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寝ぼけて教師に小突かれる事も、不可思議な事件への恐怖が再び湧くこともなくただ時間は過ぎていく。授業に集中しつつも時折、窓の外を眺め春の終わりを感じているとあっという間にお昼休みになった。
生徒達が束の間の休息を味わう中、一輝もカバンを机の上に載せて弁当箱を探していると、いつものあいつが近寄ってくる。
もちろん銀二だ。
「一輝。今日も弁当か?」
詰襟を脱ぎ、カッターシャツを肘まで捲くった銀二が問いかける。
「まあな。叔母……いや、紅葉さんが青葉の分と一緒に作ってくれてるからな」
そう言いながら、カバンから弁当箱の包みを取り出す。
包みの中は二段弁当だ。
ただし、二段といえども普通に市販されている二段弁当ではない。巨大タッパー二段の弁当、しかも一段は全て白ご飯、もう一段は基本的に肉というスーパースタミナ弁当だ。
一緒に住んでいる叔母さん―片倉紅葉さんが彼女の娘の(一輝にとっては従姉妹)青葉の弁当と共に作ってくれるものだ。ちなみに中身は同じである。
このスタミナ弁当は一輝にとって小さい頃から食べ慣れたものだった。
鬼庭家では代々子供の頃には武術を習うのが慣わしだ。心身ともに強く育てるのが目的だそうだ。
当然、鬼庭の娘であった紅葉さんも例外ではなく、小さい頃には実家にある道場で汗を流していた。大人に混じって鍛えているうちに紅葉さんはその道場でも一、二を争う強さになったそうだ。
その当時ついたあだ名が『鬼の子』。
忌み嫌われるときに呼ばれるこの名を彼女は嬉々として用いていたとも言われている。
そんな豪快な人が自分の子供に武術を教えないわけはなかった。
一輝が7歳の時、三歳年下の青葉を道場に連れて行き早々にしごき始めたのだ。
一輝が昨年道場を去った後でも青葉は変わらず紅葉さんの指導を受けて道場で汗を流している。
「それにしても、相変わらずでかいな。その弁当」
「そうか? 俺にとっては普通だが」
一輝が道場に通っていた頃から変わらないこの弁当。
彼にとってはこのサイズが普通だと思っていた頃があり、入学当初は周りから奇妙な目で見られていたことも今では懐かしい話である。
そんな事を思い出しながら一輝は銀二を見た。相変わらずカメラは首から下げてはいるが、手に弁当らしきものはない。
「銀二は今日もパンか?」
そんな質問にも軽快な返事が返ってくる。
「おうよ。じゃあ待っていてくれ。速攻で買ってくるからよ」
そういい残し彼は教室を出て行った。購買に買いに行ったのだ。
母親が転勤で家には居らず、父親にいたっては滅多に帰ってこない銀二。 父親は何処で何しているのか分からず、母親にいたってはすでに亡くなっており、今では父親の妹である紅葉さんの家に居候している一輝。
そんな二人が中学の三者面談でお互いの境遇を知ってから今のように親友と呼べるほど仲良くなるのに時間はかからなかった。
それ以来、昼は彼と一緒に食べるのが日課になっていた。故に彼を待たずに先に食べるのも暗黙の了解であった。
いつものように一輝は包みを外し中身を確認する。
中身は生姜焼きと豚カツだった。相変わらず食品バランスという文字が欠如した弁当ではあるが、一輝にとっては見慣れたものである。
「さてと、次は……」
中身を確認したので、ご飯を食べる前に喉を潤そうともう一度カバンに手を突っ込む。だが、いつもはある水筒が今日はなかった。
「あれ? おかしいな?」
手だけでなく目でもない事を確認した一輝は仕方なく銀二の後を追いかけるように購買に行くことに決めた。もう追いつけないだろうが帰りは一緒に帰ってこられるだろうと考えながら。
お茶を自販機で購入した一輝はそれを口に含みながら首をかしげていた。
何故だかわからないが銀二に会わなかったのだ。
二階の教室から一階の購買までの道のりは多々あるが、最短の道は教室の近くにある階段を下りてそこから購買のある別棟へ行く道だった。
そこで銀二とはすれ違わなかったのだ。その上、お茶を自販機で買う前に購買を覗いても彼はいなかった。
別の道を通って帰ったことも考えられるが、彼が出来るだけお昼をお喋りに当てたいことを一輝は知っていた。なので、遠回りする理由もない。
(どこかですれ違ったかな?)
そんな事を考えつつも教室に戻れば会えるからいいやと思い直した一輝はそのまま自販機を後にする。
「なにするんだ!」
そんな声が聞こえてきたのは、自販機から3歩程歩き出したときだった。何気なく声のしたほうを見るとそこには一人の男子生徒を囲む三人のこれまた男子生徒がいた。
十中八苦、声を上げたのは中心にいる男子生徒だろう。上級生が下級生を囲っていると思われる。
この時、一輝は思わず周りを見渡しつつため息を吐いた。幸か不幸か周りには一輝の他は誰も居らずこの状況を見ているのもおそらく一輝だけだったからだ。
(面倒な場面に出くわしたな)
そんな事を思っている間に下級生は両腕を羽交い絞めされながら校舎裏に引っ張られていくのが見える。
この光景を見ていた一輝はこんなことを考えていた。
面倒な仕事が増えたな、と。
この言葉は勢い勇んでかばいに行こうとして出てきた言葉では決してない。一輝の中では先生に言いに行く手間が増えたな、とそんな程度のものだった。
一輝は確かに武術を学んでいた。
紅葉さんの教えは『鬼の子』の名に相応しく半端な覚悟の者ならば一時間と持たないと言い切れるものだ。それを六年以上習い続けていた一輝にとって特に何の武の心得もない、あってもあのような集団でしか人を恫喝できないような奴等に負ける道理はなかった。実際手合わせすれば負けることはないと言い切る自信さえ一輝の中にはあった。
だが、それとこれとでは話が違う。
一輝は確かに武術を学んでいた。
だがそれと同時に争いが、そして血が苦手だった。
それはたとえ試合であっても人を傷つけるのを良しとしなかった一輝の本心からの思いだ。その思いの根底には母親が病気とかではなく暴力の類で死んだことを知っていたということもあるのだろう。だがそれ以外にも目的なく暴力を振るうことや簡単に相手を傷つける意味が彼には分からなかったのだ。
なので知らない人間――同じ学校の生徒というだけで助けに行く気は一輝には全くといっていいほどなかった。
しかも襲われているのは男子生徒だ。もしも女子生徒であればかばいに行こうとも思わないでもないが、男であるならば別にどうなろうと知った事ではなかった。
ただ、このまま放って置くのはさすがに目覚めが悪いので教師を(一輝はおおよそ堀川女史に言いに行くつもりであった)呼んでこよう。その間に二、三発殴られるかもしれないがその程度で済む。むしろ一輝が行くよりも事態の収束は早いはずだ、と一輝はそう考えていた。
連れて行かれる生徒の手に大事そうに抱えるカメラを見るまでは。
「うぐぅ!」
校舎裏に引きずり込まれた後、銀二はすぐさま突き飛ばされ受身も取らず地面を無様に転がった。シャツには土がつき、地面に擦った腕は血がにじんでいる。
その姿を見て突き飛ばしてきた三人の上級生は笑いながらジリジリと歩み寄ってくる。銀二の無様な格好を笑っているのだ。
銀二にとって多少の怪我や笑われることに関してはなんとも思わなかった。そんなことよりも彼にとっては首から下げているカメラのほうが大事なのだ。上級生そっちのけで銀二は手元のカメラを確認する。彼が身を挺して庇ったおかげで何処も壊れてはいなかった。
そのことに彼はほっと一安心した。
だが、その姿を見た上級生の一人が銀二に無視されたのだと勘違いし激情する。
「てめぇ……無視してんじゃねぇ!」
両手のふさがった銀二の無防備な腹部に鋭い蹴りが突き刺さる。
「ぐぅ!」
体がわずかに地面から浮き上がり、一m近く後ろに転がっていくほどの蹴りを受け銀二は悶絶する。肺の中の酸素が全て吐き出され、しばらくの間息が出来ずに咳き込む。もしも、食後であったのならば確実に吐瀉していただろう。
銀二のそんな姿に上級生たちはまた笑い出し、そして蹴りを入れた男が銀二に言った。
「おめぇ。あんまチョーシ乗ってんじゃねえぞ」
「ごほぉ……。御馴染みの……チンピラ…台詞。おつかれ……ぐはぁ!」
「なまいってんじゃねぇ!」
あくまでも気丈に振舞う銀二に今度は三人からの蹴りを食らう。それを銀二は体を丸めながら防いでいた。
事の発端は購買でのこと。
パンの購入に並んでいた銀二。
昼休みの鐘から少しばかり間が空いたため、すでに購買には列が出来るほど繁盛していた。これは遅くなりそうだと思いながらも待っていると、突然 現れた三人の上級生が銀二の前の学生を脅し始めたのだ。
三人とも髪を長く伸ばし、同じようなヘアースタイルをしていた。制服もだらしなく着崩していて、ズボンも腰ではいている。ファッションに明るくない銀二にとって彼らは兄弟ではないかと疑ってしまうほど誰も彼もが同じ格好をしていた。
ただ、目の前の生徒を銀二はよく知らなかったが、怯えている事だけは良くわかった。それだけで銀二にとって彼を庇う理由は十分だった。
「おい、君達。彼は嫌がっているじゃないか」
周りで事を見ていた者たちにとって、銀二の行動は無駄な正義感を出した馬鹿に見えただろう。だが、彼にはそんなことで臆する理由にはならない。 自分が間違いだと思えることに対し、大声で間違いだということ。それが彼のポリシーでありジャーナリズムの根っこにある物だったからである。
当然、上級生たちは目の前の生徒よりも銀二に注目する。
始めは生意気な後輩をからかう程度で済ますつもりであったようだが、銀二の強い正義感と彼の目立つ格好が彼らの気に障り、やがて怒鳴りあうようになっていく。
(銀二の制服姿でカメラ持ち歩く姿は彼らには異様に映り、そこに異物感を覚えた上級生はその姿を『調子に乗っている』と捕らえたようだ)
そして彼らは銀二を裏へ連れ出したのだ。
彼らに面と向かって立ち向かった行いに関して、銀二はたとえこれから痛い目にあうとわかっていても全く後悔はしていなかった。
むしろ満足していた。その勇敢な精神に比べて全く喧嘩が強くなかったことを除けば……。
銀二の性格上こんなことはままある事だった。
ボロボロになった銀二を見て彼の親友はよくこう言う。
「殴られるのならば、喧嘩を売るようなことを言わなければいいじゃないか」
銀二を心配しての一言だ。だが、銀二は彼の言葉にはいつもこう返していた。
「何も言えない位なら殴られるほうがマシだ。もしなにも言わなかったら今殴られる痛み以上に心が痛む。そんなのはいやだ!」
そして熱くなった銀二は彼に向かって余計な一言を付け加える。
「そんな君こそ、なぜ強いのに率先して文句を言わない?! なぜ間違っていることを見過ごせるんだ!」
銀二はそう言い切った後、彼の顔を見ていつも後悔するのだった。彼の顔がいつも申し訳なさそうにすることを知っているからだ。そして彼は呟く。
「強い人がいつも戦いたいとは思わないで欲しい」
こうして銀二は彼が争いごとを望んでいないのだといつも理解させられるのだ。
そんな事を思い出しながら四方八方から来る蹴りを耐え続けていると、唐突に蹴りがやんだ。終わったのかと思ったのも束の間、銀二は襟を強引に引っ張り上げられ立たされる。
「呆けてる場合じゃねぇぞ、おらぁあ!」
「ぐふぅ!」
いきなり襟を放されたかと思うと今度は銀二の頬に相手の右拳が突き刺さる。足元がふらついている銀二がこの攻撃に耐えられるわけもなく、そのまま殴り飛ばされ再び地面に横たわる。
二度目の地面。だが最初と比べても彼の体は明らかにボロボロだった。
蹴られたところはジンジン痛み、腹を蹴られた為かうまく呼吸が出来ない。そして先程殴られた頬は赤く腫れ始めていた。だがこれだけされてもカメラだけは決して放さなかった。これを放すという事は彼にとっては屈服するも同じことだったからだ。
「こんだけされてもカメラ手放さないぜ、こいつ」
「でもおかげで殴り放題だぜ」
「そうそう。伸びるのにはまだ早いよ、きみ~」
再び襟をつかまれ引き起こされる。そうして後ろに引かれる相手の拳を目にした時また殴られるのだなとぼんやりと思った。
だがそれをいやだとは銀二は思わなかった。
別に殴られたいというわけではない。それよりもただ教室で待ってるはずの親友に申し訳ないと思っていたのだ。いつも先に食べ始めているわりにどれだけ遅れても絶対に一緒に食べてくれる親友。自分のことよりも人のことを考えられる良い奴で、自分の悪口よりも友達の悪口に怒れる優しい奴。
そんな彼のことを考えながら銀二は目を閉じる。
「ごめん。一輝……」
「謝るくらいならやるな、馬鹿垂れが」
拳の代わりに帰ってきたのは喧嘩が嫌いな親友の声だった。
一輝が校舎の裏側にたどり着いたときには銀二はすでにボコボコだった。 肌の露出している部分は血がにじみ左頬は赤く腫れている。それでもカメラを守っているところを見るとまだまだ屈服はしていないようだ。
「一輝……。なんで……。」
そんな事を言う銀二を見て一輝は意外に余裕ありそうだなと思った。
「勘違いだけはするなよ、銀二。別にここにいるのは偶々であってお前を探しにきたとかではないぞ。もしお前じゃなかったら無視していたしな」
手にしていたお茶のペットボトルを銀二に見えるように高く上げて振る。 これで彼にはここに来たのが偶然であるとわかっただろう。なんせ一輝は基本的に水筒を持ってきている。そのことは銀二も知っているからだ。
そしてそのままペットボトルを足元に置いた。
それを見た上級生は銀二を乱暴に放し、三人とも一輝のほうを向く。一輝がペットボトルを置いたことによってすぐに立ち去る気がないことを理解したためだ。
「なんだ、お前? こいつの知り合いか?」
「ええ。そいつは俺の知り合いですよ、先輩」
「じゃあなんだ? 助太刀か?」
「そのつもりはなかったんですよ。俺、喧嘩嫌いでね。それにどうせ自分に関係ないことで先輩達に突っかかったんでしょう? いつも、やめろと言ってるのに……自業自得です」
銀二を庇うどころか呆れ顔でそんなことを言う一輝に対し、上級生たちは一瞬、困惑する。真っ向からかかってくると思っていたのにもかかわらず、いきなり殴っていた相手に説教をし始めたのだ。
一輝の話を聞いて連中は訝しそうにしながら一輝の出方を待つつもりらしい。
「で? どうするよ、喧嘩嫌いの友達君。彼のこと見捨てる?」
「何度言っても聞かない馬鹿だからそうしたいところですけど、俺はそいつの真っ直ぐさがすごく気に入っているんですよ」
そこまで言うと一輝は言葉を一度切り、手を合わせて目をつぶったのだった。
敵意を持つ相手を目の前にしての合掌。
武道などの試合であれば相手に礼を尽くすために行う行為としてみることが出来るが、今は喧嘩の最中である。たとえ達人の精神集中も素人の目には隙だらけの物にしか見えないように、上級生にとっては一輝の行為は逆に失笑を浮かべる程度のものだった。少しでも武道をかじっている者が見ればこの行為が余裕の表れとも見ることが出来るが彼らには見当違いの行為に見えたらしい。
だが銀二には全く違うように見えた。
銀二は一輝が優れた武術の持ち主であることを知っている。故に彼の合掌がとてつもなくすごい技の一つに見えたのだ。
背筋はしっかりと伸び、目を閉じても体の軸は一切ぶれない。ただ手を合わせて目を閉じているだけなのに洗練された武を見せ付けられている錯覚に銀二は陥る。
そしてその感覚は間違いではなかった。
一輝が目を開けた瞬間、彼が放っている気配がはっきりと変わったのだ。直接敵意を向けられていない銀二にも分かるほどはっきりと。
笑っていた上級生達も一輝の感じがあまりにも変わったことを肌で感じたのか、笑っていた顔が徐々に強張っていく。
この時彼らは理解したのだ。決して笑いながら相手にしていいような敵ではないことを。そして銀二を痛めつけていた自分達を一輝は決して逃がさないだろう事を。
緊張のためか喉が渇く。
それは皆も同じなのか隣で息を呑む音が聞こえ、彼らは少しの安堵と同時に不安を覚える。それはだれもが一輝に慄いている証でもあったからだ。
そして一輝は合掌を解きながら先程の続きを話す。
「そんな奴をあなた達みたいな一人ではなにも出来ないクズに笑われると、さすがに我慢できないんだよ!」
急に敬語じゃなくなった一輝の言葉に上級生の一人が過剰に反応し一輝に殴りかかった。
「うおおおぉぉぉぉぉぉぉ!! なめんなよ! このチビが!」
上級生は一輝との間の五mほどを踊りかかるように疾走する。
小柄な一輝からすればまるで覆いかぶさるようなイメージが脳裏に焼きつく。それに構えすらまだとっていない一輝は明らかに出遅れた形になっていた。
それでも一輝は一切慌てず、足元に置いたペットボトルを走ってくる相手の顔面に向かって蹴り上げた。
拳を一輝に振り下ろす直前、目の前に飛んできたペットボトルに驚き、体が後ろに反れて勢いを失っていく上級生。
その隙を逃さず一輝は左足で大きく踏み込み、相手の懐に入る。そして全体重を左足にかけた。その上、体のバネを使って拳を繰り出し相手の顔に当たった瞬間に拳を振りぬく。
ドン!
大きな衝突音を響かせて上級生は後ろに吹き飛びながら地面にぶつかった。地面に横たわる彼から起き上がってくる気配は一切ない。
この時、一輝以外に何が起こったのか分かる者はいなかった。
一輝はただ身体のバネと相手の力を利用して上級生を吹き飛ばしただけであって、特に大した事をしたつもりはなかった。だが突進していったはずの仲間が逆に吹き飛ばされて帰ってきたことに上級生たちは誰一人動けなかった。
それだけではない。ただの一撃で彼らは理解してしまったのだ。どうあがいても目の前の男に勝つ手段はないのだと。
「次はどっちだ?」
一輝は詰襟のボタンを外し、近くに脱ぎ捨てながら言う。その声は決して高圧的ではなかったが確固とした交戦の意思を持っていた。
だが彼らの戦意はすでに折れていたようだ。
服を脱ぐという無防備な状態でも気を張り詰めていた一輝だったが、彼らは手を出してくることはない。それどころか本気となった一輝を眼にし、ただ青ざめた顔をして俯き震えだす。
一輝は相手の戦意が完全に折れたと分かるとこれ以上の手出しは無意味だと考え、ただ一言、
「失せろ」
とだけ告げた。
その一言で我に返った上級生は伸びている仲間を回収し、そのまま走り去っていった。
一輝はというとそれに一瞥すらせずに銀二に目を向ける。
「すまない、銀二。遅くなった」
それを聞いた銀二も一輝に向かって申し訳なさそうにしていた。
「いや、こちらこそ悪かった。一輝が喧嘩嫌いだって知ってたのに……その……させて」
銀二にしては珍しく殊勝なことを言う。そんな風に思った一輝は空気を返る為あえて銀二を罵る形をとった。
「まったくだよ。これじゃあ、制服脱ぎ損じゃないか。それに今謝っていても、今度また同じようなことになったら間違いなく言うだろ?」
「う……。それはそのつもりだが。別に俺は間違ったこと言っているつもりはないし……」
「じゃあ銀二。お前はそれを貫けばいい。そんなお前のためだからこそ俺も殴ろうと思う。だから胸を張れよ。な?」
微笑みながら銀二の肩を叩く一輝。その顔には先程までの緊迫したものはなくいつもの優しい一輝の顔に戻っていた。だが銀二にとって彼の笑顔は罪悪感以外の何者でもなかった。
「でも、それとお前が喧嘩するのとでは話が違うだろ?」
銀二のわがままの尻拭いを親友の一輝にさせる。それが彼にとって嫌な事であれば尚更罪の意識は重くなるというものだ。
その言葉を聞いた一輝は少しばかりまじめな顔をするのだった。
「あまり俺を見くびるなよ」
「え?」
「確かに俺は喧嘩や争いは嫌いだ。暴力では何も解決しないと思うし殴る拳も痛い。でもな、目の前で人が傷ついているのに素通りするほどクズでもないつもりだ。友達のためならなら尚更惜しむ気はない」
「そうか……そうだな。悪かったよ」
思いを込めて一輝は語った。
それは銀二にも伝わっただろう。だが次の瞬間彼がこんな風に返してくるとは一輝は思いもしなかった。
「……でも、始めは俺じゃなかったら見捨てるつもりだったんだろ?」
「うっ……」
そんな事を言う銀二の言い方には何も攻めるようなものはなかった。ただ、おかしな矛盾点をつついてやろうというお茶目があっただけだった。
そのため場の空気はそれほど重苦しいものではなかったが、一輝にとっては気まずい感じになっていた。
「あ~。それは……そう! 誰だって面倒ごとはしたくないし、それに見捨てるつもりじゃなくて、すぐに堀川女史に……って別にいいだろ? そんなことは」
「はは。そうだな」
慌てる一輝を目にし、ようやく銀二も微笑みだす。それを見て一輝は自分がからかわれていた事に気づき、一緒になって笑い出す。
しばらく笑いあった後、一輝は銀二に向かって手を差し伸べた。
「ほら。さっさと帰るぞ。飯の時間がなくなる」
「ああ。そうだな」
一輝の手をとる銀二の手はわずかながらに震えていた。
「びびり過ぎなんだよ、まったく」
「ははは……。悪い」
笑いながら立たせる一輝を見て銀二も頬を緩ませながら立ち上がる。だが一輝が手を離した途端、彼はそのまま崩れそうになった。どうやら気が抜けたらしい。
「おっと。しっかりしろよ」
「ごめん」
「ほんとだよ。それと後でお茶おごれよな」
中身が台無しになったペットボトルを持ちながら銀二に肩を貸し、校舎裏を立ち去る一輝。とりあえずは銀二を保健室に放り込まないといけないなと思いながら、ゆっくりと歩き出すのだった。
2014.0419 改変。(文章をより読みやすくしました)