容姿をした読書家と侍女が御者に手を引かれ降り立った。

更にその背後から、ぞろぞろぞろぞろと、二十人の男たちが一列に並んで全く同じ動作で降りてきて、馬車が止まった近くに立っていた作曲家は死ぬほど吃驚して後ずさり、背後にいた花火師にぶつかった。

読書家と侍女二人の口論がいつもの喧嘩になりつつあった頃、人形師はメルヴィンの前に一歩出ると深々と一礼してから片手を胸の前に添えた。


「お初にお目にかかります。わたくし、人形師でございます」

「…。人形師…」


半ば貧血になりかけていたメルヴィンは虚ろな声で口を開いた。


「どうぞこれを」

「…?」

「借りとけよ宝石屋。通すだけでいい」


若い人形師は話を聞いて少しでも力になれればと駆けつけたらしく、両手にしていた二十個全ての指輪を外すとメルヴィンの筋張った両手に通した。

すると、馬車から降りたところで佇んでいた二十人の男たちがスコップを片手に土砂を登ってきては、メルヴィンと同じように掘り出した。


「おやおや。二十体も出してきたの? 何て商売下手なお嬢さんだ」


土砂の下で上を見上げ、自鳴琴屋が鼻で笑う。

人形師を下に降ろした後で、スコップを片手に持った鍵屋が半眼で彼を睨む。


「テメェも出せよ。どうせ何匹か持ってんだろ?」

「申し訳ないがお断りするよ。大切な商品が中古品になってしまったら勿体ないし、僕の子たちは肉体労働には向いてないから」

「じゃ、お前が手伝え!」

「…っと」


自鳴琴屋の胸にもう一本のスコップを押しつけ、首根っこ捕まえて鍵屋は無理矢理彼を連行した。

その他その場に集まっていた者たちが、一人また一人と御者がぽいぽい出してくるスコップを受け取ってはメルヴィンを助けて土砂を取り除いて行く。


「…」


その様子を、フークバルドはぼんやり眺めていた。


  __…プリンス。


呼ばれて、彼は顔を俯かせると懸命に掘り続けている小さな生物たちの足下を眺めた。

優しい声がふわりと響く。


  __ありがとうございます。

    ルビーは地中深くに隠しますわ。

    魔神の手が届かないくらい深くに…。

 __それがいいね。

   …母様にお願いしてあの魔神の力を君の所だけ弱くしてもらう。

  __重ねてありがとうございます。

    …他の鉱石でしたら差し上げるのですが、こればかりは。

 __…。宝石は見せてもらった?


尋ねると、“この地の彼女”はいいえと応えた。

少し迷った後、とても綺麗だったから今度見せてもらうといいと伝えると、彼女は困ったように声色を柔らかくした。

彼と彼女だけ、この場において穏やかだった。




そのまま騒然としている現場を他人事のように眺めていたが、やがて、鍵屋や人形師に諭されてメルヴィンは半ば強制的に休憩を取らされた。

悲壮の中に立ち、足取り重く歩いてくる彼は場に不釣り合いな程落ち着いている少年を見つけ、自然と爪先を其方に向ける。

足下には変わらずミニアがついて回っていた。

悲壮の中にいる者全てにおいて言えることだが、彼は、ある程度の同意か慰めの言葉を期待していた。

それは彼自身が弱いとかそういうことではなく、全ての人間が期待する欲望である。

であるが、残念なことに冷めた目をした不動産屋にそれは望めなかった。

度々形容に騙されそうになるが、忘れてはならないことは、彼は異質だということだ。


「…君は少し傲慢だ」


歩み寄ってきたメルヴィンに、フークバルドはぴしゃりとそんな言葉を投げつけた。


「僕は石の声なんて聞こえないけど、輝ける力があるからといって、それらを持つ石たちが全て輝きたい訳じゃない。中には人見知りだっているし、人に触られるのが本気で嫌いな石もいる。人間と同じだ。…君が今まで捕らえてきた中にも、嫌々宝石になったものもきっとある」

「…」

「嫌がってる石は僕らがルビーと同じく奥に隠して、戻りたがっている石は土砂の上の方に押し出してあげる。だからちょっと掘るくらいで諦めるといい。…それから」


背を屈ませると、フークバルドはミニアの前に顔を近づけた。


「君はもっと傲慢だ。…次は僕が許さない」


言った後、片手で首を一撫でしてから立ち上がると、彼は御者の方へ歩いていった。

その去っていく背中を見つめ、そこで漸くメルヴィンはあの少年は自分よりもずっと高い位置にいる存在であることに気付いた。

御者に頼んで、フークバルドは誰よりも先にその場を後にした。









町人たちの協力により、翌日から三日間かかって発掘作業が行われた。

当然だが、見つかった宝石と見つからなかった宝石があり、更に傷ついた宝石と傷つかなかった宝石があった。

見つからなかった宝石はそれ以上探そうとはせず、傷ついた宝石は細工職人に依頼して指輪などの細かな装飾に変じてもらった。

誰もがメルヴィンの心情を察して同情したが、当の本人は何だか少し晴れやからしかった。

フークバルドの言葉は、なまじ理解できてしまう分、彼の中に深く落ちていた。

人間と違い、彼に石の言葉は解らない。

輝ける才能があるからといって全てを拾い集め、意見も聞かず道を決めていたという事実は、人間の子供たちに置き換えて考えると残酷極まりなく、かつて教師だった彼に後悔を与えた。

それと同時に成長も与えた。


「…ひとつ賢くなりましたね」


宿屋の一室で飼い犬の首を撫でながら、窓際でしみじみとメルヴィンは呟いた。

ミニアは目を細め、その手を受けつつ哀しげに鼻で鳴いた。

フークバルドの言葉は、正直ミニアにはよく分からなかった。

だが、取り敢えず彼に駄目だと言われた宝石は今後一切採らないようにしよう、と心に決めた。

主人がそれまで年齢と外見が比例しない者と出会わなかったように、古より生きながらえてきたこの犬も、広義的な意味で自分の種族以上の存在に出会ったことがなかった。

自分の軽い気持ちであの少年の言葉に逆らったことが、こんなにも主人の多大な哀しみを生むとは思っていなかった。

今回のことで、彼は本能的にあの少年と一族には逆らわない方が良いことを学んでいた。

決して彼と岩山との相性が悪かった訳ではないのだが、物や土地に好みや考えがそれぞれあるらしいということを理解した上で、この老紳士は岩山に多大な迷惑をかけたことに何とか謝罪したかった。

久し振りに無我夢中で肉体労働をした結果、全身が筋肉痛になり、医師に診てもらい安静にする期間を与えられ、数日にわたり宿屋で療養していた。

漸く身体の疲労が取れた頃、荷造りを始める。

テントは土砂崩れで土の下に埋まってしまったので町に出て旅に必要な新しい物を買いそろえ、食料と水を揃える。

田舎町なので全てのジャンルにおいて高性能の道具は得られなかったが、それはまた大きな町に出たときに揃えればいい。

莫大な値のした精密機器の数々は残念であったが、これもあまり問題ではなかった。

当面、彼は宝石商をするつもりも、宝石を探し当てるつもりもなかった。

無事だった少数の宝石だけをカバンに携え、

謝罪の意味で、土地を売ってくれた小さな不動産屋へ岩山の権利書を返還することにし、そうしてその足で町を出ることにした。

こっそり細工職人に伝えたつもりだったが…。


その細工職人が午後の早い時間帯に鍵屋に蜂合ってしまったのは、運が悪かったとしか言い様がなかった。











「帰らなくてもいーだろーーー!!」


メルヴィンが町を出ることを知ると、鍵屋は大声を上げて渋った。

宿屋もかなり落ち込んでくれた。

宿を出る前に一杯…という口実でお茶に誘われ、会話の中で二度程とても遠回しな、もう少しこの町にいたらどうだろう…?という提案がぼんやりと入っていた気がするが、その話に乗るとつい頷いてしまいそうで、メルヴィンは気付かないふりをしてみた。

…が、玄関口で見送ってくれた宿屋と違い、生憎鍵屋はそんなことで説得を諦める性分ではなく、権利書を不動産屋へ返しに行く道を付いてくると言い出した。

嬉しいやら少しばかり迷惑やらで困惑していたメルヴィンだが、途中ケーキ屋の前を通りかかった時にどうせ行くならと不動産屋へのケーキを買うという理由で鍵屋は足を止めた。

店内にミニアは入れないので、店先でぽかぽかひなたぼっこしている。


「なあ。もう1個どれがいいと思う?」

「はあ…。そうですねえ…」


ホールではなく、綺麗に並んでいる個々のケーキをざっと見て手早く2つを決めた後、メルヴィンへ意見を求めるほど軽かった。

自分を説得するという目的とは別の、ケーキを届けるという目的ができたことでいくらか構えは解けた。

彼の性格なのだろうが、軽い対応からはあまり真剣に引き留めようという気概が感じられない。

一種の社交辞令なのだろうと思うことにした。

それが分かっていても嬉しい言葉は嬉しいものだ。

店が建ち並ぶ道の終わりでベルを鳴らし、馬車を呼ぶ。

町から離れた不動産屋へ向かうため、カラカラと車輪の音を聞きながら細い林道を進んでいく。


「あんまりさぁ、気にするなって」


馬車の揺れに膝に乗せたケーキの入った箱が傾かないよう気を付けながら、鍵屋が窓枠に片肘を着いてメルヴィンを見た。


「岩山の一件は残念だったけどよー…。他の土地紹介してもらえよ。あの岩山に気に入られなくても、他の所がお前のこと好きかもしれないだろ」

「いえ…。本当にここは良い町で、ここで成長できたらと思いますが…。もうこれ以上町人の皆様にもこの辺りの地面にも…という言い方で宜しいのでしょうかね。分かりませんが…ご迷惑はかけられませんから」

「ふーん…。…まあ、何だかんだ言ったってたぶん意味ないけどな。まだこの町に宝石屋はいない訳だし」

「…?」

「“交代”じゃない奴は大体そうなんだよ」


軽く笑いかけてくる鍵屋の意味が分からず、メルヴィンは少し首を傾げた。

すみませんが、仰っている意味がよく分からないのですが…と。

彼が聞き返そうとした直前で、馬車が林道のど真ん中で停まった。

数秒後。

ドアが開き、御者が片手の掌先で外を示し、メルヴィンと目を合わせて小さく微笑んだ。


「どうぞ」

「…私ですか?」


まだ目的地までは遠いはずだが、このような林道の真ん中でどうしたのだろう。

不思議に思いつつ、促されるままにメルヴィンが馬車から降り、続いてミニアが駆け下りる。

鍵屋だけは馬車に残ってにやにやしていた。


「おや…」

「…」


馬車の行く手を遮るように、細道の中央にフークバルドが立っていた。

鮮やかなショールと美しい頭部の薔薇、皮膚の茨はそのままに、ガラス細工のようなどこか異質な青い瞳が彼を待っていた。


明るい日差しが差し込む林道。

その中に立っていると、華奢で整った少年の姿はまるで大地からそのまま凛と咲いている、一本の植物のように思えた。












「……君たちに話がある」


挨拶を終えてすぐ。

立ちつくすメルヴィンと、さり気なく主人の前に一歩出て腰を下ろしたミニアに向けて、フークバルドぽつりと口を開いた。

開いたが、一言目を口にした後妙な間があった。


「…」

「…」

「…」

「あの…。遅くなりましたが、権利書でしたら今からお返ししようと伺わせていただくつもりでしたので…」


老紳士の方は先の一件があってから、目の前の小柄な少年がただの少年ではないことを愛犬共々理解した。

無知だった頃よりは些か緊張と敬意を示し、自然と目上の者に対する物言いになってしまう。


  __プリンス…。


メルヴィンの謝罪を追うように、複数の女声を織り交ぜたような声がフークバルドを促した。

この林道は彼の家とその奥まで真っ直ぐ続いているが、家とその周辺を守る声よりも少し高い響きだった。

要するに、この辺りは彼女とはまた違う“ここにある彼女”なのだ。


 __…分かってる。


響きで返してから、フークバルドは不本意だが改めてメルヴィンを見詰めた。



「…君は、最初に僕の所に来た時に、ここで休憩を取った」

「え…? …ああ。そう言えば」


初めて不動産屋を尋ねた時、彼は御者を呼ぶベルを持ってはいなかった。

長い時間をかけて徒歩で歩いてきたのだが、やはり途中で休憩が欲しくなり、実際にはもう少し道の先なのだが、そこの道端にある大きめな石に腰を下ろして休んだものだ。

それを何故彼が知っているのか、少し前であれば不思議に思いもしただろうが、今のメルヴィンにはそれが分かる。

思わず足下を見下ろし、無意味にも一歩後退した。

ミニアは背を屈め、鼻先を地面に添えて匂いを嗅ぐ。

…考えれば、プライバシーなど何もないということになる。

多少の恐怖を覚えながらメルヴィンが顔を上げると、フークバルドは浅くため息を吐いていた。


「その時に、近くの花に水を分けてくれたことがとても嬉しいらしい。彼女はその花をとても気に入っていたから」

「彼女…というのは…」

「でも見たところ帰るみたいだから今から話すことは聞かなくても別にい…」


  __プリンス…!!


「……」


王子が正確な伝言から外れそうになり、優しい声は慌てて声を張った。

自分が悪いことを分かっていてもどこか納得できず、フークバルドはむ…と顎を引いて吐き出そうとしていた言葉をぐっと我慢した。

岩山でのことがあってか、メルヴィンの評判は彼の一族の間ではあまり良くなかった。

勿論フークバルド自身も好きではなかった。

根本的に他の一族たちよりも圧倒的に幼い分、他の種族との精神的な距離感が拭えていないし、“違い”を受け入れる慈愛の優しさもまだ持ち合わせていない。

そんな中、彼の家と町との中間地点の土地が老紳士を気に入っていたことは、本当に想定外だった。

初めてメルヴィンがこの道を通った時、“ここにある彼女”が彼の行為に感謝してフークバルドに自分を勧めてもらうよう頼もうと思っていたのだが、その前に岩山付近に住まうという話を聞き、彼女は“あの紳士はもっとずっと控えめな方が好みなのだ”と諦めていた。

彼女自身町中と比べると決して華やかな方ではないが、それでも岩山と比べると木々の葉は揺れて音はするし小鳥も小動物もやってくる。

時折こうして馬車も人も通るし、静かさや慎ましやかさでは負けている。

だが権利書を返してこの町から出て行くらしいという話を小耳に挟み、それならば駄目もとで帰る前に聞くだけ聞いてみようと思う…と、彼女にしては勇気を振り絞って何とかフークバルドに今朝方伝えて欲しいと頼んでみた。

王子はそれを伝える義務を持っているし、彼女たちの願いは叶えてあげたいと思うところが普通なのだが、今回は自分の寝床の傍に人間が住むという所がちょっとだけ気に食わない様子だった。


  __お願いします、プリンス…。


「……………………つまり」


静かにふて腐れつつも、フークバルドは両目を伏せたまま軽く片手を開いてこの辺り一帯を示した。


「君はここにお店を持つべきだ」

「……はい?」


突然ぽつりと吐かれた言葉に、“彼女”の単語にすらついて行けないでいたメルヴィンは間抜けな声で聞き返した。

遠巻きに馬車の傍で一部始終を眺めていた御者と、いつの間にか馬車から降りてきていた鍵屋が高い位置で手を叩き合う爽快な音が林道に響いた。




馬車にフークバルドが乗り合い、馬車はそのまま不動産屋である彼の家へと向かった。

岩山の権利書を返すと同時に先程の土地の契約書にサインを済ませ、その後にお茶の時間となったが、鍵屋はケーキ屋でメルヴィンに選ばせたケーキを当然の如く笑顔で彼の前に置いた。

ほーらな~♪と得意気に胸を張る鍵屋がうるさかったのか、丸テーブルを隣に座っていたフークバルドは少しメルヴィンの方にずれた。




その日。

町に新しい町人が増えた。

種族は人間(…と、一部の人から見れば魔神も)。

職業は宝石屋(…と、一部の人から見れば採掘技師)。

名前はメルヴィン。

そしてその飼い犬、ミニア。

その前に住み始めたキツめの性格の読書家と比べると、些か町人たちが叩き合った手の数や乾杯の数が多かった気がする。




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