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Home Sweet Home  作者: ミナ
3/34

03

時刻は午後9時半を回っていた。

直輝はタクシーを急いで降り、足早にマンションに入っていく。

晴基が寝た後は、ハウスキーパは帰ることになっている。

そのため晴基が寝てから直輝が帰るまでの間、必然的に晴基はあの部屋にひとりということになる。

自分で出している条件ではあるが、実のところ直輝はそれが心苦しかった。

今はそんなことはなくなったが、最初の頃の晴基は、直輝が帰ると部屋で泣いていたものだ。

それでも今でさえ晴基はたった3歳であり、辛い思いをさせているに違いないのだ。

ただ、あまり遅くまで拘束するとハウスキーパ自体が派遣されないことが多いため、我慢させてしまっている。


ロックを外して玄関のドアを開けると、明るかった。

いつもは玄関の小さな明かりだけがついているのだが、今日は廊下もリビングの照明もついている。

消し忘れていったのだろうか、珍しい。

そんなことを思いながら脱いだ靴を仕舞おうと目線を下げると、小さなミュールが目に入った。

ということは、まだ帰っていないのか。それこそ珍しいことだ。

直輝は、一度だけ会った新しいハウスキーパを思い浮かべた。


初めて部屋に来た時の緊張のかたまり、そして晴基の顔を見て一気にほころばせたその表情。

その劇的な変化の瞬間は、とても眩しく感じた。

年齢を聞いたことはないが、少なくとも自分よりは5つ以上は下だろうと予想している。

若そうに見えるのに、料理はうまく―実のところひろみさんよりうまかったし、仕事はしっかりしている。

あまり重きを置かなくてよいと言った掃除も洗濯も、一通りこなしてくれている。

そして何より、晴基の懐きようが普通でない。

ひろみさんのことも大好きだったようだが、今回はそれ以上、いや比にならないほどだ。

朝食のときも、日曜の休みのときも、ずっとと言ってよいほど一緒に過ごした時間の話をしている。

そのせいで、一度しか会っていないのに、もう何度も会ったような気分になるほどだった。


それにしても、名前には驚いた。

ユイというのは、直輝の亡くなった妻と同じ名前だった。

初めて有衣の名前を聞いた時には思わず動揺してしまったが、今はそのことを少し後悔していた。

よくよく考えてみれば、べつに特別珍しい名前でもないのだから、同じ名前の人がいてもおかしくはない。

それに、あの時有衣が見せた不安な表情が、直輝の脳裏に焼き付いていた。

幼ささえ感じるような痛々しさのようなものが見えた気がして、自分がひどく悪いことをしたような気になった。

胸が痛んだ、といってもいい。

唯が亡くなった後の直輝の心の動きとしては、それは非常に珍しいことだった。

しかし直輝はまだ、その事実を自覚してはいなかった。


目に入る範囲に有衣の姿はなく、かわりにテーブルの上に盛りつけられたから揚げの皿が載っている。

書斎は入らないように言ってあるから、有衣がいそうな場所で残りはベッドルームだけだ。

直輝は、自分のベッドルームであるにもかかわらず、なぜか若干の緊張を覚えてうろたえた。

そっとドアを開けると、晴基のベッドのそばに人影。

晴基の手を握りながら、ベッドにもたれかかっているのは――。

「ゆ…」

唯、と言いそうになったところで、眩暈に似た感覚に襲われ、直輝は一度目をつぶった。

閉じた瞼の裏で、なぜ唯だと思ったのだろう、と思ったがわからなかった。

もう一度目を開いて同じ光景を見ると、そこにいるのは、確かに有衣だった。


どうしてか起こすのは躊躇われた。

良識的に考えて、帰すべき時間だということはわかってはいたが、直輝はそうしなかった。

晴基の寝顔が、安心しきっているように見えたせいもある。

晴基と、一緒になって眠ってしまった有衣、ふたりの姿にどこか胸が詰まった気がしたせいでもある。

それがどうしてか、直輝はわからなかったし、分析しようとも思わなかった。

とにかく有衣をそのままに、ベッドルームの扉をそっと閉め、直輝はバスルームへ向かった。


かすかに水の音が聞こえ、有衣は身動ぎした。

はっと意識が覚醒を促し自分がどこにいるのかを理解すると、さっと血の気が引いた。

あのまま晴基と一緒になって眠ってしまったのだ。

しかも聞こえてくるこの音は、つまり家の主が帰ってきていることを示しているに他ならない。

「ばか…!」

小声で自分を罵り、慌てて立ち上がろうとするが、晴基の手がまだしがみついたままだった。

少しかわいそうに思いながらもそっと小さな手を少しずつ剥がしたが、晴基は起きなかった。

ふりではないその眠る様子に安心して、リビングへ向かう。


時計を見ると、もう10時近くだった。

本来ならとうに家にいる時間と、思いの外長く眠っていたらしいことに気づき有衣はぎょっとした。

直輝がいつ帰ってきたのかはわからないが、玄関にあるミュールに気づかないはずはない。

それに、帰ってきてまず晴基を確認しないわけがない。

ということは、一緒になって寝こけていた自分の姿も一緒に見ただろう。

そんな風に簡単に推察できることを思い浮かべ、有衣はつい大きく溜息をついた。

帰らなければと思ったが、勝手に帰るわけにもいかない。

かといって、何もせずにただここで直輝を待つというのもおかしなことだ。

とりあえず清香さんに遅くなりそうだ、とメールを打ちながら考える。

直輝は食事をしてきたのだろうか。

晴基がひとりで待っていると思えば、仕事の後外で食事はしてこないだろう。

そう思い、ひとまず直輝の食事の準備をすることにする。

器に盛ってあった直輝の分をテーブルから手に取ると、当たり前だが冷めきっている。

今まではずっとレンジで温め直して食べていたのだろう、と思うとなぜか切ない気持ちになった。

この広い部屋で、ひとりで食事をすることを考えると、寂しい。

どうせなのでもう一度揚げ直してしまう。

夜遅いことを考えて大根をおろし、調味料を混ぜてタレを作ってあっさりめに仕上げたところで直輝が戻った。


バスルームから出た直輝は、キッチンから聞こえてくる物音に目を瞬いた。

有衣が起きたらしい、と思いながらリビングへ戻ると、キッチンで料理をしている有衣が目に入る。

いつもは自分で温め直している料理を、今日は有衣が温め直してくれているらしい。

キッチンで自分以外の誰かが働く姿を見るのは、かなり久しぶりのことだった。

しかも自分のために、と思うと直輝は素直にうれしかった。

「ありがとう」

カウンタ越しに声をかけると、有衣は少し気まずそうな、はにかんだ顔で振り返った。

「あの、すみません。うっかり寝ちゃって…」

「いや、いいよ。疲れてたんだろう。それより、時間大丈夫かな」

「あ、大丈夫です。メールしたので…」

そこで直輝はふと、誰にメールしたのだろう、と思った。

帰りを心配する誰かが、いるのだということが、引っかかったのだ。

そんな自分の反応を初めて認めた直輝は、しばし呆然としてしまった。


テーブルに着いた直輝は、皿の上にあるものがさきほどまでのものと違うのに気付いた。

ただのから揚げだったものの上に、大根おろしと何やらタレが載っている。

この短時間の間に、自分のためにまたアレンジしたのだ、とわかり直輝は驚いた。

「いただきます」

お茶を入れてくれている有衣に向かって言うと、嬉しそうに笑う。

そんな有衣の表情に、あたたかなものを感じながら、直輝は箸を進めた。


直輝が食べ終わるのを待ってから、有衣は少しだけ緊張しながら切り出した。

「あの、ハルくんのことなんですけど」

「ハル? 何か、悪さしたとか…?」

「いえ違います。やっぱり、少しの時間でもひとりにはできないと思ったんです。

 あの、つまり何が言いたいか、といいますと。

 ハルくんが寝付いて、直輝さんが帰ってくるまで、ここで待っててもいいですか? ということなんですけど」

直輝は、その言葉に驚いて有衣を見つめた。

ずっとそうしてほしかったが言えなかった条件を、有衣のほうから口に出したことが俄かには信じ難かった。

「どうして、そう思うの?」

「実は、今日初めて気づいたんですけど。…ハルくん、寝たふりをしてたんです。

 寝つきがよすぎるな、とは前から思ってたんですけど、ずっと気を遣ってそうしてきたみたいなんです」

それは初めて知った事実だった。

いつからかぱったりと、泣かずにベッドで眠っているようになった晴基。

“ふり”だったのかと思うと、なんてかわいそうなことをしていたのだろう、と胸が潰れそうに痛かった。

そして、それに気づいてくれた有衣のことがとてもありがたく、その温かさが心に染みた。

「あぁ…それで、今日はハルと一緒にいてくれたんだね」

「はい、あの…寝てしまうつもりはなかったんですけど」

しゅん、としてしまった有衣を見て、直輝は吹き出してしまいそうになった。

それでも晴基のことをこんな風に思ってくれているのがわかって、嬉しい気持ちになる。

「それはいいんだ。むしろそんな風に、ハルのことを思ってくれてありがとう。

 有衣ちゃんの提案は、俺としては願ってもないことだけど、決めるのは会社を通してからにしよう」

受け入れてくれそうな雰囲気に、有衣はほっとした。


時刻はかなり遅くなっていたが、晴基がいるため直輝が有衣を送ることはできない。

直輝が電話でタクシーをマンションの下に呼び出すのを、有衣は断ろうとしたが直輝は聞かなかった。

有衣はタクシーのお礼を言って、玄関から出ていく。

「それじゃぁ…おやすみなさい」

ドアが閉まる間際、“さようなら”の代りに有衣の口を衝いて出た挨拶。

その言葉が、直輝の中には温かい衝撃としてひろがった。

誰かに、そう言ってもらったのは…もうどれくらいぶりかわからなかった。

「…おやすみ」

ドアが閉まった後の玄関に、有衣の耳には届かなかった直輝の小さな声が響いた。


視点がころころ変わるので、読みにくい方いらっしゃるかもしれません。ごめんなさい。


ハルを軸に、だんだん直輝と有衣が無意識下で近づいてきました。

やっぱり、さみしいときには、あたたかいぬくもりが一番効くのですよね。


ちなみに有衣が作ったから揚げにのっけたおろしダレは、

大根おろしに、お酢と醤油とみりんと一味とネギが入ったものです。

揚げものでもさっぱりいただけてお勧めです★

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