3節 叶里八
白い海を、漂っていた気がする。不安とか、悲しみとか、嬉しさとか何もない、無。
全てが真っ白で、全てが曖昧で、これが『終わる』ということなのかと――ぼんやりと考えていた。
「ようやく、お目覚めね」
少女が目覚めたそこは、無の世界などではなかった。木目の高い天井、仄かに漂うお香のかおり、優しい表情で自分を見下ろす中年の女性。
「…………」
記憶が曖昧だった。何がどうなって、どうして自分はこんなところにいるのか。ただ、全身がひどく痛む――。
「お嬢さん、私がわかる? 私は桔梗院芳乃。この叶里八の町長、桔梗院信千代の妻です」
「……かなりや」
当然のことながら、聞いたことのない地名だ。
「驚きましたよ。あれほどの怪我を負って……まさか一命を取り留めるとは」
「…………」
「何があったのかは知りませんが、もう大丈夫です。この町には、あなたの敵となる者は存在していません」
その温かく優しい言葉に、少女は涙を流した。
「あらあら、相当怖い思いをしたのね。可哀想に」
子供のように泣きじゃくる少女の頭を撫で、桔梗院芳乃と名乗った女性は「大丈夫」と何度も繰り返した。
「笹楽坂茴……と申します」
しかし、名を名乗った瞬間、芳乃の表情は固く険しいものとなった。少女――笹楽坂茴は、青鹿村の村人にも同じ反応を示されたことなど全てを思い出し、警戒心を強める。
「まさか、あなた、笹楽坂市蓮の……私の兄の、娘……?」
警戒心はピークに達した。茴は布団から飛び起き、まだ痛む身体など無視して部屋の隅に逃れる。その時気付いたことだが、ここはかなり立派な屋敷であった。自分を長年、閉じ込めていた笹楽坂の屋敷と、同じような。
「警戒しないで、茴! 大丈夫、私はあなたの味方です」
「そんなこと、信じられるもんですか!」
「そ、そうね。確かにあなたが今まで強いられてきた境遇を考えれば、信じろなんて、無理な話ね……」
「……あんた、私のこと、どこまで知ってんの?」
芳乃は姿勢を正し、笹楽坂家のことを話し始めた。
「私の旧名は笹楽坂芳乃。笹楽坂家現当主、笹楽坂市蓮の妹です。茴と泪の双子が生まれたところを見ていましたよ」
「! 泪……それって、私の兄の名?」
芳乃は悲しそうに茴を見る。
「そうですか、兄の名すら、知らされていませんか。兄は、あなたの双子の兄は笹楽坂泪といいます」
「泪……泪お兄さん……」
フィーネが言っていた、茴と対をなす存在、アルファ(始まり)を司るシャドウ・コンダクターだ。
茴は恐る恐る芳乃に近付き、正座をする。どうやら、話を聞く気が起きたらしい。
「理由は知りませんが、市蓮は生まれてすぐの茴を屋敷の奥深くへ閉じ込めてしまいました。当然ながら私は反対をしたのだけど、物凄い剣幕で反撃をされたわ」
「…………」
「それから笹楽坂家が怖くなった私は、この遠く離れた叶里八へ嫁ぎました。今思えば、蓮華村全体が異様な雰囲気だったわ。16年前の赤子も、もう死んでいると思っていました」
「…………」
「立派になりましたね、こんなにも綺麗に……」
芳乃は感慨深く茴を眺める。
(違う。少し前まで、私はミイラのように痩せ細っていた)
「その怪我、蓮華村の人達に負わされたのね?」
「……はい」
「ここまではどうやって逃れてきたの?」
「走って」
「?! それは本当なの? 蓮華村から叶里八までは優に100キロメートルはあるのよ?」
そんな長距離を、茴は攻撃を受けながらも止まらずに走っていたのだ。これはシャドウ・コンダクターだからこそ成せる技だ。
「必死だったわ。捕まったら、また閉じ込められるか、殺されるかだったし」
「どうして? あなたが生まれたことに、一体何の罪があったというの??」
芳乃は、心の底から悲しんでいる様子であった。
(この人、シャドウ・コンダクターのことを知らない……? 私が、オメガだということを)
“蓮華村は隠れシャドウ・コンダクターの里だが、皆が皆、シャドウ・コンダクターというわけではない。この芳乃という女は第三者であり、世界の真実については知らされていなかったのだろう。又は、知らされる前に村を離れたか、だな”
(第三者ってなに)
“シャドウ・コンダクターでも影人でもない、世界の真実を知らない人間のことだ”
(へぇ。……って、喋らないでよ! 芳乃さんに聞こえるじゃないの!)
“案ずるな。これは念話だ。互いの脳にしか聞こえていないし、念話を聞き取れるのはシャドウ・コンダクターのみだ”
(そう。なら、いいけど)
つまりシャドウ・コンダクター同士であれば、声を出さずとも会話は可能らしい。
「茴?」
「あ……はい」
自分の足元をジッと睨みつけていた茴を、さぞかし芳乃は訝しんでいたことだろう。
「しばらく、この町に滞在なさい」
「え……?」
「どうせ行くところ、無いのでしょう? 1人で出歩いてはまた襲われるかもしれないし……それに、あなたは私の姪。姪が叔母の家に寝泊まりして、何か不都合でも?」
確かに行くアテは無い。そもそも自分が住んでいる国のことすらよく知らない。赤子のような自分には、今は誰かに頼るしか生きる術はないのだ。
「よろしくお願いします」
茴は、深く頭を下げた。
“また随分とすんなりと受け入れたものだな。罠かもしれないぞ?”
「大丈夫よ、多分。芳乃さんを信じてみるわ。仮に罠だとしても、私には逞しいフィーネがいるものね」
“フン。我を呼び出すことを頑なに拒んでいた貴様がなにを戯れ言を”
茴はあてがわれた離れの自室にて、まだ完治していない怪我の療養を始めた。
「おはよう、茴。今日もとても良い天気ですよ」
笹楽坂茴の世話は、家政婦ではなく芳乃自らが買って出ていた。
「……おはようございます」
眩い太陽の光には、まだまだ慣れない。浴びただけで倒れてしまいそうで、そんな茴はまるで吸血鬼みたいだとフィーネは笑っていた。
「茴、今日からあなたに護衛を付けることにしました」
「はい?」
「またいつ何時、危険が訪れるかわかりませんからね。ですが笹楽坂茴の詳細についてはお伝えしていません。瀕死の状態で運び込まれたという情報だけです。幸いこの叶里八には、古くから護衛の風習があるらしく、利用させて頂くことにしました」
「そんな、ご迷惑では」
芳乃は少し悲しげに笑う。
「あなたにね、もう怖い思いや絶望を感じさせたくないの。平穏無事に生きてほしい。だから」
「…………」
芳乃の気持ちは嬉しい。
(でも護衛って言っても、所詮は第三者でしょ。蓮華村のシャドウ・コンダクター相手では、瞬殺されちゃうわ)
しかし気持ちを無碍にすることが出来ず、茴は「ありがとうございます」と提案を受け入れることにした。
“茴。これはアドバイスだ。芳乃以外の人間に会う時は、病弱そうに振る舞え”
「はっ、なによそれ?」
“一応、貴様は重傷を負って叶里八に運び込まれたのだ。すでに完治したとはいえ、第三者からは有り得ない事象。怪しまれたくなければ、か弱い女のフリをしていろ”
「んー……一理あるわね」
茴は頷き、訪問者に備えて演技の練習を行った。
「茴、この方が護衛の1人、柊くんですよ」
数時間後、芳乃が言っていた護衛の人間が挨拶にやってくるが、驚くべきことに、茴よりも年下の少年だった。
「初めまして、柊ゆうです。今日からしばらくの間、護衛を務めさせて頂きます。よろしくお願いします」
なんとも礼儀正しく、優しげな少年だ。顔立ちは中性的で、黙っていれば女の子と間違えられるほど綺麗で。こんな年端もいかない少年が護衛を依頼されるなんて、という驚きは世間に疎い茴にもさすがに感じられた。
「……こちらこそ、よろしくお願いします。茴、と申します」
名字は名乗るなと芳乃に言われている。笹楽坂という名が蓮華村の人間の耳に入ってはいけないからという、念の入れようだ。
「では柊、茴をよろしくお願いしますね」
「はい」
さぁ、行きましょうかと柊ゆうに手を差し出され、茴は戸惑いながらもその手の上に自分の手を重ねた。
人の体温に触れるのは、初めてだ。人間とはこんなに温かいのかと、氷の血が流れていると思って疑わなかったあの頃からは、想像もつかなかった。
「僕は生まれも育ちもこの叶里八です。どうですか、驚くほど田舎でしょう?」
「いえ……私が育ったところも、多分、すごい田舎でしたから」
まだ蓮華村の全てを見たわけではないが、どこか陰鬱な雰囲気の漂う嫌な村だった。それに比べて、叶里八は穏やかで自然と心が安らいでいく。
「大丈夫ですか? 具合、お悪いのでは」
茴より少し身長の高い柊が心配そうな表情で見下ろしてくる。今の茴は、演技など必要無いほどに弱々しかったのだ。
「大丈夫です。ちょっと、傷が痛むだけで」
「無理はしないで下さい。町案内くらい、僕で良ければいつでも応じますので」
(柊くんって、優しいのね)
まるで姉想いの弟のようだ。茴は自然と笑みを零し、首を左右に振る。
「平気! 行きましょう」
それから茴は柊に連れられ、叶里八の主要な施設を次々と見て回った。今日はこれくらいで止めておきましょうという柊の心配の声を押しのけ、歩き続けた。
全てが新鮮で、楽しい一時。それでも時折、津浪のように押し寄せる恐怖が茴の足を立ち止まらせ、周囲を確認させる。
(……うん。追っ手は、いない)
その不自然な行動を柊が訝しんでいたことなど、知る由もない。