1節 望みの無い闇の世界に
それは私と兄がこの世に生を受けた時の記憶。私と兄は双子の兄妹だった。何故か生まれてすぐ私たちは引き離され、同じ屋敷の中なのに、互いに顔を見ることもなく、兄は光の世界へ羽ばたき、私は闇の世界へと閉じ込められた。
「お食事の時間です」
朝も夜も関係なく光射さないこの部屋に、お盆に乗せられた一汁一菜の食べ物が差し出される。僅かに顔を出した年若い女性は、お盆を差し出すと引き戸をすぐに閉めた。
あれは私、笹楽坂茴の食事係である。他にもお手伝いを複数雇っているということはこの笹楽坂家はかなり裕福な家系らしい。だが私のところへ現れるのは決まって同じ女性であり、時折この女性を誰かが「琴祢」呼んでいたことから偶然にもその名を知ることとなる。
琴祢は引き戸越しに私に話しかけることがある。
「お嬢様もお可哀想な方ですね。この蓮華村の町長、笹楽坂市蓮様の長女としてお生まれになられたのに、こんな軟禁状態にさらされて……」
この時、私は皮肉にも自分の父親が「市蓮」という名前なのだということを知る。父親よりも食事係の名を先に知るなど、お笑い種も良いところだ。
「可哀想だと思うなら、この扉を開けて私を解放してくれたらどうなの」
「そんなの無理よ! 私が酷い仕打ちを受けちゃうっ……」
「ふん。結局、琴祢も自分が一番可愛いのよね」
軟禁生活14年目にして、私の性格はかなりひねくれていた。それでも、こんな私に人目を盗んでは話しかけに来てくれた琴祢には感謝をしていた。
そもそも何故、私はこんな待遇を受けているのか。そんなこと知る由もなかった13歳の春、それは声を出し始めたのだ。
“茴”
早くも人生というものを諦めていた時、暗い部屋にその声が響いたのだ。
「はい!」
呼び掛けられた私は咄嗟に起き上がる。しかし自分のことを名前で呼ばれたのが初めてであり、併せてその声が非常に低く響いていたせいで、幼いながらこれは人間の声ではないことを察していた。
「……誰?」
姿は見えない。だがすぐ近くにいる存在に向かって、私は話し掛けた。
“我はオメガを司る者”
「オメガ?」
“オメガ……つまり、終わり、だ。貴様の兄、アルファ(始まり)を司る者と対をなす存在。笹楽坂家の人間は、始まりを奇跡、終わりを不吉の予兆として、兄を光り輝く世界で育て、逆に妹の存在は隠蔽したのだ”
「何を言ってるのかわからないわね」
“今はわからなくとも良い。だがいずれ、貴様は我の力を欲することになる。この生き地獄から脱する為に”
生き地獄。まさに、その通りであった。
「お嬢様、誰と話してるの?」
引き戸越しに、琴祢の不思議そうな声が聞こえる。私は慌てて「独り言よ」と言った。
その日から、オメガを司る者からの語り掛けは続いた。
“我は笹楽坂茴であり、また笹楽坂茴も我である”
「あなたが私で、私があなたですって?」
“そう。我は貴様の<影>だ”
「影……」
それはこの世に在るもの全てに存在するものだ。
“正確には、オメガを司るのは茴だ。我はその下僕であり、オメガの化身”
「ふふっ。すでに囚人のような生活を強いられている私に、下僕ですって? あなた、相当身分が低いわよ」
“シャドウ・コンダクターの世界に身分は関係ない。実力社会だからな”
「んー、だから、そのシャドウ・コンダクターっていうのがよくわからないのよね。この私が、オメガを司るシャドウ・コンダクターですって?」
“シャドウ・コンダクターとして生まれた者は、世界の均等を保たねばならない。均等を崩す存在――つまり影人を始末し、世界を崩壊から防ぐのだ”
「話が飛躍しすぎよ。いい? 私はね、生まれてからすぐこの部屋に閉じ込められたまま一歩も外に出たことがないの。そんな私が、世界を救うだなんてヒーローの真似事、出来るわけないじゃないの」
“出来ねばならぬのだ。その為に我がいる。我の名を思い出せ、貴様に自由と絶大なる力を授けるぞ”
そいつが話す内容は、まるで夢物語だった。こんな病弱な私に、なにもできはしない。
そう、私は生まれながらにして心臓に疾患があり、わざわざ閉じ込めてくれなくても1人では出歩けないほど病弱なのだ。鏡を見ては、骨と皮だけに痩せ細った身体と青白い肌、色の落ちた白髪に目を背けたくなる。ほとんどが布団の上での生活で、それでもしぶとく生きている自分が憎かった。
“本来の笹楽坂茴は、その様な姿になるはずがなかった”
そいつが、初めて悔しそうな声を出したのは語り掛けが始まって3年が経とうとしていた頃だった。病状は一向に変わらず、相も変わらず布団の上で自分の生を憎んでいた。
“しかし、そのような強烈な負の感情を抱いておきながら、影人化していないのは奇跡に近いな”
「その……なんなのよ、影人って」
“人間の成れの果てだ。人間が影人になるには、3通りの理由がある。
1、強烈な負の感情を長期間抱き続けること。
2、影人と影式取引をすること。
3、周囲の影人に影響を受けること。つまり、感染”
「化け物になるってこと?」
“ああ。だが影人にも様々な形態が存在してな。影人化する前と何一つ変わらない姿のヒューマン型と変貌型に大別され、この変貌型の中に見るもおぞましい姿に変貌した人間が含まれる”
「ふうん……見たことないから、わからないけど……影人化を防ぐ方法は無いの?」
“理性だ。己を律することが可能な者は影に惑わされない。それでも、相手が影人と知らずに影式取引をしたり、感染したりすると呆気なく影人化するがな”
「なら、私はきっと、我が強いのね」
“そのようだ”
影人化とは、つまり自分の影に身体と魂を乗っ取られることをいうらしい。それは死を意味するが、乗っ取られた本人は自分がすでに死んでいることなど――影人化していることを――気付かない。
シャドウ・コンダクターは世界の均等を崩す影人を発見次第、すぐに始末せねばならない。そうすることによって、世界の均等を保ち、また他の人間への影の感染を防ぐのだ。だが、その影人がどうして世界を崩壊へと導くのかは、まだ説明を受けていないからわからない。
この頃の私は、もう生き続けることが困難になるくらい、弱りきっていた。自分では動けない他、声を出すことすら不可能で。喋ろうとしても、乾いた空気がヒュウヒュウと漏れるだけ。年齢と共に成長する身体が足りない栄養に悲鳴を上げていたのだ。
(私……多分、16歳だよね。普通の家庭に生まれていれば、友達もたくさん作って、いっぱい勉強して、普通に、生活できたかな……)
オメガさえ、司っていなければ。
何がシャドウ・コンダクターだ。
何が世界を救うだ、影人だ。
(私には、なんの力も、生きる術すら無い……!!)
“力を欲するなら、我の名を呼べ”
声が出せない為、ただ心の中で感じていたことに対して、やつが反応を示す。
(どうして……私が考えていること、わかるの……)
“我は笹楽坂茴のシャドウである。今は遠く離れた場所に封印されてはいるが、貴様の心の叫びは聞こえる。そしてこうやって、互いの声は互いの脳に直接響くのだ”
(あんたが、私の影……じゃあ、私が影人になる時は、あんたが私を乗っ取るのね)
“そうだ”
間髪入れず、影はそう答えた。容赦も迷いも感じられない。シャドウはシャドウ・コンダクターの忠実なる下僕であり、同時に一番近い敵でもあるのだ。
(ねぇ、前から思ってたことなんだけど……私には、影が、無いのよね)
暗い部屋に閉じ込められたのは、自分に影が無いという疑問を抱かせない為であったらしい。影は言う。
“茴は生まれてすぐ、兄と引き離されるよりも先に我を引き剥がされたのだ。シャドウを失ったシャドウ・コンダクターが弱るのは当然。貴様の心臓に疾患があるのも、生まれつきではない。我を失ったことにより、心臓に負担がのし掛かった故に悪くなったのだ。その我は現在、この蓮華村の裏山、その中腹にある祠に封印されている”
(影を剥がす……)
そんな芸当が、普通の人間に可能なのだろうか。
“我を解放し、己が本来の姿を取り戻すがいい”
(でも……)
どうすれば。運良く部屋から脱出したとして、祠まではかなりの距離がある。喋ることすらままならないのに、そんな力、あるわけがない。
“終わり”
(え?)
“忘れるな、貴様は終わりを司る者だ。小さな出来事から大きな出来事まで、自らの手で終わらせることが力の源となる”
(…………)
影の言葉は、まるでなぞなぞだ。私は部屋の床をノロノロと歩くアリを捕まえ、指先で押し潰してみた。
「……あ」
すると、僅かながらに声が出せるようになったのだ。そんなエネルギーは、もう費えてしまっていたはずなのに。
私は渾身の力を振り絞り、紙を破いてみた。次は起き上がる力を得た。
「…………」
その後、私は何かに取り憑かれるように部屋中のものを壊しはじめた。鉛筆から本、鏡、花瓶、額縁。――漲る力。
ものを壊す音で異変に気付いた笹楽坂家の手伝いの女性が、引き戸を開け放つ。琴祢ではなかった。
“その人間を殺せ”
悪魔の囁きのようなそれは、脱出するチャンスは今しかないと私の頭の中で怒鳴り散らす。
「ごめんなさい!!」
私は握っていた割れた花瓶の破片で、女性の喉を切り裂いた。飛散する血、終わる命、漲る力。
“来い!”
それからは無我夢中だった。廊下に飛び出し、騒ぎが大きくなる前に窓から外に飛び出る。幸い、時間が夜であった為、光に慣れていない私に影響はなかった。
初めて見る外の世界。全てが新鮮だが、ゆっくり見て回る余裕など無い。裏山なんてどこにあるのかわからないけど、とにかく影の声がする方向を目指した。
「はぁ、はぁ、はぁ」
私が脱走したことに気付いた者たちが追い掛けてくる。ここで捕まったら、あの生活に逆戻りどころか、今すぐに殺されるだろう。別に死ぬのが怖いというわけではない。ただ、それでは生まれてきた笹楽坂茴という人間が、あまりにも可哀想に思えてならなかったのだ。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
私は、生まれて初めて走っている。呼吸が荒くなる。背後から、複数の人間たちが追い掛けてくる。
「どこなの――」
“こっちだ”
木が生い茂る山道は視界が悪く、先に何が待ち受けているかわからない。何度も木の根に足を取られて転びながらも立ち上がる。身体の至る所には細かな掠り傷が無数に現れる。
様々なものに終わりを告げることにより漲ってきた力も、そろそろ底をついてきた。
「がはっ」
血を吐き出す。意識が朦朧とし、ぼやける視界の先には注連縄で囲われた小さな祠。だが遠すぎて、そこまで行けそうもない。
(そんな……ここまで、なの)
気がつくと、私は山道に突っ伏すように倒れていた。足音がすぐ背後に迫る。
(いや……嫌だ……嫌!)
私は雑草を闇雲に引き抜き、得た力で立ち上がるが迫っていた笹楽坂家の人間にあえなく捕らえられる。
(嫌!!)
乱暴に首根っこを掴まれ、まるで猫を掴み上げるように私は宙吊りにされる。私の身体は、その年齢にしては異常に軽かったのだ。
“我の名を呼べ――!!”
祠から怒号の如く響き渡る声は木々をざわつかせ、野鳥たちが一斉に飛び立つ。その様子に笹楽坂家の人間たちが気圧されている。
(フィ……)
「早く連れ帰れ! これはまずいぞ!」
山肌の道を引きずられ、肉が裂けて血が滲み出る。痛みは感じなかった。そんなことよりも私は必死で自分の中に眠る記憶を探っていた。
「……フィーネ!! あんたの名前は、フィーネよ!!」