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「今日はここまで。予習復習を忘れるなよ。日直」
「起立。礼。着席」
桜も散ってしまい、若葉が目立つようになってきた校庭を眺めているうちに一時限目が終わってしまった。
授業を図らずも途中参加してしまった一輝は慌ててノートを取り出し、黒板の文字と前回のノートを見比べ、すでに追いつけないほど授業が進んでいたと気が付くと早々に窓際の席の特権を使い始めたのだ。おかげで放課後には一時間分のノートをまとめる作業が待っている。
そんな一輝の憂鬱を尻目になぜか教室の空気は目に見えて浮き足立っていた。
休み時間に入った途端、何組かのグループに分かれてそれぞれ休日の予定を詰めるのに必死そうだ。
(何かあったっけ?)
その光景をまるで他人事のように眺めた後、一輝は肘を付きながら再び窓の外へ視線を流す。
窓の外は教室と比べて静かだった。時々風で葉が擦れる音がする程度。
静と動。
一輝を挟んで中と外が全く別の世界の出来事のようだった。
出来れば俺も外がいいな、などと思っている一輝。だがそれを無理やり中の世界に引きずりこむ存在がいた。
「よう! さっきは大変だったな」
一輝の肩を叩きながら笑顔と元気を振りまく男が声を掛けてきたのだ。
声だけですでに誰かは分かっていたが一様勘違いということもあるかもしれないので、視線だけを窓の外から男に移した。
ああ、勘違いはなかったらしい。良く知っている顔だ。
髪の毛をオールバックで固めた学生。
ここまでなら、何処にでもいる高校生なのだが彼の場合、いつでも何処でもカメラを首からぶら下げているのだ。
名を藤堂銀二。
一輝と同じ高校二年生の16歳。自称ジャーナリスト。
なぜ自称なのかというと親兄弟皆同じ道を歩んでいて、そんな彼らに認めてもらうまで自称を自称し続けるそうだ。ちなみに父親と兄は戦場カメラマン。母親は報道関係だそうだ。
「まあな。ミスった自分が悪いから仕方がない」
「そりゃそうだ。で、一輝はここで何してるの?」
銀二の問いに一輝は今日始めて彼の顔を注視する。言ってることが良く分からないからだ。
「どういう意味だ?」
その返事を聞いた途端銀二は一瞬間の抜けた顔をし、その後大げさに詰め寄り捲くし立てる。
「おいおい……。忘れたのか今週末は待ちに待ったゴールデンウィークだぞ!」
「ああ。そうだっけか?」
興味なさげに一言。一輝が本気で忘れていた事に気づいた銀二は呆れた風に呟く。
「枯れてんな~」
この言葉は事実ではあるが一輝はむっとした顔をしてすかさず言い返した。銀二の予定も花のある物ではないことが予想できたからだ。
「お前にだけは言われたくない。どうせ、連休中ずっとフィールドワークだろ?」
「もちろん! 分かりきったことを聞くなよ親友。今回はネタが多くて忙しいくらいだ」
待ってましたとばかりにテンションがあがり始める。
近くの椅子を手繰り寄せながら、銀二は持っていたスクラップ帳を広げた。 これを持ってきていたあたり彼はこの話題がしたくてたまらなかったらしい。
「で、今回は何調べてるの?」
「今回はこれよ」
そう言って楽しそうな銀二がスクラップ帳のあるページを開けて、そこにある記事を指差す。
そこにはこんな記事があった。
『不可解な連続殺人。消える手がかりと目撃者の記憶』
銀二の楽しそうな雰囲気とは裏腹に指差す内容はとても明るいものではなかった。ジャーナリズムを刺激しそうな内容なのは認めるが一輝にはこの見出しだけでお腹いっぱいとなりとても中身を読む気にはなれなかった。
「で、どういう事件?」
一輝がそう言うと予想していたのか銀二は簡潔に説明し始めた。一輝とは長い付き合いなので彼がこの手の事件をあまり好んでいないこと知っていたためだ。
「被害者はすでに三名にまで上っている。死体はすべてバラバラで爪みたいなもので引き裂かれたような後がある。目撃証言も少なく、犯人を見た人は悪魔の様な何かだとか言っていた……らしい」
「? どういうことだ、らしいって」
銀二はこの手の話をするときは決まってある程度の信憑性を集めてから話すのだ。ジャーナリストの魂に関わるというが実際は彼の誇りの問題だろう。
とりあえず彼の言葉から「らしい」などという曖昧な台詞を聞いたのはこの時が初めてだった。
一輝の問いに銀二も首をかしげながら事実だけを話していく。だが、確実に納得いっていないという様子だ。
「それが、事件発覚の1時間後に事件の証言を警察が取ったらしい。でも、次の日には誰からこの証言を取ったのかが分からなくなり、その次の日には警察内でこの証言について皆が忘れていたらしいんだ。それだけじゃない。死体が誰だったのか、どんな状況だったのかも分からなくなって、今ではこの事件があったという事実はあるんだけど、誰が死んでどんな状況だったのか誰も覚えていない。訳が分からないだろ?」
「手書きのメモとかは?」
「それも何処にいったか分からないらしい」
「はぁ?」
全くもって意味が分からない。事件があった事実はあるのに被害者が誰か分からないという。そんなことは果たしてあるのだろうか。なんだかものすごくいやな予感がする。
「つまり、事件のあった場所と日にちしか分からないのか? 被害者の家族は?」
「それをゴールデンウィークに調べるのさ」
平然と言う銀二も納得のいかない顔をしていた。話を聞かされた一輝ですら困惑しているのだ。調べている銀二にとっては当たり前というものだろう。
いつまでも不思議がっていても仕方がないので一輝は次の質問をすることにした。
「じゃあ、犯人の悪魔っていうのは? 熊とかの間違いじゃないの?」
「それはない」
死体の状況と犯人についての情報が出ている以上、この質問になるのは当然の帰結といえよう。
大きな爪跡と言われたらこの国では熊を連想することは間違っていないはずだ。どこかの山道でならありえない話じゃない。
だが、銀二はそれを一蹴して記事のある場所を指差した。
「その理由はここだ」
銀二が指差した所、それは3件目の事件現場の住所だった。
そこにはこう書いてあった。
『大阪市北区茶屋町……』
「って、ここから電車で30分とかからないぞ! え? どういうことだ?」
一輝は混乱していた。
事件現場は人口密集区、しかもその中での飛び切り人が多い大阪駅周辺だったのだ。
先程まで遠い世界の事の様に感じでいたものが突然身近に起こる。それだけでも十分なのに、一輝の混乱した理由はこれだけではなかったのだ。
一輝は突然思い当たったもう一つの恐怖を確かめるため銀二からスクラップ帳を奪い取り、ある項目を探した。
新聞ではなく雑誌か何かの切り抜きであったため少しばかり手間がかかったがその項目はすぐに見つかった。
それは日付である。
「4月……25……。そんなありえないぞ、これは……」
今は4月28日。
都心で起こった連続殺人であり、しかもまだ最新の事件から3日しかたっていないというのに、一輝は未だテレビや新聞でこのニュースを見た覚えがなかった。それどころか銀二がこのニュースを知らせてくれるまで事件の存在自体知らなかったのだ。
この情報社会で地球の裏側の情報ですら瞬く間に得られる時代に、数十㎞しか離れていない場所の事件を知らなかったという事実に一輝は戦慄を覚えた。
そう思い当たってもう一度教室を見渡す。
そこには週末の予定を決めて楽しそうにしている生徒達。普段なら何も思わないが、この事件を知ってしまってから見る風景は異常としかいえなかった。
彼らは知らないのだろうか? それとも知っていていつも通りにしているのだろうか?
一輝はこの時彼らとは本当に別世界にいるのだという感覚にいた。よく知っている皆が今は恐ろしく感じる。
「おい、一輝。一輝ったら。」
「なんだ!」
「いいから落ち着け? な?」
「落ち着けるわけないだろ! 逆に聞くが何で落ち着いていられるんだよ!」
突然の一輝の声に教室中の注目を集めた。
それを銀二は申し訳なさそうに頭を下げて事なきを得てから興奮した一輝をなだめるかのように銀二は肩をポンポンっと叩く。そうしてもう一度同じ事を聞いてきた。
「落ち着いたか?」
「……ああ。悪かった……」
教室中の視線と銀二の冷静さに触発されて、一輝はとりあえず深呼吸をして落ち着くことにした。二度の深呼吸で肺の中の空気と共に加熱しすぎた思考を冷却した後、再び銀二を見る。
そして、一輝は指を二本立てて銀二に詰め寄った。
「二つ。とりあえずは二つ質問がある。いいか?」
「どうぞ?」
「とりあえず、この記事。どっからもってきた?新聞は毎日読んでるがこんな事件今まで知らなかったぞ。お前の話からすると、時間が経つにつれ事件のことが記憶から消えていくんだろ? じゃあこの記事はどこから手に入れてきたんだ?」
「これは母さんからだ。近くの事件だから気をつけなさいということだろう」
「おいおい……」
銀二の母親は意外と彼のことをわかっていないらしい。
こんなものを銀二に渡したら、ジャーナリストを名乗る彼が首を突っ込まないはずがないのだ。そんなことくらいは一輝にも分かる。
呆れた顔をした一輝の心情を分かっているようで、銀二は記事を手に入れた時のことを話し始めた。
「初めてこの事件を知ったときはそりゃ一輝みたいに驚いたし、なんだか怖くもなったよ。けど、それが日付を重ねるごとに何だか記憶が薄れるというか何と言うか……」
「事件が風化していく感じか?」
「そうそれ! そんな感じであんまり関心がなくなっていく様な気がしたんだよ。だけど俺は逆に燃え上がっちゃて、絶対に真相を突き止めてやるってね。で、本格的に調べて始めたらなんだか不可思議なことばかりで、止められなくなった訳よ。人智を超えたものが関わっているんじゃないかって」
おそらく銀二の記憶から消えないのは毎日のようにスクラップ帳を眺めていたためだろう。学生が特に理由もなくスマートフォンを眺めているように。
そのおかげで彼の中の記憶は薄れることはなかったのかもしれない。だがそれは、
「本当に超能力が出てきそうな話だな」
「非科学的だがそうとしか思えなくなってる。で、ゴールデンウィークには徹底的に調べるつもりなんだ」
ありえないと思うことを想定しながら取材に望む。
銀二の父親の言葉らしいが彼の中にもそれがあるのだろう。ただ、彼の中には恐怖よりも興味のほうが明らかに肥大していた。
それを感じ取った一輝は念を押すように訴えた。
「気をつけろよ」
「分かってるって」
その言葉と同時に次の授業の鐘がなる。生徒がそれぞれの席につくのに従い銀二も笑いながら席についていった。
彼の様子を見ているととても大丈夫だとは言いがたいが今はそれを信じるしかなかった。
そうして始まった授業の中、一輝は事件とその犯人に当たる悪魔のことを考えつつも授業に集中していく。
その授業が終わる頃には彼の中から事件の恐怖は綺麗に消え去っていたのだった。