06
ドアが閉まった瞬間、張りつめていた気持ちが途切れた。
直輝は半ば茫然となり、晴基を抑えつけていた手から力を抜く。
その途端、晴基は玄関へ走り出したが、有衣はもう行ってしまったのだ。
「ぎゃあぁん!!」
部屋に響いたのは、およそ晴基のものとは思えない、今までに聞いたことのないような泣き声だった。
泣き声よりも、叫び声に近い。
その声に現実に引き戻された直輝は、晴基を連れ戻しに玄関に行った。
「ハル」
晴基はドアに向かって立って、泣いていた。
名前を呼ぶと、ひくり、と肩が揺れる。
晴基を抱き上げようとしゃがみこむと、下がった視線が玄関の床を捉えた。
点々とついた黒い染みが、何かを悟った時、直輝の心臓は捩られたような痛みを感じた。
その痛みがあまりにも強かったので、直輝は思わず自分の左胸を押さえ込んでしまったほどだ。
けれど、自分が言ったことは間違ってはいない、と直輝は思い直す。
痛みを忘れようと、頑なに頭を振る。
「ハル、戻ろう」
さきほどまでの、怯えた晴基を思い出した直輝は、意識して優しい声を出そうとした。
晴基は涙に濡れた目で、だが強く直輝を睨みつける。
「きらい」
その小さな口から発せられた言葉に、直輝は一瞬固まった。
今まで、一度も聞いたことのない言葉だった。
「ぼくが、パパ…。ゆいちゃんは…」
泣きながら話す晴基の言葉に、要領を得ない直輝は溜息をつく。
落ち着いてからまた話を聞こう、と直輝は抵抗する晴基を抱え込んで、リビングへ連れ戻した。
夜遅くにチャイムが鳴り、ドアを開けたみどりは驚いた。
頭のてっぺんから靴まで、ずぶ濡れになった有衣が立っていたのだ。
「今日、泊めて」
「いいけど…」
みどりは慌てて有衣を中に引き入れ、バスタオルを渡す。
濡れていたのは外見だけではない、赤い目に盛りあがる水を見て、みどりは内心溜息をついた。
「清香さんに連絡した?」
「携帯、置いてきちゃった…」
今日はハウスキーパの仕事の日だったはずだ、今の有衣に、どこに、とは聞けなかった。
「連絡しとくから、とりあえずお風呂入りなよ」
「ありがと」
しばらくしてお風呂場から聞こえてきた、有衣のすすり泣く声に、みどりは今度こそ溜息をもらす。
何かある度に、以前から有衣はみどりの家に泊まりに来ていた。
清香さんに心配をかけたくないのだ。
心配そうに顔を出した両親に、大丈夫だと伝えてから、みどりは清香さんに電話をした。
何かあったらしいことに清香さんも気づき、溜息をついたのが感じられたが、ひとまず外泊の承諾を得る。
父親が早くに亡くなったせいか、有衣が年上の男性に憧れることが多いのは、みどりも知っていた。
けれど、子供までいる人を本気で好きになるとは、みどりも思っていなかったのだ。
泣きながら雨に濡れて帰ってきた有衣のことを思うと、みどりは言いようのない気持ちになった。
温かいお湯につかりながら、有衣は止め処なく落ちる涙に、途方に暮れていた。
直輝が捲し立てた言葉が、もうずっと何度も頭の中で繰り返されている。
有衣は、直輝の言い分が正しいことを知っていた。
確かに自分は、“母親”になろうとしていたということを、認めている。
晴基に頼まれて、晴基を気遣って、そうなろうとしていた面は確かにある。
けれど、晴基だけを思ってそうしていたのでないことには、今日より前に既に気づいていた。
それはつまり、晴基の本当の母親に代るものになりたいと思っていた、ということだ。
晴基にとってだけでなく、直輝にとってのそれにも、なりたいと思っていたのだ。
だからこそ、直輝の言葉が、こんなにも痛いのだ。
まるで無数の剣で突き刺されたかのように、有衣の心は夥しい血を流している。
それが、涙になって流れているような気がした。
今の有衣は、それをとどめるすべを知らない。
ようやく涙が止まってきたころ、浴槽のお湯は、どこかぬるく感じられた。
お風呂から出てみどりの部屋に行くと、心配そうな顔が有衣へ向けられる。
「ごめんね」
「…いいから」
軽く溜息をつきながら、みどりは有衣をドレッサーの前に座らせる。
そしてドライヤを取り出し、有衣の髪にかけてやった。
有衣は気持ちよさそうにみどりにまかせていたが、そのうちまた新たな涙が盛り上がる。
「深入りするな、って言われてたのにね」
ドライヤの風の音で、有衣の声はみどりにはっきりとは聞こえない。
だが唇の動きは、ばかだよね、と言ったように見えた。
有衣の気持ちを想って、みどりの胸は痛んだ。
直輝は、リビングでひとりソファに背を預けて、遅々として進まない時計の針を眺めていた。
その後ろの窓に、雨が叩きつける音が聞こえている。
直輝が帰ってきたときに既に降り始めていた雨は、有衣が出て行った頃にはひどくなっていたはずだった。
いつも直輝が呼ぶタクシーも、今日はないし、有衣は傘も持っていなかった。
帰る頃には、全身がずぶ濡れになってしまったに違いない。
晴基はとうに泣き疲れて眠ったが、直輝はとても眠る気にはなれないでいる。
テーブルの上には、有衣が作った料理が冷めた食べかけのまま載っていた。
有衣が冷やしたジョッキに入ったビールも、半分以上残ったままだ。
きっと気が抜けて、ぬるくなっているだろう。
それを横目で見ながら、直輝は自分の言動を思い返した。
なぜ、あんな言い方をしてしまったのだろう。
腹が立ったから? だが、自分は何にそんなに腹が立ったのか。
唯の代りに晴基の母親になると言ったことが、だろうか。
そう考えたところで、直輝は思わず呻くような声を漏らした。
唯の代りにだって? 有衣は、そんなことは一言も言わなかった。
有衣はただ、晴基の母親代わりになる、と言っただけだった。
つまり、有衣を唯の代りにするというのは、自分が考えていたことなのだ。
自分が無意識に思っていたことを言われて、図星を指されたような気になって、怒りを感じたのだ。
直輝は、思い当たったその理由に、心臓が押しつぶされたような衝撃を受けた。
「…ばかな」
口を衝いて出た言葉が、空々しく聞こえて、直輝は頭を抱えた。
あのとき、直輝は有衣の手を晴基から乱暴に引き剥がし、怒りをそのまま言葉でぶつけた。
それを思い出すと、そのときの有衣の表情の記憶がありありと浮かんだ。
目を瞠った後、すぐに俯いてしまった有衣は、口を固く引き結んでいたのだ。
多分、涙をこらえていたのだ、と今ならわかる。
玄関にできた染みは、こらえきれないで落ちたものたちなのだ。
それを見たときに感じた胸の痛みが、また直輝を襲う。
自分のしてしまったことの大きさに打ちのめされて、直輝は重たい溜息を吐きだした。
髪を乾かし終えて、有衣とみどりはベッドに入った。
みどりのベッドは大きい。
それは、みどりの快適さのためというよりも、時折こうして有衣が泊りに来た時のためだった。
だからみどりのベッドは、小さなころからかなり大きなものだった。
そのベッドに、ふたりで並んで横になる。
そしてみどりは、いつも有衣が話し出すのを辛抱強く待つのだ。
しばらく経ってから有衣は、ぽつりぽつり、と話し始める。
始めから、直輝のことが気になっていたこと。
晴基がとてもかわいかったこと。
晴基のさみしさを、自分はよくわかってあげられると思ったこと。
晴基が交換条件のように、パパやママになることを無邪気に約束してくれたとき、嬉しかったこと。
戸惑いながらも、晴基の“母親”を演じるのは楽しかったこと。
晴基と直輝と過ごした夜の時間帯は、あたたかかったこと。
いつの間にか、本当に代りになりたいと思っていたこと。けれど、直輝に言われた言葉。
「私って、バカだよね。ムリに決まってるのに…」
話しながらまた泣いてしまった有衣は、ひしゃげた顔になりながらも、なんとか笑おうとした。
みどりは、何も言葉を見出せず、ただそっと有衣を抱きしめてやった。
隣でようやく眠りについた有衣を確認して、みどりはそっとベッドから下りた。
部屋を抜け出し、下の階のリビングルームまで行くと、みどりは携帯を取り出す。
既に日付は変わり、深夜といっていい時間帯だったが、みどりは頓着しなかった。
有衣の姿に胸を痛めると同時に、清香さんの事務所で一度見たことのある相手の男に怒りを感じていたのだ。
有衣をあれほど傷つけておいて、まともな神経の人間なら、すぐに眠れるはずはない、とも思っていた。
もっとも、眠っているとしても、起こしてやるとは思っていたが。
みどりは、出ないだろうとは思いつつ、有衣の携帯をコールした。
突然、けたたましい音がすぐ傍で鳴り響き、直輝は驚いてその音源を凝視した。
直輝の座るソファの隅に、何度も目にしたことのある有衣の携帯が置きっぱなしになっていた。
有衣のその忘れものに、今初めて気づいた。
有衣は、取りに来るだろうか。
僅かに期待を抱いている自分自身を自嘲しつつ、きっと有衣は来ないだろう、とも予想した。
逡巡している間に、呼び出し音は途切れる。だが、間をおかずにまた鳴り出す。
勝手に出るわけにはいかないが、いつまでも鳴るままにしておくわけにもいかない。
直輝は、そっと携帯を手の中に引き入れると、電源を落とした。
単なる機械にすぎないのに、直輝は無意識に、それに有衣のぬくもりを探していた。
同時進行ぽく、ちゃんと書きたかったのですが。
場面の変遷がちゃんと伝わってるでしょうか…。
なんか、微妙な感じになってしまいました…。
とりあえず、直輝は自覚しました。
でも、その自覚をどう生かせるかな…みたいな^^;
そんな感じで、溝が埋まるのはもう少し先のような気がしますね。
そして、今回ほぼ新キャラ。
幼馴染みのみどりの参戦です。いつでも有衣の強い味方です。
でも、いくら怒ってても夜中に悪戯電話は、ほんとはダメですよ~