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「おに…かず……。……わ一輝…」
遠くのほうから何かが聞こえる。
それがどういう意味を持ち、何に対して呼びかけているのかが分からない。いや、分かりたくはなかった。それを理解した瞬間にこのまどろみから 覚めてしまう事がなんとなく分かっていたからだ。
それにこの声は電話の呼び鈴のように放っていたらいつか収まるだろうと考えていた。
所謂居留守というやつだ。現に聞こえてはこなくなった。
だが、それは一時の油断であった。
「鬼庭一輝!」
「はい!」
頭上から自分の名を叫ぶ女性の声に一輝は返事をしながらあわてて立ち上がった。
ガタンっと椅子を後ろの席にぶつけながらのいきなりの起立。そしてその音に負けないほどの声音で返事をしたため、教室の視線は当然一輝に集まることとなる。
「ホームルームから居眠りとは今朝は随分と余裕がなかったようだな、鬼庭!」
「いえ! 先生の化粧ほどではありません!」
(は!)
この台詞を口にした瞬間、冷や汗と共に一輝の意識は覚醒した。
確かに少しばかりうとうとしていたのかもしれない。
それは間違いようがなかった。だが、それでもこのクラスの暗黙の了解を破らないくらいには自制を保っていたはずなのに。
(ちなみに暗黙の了解とは担任の堀川女史のことである。きつい性格と目つきが仇となり三十過ぎても結婚相手どころか男の影すらないのだ。その為、最近では気合を入れて化粧をしているがその化粧が若干濃い。女史の名誉のために言っておこう。彼女の顔は決して悪くはないのだ。ないのだが……)
始めは一輝のことを「馬鹿だな」程度にしか思っていなかったクラスメートも彼の失言により緊張が一気に高まったのが手に取るように分かる。
「……鬼庭。何がどうだって?!」
ヤクザよろしくメンチを切る堀川女史。そのせいで一生懸命頑張った化粧にヒビが入ったのを一輝は間近で目撃することとなった。
ここまで言ってしまっては何とか手段を考えないといけない。
1つ目。最も簡単であり、かつ確実な事。
それは……黙秘。
黙って俯いて事なきを得ようという作戦だ。
……だめに決まっている!
この堀川女史という人はホームルームどころか授業が始まってもお構いなしに恫喝し続ける人だ。まず間違いなく今日一日がこれで終わってしまう。
次の選択肢としては、徐々に話の論点を変えるというのはどうだろう。
シュミレーションしてみよう。
聞き間違いではないかと疑ってから、寝ぼけていた理由として昨日の夜から今までを一通り説明し、今日の授業の予想を聞かせつつ、弁当の中身まで説明しよう。それを思い切り捲くし立てれば、話の論点なんて吹っ飛んでしまう。
そうだ、そうしよう。
「あのですね、先生……」
「あぁ!?」
駄目だ! あの顔はどんなことでも誤魔化されてやらないぞという確固たる意思を感じる。失敗する光景しか頭によぎらない!
こうなったらあれをやるしかないのか!?
だが、確実に自分のキャラではないぞ。
ああ。どうにでもなれだ!
「いやぁ~。今日の化粧はいつもより気合が入っていてとても綺麗に見えたもので。いえ、いつも綺麗ですよ? いつも綺麗ですけど、今日はと・く・べ・つだと思ったんです。いや、ほんと、お美しい。今日は良い事あるんですか? もちろんあるんですよね? ね?」
徹底的なおだて作戦。
最後までやりきる決意と周りからの冷たい視線に耐えながらもやりきった
結果、返ってきたのは……
「ないわ。馬鹿者」
その一言と頭蓋に振り下ろされる強烈なチョップだった。
「ハゥ!」
「え~。次、加藤。いるな。次……」
そうして、再びまどろみの中へと消えていく。
次に目を覚ましたとき授業は一時限目の途中だった。