08
日曜の夜遅く帰ってきた娘の姿を見たとき、選択を誤ったと清香は後悔した。
有衣が恋をしたと気づいた時に、あるいは最初から、有衣を西岡家に行かせるべきではなかった。
配偶者と離別ではなく死別した人間に恋慕する危険は、清香が一番理解しいる。
清香自身夫と死別し、自分にある種の頑なさがあるとわかっているからだ。
有衣が恋をした相手―西岡 直輝が、ある意味清香と同じ種類の人間だろうということは、想像に難くない。
有衣は詳細を語ろうとはしなかったが、大方の予想はついた。
かわいそうに思ったが、直輝とはビジネスとしての関わりがあり、清香は感情のバランスを取ろうと奮闘した。
複雑な気持ちで電話をかけたが、直輝は有衣の継続を希望した。
帰るなり、もう西岡家には行けないと思う、と言った有衣を思い浮かべ、清香は溜息をついた。
どうやら娘は、少々厄介な男に落ちてしまったようだ、と。
しかし一方では、娘に揺さぶられているらしい直輝に、同情めいた気持ちが湧かないでもなかった。
失った存在から心をほかへ移すことも、それを自分で認めることも、かなりのエネルギが必要なのだ。
「若いって、いいわねぇ…」
年寄りと言うにはまだ早すぎる清香だが、自分にはそんなエネルギはもう無いわ、とひとりごちた。
継続を希望された、と聞いて有衣は戸惑った。
今もまだ、最後別れ際に言われた直輝の言葉が、耳元でわんわんと鳴り響いているのだ。
それなのに、直輝は自分がいいと言ったという。
直輝がどういうつもりでそんな要望を出したのか、有衣には全くわけがわからない。
また行ってもいいのだ、ということに、嬉しさはあったが、今はただ、不安のほうが大きい。
“少しの間”休むことが許可されたため、有衣は自分の部屋で悶々とすることになった。
時間が遅く感じる。
繰返し時計を見てしまい、先ほどからたったの10分しか進んでいないのを見て、有衣はどっと疲れを覚えた。
有衣は元の日常に戻っただけだったが、既にそれは日常ではなくなってしまっている。
月曜、火曜と、学校から戻って家事に明け暮れてみたが、時計が気になり、晴基や直輝のことが気になる。
今頃本当なら晴基と一緒に買い物をしていたとか、一緒にお風呂に入っていたとか。
あともうすぐで直輝が帰ってくる頃だとか、今日の夕食はどうしただろうかとか。
晴基は、直輝も、同じように自分を気にしてくれているだろうか、とか。
結局いつもふたりのことを考えてしまう自分のことを、有衣は自分でもどうにもできずにいた。
学校にいる時ですら、ふたりのことが頭から離れなくなり、有衣は疲れきってしまった。
それを横で見ていたみどりも、有衣の心情を思いやると苦しい。
みどりは、有衣にはあの日電話をかけたことを話していなかった。
けれど、電源が落ちたのは、人為的なもの―つまり、直輝が落としたのだとわかっていた。
それは有衣にとって有利に働きそうなことだと思ったが、うかつには言えないと思っていた。
「有衣、気分転換したほうがいいと思う」
「…そうだよね」
そうは言うものの、お互い何をすれば気分を変えられるのかはわからないでいた。
ひとまず、鬱々とした気分を少しでも晴らそうと、昼休みになると有衣は屋上へ向かった。
通常屋上は立入り禁止なのだが、鍵が壊れているため、事実上解禁されている。
それでも見つかると怒られることも多く、有衣は辺りを窺いつつ向かい、ドアを開けた。
見つかりにくい貯水タンクの裏側へと行くと、先客がいる。
有衣の足音に気づいて向けられた顔を見て、有衣は驚愕した。
「あ…!?」
「…は、ハルママ!?」
「た、武先生?」
お互い、無様にも口をあんぐり開けたまま、しばらく見つめあう。
なんでここに、とお互いが思い、視線は名札へ、そしてその後足もとへ集中した。
有衣は、武 譲(たけ ゆずる)という名札を見た後、上履きのラインが黄色いのに気づいた。
黄色いラインは2年生の印だ。
ちなみに、3年生の有衣の上履きのラインは青色である。
「年下!?」
「高校生だったのか…」
「てか、それでなんで先生?」
「え、あの保育園、俺ん家だし…」
有衣にしてみれば、いくら若く見えたと言っても、仮にも“先生”が年下だとはまさか思わない。
譲にしても、いつも園で会うときは私服だったせいで、まさか高校生だとは思っていなかった。
何とも言えない微妙な空気が流れたが、譲が促して有衣はおずおずと隣に腰を下ろした。
「…具合が悪かったんじゃなかったんだ」
「え?」
「昨日、一昨日と、ハルパパが遅くに迎えに来てたから。
ハルママが具合悪いのかと思ってたけど。…とりあえず体は元気そうだね」
有衣の表情が、あまりにも辛そうに変化したのを見て、泣いてしまうのではないかと、譲はぎくりとした。
けれど有衣は泣きはしなかった。代わりに、少し哀しそうに笑う。
「私、ハルくんのママなんかじゃ、ないよ」
「え? でも、ハルが…」
「私は、ただのハウスキーパだから」
まるで、言い聞かせているかのようだ、と譲は思う。
少なくとも、晴基や直輝の見方は違うだろう、と思った譲は、余計なことだと知りつつ口を出したくなる。
譲が見たところ、この2日間の晴基の表情は暗く、直輝の顔色も相当悪い。
有衣の顔色も冴えないところを見ると、何かがあったのは間違いないのだ、それも恐らく直輝と有衣とで。
それでも、それを直接聞くほどには親しくないため、譲は回りくどい質問をした。
「ハルの様子、気にならない?」
「…元気にしてる?」
「全然」
有衣は、弁当を広げていた手をぴたりと止めた。
一瞬譲がふざけているのかと思ったのだが、顔を見上げてみると、そうでもないらしいことがわかった。
「具合悪いの?」
「体は元気。でも表情とか仕草とか、暗い感じでいつもと全然違うよ」
有衣の知っている晴基は、いつも笑顔で、暗い顔など見たことがない。
今、そんな風に暗い顔をさせているのは、自分なのだろうか、と思うと有衣は胸が潰れそうに痛んだ。
そして同時に、直輝の様子も気になってしまう自分には、半ば飽き飽きしてしまう。
「それにハルパパも相当顔色悪いな。まともに寝てないって感じでさ」
譲が直輝についても話したため、有衣は自分の気持ちが見透かされたのではないかと、どきりとした。
そっと譲を窺ってみたが、よくわからなかった。
譲の話を聞いた後、ここ2日間頭から離れなかったことが、さらにこびりついたような気がする。
どうしても、何をしていても、ふたりのことを考えてしまう自分がいる。
考えまいと躍起になるのに、そうすればするほどさらに考え込んでしまうのだ。
直輝が有衣の継続を希望したということは、有衣が行きさえすれば、有衣は受け入れてもらえるのだろう。
だが今のところ、有衣の中ではまだ踏ん切りがつかないでいた。
「今日も迎えに来ないつもりなの?」
「……まだ、わからない」
「俺としては、ハルのためと思って、迎えに来てほしいけどね」
「ハルくんのため?」
「何があったかは知らないけどさ、どうせハルはとばっちり食ってるんだろ」
何も言い返せず、有衣はぐっと息が詰まった。
確かに、晴基は何も悪くないのだ。
いわゆる“大人の事情”のために、忙しい直輝を待って晴基は遅くまで保育園で過ごしている。
黙った有衣の態度を、肯定と勝手に解釈した譲は、話は終わったとばかりに立ちあがった。
「じゃ、待ってるから」
ひらひらと手を振って、譲は屋上を後にした。
有衣は、その後ろ姿を見つめながら、表面上は、まだ決めかねているふりをしていた。
けれど脳内では既に、今日の放課後の予定を組み立て直している。
自分の浮つき始めた気持ちに気づいた有衣は、これは晴基のためだ、と誰に対してか一生懸命言い訳した。
有衣は家に帰って急いで服を着替えると、会社に向かった。
もう行けないと思っていたため、西岡家の鍵は会社に預けていたのだ。
「清香さん、鍵ちょうだい」
「…もう、お休みはいいの? 復帰したら、もう休めないと思うわよ」
「うん、いいの。…ハルくんのために、行くことにしたの」
「そう…? まぁ、有衣がいいなら私は何も言わないわ」
鍵を受け取ると、振り返りもせずに事務所から出ていく有衣の背中に、清香は苦笑交じりのまなざしを向けた。
「言い訳なんてしちゃって、…ばかな子」
有衣が行くと言うなら、止めることはできない。
清香は小さく溜息をつきながら、直輝の職場の電話番号をダイヤルする。
今夜から有衣が行くと伝えると、あからさまにほっとした雰囲気を感じ、清香はまたしても苦笑を禁じ得ない。
どうやら有衣には追い風のようだ、と清香は電話が切れるとこっそりとほほ笑んだ。
母親としては、有衣にはできるなら辛いものを含む恋愛はしてほしくない、と思う。
それでも、どうしても振りきれない想いがあるなら、それを貫いてほしいとも思う。
またしても、若さを羨ましいと思いかけて、最近このパターンが多いな、と清香は少しだけ慌てた。
今回はなぜか、清香さんで始まり清香さんで終わりました。
特に深い意味はなかったんですが、そうなりました。
そして、武先生は高校生でした。
しかも有衣と同じ学校で、年下です。
この設定は、使おうかどうか、どうしようかな~という程度で考えてたものですが、
有衣を動かすのに一番いいキャラは譲かなぁ、と思い使うことにしました。
次回は、有衣と晴基&直輝再会です。
でもまだまだ安心はできません?^^;