1節 護衛任務
今年15歳になる柊ゆうが生まれ育ったのは、人口1万人程度の叶里という田舎町である。町というよりは村と表現した方がしっくりくるほど閉鎖的で、しかし昔懐かしい日本の風景を色濃く残している貴重な場所でもある。
そんな平穏でのどかな町に、不吉の予兆が現れ始めたのは桜が満開になる少し前のことである。
「全身、血みどろの女の子が運び込まれてきた」
柊自身その時間は学校へ行っていた為、これは人づてに聞いた話であるが、それはそれは酷い有り様であったという。いくら閉鎖的な町とはいえ、血だらけの女の子を余所者だからといって無碍な扱いをすることは出来なかったらしい。
「これは極秘事項でして、一部の関係者と目撃者しか知らないことです。目撃者には固く口止めをしています。……少女の名前は茴というそうです。茴の怪我は頭から足の爪先にまで及び、倒れていた茴を発見した村人の証言では、当然ながら死んでると思った、と。しかし奇跡的に一命を取り留め、現在はこの桔梗院家の屋敷にて療養してもらっています」
茴という少女の引き取りを買って出たのは、なんと叶里八の町長の妻であった。名は桔梗院芳乃。芳乃はこの桔梗院の屋敷に柊ゆう、相模隆臣、信楽伊織の3名を招いて少女の様態について説明していた。その理由は。
「茴をしばらく、叶里八で面倒を見ようと思っているのです。そしてお三方に集まってもらったのは他でもない、茴の護衛をお願いしたいのです」
桔梗院家には、古くから代々護衛となる家系が複数存在していた。現在は柊家、相模家、信楽家の3家しか残っていない上にその伝統も廃れつつあるが、現在でも護衛の必要性があれば引き受けている。
柊家からは15歳のゆう、相模家からは43歳の隆臣、信楽家からは22歳の伊織が招かれていた。
「うちのバカ息子は、この町の伝統であり誇り高い護衛の仕事を放り出して都会なんぞへ行きよった。柊くん、もし外で七叉を見掛けたら、引き摺ってでも叶里八へ連れて帰って来てくれ」
「……はぁ」
柊ゆうは苦笑いを浮かべ、それは到底無理な話だと心の中で隆臣に謝った。相模隆臣は、数年前に何も告げることなく故郷を離れた息子に対し、かなりご立腹な様子である。
「では、異論はありませんね? 茴にこの町のことをよく教え、そして危険が迫った際には、護ってあげて下さい」
3人は了解の意を伝え、屋敷を出る。
「危険、ね」
すぐに疑問の声を上げたのは信楽伊織である。
「芳乃様、敢えて口には出していないみたいだけど、その茴って子……相当ヤバいんじゃない?」
「何故そう思う?」
隆臣が尋ねる。
「私、茴が運び込まれてくるところ見たのよ。……本当、死体かと思った。生きていたことが奇跡よ。あれは明らかに何者かに攻撃されたって感じ」
「まずいことに巻き込まれている、か。少女を叶里八に滞在させることにより、何も起きなければ良いが……」
護衛の3人は、かなり慎重だった。だが与えられた責務は全うせねばならない。
柊は次の日の朝、さっそく桔梗院家に出向いた。玄関の大きな門の前で掃き掃除をしている家政婦の一恵が、少女が離れにいることを教えてくれる。
「ありがとうございます」
柊は頭を下げ、庭を進んで離れを目指した。離れとはいえ、母屋と変わらぬ立派な建物。そこの縁側に、桔梗院芳乃と見慣れぬ少女が腰掛けていた。
一目見て、それが件の少女であると分かった。着用している浅黄色の着物が、艶やかな黒髪と真っ白い肌にあまり合っていなかったように思う。なによりも、背筋がゾクリとするほど美しい顔立ちをしていたことが印象的だ。
「茴、この方が護衛の1人、柊くんですよ」
芳乃から紹介をされ、柊は少女に頭を下げる。
「初めまして、柊ゆうです。今日からしばらくの間、護衛を務めさせて頂きます。よろしくお願いします」
柊は右手を差し出し、にっこりと微笑む。その美しい少女は柊を不思議そうに見上げ、同じく頭を下げた。
「……こちらこそ、よろしくお願いします。茴、と申します」
それは消え入りそうなほど小さい声だった。遠慮がちに添えられた手も、血が通っていないのかと思えるくらいに冷たい。
柊は芳乃に頼まれた通り、護衛1日目の今日は午前の授業を休み、茴の村案内にと時間を割り当てることにした。
「僕は生まれも育ちもこの叶里八です。どうですか、驚くほど田舎でしょう?」
「いえ……私が育ったところも、多分、すごい田舎でしたから」
道中は、当たり障りのない会話を交わす。時折、怯えた表情で背後を振り返る茴の姿からは、間違っても、どこから逃げてきたのか、なんてことは聞いてはいけないような気がした。
「ここが町役場です。生活するにあたっての大抵の手続きは、全てここでまかなえます」
「ここが駐在所です。小さな田舎町ですので、犯罪らしき犯罪は滅多にありません。ですからここの警官は困った時のお助け屋みたいな存在です」
「ここが草香医院です。町唯一の病院でして、皆さん草香先生を頼りにしています」
「ここが八守神社です。ここの神は気紛れでして、御利益がある時と無い時があります」
茴は青白い顔で鳥居を見上げ、ふぅ、と軽い溜め息を吐いていた。
(さて、次はどうしようかな)
さほど大きくない町。一通り案内し終わった柊は、まだ1つ残されていることを思い出す。
「あ、学校、見ます?」
「学校……」
山肌に建てられた木造の校舎は、そこへ至る道が急な坂道となっており、通うだけで大変な道のりだ。
「暮滝中高一貫校です。叶里八は子供の数が少ないので、中学生と高校生は同じ学校へ通っています」
「柊くんも、そこへ通ってるの?」
「はい。僕は中等部3年です。そういえば、茴さんはおいくつなのですか」
「……16」
「では、僕の1つ上ですね」
茴は暮滝中高一貫校をゆっくりと見渡し、興味深そうに観察している。やはり100年以上昔に建てられた古い校舎は、誰の興味も等しく引くらしい。
「行ってみますか?」
「良いんですか」
柊はにっこりと笑い、こう言う。
「実は、もうすぐ午後の授業が始まるのです。中学3年の授業で宜しければ、見学なさっていて下さい」
茴は少しだけ表情を明るくし、頷いた。
柊ゆうのクラスは、中等部3年1組だ。1組と一応ナンバーを付けられているが、それぞれの学年にクラスは1つしかない。
柊は教師に事情を説明し、茴の見学の許可を取った。茴は窓際の一番後ろの席に遠慮がちに座り、窓から流れ込む春風に身を委ねながら授業を聞いていた。
「ゆう! あの綺麗な子、誰? まさか彼女とかじゃねぇだろな??」
授業が終わり、友達の望見涼が真っ先に柊の席に走ってくる。初めて見る茴のことが気になって仕方がない様子だが、それはクラスの全員も同じことだった。小さな町では、ほんの些細な出来事に全員が興味津々となるのだ。
「違うよ。あの方は茴さんといって、町長の親戚の方だ。その護衛を依頼されてるんだよ」
親戚というのは嘘だ。茴がどういった経緯で村に滞在することになったかは、一部の関係者しか知らない。
「へぇ。そっか、ゆうは護衛の家系だもんなぁ。でもあんな美人を……羨ましい」
何も知らない人々は、ただ羨ましがるだけだ。
“しかしなんや、妙ですなぁ”
茴を桔梗院家に送り届けた帰り道、それは声を出した。
ここはだだっ広い畦道で、柊ゆう以外に歩いている人間はいない。咲いたばかりの桜の花びらがちらちらと舞い落ち、柊の眼前を掠める。
「君もそう思いますか、アルイェン」
どこから聞こえてくるか分からない声に、柊はさも当然のように応える。ましてや名前を呼び、まるでその声の正体を知っているかのようだ。
“死体かと見紛うほどの怪我をしてはったんやろ? 茴はんは。せやのに2日後の今日には叶里八を歩き回れるくらい、復活してる”
どうやらその声は、柊ゆうの足元、及び影から発せられているらしい。間延びした口調、叶里八には無い方言に特徴がある。
「それと、彼女は常に何かに怯えている。おそらく茴さんに攻撃を仕掛けた何者かへの恐怖なのでしょうが……気になりますね、何があったのか」
“わしはあんまり首突っ込まん方がええと思いますけど、ゆう様はお人好しやからなぁ”
「僕が?」
柊はフフと笑い、沈む夕日に目を細めた。
「お帰り、ゆう。護衛の仕事、お疲れ様」
柊家では、夕食の準備が始まっている。柊は帰ってすぐ、テレビをつけてニュースをくまなくチェックする。これが毎日の習慣だ。
(今日も特に、変わったことはなさそうだ)
柊の目を引くような報道はなかった。テレビを消し、台所に立つ母親に声を掛ける。
「いつも家の仕事をありがとうございます、お母さん。ところで、お父さんは」
母親は柊に言われて気付いたように時計を確認し、首を傾ける。
「そういえば、今日は帰りが遅いわね。悪いけどゆう、町役場まで行ってもらえない? 何かあったのかも」
「わかりました」
柊ゆうの父親は町役場に務めていた。公務員の仕事は17時きっちりに終わるはずなのであるが、現在はすでに18時を回っている。確かに何かあったのかもしれない。少女の事件といい、胸騒ぎのようなものを覚えた柊は町役場へ走った。
町役場はまだ営業状態であった。いつもは鍵が掛かっている時間だ。
「失礼します。お父さん、いますか? 僕です、ゆうです」
町役場は、ガランとしていて誰もいなかった。だが、提出途中の転居届、動作中のパソコン、淹れたてのコーヒー。全てが途中のまま放り出されていた。まるで神隠しに遭ったかの如く、この場所にいた人々が忽然と姿を消している。
(いや、これは神隠しなどではない)
そう判断する明確な理由の1つとして、町役場に残っているこの<甘ったるくて泥臭い>においがある。
“ついに叶里八にも現れましたな”
柊の影が、反応を示す。
「想定の範囲内です。やつらは、いつ、どこにでも、誰にでも現れるのですから」
柊は町役場を出て、このにおいを辿る。においは次第に濃くなり、目的地に近付いていることを示唆する。道中、町の人々とすれ違うが、誰もこの臭いには気がついていない。蒸せ返るほどに強烈な刺激臭なのだが、これは柊ゆうにしか嗅ぎ取ることが出来ないのだ。
辿り着いた場所は八守神社だ。臭いの激しさはピークに達し、柊は顔を歪める。午前中に茴を案内していた時は、こんな臭いはなかった。
“ゆう様”
柊は頷き、神社の中に一歩、足を踏み入れる。砂利道を踏みしめ、境内に近付くとその裏からグチャグチャという奇妙な音が聞こえてくる。考えたくはないが、これは咀嚼音だ。同時に複数の人間の悲鳴。その悲鳴の中に父親の声も混ざっていた。
「お父さん!」
境内裏に飛び出した柊ゆうが見たものは、身の丈3メートルもある巨大な男が身を小さく丸めて町役場の職員の腹に食らいついている様だった。その向こうには、大木に縛り付けられた5人の職員。おそらく、餌が逃げないようにしてあるのだろう。
蒸せ返るほど甘ったるくて泥臭いにおい、その発生源である巨大な男には見覚えがあった。
「美浜さん……」
それは美浜三郎といって、明日、叶里八から隣り町へ引っ越す予定の男性だった。美浜三郎は新たに現れた餌に気付き、黄色く濁った眼球をギラつかせる。
「ゆう! 逃げなさい!!」
大木に縛り付けられていた柊ゆうの父親、柊要が叫ぶ。しかし時すでに遅し。今しがた食らいついていた職員の肉を放り出し、美浜三郎は若くて瑞々しい肉を求めて柊要の息子に飛びかかっていた。動きは俊敏で確実。もはや獣と同じだ。
「ゆう――――!!」
しかし。柊要が恐れていた未来はそこにはなく、では何があったのかというと、自分の息子が美浜三郎の顔を鷲掴みにしてその動きを止めている現実であった。
美浜三郎は、思いもよらぬ反撃と突如として真っ暗となった視界に錯乱し、ギャアギャアと喚く。手足を振り乱し、暴れる様は人間のそれではない。
「ゆう……?」
次に柊要が見たものは、自分の息子の手により地面に叩きつけられ、首の骨を折られた美浜三郎の死体である。これはものの数秒の出来事。
呆気に取られている間にも、息子の行動は素早かった。身の丈3メートルある美浜三郎の遺体をまず肢体から関節を無視して折り込み、次に胸、腹、尻、太腿など本来折れるはずがない部分をも折り畳む。無理な付加が加わり、折られて堪えられなくなった骨が肉を突き破って体外へ露出する。噴き出す血、それでもお構いなしに作業は進む。
「ゆう……」
3メートルに巨大化していた美浜三郎の身体は、たった50センチほどの<小さな肉塊>へと成り果てていた。
両手についた血と砂をパンパンと払い、柊ゆうは制服の胸ポケットから通信機のような小型の機械を取り出し、話し始めた。
「影操師ナンバー556、柊ゆうです。叶里八にて影人発生、始末完了。第三者への感染は無し。犠牲者1名。影人と犠牲者の遺体は焚き火に見せかけて焼いておきます」
『了解しました』
柊ゆうは一方的に報告だけをすると通信を切り、何事もなかったかのように父親たちに振り返る。
「ひっ」
他の職員が、小さな悲鳴を上げる。
「お父さん、皆さん。良かった、無事で」
柊ゆうはにっこりと微笑み、ゆっくりと近付いていく。その手には、通信機ではなく液体の入った小瓶が握られている。
「くっ、来るな! お前は誰だ! 柊さんの息子の皮を被った化け物だろ?!」
「心外ですね。僕は間違いなく、柊要の息子、柊ゆうです。ただ、少し――世界の真実に詳しいだけなんですよ」
柊ゆうはそう言って職員の顔を掴み、大きな声を出させる前に無理やり口の中に薬品のようなものを流し込んだ。
「ただいま戻りました」
柊ゆうが父親を伴って自宅へ帰ったのは、夜の7時を回ってからだ。予想以上に遅くなってしまったことを母親に詫び、父親は遅くなった理由を仕事上のトラブルが原因と告げた。
「あれ? そういえば美浜さん、引っ越しは明日じゃなかったか?」
熱いお茶をすすりながら、父親がカレンダーを見る。カレンダーには、明日の日付のところに『美浜、引っ越し』と父親の手書きで記してある。
「なに言ってるんですか、美浜さんは今日、引っ越ししたじゃないですか。転居届も提出してありましたし」
柊ゆうはカレンダーに近寄り、父親の手書きメモの上から大きく×印を付け、その左隣りの今日の日付のところに自分の字で書き直した。
「そうか……最近、歳のせいか物忘れや錯覚が酷くてな」
「ははは。お父さんはまだまだ現役です、大丈夫ですよ」
食卓からは家族の温かい笑い声が絶え間なく聞こえていた。
「あと少し、気がつくのが早ければ……美浜さんも食べられた職員の方も、助けられたかもしれなかった」
暗い自室にて、柊は自責の念に駆られていた。化け物へと変貌していた美浜三郎に対し、容赦のない行動を機械的に行っているように見えた柊だが、その胸のうちには深い悲しみがあったようだ。
“ゆう様。わしらは万能の存在ではありません。無理なもんは無理なんですわ”
「ですが……」
“それに、十分、助けてるやないですか。美浜を殺し、影の呪縛から解放したんですから”
影から聞こえてくる声に、柊はフッと笑う。
「僕は、命を助けたかったのですよ」
今夜も空に輝く満天の星に変わりは無い。しかし、叶里八は徐々に変化を見せつつあった。
“ゆう様……その優しさは、いつか身を滅ぼしまっせ”
星を眺めていた柊から、返事はなかった。