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「ただい……」
「遅い!」
一輝の声をかき消すような大声。
約束の時間に遅れたことを心苦しく思いながら家に入る一輝を玄関で出迎えたのは叔母である紅葉さんだった。玄関の一段高い所で腰に手を当てて一輝を待っていた紅葉さんの表情はいつもより少しばかり怒っている様だった。
とりあえずは遅れた事に関して謝ろうと決めた一輝は俯いたまま謝る。
「遅れてごめん。叔母……」
ゴン。
「うぅ」
一輝が最後まで言葉を紡ぐ前に紅葉さんの拳が後頭部に落ちてきた。俯いていた一輝には勿論避けることなど出来ず、鍛え上げられた彼女の拳をそのまま頂戴する。
頭を抑えながら一輝は紅葉さんの顔を見る。その顔は先程よりも明確に怒りを表していた。だが拳を振るった理由は別に遅れたことに関してではなかった。
「いつも言ってるでしょ?! そんな他人行儀な呼び方はするな、と」
「ごめんなさい。紅葉さん」
とっさに叔母さんと言おうとしたため一輝を殴ったのだ。
紅葉さんは一輝に対し叔母と呼ぶことを禁止していた。
それは小さい頃から親代わりとして一輝を育てている紅葉さんにとって決して妥協しない一線であった。
そんなアットホームな紅葉さんに一輝は幾度となく心を救われている。だが、それでも心の中で紅葉さんを叔母であると思っている一輝はとっさの場合、こうして言葉に出てしまうことがあるのだ。
殴られた事に対し目に見えてしょげている一輝に、怒っていた紅葉はため息をついて話しかけることにする。このままでは話が前に進まないためだ。
「今何時?」
「五時……二十分です」
「約束は?」
「五時です」
やさしい口調に戻った紅葉さんの質問に淡々と答える一輝。
一輝は学校から直線距離にして五㎞以上離れている自宅まで二十分以内で帰ってくるというのはかなり難しい。それが出来るということは一輝自身なかなかの脚力を持っている証拠だった。現に息の乱れは全くない。
だが、表情はとても苦しそうである。これは真摯に遅れた事を反省しているからだろう。ある程度の事情を美緒から電話で聞かされていた紅葉さんはもう一度ため息をつき、呆れた様子で腰に当てていた腕を前で組み直す。
「まあ、いいわ。とりあえず間にあったから」
「え?」
「今日、あなたに会いたいと連絡してきた人がいるのよ。その人が訪ねてくるから早めに帰って来いと言ったのだけど、まだ来ていないから遅れた事は許します」
早めに帰って来いという紅葉さんにしては珍しい要求の内容を説明された一輝はとりあえず許してもらえた事にホッとしながら、紅葉さんに感謝する。
「すいません。紅葉さん」
ゴン。
「あうぅ」
ここでまたしても紅葉さんは一輝に拳骨を加えた。そして一輝に言い聞か
す。
「これもいつも言ってるけど、ごめんなさいとありがとうが同じ意味の時は必ずありがとうと言いなさい。謝罪の言葉を多く口にする人間よりも感謝の言葉を多く口にする人間の方が絶対に良いのだから」
「ごめ……ありがとう。紅葉さん」
「さあ、早く着替えてきなさい」
感謝する一輝に今度こそいつもの様子に戻った紅葉さんは一輝に背を向け、一階の居間の方へと歩いていった。
靴を脱いだ一輝はカバンと学生服を着替えるために自室のある二階へ向かった。
この家には居間の他に部屋が5つある。
一階には物置きとなっている客室と一輝の父親の部屋。
その他は玄関からすぐのところにある階段を上ると見えてくる。一つは一輝の部屋で、残りの二つは片倉夫婦の寝室と義理の妹である青葉の部屋だ。
迷わず階段から一番近い部屋に一輝は入っていく。当然、一輝自身の部屋だ。 ベッドと学習机、それに本棚とトランペットの入っているケースが一つあるだけの部屋。
必要な物以外ほとんど置いていない一輝の部屋はあまり学生らしさを感じさせない。それでも一輝は十分満足していた。
一輝は机の横にカバンを置いてすぐに机に置いてある写真立てを見る。
「ただいま、母さん」
そこには滅多に帰ってこない父さんと顔もほとんど覚えていない母さん、そして母さんに抱かれているまだ赤ん坊の一輝が写った写真があった。家に帰ってくると必ずこうして挨拶するのが、一輝の日課になっていた。
それが済むとクロゼットから着替えの服を取り出し着替え出すのだ。
柄のあるTシャツに長袖のシャツ、ジーンズのズボンという若者らしい恰好をしてから部屋を出て下に降りて行く。
するとちょうど玄関の所で来客を知らせる呼び鈴が鳴る。そしてその音のすぐ後に居間にいる紅葉さんの声がした。
「一輝~。出て頂戴」
「は~い。……よっと、どちらさまで?」
紅葉さんに返事をした後、一輝はすぐに玄関を開ける。そこにいたのはスーツを着た男の人だった。背が高く、顔はやさしい感じの優男だがひょろっとした印象は全くなく、むしろ鍛えられ引き締まっているように見える。
「鬼庭一輝さんですね。私は秋宮亮と申します。本日は鬼庭大佐の遺品をお持ちしました」
「え?」
相手が話しているのは日本語なのに何を言っているのか一輝には理解できなかった。
そんな一輝に敬礼する秋宮。
この男性との出会いが一輝の日常に終わりを告げることになろうとはこの時は想像もしていなかった。
2014.0419 改変。(文章をより読みやすくしました)