07
部屋がだんだん明るくなり、窓から差し込んできた朝日に、直輝は顔を顰める。
結局一睡もできないまま、日曜の朝を迎えることになってしまった。
あの後、ベッドに入ったことは入ったのだが、眠れるはずもない。
手放すことのできなかった、電源を落とした有衣の携帯が枕元にある。
夜の間中、ずっとそれを眺めていた。
それが、無かったことにしたいという思いを絶対的に否定し、昨日の出来事の証拠として主張していた。
直輝は、気が進まないまま、それでも日常を送ろうとした。
まだ眠る晴基をそのままに、キッチンへ向かい簡単な朝食を作る。
これまで日曜はいつもそうしてきたが、今日はいつもよりもさらに部屋の中がひっそりと静まっている。
テーブルの上に皿を置いた音が、やけに響くような気がして、直輝の気分はさらに落ち込んだ。
時計の針は7時を回ったところだ。
いつもなら晴基はとうに起き上がっている頃である。
ベッドルームに戻ると、晴基はまださきほどの姿勢のまま横になっていた。
起こそうかどうか迷いつつ顔を覗きこむと、不自然なほどにぎゅっと目を瞑っている。
よく見ると、全身に力が入っているのか、手足もぎゅっと丸くなっていた。
寝たふりだ、と直輝にもわかったが、どうしていいかわからない。
咄嗟に、こんなときに有衣がいたら、と思ったが、それが望めないことは直輝自身よくわかっている。
しかも、晴基がこんなことをしているのは、昨日の出来事のせいだと簡単に推測でき、溜息が出る。
どうにかしなくては、と思ったが、出て来たのは月並みの言葉だけだった。
「ハル、ごはんできたぞ」
晴基は寝たふりがばれているとわかると、無駄な努力をやめた。
すぐに起き上がったので、直輝は安堵したが、その安堵は次の瞬間裏切られた。
「ぼく、ごはんたべない」
食欲がないのか、と心配したが、そうではないらしい。
ベッドから下りた晴基は、キッチンへ走り、お菓子の入った缶を手にまた戻ってきた。
その缶は、有衣との買物の際に買ったものの、ほとんど食べられることなく残っていたお菓子が入っている。
ハンストだ。
これは晴基の考えた、精いっぱいの直輝に対する反抗なのだ。
直輝はそれに気づき、またしても気分が降下していくのを感じた。
解決策のわからないまま晴基と一緒にいるのが苦痛にさえ思え、直輝は一旦書斎に避難した。
書斎にあるのは、医学書だらけの本棚と、大きめのデスクとPCだけだ。
誰も入ってこない空間で、直輝はようやく自分を取り戻せると思ったが、それは思い違いだった。
デスクの上には、以前唯と取った写真の入った写真立てが飾られている。
それが目に入った途端、直輝は内側から自分でもわからない何かが沸き上がるのを感じた。
笑顔で写っているはずの唯の目が、自分を責めているように感じる。
唯から心を移したことも、有衣にした仕打ちのことも、直輝にひどい罪悪感を感じさせた。
直輝は痛む目頭を押さえ、思わず写真立てを伏せてしまった。
そんなことをしたのは初めてだったが、今のこの姿を、誰にも、特に唯には見られたくないと思ったのだ。
お昼を過ぎた頃、部屋の外で物音がしたのに気づき、直輝は書斎を出た。
精いっぱいの反抗に力尽きたらしい晴基が、テーブルに着いて置きっ放しだった冷めた朝食を口にしていた。
書斎から出てきた直輝を見て、晴基は一瞬迷ったが、空腹に負けてそのまま食べる。
缶の中に入っていたのが、腹の足しにならない小さなラムネやキャンディばかりだったからだろう。
直輝は、少しだけ胸の中に温かいものが広がったのがわかった。
昨日晴基が泣きながら訴えていたことが何だったのか、ようやく聞いてあげられる。
食べ終わるのを待って、直輝は晴基の言葉を促した。
「ゆいちゃんは、わるくないの。ぼくが、ゆったの。
ぼくが、ゆいちゃんのパパになってあげるから、ゆいちゃんは、ぼくのママになってね、って」
「有衣ちゃんのパパ?」
「うん。ゆいちゃんはね、パパがしゃしんだけなの。
ぼくは、パパがいるのに、ゆいちゃんはいなくてかわいそうね、ってゆったら、やさしいってゆってくれて。
やさしかったら、ゆいちゃんがうれしいっていうから、だから、ぼくがパパになってあげることにしたの」
「それでハルが、代わりにママになってほしいって、お願いしたのか?」
「そうなの。でも、ぼく、やくそくまもらなかったの」
「約束?」
「ほんとうはね、パパにはないしょだったの」
「内緒…」
「ゆいちゃんは、さいしょは、うん、ってゆってくれなくてね。ぼくが、いっぱいお願いしたの。
そしたら、パパがかなしくなるから、パパにはないしょだって、ゆいちゃんがゆったの。
ないしょにしてたら、ぼくがおねがいしたら、ママになってくれるって、ゆったの」
直輝は、一生懸命話す晴基の言葉を、自分で組み立て直した。
つまり、こういうことだ。
まず、有衣には父親がいない。
晴基は(意味はわかっていないだろうが)自分が父親になるから、代わりに母親になってほしいとお願いした。
有衣は、直輝の気持ちを考えて、最初は断ろうとした。
だが晴基があまりに強く言うので、有衣は直輝には知られないように、晴基のために願いを聞き入れた。
「そう、だったのか…」
新たに知った事実は、直輝を余計に落ち込ませるものだった。
有衣が事実を一部しか告げておらず、そして有衣の行動が晴基と直輝双方のためだったとようやく気づいた。
自分が有衣に投げつけた言葉がいかに理不尽なものだったか、思い到り直輝は項垂れる。
「パパ、かなしかったの?」
「え…?」
直輝は、そうではない、と心の中で否定した。
有衣の言動によって、自分の内面が暴かれるのを恐れたのだ。
それを覆い隠すために、怒りが先立ちひどい言葉をぶつけた。
「ゆいちゃん、パパがかなしくなるってゆってた。だから、ゆいちゃんのことおこったの?
ぼくが、やくそくまもらなかったから。ぼくが、いけなかったの?
だからパパがおこって、ゆ、ゆいちゃんは、いなく、なっちゃったの? もう、こないの?」
直輝に対して感じていた怒りは、一転して自分を責める感情になってしまったらしい。
自分が約束を守らなかったために、直輝が有衣を怒り、有衣がいなくなってしまったのだ、と思っている。
直輝は、自分の言動が有衣も晴基も傷つけたのだと、今更ながら再び思い知った。
「…ハル、ごめんな」
涙を溢しながら、不安げに自分を見上げる晴基を、直輝はそっと抱きしめる。
そのぬくもりに、直輝は勇気を与えてもらった気がした。
「パパが悪かったんだ。ハルのせいじゃない」
「…ほんと?」
「あぁ。ほんとに、ごめんな。…許してくれるか?」
「うん。ゆいちゃんにも、あやまる?」
晴基の問いは、無垢なだけに直輝の心に刺さり、なけなしの勇気が萎みかかる。
直輝はどうにか、そうだな、とだけ言うために声を絞り出した。
晴基を寝かしつけた後、直輝は疲れた体をベッドに横たえた。
今日一日で、まるで一週間分の疲労が蓄積されたような気分だった。
枕元に置いてある有衣の携帯を、改めて見つめる。
どうしたら、有衣に会って、謝ることができるだろうか。
有衣とは、この部屋でのみの関わりしか持っていなかったため、あとの繋がりは会社だけである。
いずれにしろ明日まで待つしかないということだが、それはもう仕方のないことだ。
2日続けて完徹するわけにもいかず、直輝は考えることを諦め、無理矢理意識を沈めこませた。
朝一番に、電話をかけようと思っていた直輝だったが、電話は逆に西岡家へかかってきた。
それはもちろん有衣からではなく、しかしどういうわけか社長から直接かかってきた。
「担当の川名なんですが、少しの間お休みをいただきたいと思いまして」
直輝は、原因がわかっているだけに、頷くしかなかった。
しかし“少しの間”がどれほどの期間なのか、あるいはこのまま来なくなってしまうのかと、不安が襲う。
「それで、代わりの者についてなんですけれども」
「いえ、代わりの方は結構です」
咄嗟に、そう答えていた。現実的に考えれば、この答えはあり得ない。
直輝自身驚いたのと同様、電話の向こうでも驚いたような空気が流れるのがわかった。
「ですが、……お困りになるのでは?」
言葉を選んだ、とわかるような間だった。
もしかして、有衣は事情を話したのではないか、と直輝は思った。
しかしそれならそれでいい、こちらの思いがわかるように、答えればいいだけだ。
「そうですね。ですが、今後も是非、ゆ…いえ、川名さんにお願いできれば、と思っているんです」
「…そうですか。では、…もう一度、川名へ確認いたしまして、またお電話させていただきます」
躊躇いがちな返答の後、電話は切れた。
狡いやり方だとは、思った。
それでも、このまま代りの誰かを宛がわれて有衣と会えないままになるのは、どうしても避けたい。
有衣を待って、もしも来なければ、携帯を持って会いに行けばよいのだ。
直輝はそう思い、ようやく自分を取り戻せそうな気がしていた。
しかし、その顔色を見れば、本人がそう思うほど成功しているとは言い難かった。
“直輝際限なく落ち込む”の巻でした。
最後、ちょっと強気な発想をした直輝ですが、実は内心びくびくしているのです^^;
だって、有衣が戻るとは、限りませんもんね。
そして電話の社長がまさか有衣のママンだとは、思いもしない直輝なのでした。