05
晴基を迎えに行くと、今日は笑顔が二倍だった。
武先生に手をつながれて、小走りに近づいてくる。
「こんにちは」
「ゆいちゃん!」
武先生と晴基の声がかぶり、有衣は笑って挨拶を返した。
ちなみに武先生とは、例の、女の子に名前を聞いたら云々を晴基に教えた、あの“たけせんせい”だ。
最初会った時はかなり若く見えて驚いたが、逆にこの若さならあのレクチャーもあり得る、と有衣は思った。
晴基は、左手を武先生とつなぎ、右手に何か紙を持っている。
先生と挨拶を交わし、晴基を引き受けると、晴基は有衣に右手の紙を差し出してきた。
「はい、ゆいちゃん。あのね、おうちのひとにみせてね、っていわれたの」
「ありがとうね」
おうちの人は、厳密には直輝のことなのだが、まぁいいか、と有衣は受け取る。
それは運動会のお知らせだった。そういえば、そんな時期か。
歩きながらお知らせをめくると、晴基の組のお遊戯の部についても書かれている。
「ゆいちゃんもくるでしょ?」
「うーん…パパに聞いてみないとね」
きっと、一生懸命でかわいいんだろうなぁ、と見に行きたく思ったが、勝手に返事をするわけにはいかない。
今日は金曜日で、直輝の帰りはいつもと変わらず遅い。
晴基が寝た後では言い出しにくいし、明日まで待とう、と有衣は算段した。
相変わらず、夜の時間はあたたかい。
晴基の世話をして、晴基が眠るときにはベッドのそばで座っている。
手に触れる晴基の体温は、有衣よりも少し高く、心地よい温かさだ。
その穏やかな時間は、直輝が帰ってくるまで続く。
直輝が帰ると、今度は直輝がお風呂に入っている間に食事を用意し、一緒にテーブルに着く。
晴基の話をするときもあれば、直輝の病院の話をすることもあった。
そうして、晴基と過ごすのとは少し違う、べつの穏やかな時間が流れる。
今日の直輝は、テーブルの上にあった運動会のお知らせを見ている。
「土曜日なんですね。お休み取れそうですか?」
「あぁ、なんとかするよ」
「お遊戯とか、きっとかわいいですよね。楽しみですねぇ」
想像してみて笑顔で話す有衣を見ていると、直輝は思わず言ってしまった。
「よかったら、有衣ちゃんも行く?」
「え?」
驚いた有衣の顔を見て、直輝ははっと我に返った。
こうして一緒に時間を過ごしていると、つい忘れてしまうのだ。
有衣は、お金を払って家に来てもらっている、単なるハウスキーパなのだということを。
「あ、いや、ごめん…。俺が休みの日まで来てられないよね」
言い出しにくかったことを直輝から言ってもらえて驚いただけだった有衣は、慌ててしまった。
「ち、違います! 行きたいなぁって思ってたところに誘っていただいて驚いたんです。
ハルくんも来てって言ってくれたんですけど、直輝さんの考え次第だと思ってたので、あの…嬉しいです」
凄い勢いで直輝の言葉を否定し、最後に遠慮がちに嬉しいと言った有衣を、直輝は素直にかわいいと思った。
決して変な意味でではない、と思ったが、それでも胸が軽く締め付けられたような妙な痛みを感じていた。
「ありがとう。じゃあ、一緒に行ってくれるかな」
「はい」
笑顔で返事をした有衣を見ながら、直輝は自分の胸の痛みに内心首を傾げた。
有衣が運動会に行けると聞いて、晴基の機嫌は底抜けによかった。
ずっとうきうきして、お風呂に入るにも食事を取らせるにも、落ち着かせるのが大変なほどだった。
直輝が帰ったら、有衣の運動会行きを確かめるのだと、ずっと玄関を気にしていたが、
テンションが高すぎて体は疲れていたらしく、満腹になるとうつらうつらしだしてしまった。
「ハルくん、ベッド行く?」
「いかない。パパ、かえってくるの、まってる」
言いながらも、夢と現実の世界を行ったり来たりの晴基に、有衣は苦笑した。
「じゃあ、ソファでひと眠りしようか。パパが帰ってきたら起こしてあげるから」
「うん。やくそくね。おこしてね」
「約束」
有衣が約束すると、ようやく何も言わずに目を閉じた。
脱力してかなり重く感じる晴基を抱きかかえて、有衣はソファへ移動して自分も座って晴基を横にならせる。
落ち着かない晴基の世話には、有衣も少し疲れを感じていた。
どうせ後片付けも部屋の掃除も一通り終わっている。
直輝が帰ってくるまで自分も休ませてもらおう、と有衣も目を瞑った。
水の音が聞こえた気がして、有衣ははっと目を覚ました。
聞こえていたのは、シャワーの水音と、窓に吹き付ける雨の音だったようだ。
「雨降ってるんだ…。あ、っていうか、また…!」
シャワーの音が聞こえるということは、直輝が帰ってきているということだ。
晴基と一緒になってまたしても眠ってしまって気づかなかった、ということに有衣は慌てた。
晴基を起こさないようにそっとソファから立ち上がり、急いで直輝の夕食の支度にとりかかる。
フライパンを火にかけていると、晴基が起きてきてキッチンの入口に立った。
「ゆいちゃん」
「あ、起きた? パパお風呂入ってるから、もう少し待ってようね」
「うん」
返事をしながら、晴基は有衣の近くに寄ってきて、そばにある椅子に座る。
本当は危ないからキッチンには入らせたくないが、離れているのが寂しいらしく、仕方なくそのままにしている。
「あれ? ぼくがたべたのと、ちがうの? あかいね!」
「そうだねぇ。パパの分は辛いのが入ってるんだよ」
こんな風に有衣が料理をするのを、不思議そうに面白そうに見ている晴基が、かわいくもあった。
バスルームのドアが開く音に、晴基は飛び上がるように反応した。
「パパ!」
「お、起きたかぁ? ただいま」
「おかいり」
「おかえりなさい。すみません、また…」
「ははっ、いいよいいよ」
笑いながら、直輝は冷蔵庫を開け、ビールと有衣の冷やしたジョッキを取り出す。
当然のように冷やされたジョッキと、当然のように取り出す動作が、直輝にも有衣にも温かいものを感じさせた。
有衣は直輝の濡れた髪を思わず盗み見るが、今日も零れる雫はなかった。
前にタオルを渡した時以来、直輝はよく拭いて出てくるようになった。
それを少し残念に思ったりしてしまうことに、有衣は少なからず苦いものを感じた。
直輝が帰って、晴基のハイテンションぶりは復活していた。
運動会のお知らせを持ってきて、食事をする直輝に纏わりついている。
嬉しそうな晴基に、直輝も有衣も目を細めていたが、晴基の話はだんだんよくない方向へ行き始めていた。
「ゆいちゃん、あのね」
「なぁに」
「みんなね、ママがおべんとつくるんだって」
有衣は、この晴基の言葉にぎくりとした。
スーパーで買い物の時に好きなものを買ってもらう、という話をしたときと同じ語り口だったからだ。
あのとき晴基は有衣に、だからママになって、と言ったのだ。
直輝の前ではまずい、と慌てて晴基の名前を呼ぼうとしたが、間に合わなかった。
「だからね。ゆいちゃん、ママになって。それで、おべんとつくって?」
有衣は、ひゅっ、と息を吸い込んだ。
直後、直輝がテーブルに箸を置く、無機質な音が響いた。
しん、と静まり返ったとき、晴基ははっとなった。
ママになる話は直輝の前では内緒だ、と約束したのを思い出したのだ。
凍りついた有衣の表情を見て、晴基は急に不安になって、有衣のスカートをぎゅっと握りしめた。
「どういう意味だ?」
聞いたことのないような、直輝の低く硬い声に、晴基はびくりと体を揺らした。
有衣も、晴基と一緒になってびくりとしたが、晴基がかわいそうで、スカートを握る手をそっと握ってあげる。
「ハル、どういう意味だ、今の」
晴基は、恐ろしくなってしまい、何も言えなかった。
晴基と有衣の手をちらりと見て、直輝は今度は有衣に向き直る。
「君の様子だと、ハルがこういうことを言うのは、初めてじゃないんだね」
君、と言われたところに、他人行儀な雰囲気を感じて、有衣は心まで凍りそうになった。
けれど、すっかり怯えてしまっている晴基を矢面に立たすまいとして、有衣は事実を少ししか伝えなかった。
「わ、私が言ったんです」
「…何を?」
「ハルくんの、ママになってあげる、って…」
言った途端、直輝は派手な音を立てて椅子から立ち上がった。
晴基は、おろおろと目をさまよわせながら、ますます強く有衣のスカートを握りしめる。
直輝は有衣の目の前に立ち、晴基の手から乱暴に有衣の手を剥がし、晴基の手を有衣のスカートから外した。
その態度に、有衣は目の前が暗くなっていくのを感じた。
「君は自分が一体何を言ったのか、わかってるのか?
ハルの母親だって? ハルの母親はひとりしかいないし、誰も代わりになんかなれないんだ。
君がそんなことを考えてハルに接していたのかと思うと、怖くなったよ。
悪いが、帰ってくれないか。今後のことは、会社を通して相談させてもらうことにする」
一気に突き刺さってきた言葉は、圧し掛かるような重さを伴っていた。
有衣は俯いて、涙をこらえるだけで必死だった。
「すみませんでした」
やっとのことでそれだけ口に出すと、立ちあがってお辞儀し、鞄を掴んで玄関へ足早に向かう。
「ゆ、ゆいちゃん! ゆいちゃん!!」
悲鳴に近い声が何度も有衣を呼んだが、直輝が抑えつけているため、晴基は追いかけられない。
靴をはく頃には、有衣はすでに涙をこらえてはいられなかった。
玄関に、ぼたぼたと、零れた涙が染みを作る。
心の中で晴基に謝りながら、ドアを閉めると、晴基の呼ぶ声も聞こえなくなった。
ちょっと波が立って、直輝と有衣の間に溝ができてしまいました。
というか、直輝が勝手にキレちゃったんですけど…。
これだから、無自覚と臆病と鈍感のトリニティ男は^^;
さて、今回お料理名は出しませんでしたが、チヂミでした。
ハル用には普通ので、直輝用にはキムチを入れて辛めに。
有衣は土曜日はビールに合うものを基本に作ってるんです。
なのに直輝はちっとも気づかず、こんな風にキレてしまって…どうしようもないですね。