21
直輝が玄関のドアを開けた瞬間、耳に飛び込んできたのは、ヒステリックな晴基の泣き声だった。
何事かとぎょっとしながら、晴基の名前を呼びながら廊下を走ると、晴基がリビングから飛び出してきた。
「パパ! ゆ、ゆいちゃんが、まっかなの、まっか」
「まっか?」
嫌な予感に慌ててリビングに入ると、有衣が床に倒れている。
しかも割れたグラスと水が飛び散り、その上に倒れたせいで有衣の額は切れて血を流していた。
素早く晴基の足に視線を走らせるが、幸いグラスの破片は踏んでいないようだった。
「ハル、危ないからそのまま動かないでいなさい」
「う、うん。ゆいちゃんは?」
「いつ倒れたのか、わかるか?」
「い、いまだよ。ぼく、ねてたの。ガシャンっておとがして、びっくりしておきたの。
そ、それで、ここにきたら、ゆいちゃんが、よんでもおきなくて、かおもまっかなの。まっか…」
晴基もショックで様子がおかしい。
直輝自身も動揺していたが、晴基を落ち着かせるようにできるだけ穏やかな声を出す。
「ハル。有衣ちゃんは大丈夫。パパはお医者さんだから、治してあげられるよ」
「うん。ぜったいね?」
「ああ」
医者に“絶対”など無いと、直輝はよくわかっているが、とにかく今はそう言うしかなかった。
朝から貧血がひどかったようだと聞いている。
直輝は有衣を抱き上げるとソファに寝かせ、足もとにクッションを重ねてやる。
心拍数はかなり減少しているが、数分もすれば意識は回復するだろうと予想した。
しかし、うかつに薬剤投与することはできない。それに、外傷もある。
とりあえず、病院へ連れて行かねばならない。
額の傷の応急処置をしながら、直輝は慧に連絡し、落ち着いたらすぐに有衣を連れていく手はずを整えた。
有衣の様子を窺いながら、直輝は素早く床に散らばった破片を除き、水を拭き取る。
動いてもいい、と言うと晴基は急いで有衣のそばに駆け寄り、心配そうに顔を覗きこんでいる。
ひととおり片付け終わり、直輝も有衣のそばに近づいた。
慌てていたせいで今まで意識していなかったが、有衣は制服姿だった。
そして、近くに置いてあった鞄の口からは、衣服が見えている。
ここ何日か有衣が制服を着ていなかったのは、わざわざ着替えていたのだと、直輝は今初めて気づいた。
有衣にそこまで気を遣わせ、なおかつ具合が悪くても言えないような雰囲気にしていたことに、ひどく落ち込む。
「…ごめんね」
直輝は小さな声で謝ると、まだ顔色の戻らない有衣の頬をそっと撫でた。
「パパ。ゆいちゃん、おきないの?」
「もうすぐ起きるよ。ハル、びっくりしただろう。よくがんばったな」
直輝の言葉を聞くと、晴基の目からぼろりと大きな涙が落ちる。
驚きとショックと心細さに耐えていた晴基は、ぎゅっと直輝に抱きついて、しばらく涙を零していた。
直輝はそんな晴基を抱きしめながら、有衣の冷たい手を握り、そっと撫でていた。
ぼんやりと浮上した意識の中で、手に温かな感触を感じた。
有衣がそちらに目を向けると、晴基を抱きしめたまま自分の手を握っている直輝がいる。
驚いてはっきりと覚醒し、体を起こそうとしたものの起き上がることができなかった。
身動ぎしたことで、有衣が意識を回復したことに気づいた直輝も、動かないように制止した。
「今急に起きると、また倒れるから」
晴基も有衣の覚醒に気づき、直輝から離れると有衣の服を掴んだ。
「ゆいちゃん、おきたの? だいじょうぶ?」
「ハルくん。起きちゃったんだ、ごめんね。大丈夫だよ」
「よかったぁ。ゆいちゃん、おきてよかった」
真っ赤な目が、心配したのだと物語っていて、有衣は晴基の頭を撫でてあげようとした。
しかし、有衣の手は直輝が握ったままで、動かせない。
ちらりと視線を投げかけたが、直輝は手を離す気はなさそうだった。
そもそも、なぜ直輝がこの時間帯に家にいるのか、有衣にはよくわからない。
「直輝さん、どうして…」
「早退してきたんだ。朝から具合悪かった、って聞いたよ」
具合が悪いと聞いて、早退して来てくれたのだと思うと、素直に嬉しかった。
手を繋いでいてくれたのだということも、泣きたいほど嬉しい。
だが一方で、直輝が無理をしたのではないかと思うと、申し訳ない気もした。
「ごめんなさい…」
「どうして、謝るの」
「無理、させちゃったと思って…」
こんな状態になっても、まだ直輝を気遣う有衣に、直輝は苦く笑うほかない。
内心で溜息をつきつつ、握っていた手に少しだけ力を込める。
「無理したのは、君のほうでしょう。こんなになるまで、ひとりで我慢して。
…今日、君に言わせなかったのは俺のせいだけど、でも今度からは、俺に言って。頼むよ」
それは、ほとんど懇願だった。
有衣が倒れているのを見たとき、晴基がいたおかげで、直輝は動揺を最小限に抑えることができた。
それでも、本当は取り乱す寸前だったのだ。
有衣の意識が戻った今でも、繋いだ手を離せないのは、そのせいだ。
失いたくない、大切な存在なのだと、自分自身に対して再度確認する。
制服は、然程気にならなくなっていた。
有衣の様子を見ながら、直輝は有衣を少しずつゆっくりと起き上がらせる。
「病院に行こう。慧には連絡してあるから、着いたらすぐに対応してもらえる」
直輝に起き上がらせてもらいながら、写真のことを思い出した有衣はまた暗い気持ちになった。
直輝がこうして優しくしてくれる理由は、本当はどこにあるのだろうか。
そして有衣は、自分がまだ制服のままだったことに気づいて内心うろたえる。
このまま病院に行くつもりだろうか。
直輝は、いいのだろうか。
しかしそんな迷いも、直輝の次の行動によってかき消された。
直輝はソファから有衣を抱き上げ、晴基に声をかけると、そのまま玄関へ向かって歩き出そうとする。
「え、ちょ…っと、直輝さん?」
いくらなんでもこれは、と有衣は慌てて声を上げたが、直輝は下ろそうとしない。
それどころか、ますます抱く腕に力を込め、下ろす気が全くないことを示した。
「おとなしく掴まってて。また倒れたい?」
そんなことを言われると、逆らうことなどできない。
おとなしく言うことを聞き、有衣はそっと直輝の首に腕をまわした。
久しぶりの密着に、こんな状況ながら有衣はどきりとする。
再び首を擡げていた“身代わり”の疑いは無理矢理心の隅に押し込め、有衣は目の前の温もりに縋った。
到着した直輝たちを見て、慧は思わず苦笑を漏らした。
いや正確には、制服姿の有衣を抱える直輝を見て、だ。
しかも、準備しておいた車椅子を指差すと、直輝はあからさまに不満そうな顔をした。
その様子に今度は噴き出しそうになったが、有衣のいる前でそうするのは憚られたため堪えた。
それにしても、いざとなるとこんなことができてしまうくせに、あれこれ悩むなんて本当に難儀で損な性格の男だ。
これじゃあ有衣も苦労する、と有衣に目を向けると、有衣は慧に向かって小さく頭を下げた。
「大丈夫? まだ顔色良くないね。
とりあえず、血液検査。その間に傷手当して。結果次第で薬出すから」
「頼む。俺はとりあえず、親御さんに連絡する」
有衣の頭上で話すふたりに物事は決められ、有衣は車椅子に下ろされる。
急に離れた直輝の温もりに、寒くなったような気がして、有衣は両腕をさすった。
採血と処置の間、有衣は好奇の視線に晒された。
というのも、有衣の採血や処置の補助を担当したのは白井だったからだ。
白井の無遠慮な視線と居心地悪そうな有衣に、慧は白井を窘める。
「白井ちゃん。困ってるから、じろじろ見るのやめなさいね」
「あ、ごめんなさい。西岡先生が挙動不審になる原因の子だと思ったら、ついつい…」
「挙動不審?」
白井は、一見キツそうに見えるが、いや実際言動もキツいのだが、笑顔はとても綺麗だ。
普段の白井の物言いを良く知らない有衣は、その笑顔を向けられて気持ちが緩み、口を挟んでしまう。
直輝が挙動不審になる、というのが想像できなかったのだ。
「そりゃ、もうひどいもんよ。うまくいってるときは、気味悪いくらいウキウキしちゃってずっと笑顔だし。
喧嘩だか何だか、何か問題が起こるともう葬式か、この世の終わりか、ってくらいどんより沈んじゃって。
仕事にならないから困っちゃうくらい。こんなかわいい子が相手ならあり得る、ってちょっと納得したけど」
「今日だってあいつ車椅子見て超不機嫌な顔してさ。離したくなかったみたいだよ。愛されてるね」
有衣は、ふたりが口々にそう言うのを、不思議な気分で聞いていた。
直輝が自分とのことで、周りからわかるほど態度に表れるところなど、想像が付かなかった。
愛されている?
果たして、本当にそうなのだろうか。
考え込むように黙った有衣を見て、白井は何かを感じ取り、笑顔を引っ込めて口を噤んだ。
「なんだか、喋りすぎちゃったみたいね。結果が出るまで、安静に、待っててくださいね」
そそくさと処置室から出て行った白井の背中を目で追いながら、有衣はおざなりに返事を返した。
慧は、そんな有衣の様子を注意深く観察していた。
愛されている、という言葉は、今のふたりの状況を察していながらわざと使ったのだ。
その反応から、有衣が直輝の愛情に疑問を持っている、というのは間違いなさそうだった。
時間がかかり過ぎたな、と直輝にも有衣にも同情する。
視線を感じて有衣と目を合わせると、有衣は何か言いたそうな顔をしていた。
「何? どっか、まだ痛む?」
「あの、慧さん、は知ってますよね」
「何を?」
「唯さん。…って、どういう方だったんですか」
有衣の口から、その名前を聞くとは慧も思っていなかった。
直輝の様子と照らし合わせても、直輝が告げたとは思えない。
「どこで、知ったの」
「…偶然、写真の裏を見て」
有衣は俯き加減で、苦しそうに答える。
ようやく直輝が上向きになってきたところで今度はこっちか、とタイミングの悪さに慧は内心毒づいた。
さて、どうしたものか。
ここにはいない直輝のことも思い、慧は答えを思いめぐらして天井を仰いだ。
直輝、吹っ切れたようです。
吹っ切れると、行動も大胆です(笑)。
慧の言うとおり、本当に損な性格、面倒な男です…。
直輝に直接聞く勇気の無い有衣は、まず慧に聞くことにしたようです。
慧は有衣にどう答えるのか。有衣は何を思うのか。
それからちょっと忘れかけてましたが^^;
清香さんに連絡を取った直輝のことも書かなくては。
次回からはいろいろ問題解決に向かってみんなががんばっていくと思います♪