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暖かさと少しばかりの湿気を含んだ風が体を包み込むようにふく。空からは青みが少しづつ消えるもまだ夕暮れの橙には遠い。眼下に広がる校庭からは一輝たちと同じ学生が青春を謳歌していると言わんばかりに汗を流し声を張り上げていた。
「いい風ね」
屋上の淵にある鉄柵にもたれ掛かりながら奏は風で乱れる黒髪を撫でながら彼方を見て呟く。
ああ。本当に絵になる。
後ろから彼女を眺めている一輝はそうため息をついた。
奏にあこがれる生徒達がこの光景を見れば、誰もが言葉の代わりに息を呑み時間が止まってしまったかのように見入ることだろう。彼女に自分の中の理想を押し付けていない一輝であってもそれは例外ではなく、ただただ奏に見惚れていた。
何も答える気配のない一輝に奏は微笑みかけながら聞く。
「何? もしかして、見惚れてた?」
「ああ。言葉に出来ないくらいには見惚れてたよ」
「そう……」
一輝の心からの言葉に奏はにっこりと笑いながら答える。
その微笑みは数多の生徒達にいつも向けているものではなく一輝だけに見せた彼女の心からの笑みだった。
一輝にはその区別はつけることが出来ない。だが、彼女からの贈り物に思わず顔が赤くなっていく。そのことに気づいた一輝は奏にばれない様に俯きながら歩み寄り同じように鉄柵にもたれ掛かった。
「とりあえず聞かせてくれよ。奏のフルート」
カバンと共に持っているフルートのケースを見ながらそう促す。しかし奏はそこで首を横に振った。
「やっぱりいいわ」
「どうして?」
そのためにここに来た一輝にとって奏の言葉の意味するところが良く分からなかったからだ。そんな一輝に向かって奏は当たり前のことを言い聞かせる。
「三十分じゃ基礎で終わるからよ。それならゆっくり話してるほうが得でしょ?」
「そういうもんか」
「そういうものよ」
奏が練習よりも一輝との話を取るというのならそれはそれで光栄なことだ。それに奏も一輝も別に部活動として楽器をやっているわけではなかった。
奏は小さい頃からの習い事としてフルートを始め、今ではほとんど趣味のような感じで続けている。
一輝にしても楽器はトランペットだが小さい頃に父親から教えてもらったもので唯一といってもいいほど少ない父との記憶であり、絆なのである。故に課題曲も合奏のためのパート練もないのだ。
(一輝は吹奏楽の合奏に、時々入れてもらったりもしているが)
「で、何を話す?」
そう一輝が促すと奏は待ってましたという様子で一輝に問いかける。
「じゃあ先程の呼び出しについては? まあ、検討はついてるけど」
「言ってみ?」
「昼休みのことでしょう?」
「正解だが、何で知ってるんだ? 一応話が広がらないようにしたって美緒さん……堀川女史は言っていたのに」
この手の話は日々話題に飢えている学生達にとって格好の獲物ではあるが、まだ当事者が言いふらさない限り広まっていないと一輝は考えていたのだ。
それは堀川女史に連れて行かれていた時の教室の雰囲気からも分かる。そしてボコボコにされた相手がこのことを広めることはないとも考えていた。
堀川女史にしても騒ぎにならないよう事件後すぐではなく放課後に呼び出して、生徒がこのことを知るのを遅らせ、あわよくばゴールデンウィークの波でもみ消してしまおうという魂胆だった。そのため奏が知っていることが不思議だったのだ。
そんな一輝の質問に奏は向かって左後ろを指差す。何も説明はしなかったが奏の行動の意味を一輝は正確に理解していた。
「あちゃ~。誰も見ていないと思ったのに」
「あまかったわね。ここから校舎裏が見えてると考えなかったなんて」
奏の言う通り、この屋上からは昼間の喧嘩場所がばっちり見えていたのだ。昼休みに屋上にいたものからは一輝の喧嘩は丸見えというわけだ。
そしてクラスの連中には広まらず奏だけが知っている理由にも思い当たった。だがそれは少しばかり寂しい出来事のようにも感じられるものだった。
「てか、お前。まだ昼休みの間一人で屋上にいるのか? 人は集まってくるんだから皆と食べればいいのに」
彼女を心配しての発言だったのだが奏にとっては余計なお節介でしかない。
「いいのよ、別に。昼休みくらいは心静かにしていたもの。分かる? 聞きたくもないのに『弁当の中身は自分が作った』だの、『うちの犬の元気がない』だの。全く生産性のない会話に答え続けるしんどさを」
熱くにじり寄りながら語る奏に一輝は少しばかり後退しつつ答える。
「ま、まあ確かにいや過ぎるが、今から生産性ばかり求めてもつまらない大人にしかならないぞ? 無駄なお喋りを優雅に楽しめてこその淑女だろ」
「……」
一輝の言葉に返って来る物はなかった。
そっと奏を見るとものすごく不愉快を表す表情をしていた。どうやら淑女という言葉にいたく機嫌を損ねてしまったようだ。
まだまだ子供っぽいなと思う反面、自分には素の感情を露にしてくれていることに嬉しく思いつつ、一輝は先程の言葉を訂正した。
「悪かったよ。約束を破った俺が悪かった」
「約束の内容は?」
「覚えてるよ」
「ここで言ってみて」
一様謝ってみたものの、奏の機嫌はまだ元に戻らない。どうやら一輝の想像以上に怒っているらしい。奏にばれないよう小さくため息をつきながら一輝はここで彼女と初めて約束した内容を言う。
「『友達になった記念として、俺はお前に普通の女の子として接する』 どうだ? 忘れてないだろ?」
「違うわ。『西宮奏は鬼庭一輝を初めての友と認める代わりに鬼庭一輝は西宮奏を特別扱いせず、普通に接する』よ」
「長いわ! それに相も変わらず誓約書みたいだって言ってるだろ。友達になる代わりに普通に接する、でいいだろ? そこは」
一輝のツッコミにも奏は軽く笑うだけで答え、
「まあ、今回は特別に許してあげるわ」
とお嬢様成分全開で答えるのだった。
「……なんで上から目線」
呆れた様子で言う一輝にふふふと上品に笑った後、奏は本題に戻った。
「前に何か格闘術を習っていたといっていたけど、本当だったのね」
疑惑の視線を受けていたことに若干の苛立ちを感じながら一輝は答える。
「嘘ついてるとでも思ってたのか?」
「強いと褒めてるのよ? これでも。で、見てて思ったのだけどどうして合掌してたの? その意味が良く分からなかったわ」
一輝の戦う前にしていた合掌の意味を奏は問う。彼女にはあの行為が道場で試合う時の作法にでも見えたのだろう。だが一輝がする合掌とは少しばかり意味が違うのだ。
「俺が前に争いが嫌いだって話をしたのを覚えているか?」
「うん」
「それは道場にいた頃からずっとなんだけど、稽古で手を抜くことは失礼にあたるのが武術の世界。でも俺はたとえ武術でも戦いたくなかったんだ。それで思い当たったのがこれだよ」
そう言って一輝は奏の前で目を閉じ合掌してみせる。
そして目を開けた瞬間、奏は彼の中で何かが変わったことを肌で感じた。
一輝の眼差しにあったやさしい光が目の前にいる敵を撃ち滅ぼす猛々しいものに変化する。奏は肌が逆立ち一輝をどこか恐れ、まるで狙われた草食獣のような、そんな原初的な気持ちにさせられたのだ。
しかしそれも彼が再び瞬きをした瞬間、うち消えるのだった。
「こうして気持ちを整え、自分に負けるものはいないと思い込むんだ。おかげで試合で負けたことはないよ」
「よくわかったわ。あなたにとってその行為は言わばスイッチの切り替えなのね」
「ちょっと違うが、まあそんなところだ」
合掌。
この日本という国では意外に良く見受けられる行為だ。
武術の試合のとき、神社などのお参りに墓参り……。数々の場所で行われる合掌は基本的に礼儀や祈りのために行われるものだろう。
だが一輝の合掌は一種の自己暗示だった。
自分の中にある戦いたくない自分と争わなくてはいけないと決断している自分。この二つを統一し、覚悟が出来た自分を想像し自分の中に取り込む。こうして出来た戦う覚悟のある一輝には目の前の敵を倒すこと以外は全て些事と考え、弱気も泣き言も全て一輝の中から排除される。徹底的に好戦的な一輝が生まれるのだ。
一通り見せた後、一輝の合掌に理解をもった奏に、だけどっと少しだけ付け加える。
「少しの間だけは無防備になるから途中で攻撃されちゃったりすると集中が切れてうまくいかなくなるんだけどね……」
そう笑いながら、今日はラッキーだったよと一輝は照れながら説明する。
「でも、気をつけてね」
「ああ。基本的にはそんなことがない様に振舞うから大丈夫さ」
心配する奏を安心させるように一輝が笑っているとチャイムが校内に響き渡る。それは当然、一輝たちのいる屋上も例外ではない。
そしてその音に一輝は驚いた。チャイムの音量に関してではない。このチャイムが流れる時間に関してだ。
放課後、この学校に流れるチャイムの時間は午後五時と六時の二回だけ。 そして今鳴っているのは午後五時を告げるチャイムだったからだ。
「ごめん! 今日は帰る。急がなきゃ、すでに遅刻だ!」
「分かった。またね。良い連休を」
「おう!」
返事を返しながら、一輝はカバンを肩に掛け昇降口めがけて駆け出す。すでに遅刻だがこれからは一分一秒を争う。急がなければ拳骨の数に影響するからだ。
慌ててかけていく一輝を見ながらそそっかしいなと苦笑いを浮かべる奏。
そんな彼女もフルートを取り出して練習を始めた。休み明けには一輝に一曲聞いて欲しいなと考えながら。
2014.0419 改変。(文章をより読みやすくしました)